あとがき

 重源の追善供養が行われた後の十月十一日、栄西が造東大寺大勧進職の宣旨を受けた。栄西は臨済宗の開祖である。重源と栄西は、宋国で偶然出会って以来、四十年にも及ぶ長い付き合いであった。重源の継承者として、栄西はふさわしい人物だったと言えるだろう。彼は、東大寺の東塔・戒壇院・鐘楼の再興に尽くしている。

「墓なし、遺跡なし、教義なし」

 重源は、死んで何も残さなかった。

 現在の奈良市川上町伴墓の地に、「重源墓」と伝えられる花崗岩製の五輪塔がある。しかし、これは後世、東大寺内にあったものを伴墓に移したものであり、重源の時代からあったものではない。五輪塔の脇には「俊乗坊重源之墓」の文字が刻まれた石柱が添えられているが、これも昭和の中頃立てられたものだ。従って、やはり重源には墓がないのである。

 重源には、彼を祭る寺院もなければ、聖地と呼べるような遺跡もない。

 重源は教義を持たず、そのため、彼の死後、同行の集団はばらばらとなり、教団として残ることはなかった。

 しかし、彼は、「目に見える」多くのものを残した。大仏や大仏殿は戦国時代に焼かれてしまったが、東大寺南大門をはじめ、浄土寺浄土堂と阿弥陀三尊像、阿弥陀寺鉄宝塔と水晶五輪塔などの国宝をはじめ、数多くの重要文化財などが現存している。また、魚住泊や狭山池などにも重源の足跡が残っている。

 重源の活動により、国家鎮護のための大仏が、個人の信仰の対象となった。また、重源をはじめとする勧進聖の活躍で広がった個人救済の方法論が、鎌倉新仏教へとつながっていった。重源は、時代の画期を紡ぎだした人物として評価しても評価しすぎることはないであろう。

毎年七月五日は俊乗忌である。東大寺の俊乗堂において、重源の法要が営まれている。重源の偉業は現在に至るまで顕彰されている。

(重源の法要については、「日本の史跡を巡る57 国宝重源上人座像開帳 久田巻三」参照)

 

 本小説は、重源上人八百年忌の2006年に書き上げたものである。 久田巻三

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