ガイド】日本の史跡を巡る36  出雲路・伯耆路 久田巻三

 広島出張の機会に山陰に立ち寄ってきました。
 平成6年9月9日、広島での仕事を終えて、出雲市行きの特急バス「スーパーみこと」に乗り込んだ。松江出雲ミニ周遊券で乗れるとはありがたい。3時間の行程であるが、映画上映もあって退屈はしなかった。出し物は「大病人」という3年ぐらい前のヒット作であり、人の生きる意味を考えさせるなかなかの作品だった。
 19時前に出雲市に到着した。その日は駅前のビジネスホテルに一泊し、翌日はレンタカーを駆ってここら一帯の史跡を根こそぎ探訪する予定である。
 9月10日8時半、出雲市を出発し、まずは荒神谷遺跡に向かう。国道9号線を東進し、直江東の交差点を右折すると、あとは案内板が連れていってくれる。出雲市から30分足らずである。
 荒神谷遺跡は、昭和59年7月、それまでの全国の銅剣の総発見数をはるかに上回る358本もの銅剣が出土したことで世間を驚かせた遺跡である。昭和62年には国の史跡に指定されている。
 銅剣は何の変哲もない山の斜面に眠っていた。想像していたよりもずっと小さな遺跡であった。2m四方ほどの狭い土地に、長さ50cmほどの銅剣358本は隙間なく整然と並べられていた。もちろん今見ているのはレプリカであって、本物は国の重要文化財(近い将来出土青銅器として初めて国宝に格上げされる可能性ありとの地元新聞の報道があった)として、八雲立つ風土記の丘資料館に保管されている。(その後本当に国宝になりました。)なお、遺跡横の源郷館という展示施設にも、レプリカが若干展示されている。
 銅剣の出土地の7m横の斜面からは、銅鐸6個と銅矛16本も発見されている。銅鐸は20cmほどの割と小振りのもので、一方銅矛は70cmほどあった。歴史の教科書では、銅鐸と銅矛は文化圏が異なると習ったので、同時出土はありえないはずなのだが、どう解釈すればいいのだろう。銅剣の大量出土の問題とあわせて、発見から10年経った今でも謎は解決されていない。なお、斐川町では謎解きの論文アイデアを公募しているので、我と思わんものはチャレンジしてみてはいかがか。賞金は1席30万円である。なお、その際のヒントを差し上げたいと思うが、現在山奥のようなこの地も、弥生時代の頃には海進が進んでいて、海辺に位置していたということである。
 鏡のような宍道湖を左手に見ながら、さらに東に車を進め、国指定史跡(大正11年)の出雲玉作跡に向かう。新入社員研修で玉造温泉に泊まった際に、一度訪れているが、その時は資料館が休館日だったことから今回あらためて仕切直しというわけである。
 館内には遺跡から出土した管玉やまが玉が展示されている。玉作り跡は、北は陸奥から南は周防まで全国にある(玉作り郷や玉祖郷の地名として残っている)が、ここ玉造温泉周辺でも12カ所が確認されていて、そのうち3カ所が国の史跡に指定されている。
 資料館前の宮垣地区の玉作跡はその中でも最大のもので、傾斜地にあった工房跡が現状保存されている。といってもコンクリートの覆い屋の中は薄暗くて、白砂利が敷いてあるのが見えるだけだ。
 さて、いよいよ本日のメーンディッシュである風土記の丘に向かう。古代出雲の中心地で、遺跡の一大宝庫である。まずは八重垣神社と神魂(かもす)神社にお参りして家族の健康と旅の安全を祈る。神魂神社は日本最古の大社造りの神社であり、高さ10mはあろうかという巨大な本殿は、昭和22年国宝に指定されている。
 風土記の丘資料館は島根県立ということもあって、県内各地から出土した重要文化財等が多数展示されている。入って正面、最も目を引くのが、敷地内にある岡田山1号墳から出土した銀象眼太刀である。「額田部臣」や「大和」という文字がはっきり読める。
  荒神谷遺跡出土の銅剣も本物が6本展示してあった。近くには同遺跡出土の銅鐸も復元されていて、自由に鳴らしてよいと書いてあったので、ちょっと振ってみたら、万人の視線が集中した。20cmほどの小さなものであったが、ものすごく大きな音がしたのである。
 この他にも、出雲国分寺跡出土の軒丸瓦や国庁跡出土の木簡、石帯、分銅などの興味深い展示物があった。
 岡田山古墳は、横穴式石室を持つ全長24mの割と小型の前方後円墳であり、銀象眼太刀とはアンバランスな感じである。昭和40年国史跡に指定されている。
 県史跡の山代郷正倉跡を経由して、国分寺跡に向かう。方2町47haの敷地に下から南大門、金堂、講堂と段差を少し設けて遺構が並ぶ。大正13年国の史跡に指定されている。国分寺の前には、天平古道が走り、条里制の面影も残っていた。
 広大な田畑の中を貫く古代の道を通って、今度は出雲国庁跡を訪れた。一面の草むらには、役所の建物があったことを示す木柱の列が並んでいる。出雲国風土記の記述通りに遺跡が現れたということで、昭和46年国の史跡に指定されている。
 風土記の丘を後にして、広瀬にある尼子氏の月山富田(とだ)城に向かう。広域農道という名の快適なハイウェイをひた走ること30分ほどで到着した。まずは山麓の広瀬町立歴史民俗資料館を覗いてみる。川床遺跡と呼ばれている城下町から出土した生活用品や、嘘か真か山中鹿之助の鎧なるものも展示してあった。
 出口に中世5大山城という幟が掛けてあったので、他の4つの当たりをつけてみた。春に行った能登七尾城はまず間違いないだろう。六角佐々木の観音寺城も当確だ。さてあと2つはどこか。信長、信玄、家康と戦国武将の顔を思い浮かべて、謙信の春日山城に思い至る。さてあと一つがわからない。Give Upして受付のおばはんに尋ねてみると、すぐに小谷城との答が返ってきた。そうか、浅井長政がいたか。5つとも全て制覇済みであったので、まずは一安心。ついでに本丸への登山道をオバサンに確認する。大手門より徒歩20分ということだが、さてどうするか。
 9月も半ばだというのにお昼を過ぎて外は33度の猛暑である。いやいや、ここまで来て退き下がるわけにはいかない。いざ出陣。
 大手門を上がると、山中御殿平という割と広い敷地がある。平常時の城主の館があったところである。そこから急な登山道が始まる。1分も歩かないうちに汗が吹き出した。心臓の鼓動が激しい。山吹井戸、二の丸を経てやっと本丸にたどり着いた頃には息も絶え絶えであった。
 本丸は標高197mの月山の頂上にあって、飯梨平野の眺望が素晴らしい。奥行きだけでも230mもあって、いざという時には数千の兵を収容できたに違いない。尼子氏の全盛時代は経久の代で、陰陽11ヶ国(伯耆、因幡、出雲、播磨、備前、備中、備後、美作、安芸、隠岐、石見)を支配下に置いていた。しかし、毛利元就に敗れてからは、急坂をころげ落ちるように衰退し、滅亡してしまった。
 ひとしきり息を整えてから、今度は安来市の仲仙寺古墳に向かう。4隅突出型古墳として名高い古墳であり、昭和46年国の史跡に指定されている。第3中学校前を左折すると案内板が出ていた。ニュータウンの一画にあって、かなり破壊が進んでいたらしい。四隅の作り出しがイマイチはっきりわからなかった。前方後円墳の先駆けとなる4世紀前半の古墳ということで期待していたが、ちょっと残念であった。
 軽く食事をしてから、ちょっと隣の鳥取県にまで足を伸ばした。特別史跡斎尾廃寺跡を訪れるのである。安来より1時間ほどを予定していたが、道に迷ってしまい、30分ほどよけいにかかってしまった。国道9号線から2kmほど入ったところにあるので、当然案内表示が出ていると思って地図を持参しなかった自分が悪いといえば悪いが、特別史跡ともあろうものが何の案内も無いとはどういうことだ。特別史跡の認知度ワースト5に入れてあげよう。
 斎尾廃寺跡を特別史跡たらしめているのは、ひとえにその基壇がはっきりと残っていることによる。10m四方ほどで決して規模は大きくないが、金堂と塔のそれぞれに、高さ1mほどの基壇が完璧に残っている。昭和10年、山陰で唯一の特別史跡に指定されている。
 途中タイムロスがかなり累積して、米子発の予定していた特急にはとても乗れそうもない。最終電車で帰る覚悟を決めて、もう一つ上淀廃寺に立ち寄ることにした。3年ほど前、彩色壁画が出土したことで連日新聞をにぎわした遺跡だ。今度は国道に大きな案内板が出ていて迷うことはなかった。
 何ということもない山裾に上淀廃寺はあった。敷地はそんなに広くない。金堂や北塔・南塔が所狭しと並んでいたようだが、斎尾廃寺と違って基壇ははっきり識別できなかった。開墾で削り取られてしまったらしい。ただ、北塔の心礎はちゃんと残っていて、直径60cmほどの真円が空いていた。
 近くの伯耆古代の丘資料館で上淀廃寺壁画展(特別展)をやっていたので、閉館時間を過ぎていたのを無理に頼み込んで見せてもらった。法隆寺金堂壁画と共に我国最古級の寺院壁画で、一片5cm2ほどにバラバラになっているが、模様ははっきり残っている。新聞で見た際のくすんだ印象とは全く違う。草、霞、菩薩の螺髪、裳裾、神將など、生で見ると実に生き生きして見える。強行軍だった今日一日の疲れも吹き飛んだ。今度はどこへ出かけようか。 以上

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