ガイド】日本の史跡を巡る67 箱根旧街道 久田巻三

 平成11年12月23日、箱根八里旧街道踏破の日帰り旅に出ました。
 新宿から特急ロマンスカーに乗って、箱根湯本に着いたのが9時ちょうどであった。駅道路向かいの観光案内所で地図を入手し、いざ試合開始。今日は、頂上の箱根関所がゴールだ。
 まず、徒歩10分ほどの町立郷土資料館に向かう。200円を支払って中に入ると、箱根八湯や旧街道の展示解説が充実していた。箱根の旅のオリエンテーションとしては十分だ。
 さらに徒歩10分ほどの早雲寺は、禅寺らしく落ち着いた雰囲気を醸し出していた。だが、内部は一般には公開していないようだ。拝観謝絶の看板に圧せられ、一礼だけして後にした。
 徒歩5分ほどの正眼寺の地蔵様を拝んでから、もう一度湯本の温泉街に下り、今度は玉簾ノ滝を見に行く。大型ホテルの裏手にあるのだが、誰でも入ることはできる。
 細い糸のような流れが、幾筋も岩を伝わって落ちてくる。名前の通り、優美な滝だ。箱根火山の爆発で流れ出た溶岩が、やっと冷えて固まったのが、この場所である。その溶岩の縁が、今では滝になっているのだ。
 なんやかんやで、10時を過ぎてしまった。これより、箱根越えの急坂に挑むことにする。
 15分ほど登ると、最初の観音石畳が現れる。幅2mほどの山道が255m続いている。この部分は、国の史跡(昭和39年)に指定されている。自動車道路から外れて緑の中を歩くのは、本当に気分がホッとする。
 石畳の出口が箱根観音だ。社殿は近代的な建物なので、有難味に欠ける気がするが、一応お参りしてから再出発。
 途中、また国指定史跡の石畳の道に入る。大澤坂と呼ばれているが、箱根の石畳の中で、昔の姿が最もよく残った部分である。特に縦排水路と斜排水路がはっきり残っている。前者は、石畳の道の両側に縦に掘られた排水路である。また、後者は、石畳自体の配石が斜めになっていて、道を横切って水を流す工夫である。近くに説明板が立っているので、見逃す心配はない。
 正午ちょっと前に畑宿に着いた。まだ行程の半分もこなしていないが、かなりへたばったので、ここで昼食を取ることにした。とろろ蕎麦を汁まで全部飲み、暖まったところで試合再開。
 ここ畑宿には、本陣が置かれていて、幕末維新の頃には、ハリスや明治天皇も泊まったという。今は建物は残っていないが、裏手にちょっとした日本庭園があった。
 畑宿の石畳道の始まり部分には、一里塚が復元されていた。直径10mほどの土盛りが道の左右に並んでいる。修復工事が終わったばかりという感じだ。
 急な坂が続く。あちこちに霜柱が立っているので、気温は0度近いのだろうが、汗がうっすらと額に浮かぶ。途中の西海子坂の石畳にも、先ほど見た斜めの排水路があった。
 最後の急坂を登り切ったところが、親鸞上人ゆかりの笈の平である。浄土真宗の開祖は、東国での布教を終え、弟子2人と一緒に京都に戻る途中、この地から来し方を振り返った。
 「自分たちが関東を離れてしまったなら、いったい誰が東国の民衆を教え導くのか。」と嘆息し、その場に泣き伏してしまった。それを見た弟子たちが、師の意を汲んで、再び来た道を引き返していったという言い伝えである。
 14時、甘酒茶屋に到着。すぐに一休みしたいところであるが、その前に隣接する旧街道資料館に寄った。入場料70円也。写真展示が主で、特に目玉はなかった。
 400円の甘酒は絶品であった。砂糖を一切使わない自然の甘みということだが、生き返った。
 さー、最後の一踏ん張り。権現石畳を過ぎると、道はやがて下りになり、芦ノ湖が見えてきた。さらに下りきると、湖畔の杉並木である。420本の巨木が延々と連なっている。もちろん国の史跡に指定されている。
 湖に下りると、遠く対岸に富士山が白い姿を浮かべている。箱根神社の鳥居の赤と湖の青と、本当に素晴らしいコントラストだ。
 さらに杉並木の旧街道を歩き、ついにゴールの箱根関所跡に到着した。ジャスト15時である。よくぞよくぞ、あんたはエライ。
 300円を支払って、敷地の内部を一周する。「入り鉄砲に出女」と言われるように、ここでの詮議は厳しかったのであろう。人見女の老女や吟味の役人の人形が、所々に据えてあって臨場感を出している。
 隣には、関所資料館もあって、通行手形や駕籠などの展示も見られる。忠臣蔵でお馴染み、大石内蔵助が自署した宿帳などもあった。
 陽も傾いてきて、寒くなってきた。山を下ることにしよう。両足の感覚が無いくらい疲れ切っているが、6時間ぶっ通しで登り終えたことは、大いなる自信につながった。東海道は、この先も京都まで続いている。三島まではハイキング道もあるようだし、この続きは、来春また暖かくなってからに持ち越したいと思う。その時まで、再見。

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