広島出張の機会に、1日追加の休みを取り、山陰を回ってきました。
平成6年9月9日(金)、広島での仕事を終えて、出雲市行きの特急バス「スーパーみこと」に乗り込む。「松江出雲ミニ周遊券」で乗れるのはありがたい。
乗車時間は3時間であるが、映画上映もあって退屈はしなかった。出し物は、「大病人」という、3年ぐらい前のヒット作だった。人の生きる意味を考えさせられた。
19時前に出雲市に到着。今日は、駅前のビジネスホテルに泊まる。明日、レンタカーで島根・鳥取を回った後、米子で乗り捨て、電車で東京に帰る。
平成6年9月10日(土)8時半、出雲市でレンタカーを借り、いざ、出陣。まずは、荒神谷遺跡に向かう。
国道9号線を東進し、直江東の交差点を右折すると、あとは案内板が連れていってくれる。出雲市から30分足らずであった。
荒神谷遺跡は、昭和59年7月、358本もの銅剣が出土したことで、世間を驚かせた遺跡である。それまでの全国の銅剣の総発見数を、はるかに上回る数である。昭和62年には、国の史跡に指定されている。
銅剣は、何の変哲もない山の斜面に眠っていた。想像していたよりも、ずっと小さな遺跡である。2m四方ほどの狭い土地に、長さ50cmほどの銅剣358本が、隙間なく整然と並べられている。
もちろん、今見ているのはレプリカだ。本物は、国の重要文化財(「近い将来出土青銅器として初めて国宝に格上げされる可能性あり」との地元新聞の報道があった)として、八雲立つ風土記の丘資料館に保管されている。
なお、遺跡横の源郷館という展示施設にも、レプリカが若干展示されている。
銅剣出土地の7m横の斜面からは、銅鐸6個と銅矛16本も発見されている。銅鐸は、20cmほどと、わりと小ぶりだ。一方、銅矛は、70cmほどあった。
歴史の教科書では、銅鐸と銅矛は文化圏が異なる、と習ったので、同時出土はありえないはずなのだが、どう解釈すればいいのだろう。銅剣の大量出土の問題とあわせて、発見から10年経った今でも、謎は解決されていない。
なお、斐川町では、謎解きの論文アイデアを公募しているので、我と思わんものはチャレンジしてみてはいかがか。賞金は、1席30万円である。
その際のヒントを差し上げたいと思う。現在では山奥のようなこの地も、弥生時代の頃には、海進が進んでいて、海辺に位置していたということである。
鏡のような宍道湖を左手に見ながら東進し、国指定史跡(大正11年)の出雲玉作跡に向かう。新入社員研修の旅行で玉造温泉に泊まった際に、一度訪れているが、その時は資料館が休館日だったことから、今回はリトライだ。
館内には、遺跡から出土した管玉や勾玉が展示されていた。玉作り跡は、北は陸奥から、南は周防まで、全国にある(玉作り郷や玉祖郷の地名として残っている)が、玉造温泉周辺でも12ケ所が確認されていて、そのうち3ケ所が国の史跡に指定されている。
資料館前の宮垣地区の玉作跡は、その中でも最大のもので、傾斜地にあった工房跡が現状保存されている。といっても、コンクリートの覆い屋の中は薄暗くて、白砂利が敷いてあるのが見えるだけだった。
さらに東進し、風土記の丘に向かう。古代出雲の中心地であり、遺跡の一大宝庫である。
まずは、八重垣神社と神魂(かもす)神社にお参りして、家族の健康と旅の安全を祈る。
神魂神社は、日本最古の大社造りの神社である。高さ10mはあろうかという巨大な本殿は、昭和22年国宝に指定されている。
風土記の丘資料館は、島根県立ということもあって、県内各地から出土した重要文化財等が多数展示されている。入って正面、最も目を引くのが、敷地内にある岡田山1号墳から出土した銀象嵌太刀である。
「額田部臣」や「大和」という文字がはっきり読める。
荒神谷遺跡出土の銅剣も、本物が6本展示してあった。近くには、同遺跡出土の銅鐸も復元されていて、自由に鳴らしてよいとあった。そこで、ちょっと振ってみたら、万人の視線が集中した。20cmほどの小さなものであったが、ものすごく大きな音がした。
この他にも、出雲国分寺跡出土の軒丸瓦や国庁跡出土の木簡、石帯、分銅など、興味深い展示物があった。
風土記の丘内の岡田山古墳は、横穴式石室を持つ、全長24mの小型の前方後円墳であった。出土した銀象嵌太刀とは、アンバランスな感じである。昭和40年、国史跡に指定されている。
県史跡の山代郷正倉跡を経由して、国分寺跡に向かう。方2町47haの敷地に、南大門、金堂、講堂が並んでいる。下から、段差が少しずつある。大正13年、国の史跡に指定されている。国分寺の前には、天平古道が走り、条里制の面影も残っていた。
広大な田畑の中を貫く古代の道を通って、出雲国庁跡を訪れた。一面の草むらには、役所の建物があったことを示す木柱の列が並んでいる。出雲国風土記の記述通りに遺跡が現れたということで、昭和46年国の史跡に指定されている。
風土記の丘を後にして、広瀬にある尼子氏の月山富田(とだ)城に向かう。広域農道という名の快適なハイウェイをひた走ること30分で到着した。
まずは、山麓の広瀬町立歴史民俗資料館を覗いてみる。城下町の川床遺跡から出土した生活用品や、嘘か真か、山中鹿之助の鎧なるものも展示してあった。
出口に、中世5大山城という幟が掛けてあったので、他の4つの当たりをつけてみた。春に行った能登七尾城は、まず間違いないだろう。六角佐々木の観音寺城も当確だ。さて、あと2つはどこか。信長、信玄、家康と、戦国武将の顔を思い浮かべて、謙信の春日山城に思い至る。さて、あと一つがわからない。
Give
Upして、受付のおばさんに尋ねる。すぐに、小谷城との答が返ってきた。そうか、浅井長政がいたか。5つとも、全て制覇済みだったので、まずは一安心。
ついでに、本丸への登山道を確認する。大手門より徒歩20分ということだが、さてどうするか。9月も半ばだというのに、お昼を過ぎて、外は33度の猛暑である。いやいや、ここまで来て、退き下がるわけにはいかない。登るぞ。
大手門を上がると、山中御殿平という、わりと広い敷地があらわれる。平常時の城主の館があったところだ。
そこから急な登山道が始まる。1分も歩かないうちに、汗が吹き出した。心臓の鼓動が激しい。
山吹井戸、二の丸を経て、やっと本丸にたどり着いた頃には、息も絶え絶えであった。
本丸は、標高197mの月山の頂上にあって、飯梨平野の眺望が素晴らしい。奥行きだけでも230mもある。いざという時には、数千の兵を収容できたに違いない。
尼子氏の全盛時代は、経久の代で、陰陽11ヶ国(伯耆、因幡、出雲、播磨、備前、備中、備後、美作、安芸、隠岐、石見)を支配下に置いていた。だが、毛利元就に敗れてからは、急坂をころげ落ちるように衰退し、滅亡してしまった。
ひとしきり息を整えてから、安来市の仲仙寺古墳に向かう。4隅突出型古墳として名高い古墳であり、昭和46年国の史跡に指定されている。
第3中学校前を左折すると、案内板が出ていた。ニュータウンの一画にあって、かなり破壊が進んでいたらしい。
四隅の作り出しが、イマイチはっきりわからない。前方後円墳の先駆けとなる、4世紀前半の古墳ということで、かなり期待していたのだが、ちょっと残念であった。
軽く食事をしてから、隣の鳥取県にまで足を伸ばし、特別史跡斎尾廃寺跡を訪れる。 安来より1時間ほどを予定していたが、道に迷ってしまい、30分ほどよけいにかかってしまった。国道9号線から2kmほど入ったところにあるので、当然道路に案内表示が出ていると思っていた。
地図を持参しなかった自分が悪い、といえばその通りだが、特別史跡ともあろうものが、何の案内も無いとは。特別史跡の認知度ワースト5に入れてあげよう。
斎尾廃寺跡を特別史跡たらしめているのは、ひとえに、その基壇がはっきりと残っていることによる。10m四方ほどで、決して規模は大きくないが、金堂と塔のそれぞれに、高さ1mほどの基壇が完璧に残っている。昭和10年、山陰で唯一の特別史跡に指定されている。
途中のタイムロスが累積して、予定していた米子発の特急には乗れそうもない。最終電車で帰る覚悟を決めて、もう一つ、上淀廃寺に立ち寄ることにした。3年ほど前、彩色壁画が出土したことで、連日新聞をにぎわした遺跡だ。今度は、国道に大きな案内板が出ていた。
何ということもない山裾に、上淀廃寺はあった。敷地はそんなに広くない。金堂や北塔・南塔が所狭しと並んでいたようだが、斎尾廃寺と違って、基壇ははっきり識別できなかった。開墾で削り取られてしまったらしい。ただ、北塔の心礎はちゃんと残っていて、直径60cmほどの真円が空いていた。
近くの伯耆古代の丘資料館では、上淀廃寺壁画特別展をやっていた。既に閉館時間を過ぎていたのを、無理に頼み込んで見せてもらった。
法隆寺金堂壁画とともに、我国最古級の寺院壁画である。一片5cmほどにバラバラになってはいるが、模様ははっきり残っている。新聞で見た際の、くすんだ印象とは全く違う。草、霞、菩薩の螺髪、裳裾、神将など、生で見ると、実に生き生きしている。
強行軍だったが、今日一日の疲れも吹き飛んだ。今度はどこへ出かけようか。
以上