ガイド】日本の史跡を巡る51 対馬紀行−魏志倭人伝を逆に辿る旅 久田巻三
- ついに来るべき時が来た。一週間の九州出張のついでに、1つだけ残っていた未見の特別史跡をクリアするのだ。現在、特別史跡は全国に57あるが、すでに56ヶ所を回り、残るは長崎県対馬の金田城だけとなっていた。
- 実は、日本の史跡を巡るシリーズ50回目の旅を、ここに当てようと考えていた。だが、本当に幕を下ろしてしまいそうな気がして、再スタートの意味を込めて、あえて51回目に持ってきた。史跡を巡る旅は、まだまだ続けますぞ。
- 平成8年7月22日(月)午前、福岡空港に降り立つ。午後の会議までに、1ヶ所だけ史跡を片づけてしまおう。
- 地下鉄で博多に出て、鹿児島本線の快速に乗り換え、東郷駅で下車。神湊(こうのみなと)行きのバスに乗って、10分ほどで宗像大社に到着した。
- 神湊という地名からも分かるように、この地は、聖なる島「沖の島」に船出するための本土側の拠点である。沖の島は、「海の正倉院」とも賞されている禁足地だ。
- 宗像大社は、その沖の島から出土した、4世紀から9世紀にわたる多数の宝物を所蔵している。末社も、全国に6000あるという。辺津宮本殿、拝殿ともに国の重要文化財に、また、境内全域は国の史跡に指定されている。
- 本殿は、びっくりするほどの大きさではない。色も、赤がそれほど目立たず、むしろシンプルな感じだ。拝殿は、毛利の智将小早川隆景が再建したものだが、やはり飾り気がない。
- お目当ての宝物館に、金300円也を払って入場する。無数の国宝、重要文化財が、惜しげもなく展示されている。先日訪ねた毛利博物館や厳島神社宝物館のように、年1回の特別公開時期に限って国宝を見せる、というようなケチな所とは違って、ここは常設である。以下、国宝だけに絞って紹介しよう。
- まずは、銅鏡である。内行花文鏡3面、方格規矩鏡3面、三角縁神獣鏡3面、だ竜鏡3面、人物画像鏡2面、獣帯鏡1面、すべて国宝である。
- このうち、だ竜鏡というのは、ワニの文様が刻まれた鏡であり、肉眼でも背中のブツブツが見て取れる(”だ”というのは、ワニという昔の複雑な字なのだが、JIS第二水準にも入っていない)。
- 玉類も豊富である。瑪瑙(めのう)丸玉は、オレンジ色が見事である。勾玉、碧玉、水晶切子玉、真珠玉など、どれも粒が大きい。
- また、滑石製子持勾玉という面白いものもあった。三日月の内側、つまりお腹側にもう一つ、ミニ勾玉が付いている。
- 装身具としては、銅釧(くしろ)もいくつかあるが、やはり何と言っても純金製の指輪だろう。四つ葉の形をモチーフにしており、今でも、まばゆいくらいの輝きを誇っている。装飾の特徴から、朝鮮製らしい。
- 鉄剣も3本ほど展示されているが、錆びていて、原形は分からない。真鍮製の石突という、用途不明のものもあった。
- 馬具としては、雲珠(うず)、杏葉、鞍金具などが、金色の光を放っている。
- 呪術用具としては、滑石製舟形/馬形/人形や、雛形斧/刀子/鏃がある。人形は、”ひとがた”と読むのだが、ちゃんと目、鼻、口が付いている。雛形とは、文字通りミニチュアのことで、どれも小指の先ぐらいの大きさである。
- カットグラスは残片しか残ってないが、幻想的な薄緑色は、ローマの色だ。唐三彩の長頸瓶は、濃緑の釉薬がつやつや輝いている。
- 以上が国宝だが、他にも、足利尊氏奉納の鎧などが展示されていた。都落ちした尊氏の元に、大宮司宗像氏範が、300の兵とともに馳せ参じたという。これに力を得た尊氏は、捲土重来、再び都に攻め上って、ついに天下を取ることになる。
- 一巡するのに1時間以上かかった。梅雨明け後の九州は、最高気温35度の強烈な暑さである。館内に冷房設備は無いので、じっくり見学するなら、この時期を避けるのが賢明だろう。もっとも、これだけの宝物を見せてもらって、文句は言えないが。
- 翌平成8年7月23日(火)、昼休みを利して、国指定史跡の鴻臚館と福岡城を訪れた。地下鉄赤坂駅で下車し、城への緩やかな坂を登っていく。今日は35度の猛暑、5分もしないうちに大汗が噴き出した。
- 鴻臚館は、平和台球場の外野席あたりにあった。フェンスの少し後ろが、ちょうど鴻臚館の東門にあたり、基壇と柱穴が復元整備されている。
- 鴻臚館は、中国、朝鮮の使者を迎えるための、いわば古代の迎賓館に当たる。現在、脇殿跡には覆屋がかけられ、礎石などを見ることができる。また、館内には、青磁、白磁の壺などの出土物も展示されていた。
- 扇風機に当たりながら汗を拭っていると、係りの人が出てきて、パンフレットを手渡してくれた。ちなみに、入場無料である。覆屋の中には、宿坊の建物の一部が復元されていた。赤と緑の原色は、中国風の雰囲気だ。
- 福岡城を目指し、さらに上に登っていく。二の丸、本丸を経由し、天守台跡まで一気に進む。日陰を選んで歩くが、滝の汗が流れ落ちる。こんな日中に史跡巡りをする、己の物好きさに呆れ果てる。
- 天守台からは、市内が一望の元に見渡せる。今は、大きな礎石が15個ほど並んでいるだけだが、当時は、この上に巨大な天守が建っていたのだから、眺望はもっと利いたはずである。
- 福岡城は、関ヶ原の戦いの直後の1601年に、黒田長政が築いたものである。当時は、全国的に築城ブームが巻き起こっていた。天下動乱、戦国の再来を予期していた大名が多かったからだ。
- だが、実際はそうはならなかった。家康の政治力の方が、ずっと上だったというわけだ。福岡城は、昭和32年国の史跡に指定されている。
- あまりの暑さに懲りて、国指定史跡須珠岡本遺跡へは、会議終了後の夕方に行くことにした。
- 今回の旅は、「魏志倭人伝」の旅でもある。朝鮮の帯方郡を出た魏の使節は、西海岸沿いに南下し、半島南端の狗邪韓国から初めて一海を渡る。その後、対馬国、壱岐国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国を経て、さらに水行十日陸行一月で、邪馬台国に至る。
- 魏志倭人伝には、その間に数十の国の名が登場するが、現在、場所がはっきりしているのは、対馬国から奴国までである。
- 今回の旅は、奴国から逆にたどり、対馬国まで行ってみようというものである。ただし、壱岐国は2年前に訪れているので、パスする。
- その奴国の中心地が、須珠岡本遺跡である。鹿児島本線で、博多から3つ目の南福岡駅で下車し、20分ほど西に向かって歩く。線路を渡り、自衛隊の前を過ぎると、大きな交差点に出るが、その左手前方の小高い丘一帯が、遺跡群の中心である。国道沿いに案内板が出ているので、それを頭に入れてから訪ねた。
- 周辺は、博多のベッドタウンとして開発が進んでおり、大規模な発掘はできない。従って、遺跡も点々と分散することになる。
- 須珠遺跡には、見るべき遺構は何も残っていなかった。解説板によると、王墓、または王族墓があったということだが、墳丘墓は削り取られ、現在は、その場所に普通の住宅が建っている。遺跡の重要性があまり認知されていなかった昭和初期に発見されたので、こういうことになってしまったのだろう。
- 遺跡から出たと伝えられる大石が、近くの熊野神社の境内に置かれていた。幅1.5m、長さ3.5mほどで、石棺の蓋だと思われる。大石の下からは、前漢鏡30面の他、銅矛、銅戈、ガラス玉、白玉が出土した。まさに大王の墓だ。
- さらに、丘の上の方に向かって5分ほど歩くと、岡本遺跡の白いドームが見えてきた。甕棺が116個も出たということで、昭和61年、国の史跡に指定されている。
- 甕棺の一部は、ドームの窓から覗くことができる。案内板によると、近くの春日市コミュニケーションセンタに事前に連絡しておけば、中にも入れてもらえるようだ。
- ここは、春日丘陵の北端であり、福岡平野が一望のもとに見渡せる。奴国の首都として、絶好のロケーションだ。すぐ下の丘の麓には、今でも池があって、満々と水をたたえている。先日訪れた塩尻の平出の泉を思い出したが、生活の場としても最適だったのだろう。
- 19時半を過ぎ、ようやく暗くなったきた。夕方とはいえ、まだまだ暑い。宿に帰って、早くビールを飲みたい。
- 平成8年7月24日(水)午前、博多から熊本への出張の途中、国指定史跡の岩戸山古墳に立ち寄った。天神から西鉄の特急で久留米まで行き、八女行きのバスに乗り換える。
- ちょうど山鹿行きの特急バスが入ってきたが、ありがたいことに、古墳のある福島高校前に停車してくれる。道路渋滞で30分ほどかかったが、通常なら20分である。
- 案内板に従って、西に5分ほど歩くと、こんもりした森が見えてきた。さて、古墳はどこかと見回したが、分からない。
- ウン?
- 目の前の森を見上げて、ハッと我に返った。これが全部古墳か。
- 全長135mという巨大な前方後円墳は、九州の雄、磐井の墓である。筑紫国風土記の記述と合致するので、まず間違いない。築造者が判明している古墳としては、我が国唯一のものである。
- AD527年、磐井は、大和朝廷に反旗をひるがえし、任那に向かう6万の朝廷軍を北九州の地で遮った。当時、朝鮮と九州は同盟関係にあったのだ。
- 昔、日本史の教科書で、磐井の反乱として習った覚えがあるが、「反乱」というのは、体制側から見た表現であり、客観的には「天下分け目の合戦」というのが妥当だろう。
- 「ペルシャ戦争」とか、コロンブスの「新大陸発見」などと、同じ類の話だ。「欧亜戦争」とか、「ヨーロッパ大陸人とアメリカ大陸人の出会い」というのが、公平だと思うが。閑話休題。
- 八女は、熊本との県境に近い内陸にあるため、博多に輪をかけて暑い。だが、ひるんではいられない。一周するぞ。
- どこかに墳丘への登り口が無いかと目をこらすが、樹木が鬱蒼としていて、ちょっと中に分け入っていく気がしない。諦めざるを得ない。
- 古墳の脇に、「別区」と呼ばれる正方形の広場があった。祭祀用のスペースだが、類例は、我が国の他の古墳には見られないという。
- 別区を抜けた裏手に、岩戸山歴史資料館がある。130円を払って中に入ると、係員のおじさんが出てきて、わざわざ展示の解説をしてくださった。
- 何と言っても、見ものは石人石馬である。古墳の脇にもレプリカが並べてあったが、こちらのは本物である。どれも皆バラバラになっているが、顔、かぶと、馬の胴体など、破片だけでも3mはあろうかという立派な石像である。
- 石馬は、日本に2体しかない。「残る一体は米子にある」と説明されて、ハタと思い出した。数年前、確か、淀江町の風土記の丘資料館で見た記憶がある。胴体部分しかない目の前の石馬と違って、ほぼ完全な形で残っていたはずだ。
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- この他に変わった物としては、男根の石像もあった。当時、古墳を守護するよう周囲に配置されていたのだが、磐井が敗れたため、破壊し尽くされたという。ということは、磐井は、生前に墓を築かせていたのか。
- 八女一帯の地形図のミニチュアが入口にあったので、帰る前に眺めてみる。現在の国道3号線をさえぎるように、丘陵が横たわっている。戦略上の要地だということがよく分かる。
- 再びバスに乗り、八女の中心街である福島で降りる。堀川バスに乗り換え、八女インターからは、高速バスで仕事先の熊本に向かう。バスは、20分遅れでやってきた。
- 岩戸山古墳は、大変不便な場所にある。我ながら、よくこのようなルートを見つけ出したと思う。
- 熊本では、会議終了後に、特別史跡の熊本城を見学することにしていた。だが、もう暑くてどうにもならない。せめて写真だけでも撮ろうと、タクシーで天守に向かった。撮影のために降りたわずかな時間でも、額から汗が流れ落ちてくる。そのまま駅に直行し、特急つばめでベースの博多に戻った。
- 平成8年7月26日(金)、午前中に全ての会議が終わった。これからは、私の時間だ。
- 魏志倭人伝を逆行し、次なる伊都国へ向かう。地下鉄は姪の浜までであるが、JR筑肥線が乗り入れていて、直通で唐津まで行ける。
- 途中、下山門駅を過ぎたあたりの右手の海沿いに、元寇防塁跡が見えた。
- なお、バスで20分ほど北にある「生の松原」にも、防塁が復元されているのだが、それは2年前に紹介した。
- 筑前前原で下車し、伊都国歴史博物館行きのミニバスに乗り換える。途中、平原遺跡、三雲南小路遺跡などの伊都国の王墓を経由するが、相変わらずの猛暑のため、車窓から遠望するに止める。こんなことなら、レンタカーを借りればよかった、と一瞬思ったが、博多から西に向かう国道が延々と渋滞していたのを思い出して安心する。
- 博物館には、平原遺跡から出土した42面もの銅鏡が展示されていた。刀は1点のみしか出ていないことから、おそらく、被葬者は女性だったと思われる。
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- 42面の鏡は、ほとんど破砕している。なぜだろう? 解説には、台風で壊れたとあったが、本当だろうか?
- 直径46.5cmという巨大な倣製鏡も、4面あった(”倣”の字はつくりの攵が無いのが正しいのだが、JIS第二水準にもない)。
- この他にも、東ローマから伝えられたという瑠璃(るり)製勾玉が、3点展示されていた。コバルト色の瑠璃は、当時としては大変貴重なものだったに違いない。
- 鏡や瑠璃を独占できるだけの絶大な権力を有していた平原の女王とは、一体いかなる存在だったのだろうか?
- 伊都国は、東は国指定史跡怡土(いと)城のある高祖山、西は二丈岳、南は神籠石で有名な雷山、北は志摩半島(文字通り昔は島だった)に囲まれた狭い地域である。
- 魏志倭人伝に記された戸数も、奴国の2万戸、末盧国4千戸に対し、伊都国は1千戸である。
- ところが、ここには一大率が置かれ、外国からの使節は、必ず何日か滞在したという。卑弥呼が、伊都国を地方拠点としたのは何故だろう。何らかの宗教的優位性か、或いは、大陸との交易をバックにした経済的優位性があったのであろうか。
- 博物館には、三雲南小路遺跡から出土した、長さ2.43mの巨大甕棺も展示されていた。これも、国王の墓と見られている。
- 平原遺跡、三雲南小路遺跡とも、小丘陵の先端部分にある。事前に地図を見た時には、両者とも平野の真ん中にあるものと錯覚していた。だが、地形をよく見ると、山から出刃包丁の歯のように細長く伸びた丘陵の先端部分にあることがわかる。平野や港を見張るには、絶好の場所である。
- 帰りのバスも、この丘陵上を走った。今でも、人々の生活の場所になっている。
- 魏志倭人伝逆行の旅の次なる行先は、末盧国であるが、あまりに暑いので、予定変更。この後は、虹の松原で泳ぐことにした。続きは、明日の朝にしよう。
- ホテルにチェックインし、備え付けのタオルを持って、目の前の海に飛び込む。遠浅のきれいな海だ。虹の松原は、日本三大松原の一つである。白砂青松が、弓なりに数km続いている。
- 仰向けになって、波に身を任せる。遠くに、唐津の発電所の煙突が見える。文字通り、ここは、唐に門戸を開いた津である。魏志倭人伝の時代、出航する船は、これから外国に出かけるんだという緊張感を覚えたのではあるまいか。
- 平成8年7月27日(土)朝一番で、久里双水古墳に向かう。ホテル前からバスが出ているのはありがたい。たしか2年くらい前、石棺の中にファイバースコープを挿入して撮った写真が、新聞の一面に載り、大騒ぎになった。
- 山本行きのバスで25分、つつじヶ丘団地入口停留所で降りる。と、緑の芝生で覆われた二こぶの小山が、目に飛び込んできた。久里双水古墳である。
- 巨大な前方後円墳で、全長108.5m、高さ8.5mある。一気に駆け上がると、息が切れる。
- 小平野の一番奥まった丘陵の先端にあるので、実に眺めがよい。立地的には、昨日の奴国岡本遺跡や伊都国平原遺跡とよく似ている。
- 3世紀末の築造というから、奈良の箸墓と並んで、わが国最古級の前方後円墳である。魏志倭人伝の時代の末盧国の王墓に違いない。
- 遺体は、舟形木棺に納められていたのだが、海に生きた国の性格を物語っているように思う。経塚跡などもあって、昭和63年唐津市の史跡に指定されている。
- バスで唐津市内に戻り、菜畑遺跡に向かう。国指定史跡である。日本最古の稲作の村として、名を全国にとどろかせている。現在は埋め戻されているが、遺跡の上に資料館があったので、立ち寄ってみる。
- 入口に、BC5世紀縄文晩期の炭化米が展示されていた。顕微鏡で覗くことができる。稲作文化も、ここから日本全土に広まっていったのであろう。土器は薄く、色も灰黒色をしていて、朝鮮の強い影響を感じる。
- なお、村では、豚を飼っていたこともわかっている。牧畜文化が、何故日本に根付かなかったのだろうか? 血の「穢れ」を嫌う、古来よりの神道の思想の影響? 謎である。
- 他には、漆の痕跡も出土している。漆器は、英語でJapanというが、縄文時代の三内丸山遺跡でも見つかっていることから、もしかしたら中国ではなく、日本がルーツなのかもしれない。
- 唐津市内の他の遺跡も、いくつか紹介されていた。
- 宇木汲田(くんでん)遺跡からは、細形銅剣、銅矛、銅戈が出土している。初期末盧国の王墓と見られている。
- 桜馬場遺跡は、AD1世紀の弥生時代後期の王墓である。巴形銅器、銅釧、銅鏡が出土しており、一括して国の重要文化財に指定されている。
- 柏崎遺跡からは、スキタイ風銅剣という珍しいものが出ている。取っ手が丸みを帯びており(ちょうどハサミの親指と中指を入れる二ヶ所の感じ)、刀身も全体的にふくよかな感じである。中央アジアの文物が、ここまでもたらされているとは驚きだ。
- 扇風機に当たりながら、一連の館内ビデオを全部見る。
- 魏志倭人伝逆行の旅は、順番からいくと、次は壱岐国になる。2年前に訪れた時には、壱岐国の首都と推定されている原の辻遺跡で、長崎県の発掘担当者の方に大変お世話になった。べっぴんOL4人組と回ったバス旅も楽しかった。
- 今回、壱岐国はパスして、最終の対馬国に向かう。
- 福岡空港からプロペラ機で30分、対馬空港に到着。レンタカーを24時間借り、島内を一周する。
- いよいよ、特別史跡金田城を制覇する時がやってきた。しかし、日はまだ高い。金田城では、相当の歩きを覚悟しなければならないが、この暑さではすぐに参ってしまうだろう。
- そこで、城下町厳原の探訪を先にして、夕方18時を期して、金田城を仕上げることとする。
- 空港から30分ほど南下すると、厳原の市内に入る。右手に、武家屋敷の石垣が続いている。日新館という藩校の門も復元されていた。黒と白のコントラストが、城下町らしい雰囲気を醸し出している。
- まずは、例によって、長崎県立対馬歴史民俗資料館で情報を仕入れる。
- 入口に、塔の首遺跡の石棺のレプリカが展示されていた。対馬北端の比田勝にある遺跡だが、明日行く予定だ。
- 内部には、広形銅矛、銅釧、土器などが展示されている。土器は、朝鮮系の瓦質土器と九州系の弥生土器の両方が出土している。対馬は、文明の交差点である。
- 雨森芳洲の事績も紹介されていた。江戸時代に、朝鮮との外交を担当した儒家である。事前にインターネットで対馬の情報を収集した時に、雨森芳洲塾なるものができたという記事を目にした。クリントン大統領が雨森芳洲を称えたこともあって、彼の生き方を見習おうという動きが芽生えているのだろう。
- 資料館の向かいには、金石城が、さらに背後には清水山城がある。どちらも、国指定史跡である。道が狭く、車では登れない。徒歩30分ということなので、下から見上げるに止める。
- 資料館の横を川沿いに上っていくと、対馬藩宗家の菩提寺である万松院がある。
- 唯一焼け残ったという重要文化財の山門を抜け、百段坂と呼ばれる長い階段を登っていくと、歴代藩主の五輪の塔が、鬱蒼とした森の中に次々に現れた。
- いや、林立していると言った方が当たっているだろう。これだけの格式のある墓地は、今までに見たことない。金沢の前田家、萩の毛利家と並ぶ、日本三大墓地の一つということである。昭和60年、国の史跡に指定されている。
- 宗氏の表向きの石高は、肥前の飛び地を入れても、2万石に過ぎない。だが、鎖国の江戸時代にあって、朝鮮との貿易を独占していたことから、莫大な利益を上げていたようだ。実質的には、数十万石の実力を有していたという。立派な墓所も、経済力の裏付けがあったればこそだ。
- 本堂には、朝鮮国王から贈られたという青銅の三具足(みつぐそく)が置かれていた。宗家の代替わりの度に、朝鮮国王から贈られたものだが、太平洋戦争で供出され、今残っているのは、最も小さいものだ。
- 中庭に、石の諫鼓(かんこ)があった。藩主の横暴を諫めるために、民衆が打ち鳴らしたものだという。1mくらいの高さの石棒の上に、直径20cmほどの石の鼓が乗っている。私も叩いてみたが、ペタペタというだけで、音は響かない。藩主として、姿勢だけは見せたということか。
- 厳原から車で10分ほど南下すると、長崎県指定史跡(昭和44年)のお舟江跡がある。お殿様の船の係留場である。石垣でできた突堤が、4つほど完全な形で残っている。駐車場ならぬ駐船場である。
- 日もだいぶ傾いてきたので、いよいよ、本日のメーンイベント金田城に向かう。
- 浅茅湾に突き出た小山の上にあって、地図にはアクセスする道路が書かれていない。ともかく、車で行けるところまで行って、後は歩くつもりである。
- 箕形というところに、金田城入口の標識があった。そこからは、車一台がやっと通れる山道に入る。幸い、対向車は1台もなかった。この時間に、こんな場所を訪れる酔狂な人はいない。
- 10分も走っただろうか。ついに車では進めなくなった。三の城戸という場所である。当時は、ここに城門が設けられていたのだろうか。
- 案内図を見ると、二の城戸、一の城戸というのもあって、そこまではかなり道のりがありそうだ。だが、こんな所で逡巡しているわけにはいかない。意を決して、歩き始める。
- 明らかに人工的に切り開かれた、幅3mほどの山道を登っていく。樹木が鬱蒼と茂り、ほとんど日が射し込まない。鎌倉の朝比奈切り通しに雰囲気が似ているが、山の深さは比べものにならない。
- なにやらガサゴソガサゴソ音がする。しかも、行く先々の道の左右両側に聞こえて、気味が悪い。よく見ると、小さな沢ガニが 慌てて逃げているのであった。不意の侵入者に対し、次々に道を空けてくれる。
- それにしても、クモの巣には難渋した。顔から手から、クモの糸でベトベトである。しばらく人が通ってないということか。まったく心細い限りだ。夕方になって気温は下がってきたはずなのに、冷や汗ともつかないものが、背中一面に流れ出す。
- 思わず引き返したくなる衝動を抑えながら、なんとか足を先に進める。20分も歩いただろうか。急に視界が開けて、絶景が目に飛び込んできた。
- 紺碧の海が、はるか眼下に見下ろせるではないか。いつの間にか、こんな高いところまで登ってきていたのだ。
- だが、行く手を見上げると、頂上はまだまだ先のようである。
- しばらく腰を下ろし、海を眺めながら、汗をぬぐう。山の中腹とはいえ、金田城の一部だ。ここまで登ってきたのだから、良しとしようか。
- 時刻は18時30分、日没までは1時間近くあるだろう。それなら、もう20分だけ歩いてみよう。そこで引き返せば、日没前には車に戻れるだろう。
- 勇気を振り絞って、再び真っ暗な山道に入る。クモの巣除けに小枝を拾って、顔の前で振り回しながら歩く。が、あまり効果はない。
- そろそろタイムリミットが近づいてきた。ここらで観念しようかと思った、ちょうどその時、前方に表示板らしきものが見えてきた。
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- 「右→壁石垣」
- やったあー、Great!
- 脇道をちょっと下ったところに、高さ5m、幅15mほどに渡って、積み石があった。写真や映像でよく見るやつだ。
- はるか数百m眼下には海が見える。逆に言えば、海からもこの石垣の威容を見上げることができるということだ。石垣は、外敵に対するデモンストレーションの意味もあったに違いない。
- 解説板によると、石垣は5.4kmにわたって残っているということだ。朝鮮式山城の代表的遺構として、昭和57年特別史跡に指定されている。
- 朝鮮式山城は、白村江の戦いで唐新羅連合軍に敗れた直後に、西日本各地に造られている。反攻に備えるために、百済の亡命者の助けを借りて、築城したのだろう。太宰府を守る大野城、基肄(きい)城、四国坂出の城山(きやま)、岡山の鬼ノ城(きのじょう)など、”キ”が付く城が多い。
- 途中で諦めないで、ここまで登ってきてよかった。どこかのマラソン選手の言葉ではないけれど、自分自身を誉めてあげたい。頂上を極められなかったのは心残りだが、将来に取っておこう。
- 宿に帰って、ビールの大ジョッキで、一人祝杯を上げる。
- 特別史跡57ヶ所、全件制覇おめでとう!!!
- 中学生の時の登呂遺跡から始まって、ついに今日を迎えることができた。日本も、狭いようで広い。特に、遺跡は辺鄙な場所にあって、アクセスが大変だ。
- 北は函館の五稜郭から、南は宮崎の西都原古墳まで、一つ一つを思い出しながらグラスを傾ける。
- これからどうしよう。なに、まだ世界遺産があるじゃないか。
- 平成8年7月27日(日)最終日、今日は、対馬の北半分を回った後、飛行機を乗り継いで東京に帰る。
- まずは、国指定史跡の根曽古墳に向かう。鶏知(けち)湾に付き出した半島の上にある。前方後円墳3、円墳2の合計5つの古墳群だが、どれも海を見下ろす高台に立地していた。ただし、4号墳と5号墳は、原形をとどめていない。
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- 1号墳は、長さ30mほどの前方後円墳で、葺き石が残っていた。頂上には長さ2mほどの板石があるが、石棺の蓋であろう。
- 2号墳は、長さ35mで、この古墳群中最大である。石棺もよく残っている。
- 3号墳は、円墳だが、盛土は失われ、横穴式石室だけが裸で残っている。
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- これらは、日本書紀にある対馬の県(あがた)の直(あたい)の墓と見られている。したがって、魏志倭人伝の時代からはかなり下がる。昭和51年、国の史跡に指定されている。
- 万関橋を渡り、北島に入る。橋の下は狭い海峡で、雰囲気が、先日訪れた音戸の瀬戸に似ている。
- これから北端の比田勝まで行くのであるが、距離が80kmある。地図で見ると、国道が一本まっすぐ続いているだけなのだが、走ってみると大変であった。
- 入り江が見えて、平坦な港町を少し走ったと思ったら、すぐにつづら折りの峠道が続く。下りると、また入り江が少し現れる、ということの連続である。
- 道は、山の中をまっすぐ貫いていると錯覚していたが、そうではない。入り江と入り江を結ぶために切り開かれているのだ。魏志倭人伝にある、「山険にして深林多く、道は禽鹿の径(こみち)の如し」という記述そのままの地勢である。
- 途中、和多都美神社に寄り道する。豊玉姫を祭神とする小さな神社だが、対馬国一宮の格式を持つ。海の中に鳥居が2本立っていて、ミニ厳島といった感じだ。
- 入り江の対岸には、弥生末期の遺跡として有名なハロウ遺跡がある。湾に付き出した小半島の先端に王墓があるのだが、ちょっと車では行けそうもない。
- ここら一帯には、弥生の遺跡が集中しており、対馬国の中心と思われる。
- 神社から数km登り、烏帽子岳の頂上に立つ。浅茅湾に浮かぶ大小さまざまな島が、お椀を伏せたような形で浮かんでいる。来る時の飛行機からも見えたが、典型的な溺れ谷の地形である。
- 再び国道に戻り、豊玉町立郷土館を訪ねる。場所が分からなかったが、宗教関係の本拠と見まごうような白亜の町公会堂を目指して行くと、その隣にあった。ところで、豊玉町というのは和多都美神社の豊玉姫から来ているのであろうか?
- 冷房の利いた館内には、ハロウ遺跡を始め、対馬国の遺跡からの出土物が展示されている。特に、広形銅矛は対馬に多いようだ。
- さらに車を進めると、もう一つ海神神社があった。こちらは、”わたつみ”とは読まず、”かいじん”と読む。先ほどの和多都美神社と同様、対馬一宮を名乗っている。社殿は、こちらの方が立派だ。長い階段を登った丘の上に鎮座しており、遠く、西の海が見下ろせる。
- 昼過ぎに、やっと比田勝に着いた。港には、小倉と結ぶ大型フェリーが停泊していたが、周辺がやけに騒がしい。聞けば、年に一度の夏祭りの最中だという。町民総出で、踊り、歌っている。
- レストランで昼食を取ってから、最後に塔の首遺跡に向かう。国指定史跡である。港から車で1分くらいの近さなのだが、場所が分かりにくい。先ほど、レストランのおばさんに確かめておいてよかった。橋を渡って、レンタルビデオ屋の先を左折すると、右手にある。道路に標識は出ていない。
- 解説板によると、遺跡は地元の小学生によって発見されたという。現在、1号墳は失われているが、2号墳から4号墳の石棺は見ることができる。
- 対馬特有の幅広銅矛の他、土器としては、朝鮮式の無文土器と北九州系の弥生土器の両方が出土している。
- ここから朝鮮半島まで50km、九州へは倍以上ある。今でも、急病人は、九州ではなく、釜山に運ぶそうだ。国境の無かった古代において、対馬の民は、自由に大海原を行き交っていたに違いない。
- この遺跡からも、間近に海を見下ろすことができる。今まで見てきた対馬の古墳は、全て海に付き出した小半島の先端にあった。そう言えば、奴国、伊都国、末盧国の王墓も、平野に突き出た半島の先端だったっけ。
- 帰りは、往きとコースを変え、東側の国道を走ることにした。地図を見ると、こちらの方が距離が短かそうだったが、とんでもなかった。往きに輪をかけて、峠道がタフだ。道を選ぶ際は、トンネルがあるかどうかを基準にした方がいい。峠を上り下りするのは、大変しんどい。
- 次々に、入り江の港町が現れる。途中、4つ目か5つ目の入り江として、佐賀という港町を通った。対馬宗氏の初代が、ここに居館を構えたということだが、遺構は何も残っていない。
- 驚いたことに、佐賀には銀行の支店があった。人口数百人のさびれた漁村ではあるが、東海岸の中心なのであろう。
- 悪路のため、意外に時間を要し、対馬空港に着いたのは、福岡便出発の30分前であった。頭がフラフラであるが、よく頑張った。これで、私の夏は終わった。
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