ガイド】日本の史跡を巡る39 大谷磨崖仏・根古屋台遺跡 久田巻三

 梅雨の晴れ間に、日頃のDepressionを振り払うべく、半日年休をとって栃木へ出かけました。
 平成7年6月9日(金)、上野より快速電車で宇都宮へ向かう。所要時間は1時間半、新幹線を使うまでもない。関東バスで揺られて30分、国の特別史跡大谷磨崖仏に到着した。
 大谷石の柔らかい岩盤に、10体の磨崖仏が彫り込まれている。5mほどもある本尊の千手観音は、810年(平安時代初期)弘法大師の作と伝えられている。顔の表情は摩滅していて、はっきりとはわからないが、創建当時は金箔で被われていたというから、見る者の度肝を抜いたことだろう。
 隣室の釈迦三尊は、割と保存が良くて、ふくよかな顔が仏の慈悲を感じさせる。大きさも、千手観音ほどではないが、4mほどはあって堂々としたものである。この他には、薬師三尊、阿弥陀三尊があり、合わせて10体が、我国最古の磨崖仏として、昭和29年特別史跡に指定されている。
 磨崖仏の下には川が流れているが、昭和40年の発掘調査で、実はここが縄文時代の遺跡であることが判明した。大谷観音岩蔭遺跡と命名されているが、約1万年前の土器や7千年前の人骨が出土している。縄文草創期の貴重な遺跡である。
 宝物館には出土した遺物が展示されていた。問題の人骨には石器で付けた傷跡があり、食人の風習があったのではないかという解説がなされていたが、本当だろうか?  確かに2mmから5mmくらいの小さなシミのような傷が認められたが、食人と結び付けるのはどうも性急のような気がする。
 バスで東武宇都宮駅まで戻り、今度は「うつのみや遺跡の広場」に向かう。 関東バスで30分、上欠下で下車すると、バス停に案内図が掛かっていた。ゆるやかな坂を登って、徒歩約10分で到着する。ここは根古屋台遺跡という、今から5〜6千年前の縄文前期の葬祭遺跡で、昭和63年国の史跡に指定されている。
 27軒の竪穴住居跡、15棟の掘立柱跡、320基の配石墓などが、野球場ほどの広さの台地上に発見された。建物もいくつか復元されているが、そのうちの一つ、長さ23mのものは、復元建物としては日本最大だという。
 本遺跡の特徴としては、巨大な建物が多数あるにもかかわらず、食物や土器などの出土物が極めて少ないことが挙げられる。つまり、生活の痕跡が見られないのである。このことが、この根古屋台遺跡が葬送儀礼を行う場所ではないかと認定できる理由である。
 320基の配石墓は、いずれも盛り土などはなく、埋葬地を示す小さな石だけがそれぞれに置かれただけの粗末なものであった。縄文人の死に対する観念は、意外にあっさりしたものだったのかもしれない。遺跡のはずれに、将軍塚古墳という直径30mほどの円墳があるが、こちらの方はずっと時代が下がる。社会的階層構造が発生した古墳時代の権力者の墓と縄文人の墓とを比べてみるのも、歴史を思考するということになるのかもしれない。
 遺跡の台地のまわりの斜面には、日光キスゲの黄色い花が群生していた。普通は高原に咲く花であり、このあたりが自生地としては南限だという。きれいな花に囲まれたこの地に、縄文人は、皆平等に葬られたのである。
 敷地内には資料館もあった。耳飾りや首飾りが、わずかだが出土していて、国の重要文化財に指定されている。大型プロジェクタによるビデオを見ることもできる。
 宇都宮を後にして、今度は今市に向かう。特別史跡日光杉並木がお目当てである。JR今市駅と東武下今市駅のちょうど中間に、追分け地蔵というのがあるが、その名の通り、日光街道と例幣使街道の分岐点に当たり、両方の杉並木を同時に見ることができる。
 現在は並木の間を自動車がひっきりなしに往来している。日光杉並木は総延長37km、総本数1万3千本という、どえらい規模を有している。しかし、もともとは1万7千本ほどもあったのが、舗装と排気ガスの影響で年々減少し、現在の本数になってしまったという。
 この杉並木を寄進したのは、川越城主の松平正綱・信綱父子である。日光参詣者の便を考えて、1625年から20年掛かりで植樹したということである。現在でも、寄進碑が神橋畔、今市市山口、同小倉、同大桑の4カ所に残っている。昭和27年に国の特別史跡に、さらに昭和31年には、国の特別天然記念物にダブル指定されている。
 追分けの少し南には、今市市歴史民俗資料館がある。別名杉並木博物館とも呼ばれるとおり、日光杉並木に関する展示紹介が詳しい。また、杉並木以外にも、江戸時代末期に活躍した二宮尊徳の事績なども紹介されている。
 ここ今市は、二宮尊徳が、没するまでの数年、日光神領の再建に尽力した場所である。館内には、彼が領内を廻村した時のルート図があった。なんと、北は川治から、南は群馬県境の唐風呂まで、くまなく訪れている。この時70才近い高齢であったことを考えると、彼の強靭な体力・精神力には、ただただ頭が下がるばかりである。
 今市市内には、彼が仕法の指揮をした役所跡も残っている。常時40〜50人は勤務できたであろうと思われる大きな建物と、文書収蔵用の小さな蔵などが、当時を偲ばせる。
 市内の報徳二宮神社境内奥には、二宮尊徳の墓(県指定史跡)もある。1m四方ほどの盛り土の横に、弟子達の「言い訳」が書かれた石碑が立っている。尊徳は、遺言で自分の墓を作ること無用としたのであるが、それではあんまりだというので、「ささやかな墓を夫人の了解のもと弟子達共同で作った」ことを詫びている。
 尊徳のもう一つの遺言は、「速やかなることを欲するなかれ」というものである。一生をかけて尊徳仕法という理論を構築し、そして実践していった彼の生き方には、個人的には深く感銘を受けているので、いつか詳しく調べてみたいと思っている。
 以上

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