第五章 南蛮

 

(1)海城構築

「この度の九州平定、祝着至極に存じあげます」

 羽柴秀吉が、安土城の信長のもとを訪れた。

「うむ。あまりに島津がもろくて、そちも少々物足りなかったであろうが」

「左様でござりますな。さて、今度は東国でございますな。是非ともこの秀吉に再び先鋒をお命じくださりませ」

「まあ、そう先を急ぐな。それよりも城を移るぞ」

「移ると申されますと、・・・。さて、この天下一の安土城を出て、いったいどこに行く先がございましょうや」

「新たに城を造るのだ。秀吉、どこがよいかのう」

「いきなりそのようなことを申されましても・・・。それなら大坂はいかがでございましょう。石山本願寺の跡地に建てるのでございます。われらの攻撃を十年に渡ってしのいだ地でございます。きっと難攻不落の城ができるものと存じます」

「難攻不落とな。さて、この信長が誰に攻められると申すのだ?」

「はは、これはこの秀吉、迂闊。失礼を申し上げました。お許し下され」

 信長は、今まで領土を拡大する度に、新しい城を築いてはそこに移り住んでいったものである。尾張の清洲から小牧山へ、そして美濃を奪い取るや岐阜へと城を替えた。

畿内とその周辺を制圧した頃には安土城を築いてそこを本拠地にした。しかし、これらの城はいずれも戦に備えて築かれたものばかりである。

 ところが、今度の城は全く防御というものを考える必要がなかった。既に西国を完全に平定した信長にすれば、戦いのための城を持つ必要性など、毛ほども感じていなかったのである。

「大坂は、港を造るには少々手狭じゃな」

「はあ・・・。港、でございますか・・・」

 大坂の地は、回りを大小の河川に囲まれた天然の要害であり、広大な敷地に惣構えの諸曲輪を設ければ、難攻不落の城として一大城郭を構築することも可能であったろう。

 しかし、信長は大坂を選ばなかった。それは、大坂の地は河川が複雑に絡み合うように流れており、大規模な港を設けることが困難だったからである。

「親方様、分りました。港を造るのに適した地がございます。親方様から預かっておりまするわが領地にございます」

 秀吉が大声で叫んだ。

 信長は戦のための城ではなく、世界に門戸を開いて商いをするための城を築こうと決めていた。できれば、海外との貿易は直許制としたいと考えていたのである。

 信長が選んだのは、兵庫(今の神戸)であった。

 兵庫の地は、背後にすぐ六甲山地が迫ってはいるものの、海に面して平地が横広であり、多くの埠頭を設けることによって、多数の船を同時に停泊させることができた。

 平地自体は極めて狭隘であったが、それでも信長は、その狭い平野部に本丸のみの城を築くつもりであった。二ノ丸も三ノ丸も無い、ただの平城である。その本丸には、安土城のものをはるかに上回る、外見六層にして内部九階の豪壮華麗な天守閣をうち立てる計画であった。

 城の石垣も「切込みはぎ」といって、切り石だけを使い、石と石との接合面を完全にそろえて積む方式を初めて取り入れた。これは、従来の野面積みなどと違って、見た目が非常に美しいばかりでなく、忍者などの敵の進入を防ぐのにも優れていた。

 信長は、この他にも素晴らしい工夫を取り入れた。城下と港とを運河によって直結したのである。これは城下町の発達をも考慮に入れた心憎いばかりの設計であった。

 実は、兵庫の地に目を付けたのは、歴史上信長が初めてではなかった。平安時代の末、平清盛が日宋貿易の基地とするため、大規模な土木工事を敢行したことがある。沖合に東南からの風よけのための経ヶ島を築くなど、大型の宋船を迎えるための大掛かりな築港であった。

しかし、清盛は志半ばで死去し、平家一門は壇の浦の藻屑となって消えてしまったため、日の目を見ないままとなっていたのである。

 その後、室町時代足利三代将軍義満の代に、再び対明貿易の基地として活況を呈したことがあったものの、応仁の乱で戦火に巻き込まれたことや、後に遣明船の発着地が堺に変わったことなどもあって、その後はさびれていた。

 島津攻めも決着した天正十二年六月(1584年)、信長は、兵庫築城を発表した。城普請の触れが、中部・近畿・西国の諸大名らに回され、夫役の分担が明らかとなった。

 城普請の総奉行には、あの毛利輝元の股肱である小早川隆景が任命された。これは、彼の備後三原城築城の経験が買われたためである。三原城も、当時としては珍しい海城であり、今度築く兵庫城と性格が似ていたからである。

  今回の夫役は、築城はもちろんのことであるが、築港の方にも力が入れられた。常時二万人の人足が投入された大土木工事であったが、段取り良くことが運んで、当初の予定通り一年半で竣工した。

「城、港とも大変見事な出来映えじゃ。隆景、誉めてとらすぞ」

 信長はいたく喜び、小早川隆景の労をねぎらって備後の国を彼に与えた。

  信長は、天正十四年(1586年)正月、完成したばかりの兵庫城お披露目のため、支配下にある中部・近畿・西国の諸大名を招いて、年賀の宴を催した。

 実はこの時、この宴に意外な人物が参加していることに、諸大名は仰天した。

 

(2)琉球王国

「わしとしたことが手落ちであった」

 信長は島津征伐の折り、琉球まで足を伸ばさなかったことを悔やんだ。というのも、兵庫築城に際して、琉球に夫役として大船三艘の供出を命じたにもかかわらず、これを琉球王朝が拒否してきたからである。

 琉球人は、当時、中国はもちろん、ルソンやシャムにまで足を伸ばして、盛んな貿易を行っていた。彼らは、中国の朝貢国となることにより、自由貿易を謳歌していたのだ。

 それに対して、信長の兵庫築城の意図するところは、貿易を日本国のもとで一元的に管理しようとするものであった。琉球人たちにとっては、交易で身を立てる自分たちの立場を危うくする企てである。彼らは、これを敏感に感じ取っていた。

「いよいよあいつの出番が来たようだな。蘭丸、亀井茲矩を呼び寄せよ」

 信長は、亀井茲矩(これのり)に薩摩の兵五千を付けて、琉球討伐を命じた。

 亀井茲矩とは、もともとは尼子の猛将山中鹿之助に属していた武将である。だが、鹿之助が播州上月城にて毛利に滅されてからは、尼子再興の期待を一身に背負って、因幡鹿野城一万三千五百石の大名として信長に仕えていた。

 茲矩は、従前から琉球に興味を示しており、琉球の守の称号や琉球征伐の朱印状を欲していた。そこで信長は彼に目を付け、彼を軍監に任じて琉球討伐を命じたのである。

 茲矩率いる薩摩の兵五千は、百五十艘の船に分乗し、九月二十日琉球に上陸した。

一千挺の鉄砲で首里城を攻める亀井の軍に対し、それまでそれだけの大量の鉄砲を見たこともなかった琉球軍は肝をつぶした。

 首里城は二日と持たずに落城し、琉球王の尚永はあっけなく降伏した。期待していた中国からの援軍も望めず、圧倒的な亀井軍の火砲の前に為すすべなく敗退してしまったのである。

 亀井茲矩は、琉球王尚永を捕らえ、わざわざ日本に連れ帰って、信長の御前に差し出した。

「遠路はるばる御苦労なことだ。それにしても、勝てぬと分っている戦をなぜしたのだ。素直に船三隻を出せば、こういう事にはならなかったものを」

 信長は、頭も下げずに背筋を伸ばして座っている琉球王に尋ねた。

「琉球国は、守礼の邦。いずれの国とも友好を結ぶのを国是と致しております。一つの国だけに便宜を図ることはできませぬ。交易で成り立つ国が筋を曲げたら、国は滅びます」

「そなたがこうして囚われの身となっては、琉球は滅んだも同然ではないか」

「さてさて。今日私は、日本国に親善の挨拶に参ったのでございますが。よもや親善の使いを捕らえることはありますまいな」

 信長は、苦笑するしかなかった。明国を後ろ盾にしているという自信が、尚永の言動に満ち溢れていた。

 信長は、仕方なしに、次の五つの条件と引き換えに、尚永の琉球への帰国を許可することとした。

 一つ、琉球国は以後信長が支配をすること、また、そのために琉球奉行を置くこと。

 二つ、奄美大島以南五島を薩摩の島津氏に割譲すること。

  三つ、琉球全土に検地を施すこと。

  四つ、貿易を行う場合は必ず信長に朱印状を求め、利益の半分は税として納めること。

  五つ、甘蔗(さとうきび)は専売制とし、すべて琉球奉行に納めること。

  なお、三番目の検地については、その後すぐに実行され、八万三千石と確定した。

  以上の五条件のうち、最後の甘蔗の専売制は、最も重要なものであった。というのも、後に砂糖は日本国の重要な輸出品となり、日本に莫大な利益をもたらすことになるからである。

 さてこうして、南海の王国琉球も信長の支配下に入ることとなった。そして初代の琉球奉行には当然のことながら、亀井茲矩が任じられた。

 

(3)マカオ奪取

「いよいよ、南蛮攻めじゃ。蘭丸、用意はできておろうな」

 信長は、ポルトガルからの書状を一読するや否や、立ち上がって叫んだ。

 長崎におけるポルトガル人の反抗に対する謝罪を求める国書を発したのだが、その返書がマカオより戻ってきた。

それは、信長の期待を全く裏切る、極めて不遜なものであった。

「長崎の地は、通常の商行為により、イエズス会教会のものとなった。それを無理矢理取り上げようとする者に対し、これを守ろうとするのは、当然の行為である。そして、ポルトガルは世界の半分を支配する大国であり、極東の小国の要求に一々応えてはいられない」

信長は、書状を破り捨てるや、深く息を吐いた。

〈この強気の源は何だ〉

 信長は、この書状に激怒しながらも、ポルトガル人の力を分析する冷静さは失っていなかった。

〈海か・・・。何としてもガレオン船の製造技術と、奴らの航海術を手に入れねばならぬ〉

 ポルトガルは、一千六百トン級の巨船を何隻も持っていたが、当時の日本の技術ではとてもそのような大船を造ることはできなかった。アフリカ南端の喜望峰という難所を、何度となく越えてアジアにやってきたポルトガル人の造船・航海術は、それだけ長足の進歩を遂げていたのである。

 信長は、今から四十年以上前の鉄砲伝来の出来事を思い出していた。1543年、中国船が難破して種子島に漂着したが、そこにポルトガル人が乗り込んでいて、日本に鉄砲を伝えた。時の種子島領主は、十六才という若さであったが、二千両もの大金をはたいて二丁の鉄砲を購入した。

〈ポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝えたというが、あれは漂着ではあるまい。種子島は砂鉄が豊富に取れる。製鉄の島じゃ。南蛮人め、ここなら鉄砲が高く売れるとにらんだに違いない。あやつらは、初めから種子島を目指してきたのだ〉

 南蛮人と見下しているはいるが、ポルトガル人の底力に、信長は危機感を強く抱いた。

〈このままでは、ポルトガルの天下になりはしないか?〉

 信長は、すぐさまマカオ攻略を決意した。

「マカオ遠征軍は、九州の松浦、島津を主力とする。それに琉球人をつけて、総勢は一万。蘭丸よ、すぐに差配せよ」

「はは、承知いたしました。して、総大将は?」

「そうだな。島津義弘がよかろう」

「島津義久の弟でございますな」

「うむ。松浦、島津なら、倭寇として長年中国沿岸で活躍しておる。遠洋航海にも慣れておろう」

「松浦道可殿は、南蛮との交易を盛んに目論んでおるやに聞いております」

「おう、松浦道可はしたたか者じゃ。ポルトガル船を平戸に招いて大儲けしておるやに聞いておる。だが、良いことばかりではないようだ。奴らと商いをするには、まずキリスト教へ入信せねばならぬ」

「左様でございますか。しかし、道可殿はキリシタン大名ではございませぬが」

「うむ、だからしたたかなのだ。家臣を身代わりに信者にしたのだからな。まあ、たぶん仏教勢力を恐れてのことであろう」

「なるほど。この度、マカオ遠征を命じますれば、少しは貯め込んだ財宝を吐き出させることができましょうか」

「うむ、そうだな」

「ところで、九鬼の水軍はいかが致しましょうか。鉄甲船三十隻を擁しておりますが」

「いや、今回は見送ろう。日本近海や瀬戸内海での航海実績しか無かろう。遠方への航海に耐えられるかどうか不安じゃ」

「左様でございますな。それに、鉄甲船は織田水軍の切り札。最後まで取っておきましょう」

 船体を全面鉄で覆ってしまうという信長の独創的発想は、もちろん世界初であった。ヨーロッパで鉄張りの船が登場するのは、これより二十数年後である。

  さて、中国式ジャンク船に乗り込んだ松浦、島津の一行は、一旦琉球に集結した後、折から吹き始めた北風に乗って一気にマカオを目指した。

 マカオの地は、中国の中山県から海に突き出した、わずか面積五キロ平方メートル強の半島である。

明国よりこの小さな半島を譲り受けたポルトガル人は、日本人の来攻を予想して、四ヶ所の高台すべてに砦を設けるなど、半島全体を要塞化していた。

 日本船は、マカオに上陸するため、半島の内側の湾にある港に侵入した。

「皆の者、突っ込め」

 島津義弘が攻撃の号令を発した。

すると、待ってましたとばかり、半島の先端にある媽閣山の砦から雨霰と大砲が撃ち放たれた。

 構造的に弱い日本船は大きな被害を受けた。それでも、何とか砲弾をかいくぐって突入する船もあったが、湾の奥から現れた五隻のポルトガルの大型戦艦に取り囲まれ、個別に撃破されていった。

 狭い湾内には一度に多くの船が進入できず、日本側の大軍のメリットを活かすことができない。かと言って、半島の外海に面した側は波が荒く、大量の船を係留することは不可能であった。これでは、直接マカオに上陸することは諦めざるを得ない。

「突撃止め。退け、退け」

 義弘の合図で、日本軍は一時退去することにした。ただ、すぐ近くには良い港がなかったので、仕方なしに日本軍は七十kmほど東にある香港島を目指した。

 香港島の北側は、島自体が南シナ海の荒波を防いでくれる地形になっている。風や波も穏やかであり、おまけに潮流もほとんどなかった。大船団の係留地としてはうってつけの場所である。

「やり直しだ。今度は陸から攻めるぞ」

 臨機応変の戦術変更は、和冦の常である。

 日本軍一万は、中国大陸を大きく迂回するように進み、再度マカオに迫った。

 もちろんのこと、半島の入口には、ポルトガル側では最も強固なモンハの砦が控えている。陸から半島に入るには、わずか幅五百mしかない巾着の口のような狭い道を通らざるを得ないが、ポルトガル人はここに砦を築き、大砲を構えて迎え撃った。

「マカオを守る敵兵はたかが一千人。こちらはその十倍ぞ。一気に踏み潰せ」

 島津義弘の指揮のもと、日本軍は力攻めで押したが、ポルトガル側の志気も高く、なかなか砦に近づけない日々が続いた。

 敵が降参しないのには訳があった。常に兵糧や武器弾薬の補給がなされていたのである。ポルトガル船は、日本軍の海上封鎖の網を破って、易々と補給に成功した。

 いつ来るか分らないポルトガル船を、揺れる海の上で常時警戒していることは大変なことなのだ。兵士の疲労を考えると、あまり多くを海上に残すことはできず、どうしても陸上に部隊を展開せざるを得ない。

 両軍にらみあったまま一ヶ月が過ぎた。だが、事態の進展はなかった。

「とにかく来年の春までに決着をつけなければならぬぞ。でないと、南風に乗って日本に帰れなくなる。兵糧もその分しか持って来ていない。よいか、者ども、野垂れ死にたくなかったら、マカオを陥とすしかないのだぞ」

 大将の島津義弘の必死の叱咤激励にもかかわらず、事態は一向に好転しなかった。慣れない異国での長対陣に、水の違いや連日の暑さも加わって、疫病にかかる者も出始めてきた。兵士たちの間には、厭戦気分さえくすぶり出すようになってきていた。

 打開策の見えないことに焦った島津義弘は、最後の手段として、信長に使いを送って援軍の要請をした。

「やはり、南蛮人は手強いか」

 信長は、しばらく目をつぶって考えていた。

「では、小早川隆景を援軍に出そう。蘭丸、すぐに隆景を屋久島に向かわせよ」

「は、屋久島でございますか。承知つかまつりました」

 蘭丸は、理由も聞かずに手配に走った。

 なぜ屋久島なのか?

 信長の胸には一つの秘策があった。そして、それが見事に成功したのである。

 小早川隆景が、長門・周防の兵三千を引き連れてマカオに到着してから、わずか半月ほどでモンハの砦は降伏した。

 風の強い日に火矢で攻められて、砦内の建物が炎上したことが直接の引き金であるが、ポルトガル人が既に戦意を喪失していたことも大きかった。

 マカオ内港に通じる狭い湾口は、巨大な杉の木によって封鎖されていた。全く補給が閉ざされ、武器や兵糧は日に日に減っていくばかりであったのだ。

 杉の巨木は、四方八方に伸びる枝もそのままに、二百本ほどが隙間無く並べられていた。これらは言うまでもないことだが、屋久島の縄文杉である。筏に組んだ巨木は、錨の役目をする特大の鉄の重しを海底に沈めることで、湾口に固定された。

 島津義弘が攻め始めてからちょうど六ヶ月後、ポルトガルと日本の間に和議が締結された。時に天正十三年(1585年)三月のことであった。

日本としては、マカオを完全に攻め滅ぼすこともできたであろうが、そのためにはもう一年、すなわち南風の吹く次の年の春まで対陣しなければならない。和議は致し方のないことであった。

 講和の条件は、造船技術士と航海士合わせて十名の捕虜を出すこと、及びマカオ在住ポルトガル人全員のマラッカへの退去である。その代わり、ポルトガル人宣教師の日本への布教活動は、継続して認めることとした。

 信長は、ポルトガル側の復讐に備えて、遠征軍のほとんどをマカオに残すこととし、島津義弘を当座のマカオ奉行に任じた。

 こうして、信長は、海外に初めての領土を持つとともに、当時、世界の最先進国であったポルトガルの造船技術や航海術を手に入れることになった。すなわち、これから日本が世界に向けて飛躍するための、貴重な宝を掌中にしたこととなったのである。

 

(4)コレジオ

「ポルトガル人の奴らめ。どうして地球の裏側にまで出張ってくるだけの力があるのだ」

 信長は、鉄砲を手に取り、蘭丸に向かって撃つ真似をした。鉄砲は、ポルトガル人が初めて種子島にもたらしたものである。

 信長は、ポルトガル人たちを攻撃はしたものの、彼らの能力については一目置いていた。従って、日本国内のポルトガル人宣教師やポルトガル人商人たちも粗略に扱うことはしなかった。

 信長は、本能寺の変の際、高槻でクリスチャンの商人に命を助けられた。そのこともあって、キリスト教の普及には大いに力を貸していた。また、ポルトガルとの貿易の利の莫大であることも知っており、商人たちを十分に保護するなど、現実的な対応をしていた。

 来日したポルトガル人宣教師たちは、日本のあちこちにセミナリオやコレジオという教育機関を設置して、聖職者の養成に努めていた。この時には安土をはじめ、豊後の府内、肥前の長崎など、その数は十校にも達していた。信長も時々安土にあるセミナリオを突然訪れては、オルガンの音色に耳を傾けたりすることがあった。

「南蛮人の力の源はコレジオなのか。蘭丸よ、イエズス会宣教師たちの学問のやり方を真似して、日本でもコレジオを作ったらどうかのう」

「コレジオ、でございますか」

「そうだ。もちろん、キリスト教を広めるわけではない。実学を教えるためのものだ。天文、地理、造船、航海術などだ。いや、他にもあるぞ。薬学、語学、商学、何でもよい」

 信長の考えた日本版コレジオとは、今で言えば、総合大学のようなものであった。

「しかし、武士が学問を好みましょうや?」

「武士だけに限る必要はあるまい。このコレジオに制約は設けない。誰でも入れるのだ」

「農民もですか?」

「そうだ。バリニャーノが言っていたぞ。スペインでもポルトガルでも、そして明国でも、文字を読める者は百人に一人ぐらいだそうだ。それにひきかえ、日本では武士や町人はもちろん、農民でさえ半分くらいは字が読める。これはすごいことなのだ」

 当時の日本の文盲率は五十%程度であり、世界的に見ても最も低い部類に入っていた。つまり逆に言えば、字の読める人の割合が、当時の日本は世界一だったのである。学問を受けることのできる素養を持つ人が、日本中に満ち溢れていたと言っていい。

「親方様、それらの学問の中でも最も重きを置くべきは何でございましょうや。造船術でございますか」

「うん、そうだな。あともう一つ商学があるが、まずは造船が一番じゃ」

「造船術については、マカオから連れてきたポルトガル人の匠たちに教えさせればよろしゅうございましょう」

「うむ、そうだな。まずは兵庫と長崎にコレジオを作り、講義をさせるか」

「ええ。これを日本人の船大工に修得させて、日本独自の船を作り上げましょう」

「そうだな。まあ、独自とは言っても、和洋中のいい所取りになろう」

「と申しますと、基本はやはり中国のジャンクでございましょうか。航洋性に優れておりまするゆえ」

「うむ。ただし、舵と船尾は、西洋のガレオン船のものを取り入れるのがよかろう」

「はい。それから、船首楼はこの兵庫城のように希有壮大なものに致しましょう」

「ははは、それもよかろう」

 日本には、これまで大型船建造の伝統がなかった。そのため、信長は、これから大量生産する船は和洋中折衷型とし、それぞれの長所を大幅に取り入れることにしたのであった。

「だが、船だけ造っても駄目だぞ。仏作って魂入れずだ」

「はあ。もちろん、良き船乗りも必要でございますな。これもコレジオで一斉に育てましょう。天文学、航海術を会得した者どもが、数万の軍勢を率いる日もそう遠いことではございますまい」

「ははは、そうなればよいがの」

「そうそう、親方様、あと帆がありまする。帆装はいかが致しましょうか」

「おう、そうだな。材料は、もちろん日本産の優秀な木綿に決まりじゃ」

「帆の組み合わせはいかが致しますか」

「それは、やはり西洋式だろう。主軸の高帆、船首のやり出し帆、それから船尾の三角帆、いずれもな。いや、待てよ。ジャンクの網代帆も捨て難いな」

「では、両方用いるというのはいかがでございますか。やはり和洋中のいいとこ取りということで」

「そうするか。それはよい、わははは」

 これらの船は、数回の遠洋航海で細かな不具合を修正した後、兵庫と長崎で大量生産された。そのため、船の建造費も西洋船の四分の一という安さであった。

 こうして、わずか三年足らずのうちに、百隻ほどの軍艦が完成した。

 この船は、やがて日本前と呼ばれるようになった。安定性、走行性に優れ、商船としても、また軍船としても使われた。

軍船とする場合は、さらに船首楼に矢倉が備えられ、そこに櫓(ろ)を入れて人力でも漕げるようにした。櫓の数としては、通常百挺櫓程度の中小型のものが多かったが、時に大きいものでは、二百挺櫓という巨大なものまでが造られた。

 さて、信長が奨励したもう一つの学問が商学、すなわち簿記である。これは近江商人の中から講師を選んで、全国各地のコレジオで教えさせることにした。

「蘭丸は簿記のことを知っておるか」

「いえ、恐れながら」

「それはいかん。勉強不足じゃな。わしはこの間、五個荘の高田屋から簿記の仕組みを聞いたが、それはよくできたものじゃ」

「近江商人と申しますと、その多くが五個荘、八幡、日野などの出身でございますな。彼らは、親方様による関所の撤廃のおかげで、全国を股に掛けて行商ができるようになりました」

「いや、もう日本国内にはおさまってはおらぬぞ。はるかベトナムやシャムにまで足を伸ばしている奴らもいる」

「左様でございますか」

「おう、たんまりと稼いでおるようじゃ。その儲けは、簿記でもって、しっかり管理しているのだ」

「簿記、でございますか」

 近江商人の中には、やがて金融業を兼営する者も出てきたりして、帳簿も合理化が進んだ。

そしてこの時代に、なんと会計制度としての簿記をほぼ完成させていた。もちろん複式簿記はずっと後世のことであり、この時代は単式簿記であったが、それでも世界的に見て最も先進的な域に達していたのである。 

「しかし、親方様は何故に簿記をお広めなされようとしておられるのですか。商いは商人にまかせておいて、運上金だけしっかり取ればよろしいのではございませぬか」

「いや、そうではない。わしが簿記を重視する理由がわからぬか。それはな、政の根本に関わることだ」

「はあ。そこまで重大なこととは・・・」

 信長が目指したのは、税制改革であった。

当時、農民に対する税は、検地によって明確にされていたが、一方の商工業者に対する課税には、明確な基準がなかった。

商人たちには、運上金あるいは冥加金といって、営業を許可する代わりにその時々に応じて税を上納させる方式が取られていた。商業を営む者に対しては市場運上、問屋運上などが、また手工業を営むものに対しては、酒運上、紙漉(かみすき)運上、塩浜運上などといったものが課されていた。さらに廻船業などを営む者に対しては、帆別運上といったものなど、様々な種類の税が存在していた。

「わしはな。運上のような不明朗な税制を改めたいのだ。そのために、簿記を導入するのだ」

「と、申されますと・・・」

「つまり、こういうことだ。まず、商工業を営む者には簿記の原理に則った正確な記帳を義務づける。その上で、商売によって生まれた利益に税を課すのだ」

「利益とは、売上げた金から掛かった費用を差し引いた残りの金でございますな」

「その通りだ。その利益の半分を税として徴収しようと考えておる」

「半分と申しますと、農民に課している五公五民と同じでございますな」

「そうだ。わしは、税の仕組みを極力簡単にしたいのだ。それが天下布武の礎じゃからな」

 安定した政権とは、突き詰めれば、いかに安定した徴税能力を持つかにかかっているということを、信長は直感的に見抜いていたのである。

「なるほど。親方様が簿記を重視なさる理由がやっと分りました。この蘭丸、まだまだ勉学が足りないようでございます」

「その通りじゃな、わっはっはっは。お蘭もコレジオで学ぶか。造船術や簿記以外にも学問は種々あるぞ」

「私は、語学などをたしなみとう存じます」

「そうか、それはよい。特に、ポルトガル語、スペイン語などには力を入れねばならぬ。それと、朝鮮語、中国語もだ」

「他には、茶の湯などの芸能もよろしゅうございましょうか」

「もちろんだ。千利休を師範にすればよかろう。陶芸は、古田織部がおるな。和歌や連歌なども教科に加えて、公家の生きる道とすればよい」

「それはようございます。私はそちらの方を習いたくなってまいりました」

「なんだ。スペイン語ではないのか。そんな調子では何をやっても長続きするまい」

「親方様、それはあんまりの物言いにございます」

「いや、悪かった。わっはっはっは」

 コレジオは、当初京都、兵庫、安土、堺、博多、長崎などの大都市に設立されたが、だんだんとその数を増し、ついには六十六州それぞれに最低一つは開校されるまでになった。

  さて、日本版コレジオの果たした役割は大きかったと言えるであろう。様々な技術を身に付けた日本人が巷に溢れ、この底知れぬエネルギーが、やがて日本を世界に向けて飛躍させる原動力となっていったからである。

(5)盆山とキリシタン

「いったいこの石は何でござるか?」

 年賀の挨拶に、初めて兵庫城を訪れた長曽我部元親が、傍らでひれ伏している高山右近の耳元でささやいた。

「ぼんさんでござる」

「ぼんさん?」

「左様」

「しかし、何故にお歴々がこぞって拝んでいるのでござるか?」

「言うまでもないこと。信長様の御威光でござろう」

 信長は、兵庫城を訪れた諸大名たちを自ら引き連れ、地下二階の宝塔の間から、地上七階にある天主の間までを一通り案内した。

そして、狩野永徳の襖絵・天井画や鉢阿弥一門の金細工などを鑑賞させた後、三階にある「ぼんさん」の大広間で皆に酒肴のもてなしをした。

 諸将は、次々に信長のもとに拝謁して、城の完成と新年の祝いを述べた後、「ぼんさん」を拝礼して自分の席に戻っていった。

 ところで、「ぼんさん」とはいったい何なのか?

 それは何の変哲もない小さな石、すなわち盆山なのだが、皆一様にその前に這いつくばり、額を畳にこすり付けた。

 いったいこれはどういうことなのか?

「そちはキリシタンであろう。ゼウス様以外に拝むものがあるとは・・・」

 元親が、素朴な疑問を高山右近に投げかけた。

「貴公の知ったことではござらぬ」

 右近は、吐き捨てるように言って、再び額を畳にこすりつけた。

 その様を見て、元親も一緒に頭を下げた。

 キリシタン大名の高山右近が、盆山を礼拝するのを目に留めた信長は、右近をお側近くに呼び寄せた。

「右近よ。近頃キリシタンもずいぶんと盛んになってきたな。いったいこの国では何人がゼウスを信じておるのだ」

「はは。信者の数は二十万人を越える勢いでございます。その七割以上は下(しも)と呼ばれる肥前の国におります。残りは豊後や京都でございます」

「下とは、島原半島のことだな」

「はい、ほかに西彼杵半島、大村、五島列島も含め、これらの地域を合わせて下と呼んでおります」

「このあたりの領主は、皆々がキリシタン大名であるな。大村純忠しかり、有馬晴信しかりだ。下ではないが、豊後の大友宗麟もそうだな」

「はい」

「キリシタンといっても、自ら進んでキリスト教に帰依する者ばかりではあるまい。中には、領主から無理やり信者にさせられる者たちも大勢いると聞いておるが」

「いえ、他の領主のことはいざ知らず、この高山右近はそのようなことは、決してしてはおりませぬ」

「ははは、もちろんわかっておる。右近が純粋な信仰心から帰依しておることはな。だが、そちは例外じゃ。大友や大村・有馬などは、ポルトガルとの交易の利のために、宣教師たちの歓心を買わねばならぬのであろう」

「はは」

「わしは、キリスト教宣教師たちを優遇はしておるが、奴らの教えに納得しているわけではないぞ」

「はは。恐れながら、人間は罪深き者、そして弱き者と存じます。右近もその一人にございます。ゼウス様にすがるほかに手立てはございませぬ」

「そのゼウスとやらの神も、一向宗のいう阿弥陀仏と変わるものではあるまい。ありもしない偶像にすがらねば生きていけぬ人間のなんと多いことか」

信長にしてみれば、宣教師の伝える福音などは何の意味も持たなかった。彼にとって興味があるのは、宣教師たちがもたらす様々な物品に現れた西欧文明の形だけであった。

「わしは、この世にいかなる神の存在も認めぬ。人は生き、そして死ぬ。ただそれだけだ。死んでしまえば神も仏もなかろう。ただ灰になり、また土に返るだけだ」

死後には何も無い、それが信長の宗教感であった。ただ、現世において利益(りやく)を施すものを神と呼ぶなら、それは自分をおいて他にないと思っていた。

 彼は、安土城に、そして先にも述べたように兵庫城においても、「ぼんさんの間」という広間を設けていた。

 「ぼんさん」とはただの石の塊である。だが、その石は、実は信長自身の象徴であった。

信長は、謁見に来た諸大名には必ずこれを拝ませていた。つまり、拝む対象は石でも木でも何でもよいのである。現世の民衆に幸せをもたらすのは、キリストでも阿弥陀でもない。それは信長自身であるということをこの「ぼんさん」は主張しているのだ。

 それだけに、今まで軍事力を持って信長に抵抗してきた宗教勢力に対しては、断固たる態度で臨んだ。

「右近よ。わしは日本の坊主が大嫌いだ」

「はあ」

「民衆をたぶらかし、これを収奪する。それで兵力を蓄えて武士に反抗する。比叡山の天台坊主しかり、伊勢長島や越前の一向門徒しかりだ」

「はあ。仰せのとおりでございます」

「わしは、あいつらを心底憎んでおる。これらの者どもに対しては、わしは皆殺しで臨んだ。そうすることが、多くの民衆を、現世の誤った観念から救うことができると信じたからだ。誰が何の教えを信じても構わない。しかし、徒党を組んで納税を拒んだり、さらに武力を持って領主に反抗したりすることは断じて許さぬ。その点ではキリスト教も同じであるぞ」

「はは、恐れ入ってございます」

「長崎の地を教会領にして、住民たちを支配しようとするなど、ポルトガル人め、とんでもない奴らだ。そのような不埒な動きは、素早くその芽を摘み取らねばならぬ」

「ごもっともにございます。高槻には、決してそのようなポルトガル人宣教師はおりませぬ」

「うむ。わかっておる。心配はいらぬ。一人一人の宣教師たちの布教活動を禁止することは考えておらぬ。それどころか、彼らの現世の欲望を放棄した、民衆への献身ぶりには、わしもいたく感心しておる」

「はは、それは有り難きお言葉」

「権力欲に走る日本の堕落坊主にはない、ひたむきささえ感じておる。宣教師たちの働きをわしは買っておるぞ。右近も奴らを大切にしてやれよ」

「はは、重ね重ねもったいないお言葉。右近めも親方様のご期待に沿えまするよう、身命を投げ打つ覚悟にございます」

 右近は、平伏したまま後ずさりし、自分の座に戻った。

  さて、信長の保護のもと、キリシタンの数はその後も増え続け、西は九州全域から長門・周防や四国の伊予に至るまで、また中央では京都を中心に五畿内や近江、美濃にまで拡大していった。

 いつしか、日本に滞在するイエズス会の宣教師たちの数も、常時五百人を越えるほどにまで増加していた。また、イエズス会のコレジオで教育を受けた日本人の宣教師も、わずかながらではあるが生まれてきていた。

 

(6)朱印船貿易

「本日の朱印状交付は締め切った。明日また出直すように」

 そう言って、兵庫の港奉行の役人が、陣屋の木戸を閉じようとした。

「そんな殺生な。まだ十人ほど並んで待っておりますがな。何とか受け付けて下さりませ。今日中に朱印状をいただきませんと、船が出せませぬ。わてら、これからシャムにまで行かななりません。よろしゅう頼みます、代官様」

 そう言って、賄賂の包みをこっそり渡した。他の商人たちも、争うようにして賄賂を渡すありさまである。

「それでは、本日だけの特別扱いだぞ。それから、これらの頂き物は信長様へお渡しするゆえ、そう心得よ」

 日本人商人たちのエネルギーにはすさまじいものがあった。彼らは、日本前の大型帆船を競って造り、ポルトガル人から得た航海術を駆使して南海の国々へと出かけていった。

 行き先は、ベトナム、ルソン、シャム、カンボジアなど、止まるところを知らなかった。一部の商人の中には、アラビア半島にまで足を伸ばす者さえもいた。

こうした日本前の船は、必ず信長の朱印状を携帯していたため、いつしか朱印船と呼ばれるようになっていた。

 日本の武力を背景にした朱印状を旗に掲げた朱印船は、遠く離れた海外でも安全に航海することができた。報復を恐れて、海賊たちも朱印船だけは襲わなかったのである。

「わしは、外国貿易をすべて直許制にしようと思っているが、どうかのう、蘭丸よ」

「朱印状を、海外に出かける全ての商人たちに強制するのでございますか」

「そうだ。そして商いの首尾は、簿記の原理に従ってきちんと記帳させる。そこで生じた利益の半分は必ずわしに納めさせる」

「商人たちが果して守りましょうや」

「守らせる」

「法度を厳しく定めまするか」

「もちろんだ。不正経理や二重帳簿は、死罪をも含む厳罰に処す」

「はは。ところで、逆に外国船が日本にやってきた時はいかが致しますか」

「そうだな。その場合も、日本側に必ずわしの定めた代理人を設けさせよう。これに経理事務一切を委ねさせる。どうだ」

「親方様は、ただ朱印状を発行するだけで、貿易の利の半分を手に入れることができるようになるのでございますね」

「そういうことだ」

信長は、この貿易管理システムの確立により、莫大な富を築き上げ、盤石の領国支配の体勢を敷くことができるようになった。

 一方、今まで自由に貿易を行い、ポルトガル船などの入港により多額の富を得ていた九州の諸大名や琉球王朝は、その利権を失って財政的に没落していった。

 それにしても、兵庫の港の賑わいは大したものであった。信長の朱印状を手に入れようと、日本全国の商人が兵庫に集まってきた。もともと堺や博多を根拠地にしていた商人たちも、そのまま店を兵庫に移住したり、あるいは移住しないまでも兵庫に支店を構えたりするものが多くなった。

 さて、こうして殷賑をきわめた朱印船貿易であるが、実際の輸出入品にはどのようなものがあったのであろうか。

まず輸入品であるが、多くは生糸・絹織物、陶磁器、鹿皮などであった。鹿皮は、日本の武士の必需品である鎧に使うためのものである。この他に珍しいものとして伽羅(から)と呼ばれる香木があった。

 日本では、この伽羅が大変珍重されていた。先年、そのことを物語る事件があった。聖武天皇の時代に中国より渡来し、東大寺正倉院御物として伝わる「蘭奢待」(らんじゃたい)と呼ばれる名香を、信長が朝廷に圧力をかけて切り取らせたのである。天下人としての威厳を世に示した出来事であったが、そのくらい伽羅の位置付けは高いものであった。

 伽羅は、東南アジアのごく限られた地域でしか採れなかったが、実はこの貴重な伽羅を手に入れることが、日本の海外進出の始まりであったと言っても過言ではない。

 それでは、次に輸出品の方であるが、これは純度の高い銀、やかん等の銅製品、螺鈿細工や漆器等の工芸品など、二次加工品が主なものであった。さらに、これらの他に変わったものとして金平糖があった。

 金平糖は、ポルトガルのコンフェイトス(菓子という意味)と言う言葉からも解るように、もとはポルトガルから来たものである。ところが、その色の艶やかさや角の生えたような変わった形から、日本でも大変に珍重されていた。ポルトガル人のルイス・フロイスも、信長へのみやげ品として、金平糖をガラス瓶に詰めてうやうやしく献上したほどである。

 金平糖は、その特徴的な形からして、型にはめて作るものと思われがちであるが、そうではない。砂糖の結晶を成長させて作るという、結構手間のかかる工程を要するものである。その製法は、当然のことながらポルトガル国内でも秘伝とされていた。

 そこで、日本でも金平糖の開発に挑戦しようとする商人がたくさん現れた。長崎の高田屋甚兵衛もその一人である。

彼は幾たびもの試行錯誤の末、ついにその製法を発見した。それは気の遠くなるような手間暇を必要とする方法であった。

 まずは、小さな核を釜に入れ、それに琉球特産の甘蔗からできた砂糖水をかける。それも一回や二回ではない。十二日間昼夜を問わず、かけては釜を回し、また砂糖水をかけては釜を回しという作業である。それによって砂糖の結晶が徐々に成長していくのだ。一時たりとも手を休めることのできない、非常にきつい労働を伴うものであった。

高田屋甚兵衛の作る金平糖は、ポルトガル製のものと違って非常に透明感があり、角の長さも長かった。そのため、本家のヨーロッパはもちろん、中国、東南アジア等全世界から注文が殺到した。

甚兵衛はこの金平糖の製法を門外不出としたため、日本の独占が維持され、日本の重要な輸出品の一つとなった。言うなれば、この金平糖は日本版伽羅であった。

 こうして、日本の朱印船は、中国沿岸や東南アジア海域を我が庭のように走り回り、ポルトガル船やスペイン船を圧倒していった。

 そのポルトガル人やスペイン人たちであるが、彼らは本国の品物を持ち込んで貿易を行うのではなく、日本、中国、東南アジアの間を中継する三角貿易で富を生み出そうとしていた。

つまり、彼らは、東アジアの地域内に閉じて活動することを専らとしていたのである。そのため、日本の朱印船は彼らにとって非常な脅威であった。

旺盛な購買力を有し、生糸、絹織物、鹿皮等を次々に買い占めていく日本の朱印船の前に、ポルトガルやスペインの貿易活動は、次第に衰退の道をたどっていくことになる。

 

(7)強大なるスペイン

 ポルトガルが、地球を東に向かってインドを目指したのに対し、スペインは西からインドを目指した。1492年にコロンブスが西回りで航海していると、偶然アメリカ大陸を”発見”した。(もともとアメリカに住んでいた原住民にしてみれば、それは発見されたのではなく、単なる“出会い”に過ぎない。)

 それ以後、スペイン人たちはこの新大陸に殺到し、その富を収奪していった。中南米に栄えていた、マヤ、アステカ、インカなどの高度に洗練された文明は、悪逆なスペイン人コルテスやピサロによって、無残にも滅されていった。

 スペイン人たちは、メキシコのアカプルコを基地として、さらに西を目指して太平洋横断の冒険をしきりに行った。そして1564年、ついにレガスピがフィリピンのセブ島に至り、そこに足掛りを築いた。

その後、1570年にはルソン島のマニラに上陸し、そこにスペインとしては東南アジアで初めての大規模な基地を設けた。

 このことは、当然の事ながら、当時このあたりを勢力下においていたブルネイ王国をいたく刺激した。ブルネイ王国は、北はマニラから、南は西部カリマンタンまでを支配下に置いていた。シャム、マラッカ、ジャワ、スマトラとも活発に交易を行い、勢いはなはだ盛んであった。

 ブルネイ王は、何度かマニラをスペイン人の手から取り戻そうと試みたが、スペイン側もマニラに要塞を築いてここを堅持した。1574年にブルネイは、マニラの原住民を裏から支援して反乱を起こさせたが、残念ながらスペイン側の手によって鎮圧されてしまった。

 こうして、スペインはマニラを守り通し、東南アジアにおける植民地経営の中心と位置付けていったのである。

 信長は、ポルトガルだけでなく、スペインからも目が離せないと思っていた。

「バリニャーノよ、スペインはどうして世界の半分を支配するだけの力を持つに至ったのだ?」

 信長は、兵庫城に宣教師一行を招き、会見をした。

「イエスキリスト様の御加護でございます」

 バリニャーノ一行が、平伏して答えた。

「らちもないことを申すな。わしは神の存在など信じてはおらぬ。どうやって銭を蓄え、武力を身に付けたかを聞いておる」

「はい。神のお導きにより、新大陸に銀を発見したのでございます」

「銀か、なるほど。それでそれはいかほどじゃ?」

「五百万両ほどかと」

 スペインは、十六世紀の後半から百年もの間、国勢の絶頂期を迎えた。それを支えたのが、新大陸からもたらされた大量の銀であった。1540年にメキシコとペルーにおいて、時を同じくして大変生産性の高い銀山が発見された。特にペルーのポトシ銀山は、以後百年に渡って世界最大の産出量を誇る銀山としてスペインに莫大な富をもたらした。

 新大陸で採れた銀は、初めのうちは大西洋を経てスペイン本国へ送られていたが、マニラに東洋貿易の基地が確立されると、その流れが変わった。中国の生糸・絹織物、陶磁器などを買い付けるための代価として、メキシコのアカプルコからはるばる太平洋を越えてマニラに運ばれることになったのである。

「五百万両だと。一つの鉱山でそれだけ大量の銀が取れるわけがない。法螺を吹いているのであろう」

「嘘ではございません。スペインは偉大な国でございます。日本とは製錬の技術が違います」

 と言いかけて、バリニャーノはしまったという顔をした。ついムキになって、トップシークレットを漏らしてしまったからである。

「精錬術とな。も少し詳しい話を聞かせてもらおうか」

「い、いえ。私どもは宣教師ゆえ、難しいことは存じませぬ」

 メキシコやペルーの銀山の産出量が突出していたのは、その原石が高い純度を有していたこともさることながら、さらにその精錬法が発達していたことにも理由があった。それは水銀アマルガム法といって、化学反応を利用して純度の高い銀を抽出するという、当時としては最先端の技術であった。

 当時の日本にも、生野、石見、佐渡、土肥などの有望な銀山があったが、そこで用いられる精錬の方法というのは、採掘した金銀を含む土砂を水路に流して、沈澱するものを拾い集めるという原始的なものであった。そのため、なかなか産出高が上がらなかった。

「左様か。それほど優れた精錬の技なら、是非ともスペインに教えを請いたいものだな」

 信長は、宣教師の話を聞いて、何としてもその技術を手に入れたいと思った。

何か方策はないかと思案していた信長のもとに、タイミング良く絶好の情報がもたらされた。マカオにいる島津義弘の家臣である原田孫七郎が、直接持ち込んだものだ。

「ルソンの日本人町が焼き討ちにあったよしにございます」

「なに、まことか。も少し詳しく話せ」

「はは。実は、三百人ほどの倭寇の集団が、ルソン島北部のカガヤン河口に砦を構えておりました。それが、フィリピン総督ペニアロサによって攻撃され、倭寇たちはルソンを追い出されてしまったのでございます」

「それは、いつのことだ」

「天正十年、すなわち本能寺の変のあった年でございます」

 信長は、この話を聞いて膝をたたいて喜んだ。

「そうか。少し古い話だが、口実にはなるな。これでスペインに戦を仕掛けられる。孫七郎よ、よい話を持ってきたな。誉めて取らすぞ」

 だが、信長の思惑通りに簡単に事は進まなかった。ポルトガル領マカオ攻略の時とは異なり、スペインとの戦いは壮絶なものとなった。

 

(8)女(おなご)大名

「ほほう、ここはなかなか良き眺めぞ。港が一望のもとではないか」

 信長は、淀城の天守に立って大きく背伸びをした。

「はい。淀の港は今日も賑わっておりまする」

 若い女がかしこまって答えた。

「ここは淀川水運の首根っこだ。押えをしっかり頼むぞ」

「はい。親方様には、私のようなおなごに、この大切なお城をお任せ下さり、かたじけなく存じ上げます」

「うむ。だが、これは高槻で助けてもらった礼ではないぞ。お前の力量を買ってのことだ。お前は奥に引っ込んでいるような女ではない。存分に力を振るってくれ」

 天正十一年(1583年)七月、日本国に女(おなご)大名が誕生した。場所は山城の国の淀城である。淀川の最上流に設けられた関所の徴税を司る要地であり、石高は一万三千石であった。

 城主は、通称「淀の方」あるいは「淀殿」と呼ばれており、年は三十二才の若さであった。

 信長は、この何年か側室を持ったことが無かった。愛する吉乃を失って以来、本当に心引かれる女性に出会うことが無かったのである。

 彼は、肉欲におぼれるということがなかった。したがって、本当に心から愛する者しか、お側に置かなかったのである。その意味で、淀殿は久しぶりに信長の寵愛を受けた女であった。

 淀殿というのは、もちろん摂津高槻の商家の娘、すなわち信長が本能寺の変の直後に負傷し、記憶を失った際に、二ヶ月ほど世話になった、あの「お藤」である。

 信長は、高山右近の高槻城で再起した際、すぐに自分の側室となってくれるよう成田屋に頼み込んだ。

お藤は最初固辞したが、度重なる信長の要望に、ついに承諾したのである。

 信長の愛を一身に受けたお藤は、翌年男子をもうけた。信長は、その子に「信政」という名前をさずけた。

 本来、信長の跡目は、長男の信忠が継ぐ予定であったが、彼は本能寺の変の際、二条城で明智光秀に攻められて世を去っている。

次男、三男、四男は、既にそれぞれ北畠家、神戸家、羽柴家に養子に出しており、現在は実質的な後継者が空白のままだったのである。

 そんな時に男子をさずかったので、信長の喜びようもひとしおであった。正規の跡取りとして、是非とも大切に育てられなければならなかった。

 さて、この時には、既に鳥羽伏見の戦いで明智光秀を倒し、畿内も完全に平定済みであった。そこで、なかなか気苦労の多い安土城にいるよりも、むしろ少し離れた所にいた方がよいということで、母子ともに京都にほど近い淀の城に居を構えさせることにしたのである。

 お藤は、もともと商家の娘であり、非常なしっかり者であった。外回りの多い父親に代わって、店の中の切り盛り、帳簿付け、果ては丁稚達の教育と小気味よく仕事をこなしていた。

二ヶ月間の療養の間、信長もそんなお藤を見ていたから、一城を任せる気になったのである。

 女(おなご)大名というのは珍しいが、過去にまったく例が無かったわけではない。伊予の河野氏でも一時期そういうことがあったし、身近なところでは信長の伯母が美濃の岩村城主になっていた。

もっとも、後者の場合は、伯母が武田方に寝返って、武田の一武将である秋山信友の妻となったため、武田氏が滅亡した際に、秋山信友ともども処刑されている。

「この城の住み心地はいかがじゃ」

「はい、何の申し分もございません。お付きの者たちも、皆よく働いてくれまする」

「そうか、それはなにより。ところで、そうそう、信政はいかが致しておる」

「はい。先ほどたっぷり乳を飲みましたので、ぐっすりと寝ておりまする。隣の部屋におりますので、今連れて参ります」

「いや、よい。わしが出向こう」

 そう言うが早いか、欄干から立ち上がり、スタスタと歩いていってしまった。

「ほほう、お前の親父殿にそっくりじゃのう」

「いえいえ、親方様似と皆が申します」

「そうか、わっはっはっは。大事に育てよ。わしの亡き後を見てもらわねばならぬからな」

「はい。心得ておりまする」

「さてさて、こいつに何を残してやることができるかの」

 信長は、そう言って西の空を見上げた。

 さて、信政は、その後順調に成長し、十六才に至って元服の儀を迎えることができた。多くの兄たちをしりぞけて信長の跡取りとなり、父の偉業を継いで日本に黄金時代をもたらすことになるのだが、この物語ではそこまではふれない。

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