ガイド】日本の史跡を巡る57 国宝重源上人座像開帳
久田巻三
- 平成9年7月3日(木)、海外出張からの帰国便で、関西空港に着いた。まっすぐ羽田に向かう手はない。あさって、奈良東大寺において、年に一度の国宝の御開帳がある。この機会に、2泊3日で奈良の史跡を回ってこようと思う。
- 空港からJRで天王寺に出て、さらに関西本線の快速に乗り換える。奈良に着いたのは14:30であった。外は、気温36℃という猛暑である。出張の疲れもあり、ホテルでしばし休息。
- 今日は、奈良市内を回り、明日、レンタカーで近郊を巡る。明後日、重源上人坐像御開帳を見てから、新幹線で東京に帰る。
- 気合いを入れ直して、まずは、バスで春日大社に向かう。
- 例によって、初めに宝物館に立ち寄る。入場料300円也。祭礼衣装の特別展をやっていたが、こちらのお目当ては、国宝の鎧である。
- 赤糸威大鎧なるものが二つある。一つは源義経のものと伝えられているが、文字通り赤が基調の装飾鎧である。竹虎雀金物という飾りが付いている。中国の水墨画に出てくるような題材が武具に付けられているのである。実戦用というよりも、やはり神社への寄進のために作ったものだろう。
- もう一つは、源義家寄進と伝えられるもので、こちらは白が基調である。源氏中興の祖とも言える八幡太郎義家らしく、質実剛健といった感じだ。義経の華やかさとは対照的である。
- 宝物館を後にし、神社参詣に向かう。緩やかな参道を登っていくと、右手に車舎、左手に着到殿が現れた。それぞれ、昔の駐車場と待合室である。馬を繋いで、一休みしたのであろう。どちらも重要文化財に指定されている。
- 中門の真っ赤な塀と茅葺きの屋根は、これぞ春日大社という雰囲気だ。こちらも重要文化財だ。さて、その次は何かなと期待していると、行き止まりになった。奥にある国宝の本殿には入れなかった。「儀式執行中」という入り口の札がうらめしい。
- 17時を過ぎて、少し涼しくなってきたので、東大寺まで散歩することにした。若草山の麓を縫う道が、ずっと続いている。
- 15分ほどで手向山八幡宮に至る。普通の神社とあまり変わらない感じだが、東大寺の鎮守であり、拝殿、本殿が重要文化財に指定されている。
- 八幡宮の前には、国宝の宝蔵がデンと立っている。校倉造りで、材木が交互に重なっているのは、正倉院を思い起こさせる。
- 西隣は三月堂である。中には、天平の国宝仏像が綺羅星の如く並んでいるのだが、以前訪れたことがあるので、パスした。なお、建物自体も国宝である。
- 二月堂はデカイの一言に尽きる。清水寺の舞台に感じが似ている。回廊の石段を登って、その舞台の上に立つと、大仏殿越しに奈良の市街が一望できる。
- 舞台の下には、お水取りで有名な閼伽井屋(あかいや)がある。小さな建物だが、この中の井戸で神事が行われるのだろう。二月堂ともども重要文化財に指定されている。
- 二月堂の前には、国宝の開山堂があるのだが、入れなかった。年に一回、12月16日のみ、国宝の良弁僧正座像ともども開帳される。
- 西のドン詰まりの細い道を下り、左手の東大寺の境内に折れると、思いがけなく重要文化財の大湯屋が現れた。建久八年に重源(俊乗上人)が再建した、東西八間、南北五間の大きな建物である。中には鉄湯船が据え付けられているのだが、残念ながら非公開である。二階には小屋根があって、蒸気出しの役目をしていたことが見て取れる。
- ところで、重源はまったくの謎の人物である。彼の事績は、一言で言えば、平氏によって焼かれた東大寺大仏を再建したことである。と言っても、世界最大の大仏を鋳直し、金箔を施しただけではない。さらにそれを納める、やはり世界最大の木造建築である大仏殿をも再建させたのである。その作業は、技術的にも資金的にも容易なことではなかっただろう。彼は、六十一歳になってから、このプロジェクトの責任者に任じられ、約二十年をかけて見事にやり遂げた。そのプロセスについては、いつか解明してみたいと思っている。
- さて、大湯屋の話に戻ろう。実は、重源は風呂が大好きである。そう言えば、何年か前に訪れた山口県の国指定史跡の石風呂を思い出す。洞窟の中に、熱した石と薬草を敷いて、水をかけて蒸気を充満させる仕掛けである。現代のサウナのようなものだ。労働者のための福利厚生施設だったろう。
- 大湯屋の脇の階段を上ると、俊乗堂に出た。年に一回、あさって7月5日にのみ、この扉が開かれ、国宝の俊乗上人座像を拝むことができる。今回の旅のお目当てだ。
- 国宝の鐘楼、重要文化財の念仏堂を見てから、大仏殿へ向かう。何と言ってもデカイ。固定焦点のデジタルカメラに収めるのは至難の技だ。
- 実は、東大寺は、今夜に再来する予定である。と言うのも、この後、ライトアップツアーに参加することにしているからだ。昼と夜の違いを感じるために、わざわざ二度手間をかけているというわけである。
- 中門、南大門をぶらぶら歩いて、バス通りに出た。国宝の南大門は、さすがに力強い。赤の色がくすんでいるのも、歴史の重みを感じる。運慶快慶の金剛力士像も豪快だ。
- 南大門は、大仏様という建築様式で作られているのだが、この様式は、他には小野浄土寺本堂にしか現存していない。細い材木を次々に足して張り出させる、独特の工法である。
- この時、平家の南都焼き討ち後の寺社復興需要は、ピークを迎えており、優秀な大工は、皆経済的に余裕のある興福寺に取られてしまっていた。興福寺は、藤原氏の氏寺であり、スポンサーには事欠かなかった。そのため、重源は、素人でも建てられるように、大仏様という技術を宋から持ち込んだのだ。
- 夕食後、近鉄奈良駅19時発のライトアップツアーバスに乗り込む。料金は2000円也。夏季限定で、毎週金曜日とお盆の時期に運行される。今日は初日に当たるのだが、満席であった。
- まず、バスは興福寺に向かう。ライトアップされた五重塔を期待したが、まだ日は暮れていない。そこで、東金堂の仏像を見て時間を過ごす。
- 重要文化財の本尊薬師三尊は、1415年の作で、四代目だという。冷めたお顔であり、小学生時代の友人のA君に似ている。
- 国宝の文殊菩薩は、さすがに聡明そうなお顔である。同じく国宝の維摩居士は、1194年の定慶の作で、老人顔が大変リアルである。文殊と維摩の論争をモチーフにして、左右対称に置かれている。
- 周囲を取り巻いている、十二神将と四天王像も国宝である。どれも、彫刻がとてもきめ細やかだ。
- 東金堂を外に出ると、やっと日も沈み、五重塔が薄暮に浮かび上がった。この威容を目にすれば、いにしえの天平人は、ただただ仏教の力を畏れ、敬うしかなかったに違いない。
- 再びバスに乗り込み、南大門にやってきた。あたりはすっかり暗くなって、何本ものサーチライトに、くっきりと全体が浮かび上がる。接ぎ木を全くしてない柱の上に、徐々に末広がりに張り出した二層の屋根からは、重源の気合いのようなものを感じる。
- 参道をゆっくり進み、中門の前で腰をおろして、鏡池に写る光の大仏殿をしばらく眺める。
-
- 「きれいですね。」
- いつの間にか隣に立っていた、同乗のべっぴんOLさんが声をかけてきた。
-
- 横顔の後れ毛に、赤光が差す。
- あー、夢うつつ、夢まぼろし。
- バスは、国立博物館、浮き御堂など、市内のライトアップキャンペーン対象の建物を次々に回った後、若草山スカイラインに入る。つづら折りの道が、意外に長く続く。
- 頂上に着くと、各自に提灯が配られた。展望台までの5分ほどの道の足元を照らすためだが、今は街灯が完備されているので、むしろ余興といったところか。
- ここからの眺めは、まさに百万$の夜景である。百年の都が、この広大な盆地に築かれたということがよく分かる。
- だが、甘いムードに浸っている時間は、私にはない。すぐに一行と離れ、展望台の裏にある国指定史跡鶯塚(うぐいすづか)古墳に登る。
- こちらは真っ暗だったが、先ほどの提灯が役に立った。前方部によじ登り、一段高い後円部を目指す。頂上にはベンチが置かれていたが、ここからの眺めも最高である。
- 全長103m、何とデカイ古墳だ。4世紀末の築造で、石斧や内行花紋鏡が副葬されていたというが、こんな山の頂上に巨大な古墳を作らせたのは、一体どんな人物なのだろうか?
- 死後も、この王国を守ろうとした支配者の執念、といったものを感じる。
- 集合の時間が迫ってきた。急いで古墳を駆け下りる。バスは再び来た道を下り、奈良駅に着いたのは21時を過ぎていた。海外から帰国していきなりだったので、少々疲れたが、まずまず有意義な一日であった。
- 平成9年7月4日(金)2日目、奈良駅でレンタカーを12h借り、郊外に足を伸ばす。
- まずは、市の東のはずれにある新薬師寺に向かう。国宝本堂の大棟が作り出す、やわらかな線が印象的である。左右両側への張り出しが、異常に長いのだ。
- 本堂の中に入ると、十二神将の迫力に圧倒される。が、その前に受付のお坊さんに天井を見ろと言われた。真っ白な化粧屋根が一面に施されている。日本最大のものだという。やはり、この建物は女性的だ。
- さて、十二神将を一つ一つ丹念に見ていく。日本で最古最大というだけあって、どれも白っぽい埃のようなものがこびりついている。それぞれ手や足を踏ん張ってポーズを決めているのが面白い。もちろん国宝なのだが、指定された数は十一である。実は、一つだけ昭和の修改がある。安政の地震で壊れた、波夷羅大将である。
- 十二神将は、それぞれ十二支の守り神になっている。例えば、申は、安底羅大将が担当する。手に武器の棒を持っており、黒目は、まさに猿みたいだ。
- 本尊の国宝薬師如来は、ふっくらした丸顔の、というよりは、子供のような優しいお顔の仏様である。もちろん、手に薬瓶を持っていて、病気の人を救ってくれる。
- 本堂を出ると、まぶしくてクラクラする。今日も、38℃の酷暑である。クーラー付きの車なしでは、とても史跡巡りはできない。
- さて、市街に戻り、大乗院庭園を見てから、国指定史跡の頭塔に向かう。場所が事前に特定できていなかったので、当てずっぽうに走っていると、国民年金保養センタ飛火野荘の駐車場の奥に、突如、ピラミッドが目に飛び込んできた。急いでハンドルを切る。
- 駐車場の一番奥まで進み、七段の巨大なモニュメントを見上げる。発掘直後ということで、フェンスが張られていた。中には入れない。
- 底辺33m、高さ10m、土と石で固めた黄土色のピラミッドである。奇数段には、石仏が何枚もはめ込まれている。摩耗しているものが多いが、左下のものは、はっきりと顔が分かる。全部で44枚あるが、うち13枚は国の重要文化財に指定されている。
- これらの情報は、解説板に書かれている。1986年と88年に発掘に当たった、早稲田大学が設置したものだ。
- 内容を丹念にメモっていると、飛火野荘から職員が出てきて、こっちに向かってきた。無断で侵入してしまい、マズイなと、一瞬冷や汗が出た。
- 「どうぞ中に入って、屋上のテラスから眺めて下さい。」
- 親切な支配人さんだった。新聞記事の切り抜きまでコピーして渡してくださる。お言葉に甘え、スリッパに履き替えて、3階の上のテラスまで登らせてもらった。
- 上から見ると、頂上に五輪塔が置かれているのが分かる。もとは十三重の塔だったらしい。
- そもそも、誰が何のためにこんなものを作ったのか?
- 謎である、と言いたいところだが、実は、既に種は明かされている。767年、東大寺の僧が、鎮護国家を願って建設したということが、ちゃんと記録に残っている。
- 支配人に丁重に礼を言ってから、退散しようとすると、
- 「よろしかったら直接登ってみますか?」
- 「え、よろしいのですか? そんなことが許されるのですか?」
- 「県の教育委員会から鍵を預かっていますから。」
- なんという幸運!
- 再三のお言葉に甘え、グルグルと螺旋状に一周しながら、頂上まで登った。壁面の石仏も、間近で見られる。遠くからでは何の形か分からなかったものも、意外に細かく彫られているのに驚く。
- 頂上への最後の一段は、少々急である。土の塔なので、足元も崩れやすい。支配人さんも、危うく転けそうになった。高さ10mの塔なので、展望はそんなに利かないが、気分は爽快である。思わずヤッホーと叫びたくなる。
- すっかり好意に甘えてしまった。今度奈良に泊まる時には、必ずこの宿を使わせていただきます。
- 次は、車でしか行けない高円山スカイラインに向かう。その先の奥山スカイラインは、若草山スカイライン側からの一方通行になっていて、こちら側からは行けない。従って、往復で戻るしかない。通行料は610円也。
- 高円山からの眺望は最高であった。若草山よりも若干標高が高いため、一つ一つの景色が小さく見える。
- 頂上少し手前に、地獄谷石窟仏の入り口があった。日陰に車を停めて、森の中を歩き始める。鬱蒼とした春日山原始林の中は、ひんやりとしていて気持ちがいい。下界とはえらい違いだ。なお、この林は特別天然記念物に指定されている。
- 約10分、距離にして600mほどで石仏に至る。石窟の壁に妙見観音、廬舎那仏、薬師が彫られている。高さは1~1.5mくらいだ。かすかに朱が残っている。薬師の頭の黒も、何らかの顔料だろう。大正13年、国の史跡に指定されている。
- 再び車でスカイライン終点の頂上に向かう。ここには、同じく国指定史跡の春日山穴仏がある。道路から50m、滝坂道と呼ばれる石畳の道を下るとすぐである。やはり、石窟の中に、毘沙門天、羅漢、釈迦などが立っている。ただし、首が落ちているのがほとんどだ。毘沙門天だけは、体のくねらせ方に特徴があるので、一目でそれと分かる。先ほどの地獄谷石仏が板状だったのに比べ、こちらは立体的である。大分県にある特別史跡の臼杵石仏と同じ手法だという。
- さて、これから柳生に向かうのだが、頂上から未舗装の山道が延びていて、柳生方面を示す矢印の付いた案内板がある。ちょっと心細いが、ここはショートカットを狙おう。途中道に迷ってしまい、恐ろしく細い道を行くことになったのだが、何とか柳生に出ることができた。
- とろろ定食の昼食で気力を回復してから、柳生の史跡巡りに出発。
- まずは、柳生藩歴代の藩主が眠る芳徳寺に向かう。門をくぐって左側の道を進み、寺の裏手に出ると、小さな五輪塔が所狭しと並んでいた。累代の墓が一ヶ所に集中しているのは極めて珍しいという。
- ここで思い出すのが、対馬藩の墓所である。国の史跡に指定されているくらいで、こことは比べものにならない立派な五輪塔であった。日朝貿易で潤っていた大名と、たかだか一万石の田舎大名の経済力の差ということか。
- 本堂の中はミニ博物館になっていて、忍び具足やら鎖帷子などが展示してあった。柳生新陰流の奥義を記した「月の抄」は、柳生十兵衛が、三代将軍家光の勘気を蒙って蟄居していた、30代の頃に書いたものである。
- 芳徳寺の門前には堀があって、今でも水をたたえている。敷地の回りには土塁の痕跡も残っていて、ここが城の役目を果たしていたことが見て取れる。柳生石舟斎の深謀遠慮ということか。
- 次に回った陣屋跡は、公園のようになっていた。居間、納戸、書院などの建物跡が石で囲われていて、大きさが分かる。
- さて、ここからは、ほうそう地蔵という国指定史跡への道が伸びているのだが、10分は歩かなくてはならない。この猛暑の中、ちょっと二の足を踏んだ。徳政を宣言した文字が刻まれている、という珍しいものなのだが、先ほど芳徳寺で写真は見たので、次の機会に譲ることにしよう。
- 来た道を戻り、家老屋敷に向かう。この建物は、藩の家老職を代々勤めた小山田主鈴のものだ。多くの部屋や庭園が開放されている。入場料は300円也。
- NHKのドラマにもなった「春の坂道」を書いた山岡荘八が、一時期買い取って住んでいたことがあった。柳生宗矩が主人公の小説であるが、山岡は、彼を「徳川家康の精神を受け継いだ真の後継者だ。」と言っている。
- 歴史上の人物を発掘して、物語にするのは楽しいことだ。しばし中庭を眺めながら、歴史作家の精神世界の一端に浸る。
- 前から行ってみたかった笠置山は、柳生からほど近い。市街に入る手前で右手に折れ、砂利道をたどれば、笠置寺まで車で入れる。すれ違いはできない細い道だが、往復とも一台も行き会わなかった。
- まずは、笠置のシンボルである笠置石を拝む。高さ20mの巨大な岩に、大磨崖仏が彫られている。弥勒菩薩ということだが、顔は全く分からない。長年の風雨にさらされて、今は摩滅してしまっている。
- 大磨崖仏の前にある正月堂は、いわば拝殿のようなものであろう。国の重要文化財に指定されている。
- 笠置山は、南北朝の動乱期に、後醍醐天皇が立て籠もった史跡でもある。1331年の元弘の戦いで、室町幕府の大軍をしばらく防いだものの、結局全山焼かれてしまった。
- 行在所の跡も、ちゃんと残っていた。天皇陵でよく見るような柵がしてあるのだが、正面だけで、横からは自由に中に入れる。この山で一番高い場所だが、広さは二十m四方ぐらいしかない。
- 行在所の下に、貝吹き岩という巨岩がせり出している。ここからの眺めは圧巻である。はるか眼下に、木津川がうねるように流れているのがよく見える。テレビの歴史番組などで、見覚えのある景色だ。貝吹き岩の由来だが、宮方がここで法螺貝を吹いて、味方の士気を鼓舞したことによるという。
- 帰りに、寺に付属したミニ資料館に寄ってみた。弥生時代の石剣なども展示してあって、古代よりこの地が開けていたことを示している。十一面観音もあったが、本尊と言うにはあまりにささやかな仏様であった。戦乱で全てが焼け落ちてしまい、その後、復興されることが無かったのであろう。
- 時間もおしてきたので、奈良へ戻ることにする。途中、忍辱山円成寺に立ち寄る。
- 車を飛ばして、17時ぎりぎりに飛び込んだ。入場料は400円也。ミニ浄土庭園の脇を通って、楼門から境内に入る。毛越寺に次ぐ庭園、と解説板にあったが、それほどでもない。
- まずは、国宝の春日堂、白山堂に参拝する。1228年に建立された、我が国最古最小の神社である。人の背丈より少し高いくらいであり、柵もないので、手で触れることができる。屋根の檜皮葺きは、ふかふかの感触であった。雨ざらしでも問題ないのであろう。
- 隣に、もう一つ宇賀神堂という同様のサイズの神社もあるが、こちらは重要文化財である。傷みが激しいのか、覆屋が付いている。
- 国宝の大日如来は、真っ赤な多宝塔の中にあった。お顔は、少し鍍金が剥げていて、醜いという第一印象だが、イメージの中で修復をすると、物静かな感じが伝わってくる。衣紋のひだ、宝冠などもきめ細やかである。
- 実は、この仏は、運慶二十歳の時の作、ということが銘文から分かっている。後々の豪快な作風からは想像できないが、若き日のナイーブな感覚というものが伝わってくる。
- 奈良市内に戻ると、北山十八間戸の近くを通ったので、寄ってみた。奈良時代の僧である忍性が、ライ病患者のために造ったものである。文字通り、十八枚の戸が付いた長屋である。患者のために、東大寺や興福寺が見渡せる高台に造ったという。現代で言えば、ターミナルケア施設といったところか。大正12年に国の史跡に指定されている。
- 国宝の東大寺転害門は、堂々たる八脚門であり、屋根には大縄が張られている。交通量の多い柳生街道添いにあるのだが、一応車から降りて、写真を撮る。
- これにて本日の日程終了といきたいところだが、あと一つ欲張ろう。食事をして時間を潰してから、最近再建されたばかりの朱雀門に向かう。実は、ここもライトアップキャンペーンの対象になっている。19:30、真っ赤に燃えるような天平の威容を目に焼き付けて、車を返却した。
- 平成9年7月5日(土)3日目、最終日。いよいよメーンイベントだ。だが、その前に大仏様を拝んでおこう。
- 世界最大の木造建築である大仏殿に鎮座する、これまた世界最大の廬舎那仏。右手を正面に、左手を上に向けて、少し笑っているような感じだ。とにかくデカイ。
- 重源によって再建された後、江戸時代になってもう一度再建されている。ただし、大きさは半分になったということだから、オリジナルの規模は想像に絶する。奈良、平安の人々が、仏教の力にひれ伏したのも、当然のことであったろう。
- 10時を過ぎたので、いよいよ俊乗堂に向かう。既にお堂の扉は開かれ、二十人ほどの僧侶が読経している。お堂は十m四方ほどの小さなものだ。
- 中の厨子も開かれ、国宝の俊乗上人座像がのぞいている。小柄な座像だ。高さは1mくらいか。痩けた頬、うつろな目で遠くを見てるようだ。暗くてよく分からないが、あご髭のようなものも見える。手は胸の前で組んでいるようだが、供えられた榊の木と重なっていてよく見えない。
- 法要は、朝8時から続けられている。今いる見物人は、10人ぐらいである。その中に、ずっと直立不動で合掌している一人の老人がいる。また、若い女性も二人いた。
- 僧侶が入れ替わり立ち替わり、経を上げている。やがて、全員が立ち上がり、声明を大声で唱え始めた。和音が脳みそに滲み込むようだ。最後に、全員が葉っぱを投げて、法要は終わった。10時50分であった。
- 僧侶たちが退き、代わって、我々が堂内に入る。光が像の漆によくないということで、周囲の戸が全て閉め切られた。お寺の人から、ひとしきり重源上人の事績が紹介された後、厨子の幔幕が左右に開かれ、近寄って見ることが許された。
- 痩せている。しかし、頑健だ。亡くなってから作られたということだから、死の直前の姿であろう。あご髭と見えたのは、首の筋に浮き出たシミであった。手は、胸の前で数珠を握っている。
- 大仏再建をプロデュースした老僧重源に、どのような艱難辛苦があったのだろう。一人静かに堂を辞し、東京への帰途についた。
ホームへ戻る