(2)造東大寺大勧進

治承五年(一一八一)六月二十六日、後白河法皇による造東大寺の「知識の詔書」が下され、藤原行隆が造寺長官に任命された。行隆、この時五十二歳であった。

「知識」とは、造寺造仏などの仏事に資財や労力を提供することである。勧進、つまり、人々からの広く寄付を募ることによって、事をなそうというのである。院庁は、国庫から金を出すことはしないと宣言したのだ。東大寺造営など最初から放棄しているに等しいものであった。

 興福寺が、朝廷の実権を握る藤原氏の力で復興されるのとは違って、東大寺の場合は費用の手当がない。同じ時期に興福寺の復興のために造寺長官藤原兼光が任命されたので、東大寺についても形だけ造寺官が任命されたのである。

 ところで、勧進といっても、そう簡単ではない。

治承五年(一一八一)とその翌年は、二年続けての大凶作であった。

「道端に飢え死にする者多数。取り捨てるわざも知らねば、臭き香世界に充ち満ちて」

という有様であった。餓死者は四万人に上ったという。

このような時勢に、民衆の知識物に頼ることができるのか。まったく見通しの立たないことであった。

ところで、勧進聖の聖(ひじり)とは、おそらく「火知り」であろう。つまり、火葬の技術を持った僧侶のことである。平安末期の末法の世、飢饉のために道に行き倒れた人がそのまま放置されていた。やがて死体は腐敗していき、異臭を放つ。聖たちは、そんな仏を火葬に付し、墓に埋めて菩提を弔ってやった。聖の出発点はそんなところだと思われる。

その後、勧進聖たちは、各地で道や橋の修復をしたり、仏堂を造立したりするようになった。国家に代わって、社会事業の一端を担ったのである。

 知識の詔書が下されたのを伝え聞いて、重源は、いてもたってもいられず、すぐに高野山を下り、京に向かった。

<なんとしても造東大寺大勧進の職に任じてもらわなければ。>

 重源は気負いこんでいた。

造東大寺大勧進とは、院宣によって補任されるもので、東大寺復興事業の一切の権限を有する職である。

 重源が向かったのは、藤原行隆邸である。重源の朝廷との接点は、いまは行隆しかない。

「この重源に造東大寺大勧進の職を与えてくだされ。」

 重源は、そう言って頭を深々と下げた。

「東大寺の造営あるべからず、それが朝議の答えです。関東の源氏は謀反し、飢饉は全国をおおっています。そんな時に、巨万の費を要する事業などできるわけがないでしょう。」

 行隆の答えは、冷たいものであった。

「大勧進の職を賜れば、知識物のみによって必ずや造営を果たしましょう。」

 重源は、必死に懇願した。

 だが、行隆は、無言で首を左右に振るばかりであった。

 重源は、いささか焦っていた。

七月十一日には、八頭の牛に積んだ知識物を行隆に届けた。

 行隆は、去る二月に、重源がかなりの奉加物を東大寺に施入したことも知っている。重源の勧進能力については認めざるを得なかった。だが、勧進で東大寺造営がなるとはまったく信じていなかった。ただ、宣旨を出すくらいのことならしてもよいかと思うようにはなっていた。行隆は、兼実のもとにおもむいた。

兼実は、後白河院に相談し、重源の申請を伝えた。また、清盛のあとを継いで平家の頭領となっていた平宗盛の意向も追い風になった。南都と和解したいという気持ちから、形だけでも東大寺を復興するという姿勢を見せたかったのである。

後白河法皇は、重源の提案が国家の支出をともなわない方法であることから、許可してもいいかという気持になっていた。

改元あって、養和元年(一一八一)八月、後白河法皇は、東大寺造営勧進の宣旨を下した。創建時の行基に倣い、勧進を行うことを重源に許可したのである。

なお、ここに出てくる行基とは、天智七年(六六八)、河内国生まれの僧のことである。彼は、当時の仏教のあり方に飽きたらず、民衆の中に入って各地で布教した。あわせて道路や橋、港、池の築造といった社会事業も手掛け、造ったものは四十余ヶ寺、池十五、橋六にも及んでいた。彼を慕って付き従う僧俗は千人にものぼり、その集団の存在は、朝廷に危惧を抱かせた。

「みだりに罪福を説き、朋党を合わせ構え、(中略)詐って聖道を称し、百姓を妖惑す。」

 霊亀三年(七一七)の詔で、ついに行基は布教を禁止された。

しかし、それでも彼はその姿勢を改めることなく、民衆教化と社会事業を続けていった。

やがて聖武天皇は、大仏造営という大事業に取り組むことになるが、あることに気付く。それは、人々を導いて事業を成し遂げようという行基のやりかたが、国民全部の力を結集して建立しようとしている大仏の造営と重なるということである。聖武天皇は、考えを改め、行基と手を組むこととした。行基は、天平十五年(七四三)、大仏造営の勧進に起用され、力を尽くすことになる。

だが、天平勝宝元年(天平二十一年、七四九)二月二日、彼は、大仏の開眼を見ることなく八十二歳で死去した。

行基は、没後間もない頃から文殊菩薩の化身として信仰されるようになる。重源の渡宋の目的は、五台山の文殊菩薩を拝することであったが、これは、彼が行基を慕っていたことと深く結び付けられることである。

 ともかく、重源は、造東大寺大勧進の宣旨をもぎ取った。

 八月二十三日、重源は、敬白文いわゆる勧進帳を作って、大仏再鋳と伽藍復興に多くの人々の結縁を願った。

「大仏が焼失していかに天下の人々が嘆き悲しんだものか。勅命に沿って十方の檀那の助成を頼むこと、「勧進の詞」に応じて「奉加の志」を示してほしいことをここに訴える。それに応じて結縁した人には福が量りなく訪れることを約束する。」

 ちなみに、後のこととなるが、義経の逃避行の際、安宅関で弁慶がそらで読み上げたのもこの勧進帳である。

 さて、重源は今、高野山の新別所にいる。

「いよいよ、扉が開かれた。我ら高野聖は山を下り、全国を巡る。今までの勧進とは桁が違う。大願成就までともに歩もうぞ。」

 重源は、同行六十人を前にして心意気を述べた。重源は、弟子に対して命令するのではない。重源と六十人は、あくまでも同等の立場、すなわち同行である。

「まずは東大寺の東の丘に別所を造り、そこを拠点にして勧進を進める。」

「では、米や資材も運び入れましょう。」

 一番若い十五歳の真阿が、これに応えた。

「そうだな。それから一輪車を六両造る。」

「一輪車ですか。それは何のためでございますか。」

「目立つものでもって、衆庶の注目を集めるのだ。」

「左様ですか。でも、なぜ六両なのですか。」

「わからぬか。それはな、京に通じる六つの街道に差し向けるのだ。勧進は全国の民衆の結縁から求めるのが筋じゃからな。」

「では、六つをそれぞれどなたが受け持つのですか。」

「そうだな。鞍馬口は源西、大原口は賢朝、粟田口は雅西に頼もう。長坂口は真源、東寺口は聖賢、そして竹田口はわしが受け持つこととしよう。それぞれ十人ずつ組を作って回るのじゃ。」

「わかりました。では、わたしは大勧進様に付いてまいります。」

「それから幡も用意せねばならぬな。それに宣旨を墨書するのだ。」

幡(ばん)とは、のぼりの旗のことである。

「後白河法皇の権威を世に示すのですね。」

「そのとおり。あとは画幅だな。大仏と脇侍、それと四天王を描かせよう。」

 一輪車は、九月末になって完成した。いよいよ勧進の開始かというところだが、その前に「大仏鋳造始め」の儀式があった。

養和元年(一一八一)十月六日、螺髪三個が鋳られた。螺髪とは、仏の耳元のカールされた髪で、ほんの小さなものである。あくまでも儀式であり、大仏鋳造の開始を世に知らせるためである。

これを企画したのは重源ではない。これは、院庁が平氏政権の意を受けて実施したものである。重源は関与していない。

 というより、東大寺の現状では、鋳造始めの儀式が行えるような状況にない。造寺長官の行隆は、院庁に対して儀式の延期を申し出たが、陰陽師によって決められた日取りということで、そのまま実施となった。

 当日の儀式に京から下向して参加したのは、公卿わずか三人という少なさであった。いかに院庁が東大寺を軽く見ていたかがわかる。

大仏鋳造始めの儀式の三日後の十月九日、重源一行は京で勧進を開始した。

雲一つない晴天だ。

 重源一行は、仏と脇侍を描いた絵を掲げ、宣旨の文を記した幡を立てた一両の勧進車を推し立てて、洛中を巡った。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」

重源は、念仏を唱える。

「カーン、カーン、カーン」

後に続く同行たちは、鉦鼓を鉦架に懸け、首から提げて撞木で打ち鳴らす。

重源一行は、黒山の人に囲まれた。次々と銭や米を柄杓(ひしゃく)で受ける。

 一方、大口のスポンサー、すなわち後白河法皇、女院御所、貴族の家々も廻った。重源が門の前に立つと、貴人たちは結縁勧進を拒むことはできない。

この日一日で銅十斤(6kg)、宋銭一千貫文、金六両という莫大な勧進を得た。

「初日としては大成功だな。この調子で全国を回るぞ。」

 重源は、上気した顔で同行たちに声をかけた。

 同行たちは、京を一巡りした後、手分けして東海道、山陰道、山陽道、東山道、北陸道、南海道へと繰り出し、勧進を進めていった。

その後、勧進は思いのほかうまくいって、四ヶ月後の寿永元年(一一八二)二月頃には、大仏の頭部を鋳造する費用ぐらいは、まかなえる目途が立った。

この報告を行隆から聞いた兼実は、重源の勧進能力に驚いた。重源とはいかなる人物なのか、一度会わずばなるまいと思った。

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