ガイド】関東の史跡を巡る7 旧弘道館 久田巻三

 今回は、国の特別史跡(昭和27年指定)、水戸の旧弘道館の探訪記です。
      
 平成4年3月26日、朝方から降り出していた雨が、9時過ぎに上がったので、出かけることとする。目指すは、上野12時ちょうど発のスーパーひたち15号である。
 多少余裕を見て、15分前には自由席に乗り込んだが、春休みとあってか、大変な混雑である。やっとの思いで、最後の一席を確保する。
 スーパーひたち号は、東日本の在来線では唯一、時速130km運転をする列車である。列車の前方上部に小さなディスプレイが備え付けられていて、「ただいまの速度は○○kmです。」と表示してくれる。
 上野を離れて、少しスピードが出てきたかなと思ってディスプレイを見上げるが、なかなか130kmにはならない。128km、129kmと、実に歯がゆいものだ。130kmを記録したのは、2回か3回であった。
 それにしても、スーパーひたちは速い。上野−水戸間120kmを、わずか1時間6分で疾駆する。平均時速は110kmである。ゆっくり食後の昼寝をする間もなく、列車は水戸駅に滑り込んだ。
 改札口を右に出て、弘道館方面の標識に従って進む。5分ほど歩いて、ゆるい坂を登りきったところで、三の丸小学校・幼稚園にぶつかった。後でわかったのだが、この広い一画も、かつては弘道館の一部であった。創建当時、弘道館の敷地面積は、34167u (17.8ha)あり、我が国の藩校の中でも、最大規模を誇っていた。
 旧弘道館は、江戸時代の終わり頃の1841年に、水戸徳川9代藩主である斉昭(烈公)が創設した藩校である。藩士の子弟に、文武両道はもちろん、医学、天文学、さらには蘭学まで、幅広い教育が施されていた。今日の総合大学に相当する、と言ってもいいであろう。
 弘道館内には、文館、武館、医学館を始め、孔子廟、八卦堂など、数多くの建物が立っていたが、明治維新時の混乱や太平洋戦争によって、惜しくも、そのほとんどが消失してしまった。現存しているのは、正門、正庁、至善堂だけで、いずれも昭和39年、国の重要文化財に指定されている。
 なお、館名の「弘道」の由来であるが、「論語」の中の「弘道とは何ぞ」という字句からとったものである。その意味は、「道を広めるのは人である。だから誰であれ人としての道を学んで、これを広めなければならない・・・」というものだ。
 入場料160円也を支払って、重要文化財正門より中に入る。
 わー、残っていてくれたか。今にも散り去りそうな、もはや最後の一輪と言ってもいい梅の花が、枝にしがみつくように咲いていた。感謝。ひとしきり梅をめでてから、建物の玄関に入る。
 玄関には、弘道館全体の俯瞰図を描いた、大きな額が掲げてあった。テープの説明を聞きながら、暫し見入る。
 向かって右側には文館が、左側には武館、天文台、医学館などがある。現在の大学で言えば、文化系と理科系が、区画を隔てていたということになるか。
 次に、廊下を伝って、国の重要文化財である「正庁」に向かう。正庁は、弘道館の中心とも言えるところであり、三つの間からなっている。一番奥の間に、「大額」と「弘道館記」が掲げてあった。
 「大額」は、縦1.5m、横4mほどの大きさで、「游於藝」の文字が刻まれている。この意味は、「げいにあそぶ」といことで、「学問武芸に凝り固まらずに、ゆうゆう楽しみながら勉強すべし」といったものである。
 ちなみに、藝とは6つあって、禮(礼儀作法)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書(習字)、数(算術)を指している。
 一方、「弘道館記」とは、水戸学の神髄を、烈公自ら撰文、書した石碑のことである。現在は、裏手の八卦堂の中に納められている。ここにあるのは、その拓本である。
 なお、この水戸学は、幕末期に高揚した尊王攘夷運動の指導理念となり、諸国の志士たちに多大な影響を与えることになる。そのため、水戸に学び来る者も多かったが、かの長州藩士の吉田松陰や久坂玄瑞もその一人であった。
 正庁の障子を開けて、庭を覗く。そこには、学生達の武芸の稽古場である「対試場」があった。藩主が、正庁に座ったまま、学生達の武芸に励む姿を見ることができた。
 余談だが、現在でも、秘伝の「抜刀術」なるものを伝える人が、水戸に二人ほどいらっしゃるそうである。(とNHKの昼の番組でやっていた)
 続いて、奥の一室である「至善堂」に向かう。これも国の重要文化財である。ここは、幕末に大政奉還した徳川15代将軍慶喜が、恭順の意を表し、静かに朝廷の命を待ったところでもある。
 ここには、「要石」(かなめいし)の歌碑の拓本が飾ってあった。「ゆくすえも ふみなたがえそ あきつしま やまとのみちぞ かなめなりける」と読める。大和魂の心の発露であろうか。本物は、弘道館の裏手の弘道館公園にある。
 建物の内部を一通り見終わったので、庭の売店でパンフレット「弘道館と偕楽園」(260円)を買ってから外に出た。
 これで主な見所は終わりであるが、ここで帰ってしまってはもったいない。裏手の弘道館公園には、まだまだ多くの見所はある。ちなみに、この弘道館公園内と鹿島神社も、特別史跡の指定区域である。
 弘道館を出て左に向かい、駐車場の切れ目から公園に向かう。暫し、名残梅を見ながら歩くと、左側に孔子廟が現れてきた。昭和45年の再建である。
 孔子廟の前には、烈公自鋳の学生警鐘があった。小型の鐘である。何かの行事の際に使ったのであろうか。
 孔子廟の隣の梅林の中には、要石がたたずむ。さらに行くと、八卦堂が現れてきた。昭和28年に消失し、翌年再建されたものだ。中には、弘道館記が納められているが、実物を見ることはできない。高さ3.1m、幅1.9m、厚さ0.55mの寒水石製の石碑である。
 八卦堂の奥には、1841年烈公自選の種梅記碑がある。江戸屋敷の梅の実を、水戸に送って育苗し、弘道館や偕楽園に植えさせた由来が刻まれている。
 最後に、鹿島神社に参拝し、家族の健康を願ってから帰途についた。水戸駅についたのは15時ちょうどであった。約2時間の史跡行であった。
 帰りの電車の中では、弘道館売店で購入したパンフレットを読みながら、旅の余韻を楽しんだ。
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