平清盛紀行

 

ガイド】日本の史跡を巡る32 久田巻三 よりの抜粋

 

 平成××年五月二十五日より三日間、神戸へ出張することとなった。例によって、ついでにあちこち見て回ろうと思うが、さてどういう作戦でいくか。

 ところで、JR西日本が流している三都物語のCMをご存知であろうか?

 谷村新司が伸びのある声で、「きのう、今日、明日〜、変わりゆく私〜」と歌っているやつである。

三都とは、当然京都、大阪、奈良だと思っていたが、そうではなかった。奈良ではなく、神戸が入っているのである。JRとしては儲けの多い新幹線を宣伝したいのであろうか。

 神戸を都とすることについては、別に問題はない。平安時代末期に福原遷都があったからである。

福原といえば、平清盛である。長い公家の時代に幕を引き、武士の時代を招来した彼こそ、長い日本の歴史の中で、エポックメイキングな革命者であったと言えるのではないだろうか?

 ここは一つ、平清盛をテーマに旅を構成してみることとしよう。

 

 朝早いひかり号で東京を出立し、京都駅に十時前に到着した。午後の会議の前に、ちょっと市内二ヶ所に立ち寄ってしまおうという魂胆である。

 荷物をコインロッカーに預けて、さっそく六波羅密寺に向かう。清盛をテーマとするなら、まずは御本人と対面せねばなるまい。

 駅前から206系統のバスに乗って二十分、清水道で下車し、賀茂川へ続くなだらかな下り坂を五分ほど歩くと、いかにも密教の寺の趣を持つ六波羅密寺に到着した。

 本堂のお参りもそこそこに、入館料五百円也を支払って宝物館に向かう。入って正面左、いらっしゃいました。

 清盛様、初めてお目にかかります。

 国の重要文化財平清盛像、鎌倉時代の作である。うつろな目で経を読んでいる、五十才くらいの老僧。体つきも割りときゃしゃで、世間のイメージである傲慢さや冷酷さは全く感じられない。

清盛は、本当は気の弱い、神経質な性格だったのではなかろうか。結構病気にもなっているし、ストレスにも弱かったのかもしれない。いつかゆっくり調べてみたいと思う。

 この寺では、空也上人像も有名である。念仏を唱えている口から、小さな阿弥陀如来が四〜五人出ているもので、たしか歴史の教科書にも載っていたはずだ。おそらくご存知の方も多いことであろう。

 さて、続いて六波羅密寺より徒歩十分ほどの三十三間堂に向かう。言わずと知れた、京都を代表する観光地である。木曽義仲の法住寺殿焼き討ちの際、他の建物は全て焼け落ちたのに、この三十三間堂だけが奇跡的に残ったのである。もちろん国宝に指定されている。

 実は、ここ三十三間堂に収められている千体の仏像のうち、百数十体は清盛が寄進したものである。ここを訪ねたのもそれを確かめるのが目的であった。

 だが、残念ながら、どれがそうなのかは見分けがつかなかった。しかし、千体の仏像の迫力はひしひしと伝わってきた。いずれも黄金に身を包んだ千手観音の行列は、壮観の一語につきる。

 さらにうれしいことに、従来は奥にしまわれていて見ることができなかった二十八部衆の像が、一年前より一般公開されているという。清盛のライバルである後白河法皇の八百年聖忌を記念してのことである。

阿修羅とか迦楼羅(かるら)とか、インドの影響を強烈に感じる。金比羅がワニだとは初めて知った。二十八体全てが国宝に指定されている。

・・・

 午後の会議が早めに引けたので、神戸の市内見物に繰り出すことにした。

 まずは、神戸市立博物館に閉門時間ぎりぎりで飛び込んだ。ここの目玉は国宝の桜ヶ丘銅鐸であろう。うずまき文が特徴的な、完全無欠の大型銅鐸が、十個ほど展示されている。

 この他については、やはり地元柄、兵庫港を中心テーマとした展示構成になっている。古代には、大輪田の泊りと呼ばれて、八一二年から十世紀中ごろまで修築が続けられてきたという。

ポートライナー(三宮とポートアイランドを結ぶモノレール)から眺めるとよくわかるが、ちょうど西側の和田岬が天然の防波堤になっていて、波の少ない良港としての資格を十分に有している。

 室町時代の関銭徴収簿によれば、年間二千隻もの船が出入りしていたという。積み荷としては、米、塩、木材、備前焼、鉄、金、砥石等である。

明治中期頃の神戸港の写真も残っていたが、今のコンテナヤードやドックの巨大クレーンが乱立する姿からはとても想像できないほど、うらびれた漁村の雰囲気である。湘南で言えば、逗子海岸といったところであろうか。

 博物館を後にして、今度は福原の都の痕跡探しに出かけた。三宮より6系統のバスで二十分の平野停留所で下車し、三分ほど歩いて湊山小学校に至る。

この辺の住所標識は、「雪の御所町」となっており、いかにもここがかつて都だったということを主張しているように思える。

 湊山小学校の校庭の片隅には、1.5m四方の大きな石碑が立っていた。この小学校を建設するときに、おびただしい数の均正唐草文宇瓦、土器、礎石(この石碑もそのうちの一つ)が出土したことから、このあたりに相当の御殿があったことが推定されるという。港を見おろすこの山の手の一等地に、清盛の屋敷があったとしても何の不思議もない。

 ところで、清盛がここを新しい都に定めたのは、「六甲の水」があったからだという説がある。当時、京都の衛生環境は劣悪で、天然痘などの感染症が蔓延していた。清盛は、健康にも気を付けていて、泉の湧く六波羅の館に住んでいたので、「泉殿」と呼ばれていた。適度な湿度を保って、ウイルスを排除していたのだ。だが、長男の重盛が死亡するに及んで、京を捨てる決断をした。宋との貿易という経済動機もさることながら、むしろ人間としての生存欲求の方が強かったということか。なかなか面白い説である。

 次に、また十分ほど歩いて荒田八幡宮に至る。ここは、小さな神社であるが、安徳帝行在所跡と書いた石柱が立っている。平家一門とともに壇ノ浦に沈んだ幼帝の御所というには、あまりに貧弱な気がするが、今となってはYESともNOとも言いようがない。

 帰りは、大学病院前のバス停から神戸駅に出て、宿泊予定のホテルに倒れ込んだ。

・・・

 残り二日間の会議を無事終えて、平成××年五月二十七日夕刻、今度は広島の厳島に向かった。この後、さらに鶴姫で一躍有名になった大三島にも寄って瀬戸内海の旅を堪能するつもりだ。

・・・

 平成××年五月二十五日、八時二十五分発のフェリーで宮島へ渡る。昨日までの雨が嘘のように、本当に雲一つないいい天気である。

フェリーは十五分おきに出ているが、九時十分以降の毎時十分発の便は、観光便という位置付けになっており、わざわざ大鳥居の近くまで寄り道してくれる。

 桟橋を降りて、厳島神社に向かって歩き始める。と、すぐに「要害山入口」の標識があったので、登ってみた。厳島合戦時の宮尾城跡である。

この戦いは、数千の毛利元就軍が、十倍の兵力を擁する陶晴賢軍を打ち破ったもので、桶狭間の戦いと並んで戦国時代における二大奇襲戦として有名である。

 徒歩五分ほどで頂上に着いたが、そこに解説板があった。海上に突き出しており、味方の水軍と連絡を取り合うことができることから、海賊城としての性格を有していると書いてある。樹木の間から海がのぞいているが、距離にして百mくらいで、上陸しようとする敵を矢で阻止するにはぎりぎりの間合いである。

 道のあちこちに落ちている鹿の糞をよけながら、さらに十分ほど歩くと、厳島神社に到着した。三百円也を支払ってさっそく回廊の上を歩く。

入口に掲げられたミニ黒板には満潮干潮の時刻が書かれていたが、予め潮の時間を調べてから来るのも、また一興である。

 それにしても回廊の朱と海の紺のコントラストは見事である。回廊の一本一本の柱には麻が巻かれ、その上に漆と辰砂(硫化水銀)が塗り込められている。八百年経った現在でも、その鮮やかな色彩に少しの翳りもない。

 社殿の創建は五九三年、すなわち推古天皇の時代であるが、現在の規模にまで造営したのは、もちろん平清盛の業績である。

 この厳島は昔から神の島としてあがめられていたので、ここに社殿を建てたということである。だが、瀬戸内海に数ある島の中で、何故この島だけが特別視されたのであろうか。実はこの謎は後で判明することになる。

 本殿の正面には高舞台がある。清盛がインドから伝えた舞楽が、春の桃花祭と秋の菊花祭の際に演じられたのだが、現在でも十五分五万円(人数問わず)で見ることができるそうだ。

 回廊の終着点には重要文化財の能舞台が復旧されていた。平成三年十月の台風十九号によって、屋根を残してペシャンコにつぶれてしまったのは、いまだ記憶に新しいところである。だが、現在はちゃんと元の姿に戻っている。

 厳島神社の回廊を出たところに宝物館があった。国宝の平家納経が見られるものと期待して行ったが、残念ながら展示されていたのは複本で、しかも二点だけであった。経を収める経箱も、さらにそれを入れた網袋(いずれも本物は国宝)も複製であった。本物は、年一回の特別展(十一月下旬〜十二月上旬)でしか見ることはできない。

 偽物ではあるが、金箔銀箔砂子を使った何ともいえない淡い色彩の絵や、金銀雲龍文銅製経箱などは見事なものであった。平家納経は、「絵画」と「書」と「工芸」とがミックスした複合芸術と言えるのではないか。是非機会があったら本物を見てみたいものだ。

 平家納経は、願文を入れて全部で三十三巻ある。三十三という数字は、観世音菩薩の応身の数と一致するということだ。

 複本の横には清盛の願文の全文が掲示してあった。少々長いが、せっかくなのでメモしていると、宝物館の館長とおぼしき方が出てきて、写真に取ることを例外的に認めて下さった。謝、謝。

 願文の中で面白いと思ったのは、「厳島神社の御利益(ごりやく)は口碑の伝(世間の口伝え)にしか過ぎないが、所詮、諸法の定不定は一心の信不信にある」と清盛が述べているところである。既成の権威に従うのではなく、自分がどう信じるかが重要なのだという、いかにも清盛らしいところが出ている。

 そもそも、厳島神社自体が日本の神社らしくない。あまりにも華美だ。清盛の心根がストレートに出ているのであろう。もちろん、平家納経もこの延長線上にある。

 平家納経とは全然関係ないが、「宥座(ゆうざ)の器」という面白いものが展示してあった。両端を紐で吊ったコップなのだが、八分目まで水を入れると平に釣り合うが、満たんにするとひっくり返るという代物である。何事も欲をかかず、むさぼることがないようにという儒教の教えが込められているという。

 宝物館の外に出ると、目を開けていられないほどの日差しの強さだ。こんな天気のいい日は、やはりロープウェイで弥山(みせん)に登らざるを得まい。往復千五百円とちょっと高いが、奮発しよう。

 ロープウェイはかなり乗りでがあって、やっと着いたと思ったらまだ榧谷(かせたに)という中間駅であった。さらに乗り換えて、終着の獅子岩駅に着くまでに三十分ほどかかった。

途中眼下に見えた栂(つが)や松などの、手つかずの原始林は国の天然記念物に指定されている。

 標高四百三十mのここ獅子岩にはペトログラフという珍しいものがあった。岩に彫られた古代文字のことで、確かによく見ると、くさび形文字のような記号があちこちに見られる。本当に古代人が刻んだものなのか、眉につばを付けたくなるが、まあ野暮なことを言うのは止めましょう。

 標高五百三十mの弥山の頂上までは、ロープーウェイの終着駅から徒歩三十分の道のりである。だが、これが半端じゃなかった。かなりの急な登りで、もしロープウェイの駅で缶ジュースを買って持参しなかったら、脱水症状で死んでいたに違いない(というのは大げさですが)。

途中修験道系の寺を経由して、やっとの思いで頂上に迫る。と、ゲゲ、何だこれは。

 そうだったのか。

これが厳島の厳島たる由縁か。

巨大な岩が何枚も折り重なっている。おそらく一辺三十mはあるだろう。これはまぎれもなく岩座(いわくら)である。古代の人が神聖視し、神まつりを行った岩座である。しかも、とてつもなく巨大な岩座である。

弥山とは、つまり”御山(みせん)”であり、”神山(みせん)”であったのではないか。厳島とは、もちろん”神の居付く島”である。

 岩座の前の展望用ベンチに腰掛ける。吹き出す汗を風で鎮めながら、しばらくは四方の海を眺め渡す。

そういえば、音戸の瀬戸はどこだろうかと思い、東の方に目をやったが、残念ながら能美島の陰になっていて見えなかった。瀬戸内交易のために清盛が開削したことになっているが、どうも史実かどうかはっきりしないらしい。それほどショートカットにはならないし、そもそも海の底を削って船が通れるようにする技術が、当時存在したのだろうか。

 もっとも、清盛ならきっと実現させたと信じたい気もするが。・・・

(後略)

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