ガイド】日本の史跡を巡る68 安針塚 久田巻三

 平成12年1月18日、真冬とは思えないうららかな陽差しに誘われて、前から行きたいと思っていた国指定史跡の安針塚に出かけることにした。
 京浜急行の安針塚駅前の喫茶店ぶらんこで腹ごしらえをしてから、山に向かって登り始める。20分ほど歩くと、道は急な坂になり、息が切れる。登り切ったところが安針塚である。
 三浦安針、ことウィリアムアダムスは、江戸時代初めに日本に来たイギリス人である。オランダ船リーフデ号が難破して豊後に漂着した時、彼は船長をしていた。ちなみに安針とは、水先案内人のことである。
 その後徳川家康に見出され、ずっとブレーンとして重用された。幕府からは横須賀のこの地逸見に250石を賜り、幕臣として彼は日本で生きることになった。
 安針は、山の頂上に妻と一緒に眠っていた。高さ2mほどの宝篋印塔が2つ並んでいる。向かって右が本人、左が妻の墓である。左の方が若干小さめである。彼女は、江戸の大伝馬町の名主の娘であり、安針と結婚して、一男一女をもうけたのだ。
 安針が亡くなったのは、1620年、57才の時である。場所は平戸の商家宅であった。家康亡き後は不遇の生活を送ったと伝えられている。権力者の命令とは言え、遠い異国の地で一生を終わらねばならなかった安針の気持ちはいかばかりであったろう。毎年4月8日には遺徳を偲んで墓前祭が執り行われると言う。
 反転して墓の階段を下りると、真っ青な海が眼に飛び込んできた。遠く横浜のランドマークタワーやベイブリッジも見える。安針がここに眠ることを希望した理由が分かるような気がする。
 帰りは逸見に下り、鹿島神社に参拝した。彼の息子の二代目安針が社殿を造営したという。彼の子孫は日本に受け入れられ、この土地に同化していったのだろうか。
 国際化の荒波の中で日々もがいているビジネスマンのささやかな息抜きが終わった。

以上

ホームへ戻る