桶狭間の戦いを推理する 久田巻三

 1.はじめに

  世に名高い桶狭間の戦い、織田信長にとって天下統一への第一歩となったこの戦を知らぬ者はいないであろう。小が大を倒したということで、日本人受けする小気味のよさも持っている。

 だが、この有名な戦いの真相は、現在に至っても謎に包まれたままである。正確な記録がないことや、現場がすでに当時の様子を全くとどめていないことなどが理由である。

 比較的信頼に足る記録としては、信長の家臣だった太田牛一による「信長公記」や、同じく家臣の前野家が残した「武功夜話」があるが、どちらも断片的であり、決定打にはならない。

 戦場の場所についても、桶狭間がどこなのか今もって特定されていない。伝承地というのがあって国の史跡に指定されているが、小さな公園のような場所であり、本当ですか?、というのが第一印象である。

 こうした謎を解くため、戦前に日本帝国陸軍参謀が、この戦いの研究をしている。今日、多くの人が桶狭間の戦いについて理解している事柄は、この陸軍参謀の結論に影響されているところが大だと思われる。そこで、以下に簡単に紹介しておこう。

 上洛を目指す今川義元は、駿河、遠江、三河の兵四万五千(@)という大軍を率いて尾張に侵攻した。そして、たちまち織田方の諸城を攻め落とし、勝ちに驕っていた。

 そこで、桶狭間という谷間の窪地(A)で兵に昼食を取らせていたところ、雷雨に紛れて背後の山に回った織田信長の奇襲(B)を受けた。

 馬にも乗れず輿でしか移動できない暗愚(C)な今川義元は、大軍を擁しながらわずか二千(@)の織田軍に討ち取られてしまった。

 以上が、帝国陸軍参謀の示した戦いの推移の概要である。世間に認識されている桶狭間の戦いとはこのようなものではないだろうか。

 しかし、どうも私には納得できないことが多い。信長が桶狭間の戦いに勝ったのは事実であるが、その要因については、結果論からモノを言っているような気がしてならない。特に上記の( )付の数字部分は私が感じている大いなる疑問である。すなわち、以下の四つの疑問である。

 @四万五千対二千の兵力差は本当か?

 A桶狭間は谷間だったのか?

 B信長は奇襲をかけたのか?

 C今川義元は暗愚な武将だったのか?

 いずれも信長が義元に勝ったのだから、きっとこうだったんだろうというような結果論から導き出されているような気がするのだが、どうだろうか?

 そこで、以下これらの疑問を検証しながら、桶狭間の戦いの真相に迫ってみたいと思う。まずは、戦いの空間と時間を整理しておこう。

2.位置関係

  正確な位置関係は、別の地図を見てもらうこととして、便宜的に簡単な模式図を以下に示す。

 (北西←← →→南東)

13km 7km 1.5km 2.5km 4km
清洲 −−−−−−−−−− 熱田 −−−−−− 善照寺 −− 中島 −−− 桶狭間 −−−− 沓掛城
    |
    |2km
大高城 丸根 鷲津

 織田信長の出発地点の清洲城から主戦場の桶狭間まで二十四km、小走りで時速六kmとして所要四時間である。

 戦いの起こった大高、丸根、鷲津、善照寺、中島、桶狭間は大変狭い範囲にひしめき合っていることが分かる。尾張と三河の国境であり、相当の緊張関係にあったと言ってよい。

 今川義元の当日の出発地点である沓掛城と桶狭間とはわずか4kmしか離れていない。おそらく一時間もかからないであろう。わざわざ桶狭間で”休憩”する必要があったのであろうか?

 この疑問は後の章に譲るとして、次は時間の経過について見てみよう。

 

※ 桶狭間図と桶狭間合戦の図について

 先に、桶狭間の場所を中島砦の南東2.5kmと示したが、実は桶狭間の戦いが行われた場所については、はっきりとしていない。

 手掛かりとしては、江戸時代になって描かれた二種類の図がある。桶狭間図と桶狭間合戦の図であるが、どちらも名古屋市の蓬左文庫で手に入る。徳川美術館に隣接した古文書の図書館であるが、受付に申し込めば、原図のマイクロ写真をコピーしてもらえる。

 どちらの図も、桶狭間の場所は、現在国の史跡に指定されている伝承地に比定していた。逆に言えば、両図を元に史跡の場所が決められたということなのだろう。

 両図には周辺の中島砦、大高城、丸根鷲津の両砦、沓掛城なども配置されており、見ていて飽きない。いにしえの歴史ドラマに暫し時を忘れるのも悪くないだろう。

3.時間的経過

  正確な時間の経過を記録した日記のようなものは、当然のことながら存在しない。しかし、全く手掛かりがないわけでもない。「信長公記」がそれである。これは、信長のお側近くに仕えていた和泉守太田牛一が、江戸時代に入ってから、記憶を整理して書き残したものである。

 和泉守は、その序の中で、”事実でないことは一言の追加もしていない。また、事実であれば一言も差し引いてない”と断言している。彼は信長の右筆(記録専門将校)ではない。だから信長の業績を飾る必要もない。彼は、過去に信長から表彰されたこともあるくらいの弓の達人である。あくまでも武をもって仕えているのであるから、あえて嘘を書く必要がないのである。従って、歴史資料としての信憑性はかなり高いと言える。

 では以下、「信長公記」の中で時間が分かる記述を拾い出してみよう。

 なお、月日は旧暦である、また、時間も原文は十二支による表記であるが、ここでは現代の十二進法の時刻に予め変換しておく。

 ●前夜(一五六〇年五月十八日)

・夕刻 丸根砦の佐久間大学、鷲津砦の織田玄蕃から、今川勢総攻撃の気配ありとの注進しきり。
・夕食後 信長は諸将と世間話をしただけで解散。

●当日(同    五月十九日)

・夜明け方に 丸根、鷲津両城へ今川勢が取り掛かったと、おいおい注進あり。
(この後、敦盛を舞い、出陣。熱田神宮まで一気駈け。)
・午前八時頃 源大夫殿の宮(上知我麻神社)から東方を見ると、丸根鷲津方面に黒煙が上がっていた。この時信長に従う者は、六騎+雑兵二百名のみ。
(この後、丹下砦を経由し、佐久間大学在陣の善照時砦に移動。そこで軍勢を揃える。)
・正午 桶狭間山に陣を据えた今川義元が謡を三番うたった。
(この頃、信長の家来である佐々勝通と千秋四郎の三百が今川勢に突っかけたところ、たちまち五十騎が討ち死に。義元はこれを見て謡をうたった。)
(この後、信長は中島砦に移動。この時総勢二千人弱。)
(さらに、中島から先に軍兵を出す。)
(山際まで軍兵を寄せたところで、突然の雷雨のため、戦い中断。)
・午後二時頃 雨が上がり、再開。今川勢、算を乱して退散。
(義元の旗本三百が五十に減る。信長も下馬し、戦う。味方の死者負傷者無数。)
(義元を討ち取る)
(尾張国河内郡の服部左京助が義元を支援して、大高城下の川口まで舟二十艘を乗り入れたが、格別の働き無し。帰途に熱田を襲ったが、町衆に撃退された。)
・日のあるうちに 清洲に凱旋。

 時間が分かるのは、これだけである。

 では、この情報と前章の位置関係、距離を手掛かりにして、もう少し時間の経過を補ってみよう。

 まず清洲出陣の時刻について考えてみることにしよう。熱田神宮の少し南にある上知我麻神社に八時にいたということは、熱田神宮を八時少し前に出発していることになる。戦勝祈願の時間を考慮すると、熱田到着は七時半頃となる。清洲と熱田間は十三kmだから、小走りで約二時間かかる。(もちろん信長は馬に乗っているから一時間もかからなかったであろうが、以下、時間の算定は歩兵をベースに考えることとする)

 ということは、清洲出陣は五時半頃となる。この季節の日の出は四時半頃である。おそらく信長方、今川方双方とも、日の出とともに行動を起こしているだろう。信長は、夜が明けるやすぐに出陣の法螺貝を吹くとともに、岩倉城、勝幡城等尾張領内で清洲より北や西にある諸城に対して、伝令を発したに違いない。

 一方、今川方もやはり日の出とともに、徳川家康などの先鋒隊が、丸根、鷲津の両砦攻略に向け、沓掛城を出陣したことは間違いない。

 この情報は、織田方の細作によって直ちに清洲へ送られたであろう。沓掛と清洲間は二十数kmなので、馬を飛ばせば、約一時間ほどで第一報が信長の耳に入る。その時間は五時半、すなわち信長出陣の時刻と一致する。

 では、次に信長本隊と義元本隊の開戦の時刻の検討に移ろう。「信長公記」によれば、信長は善照寺砦を拠点にして、軍勢を揃えたとある。熱田と善照寺は七kmなので、一時間強の行程、熱田を八時に出たとすれば、途中丹下砦に立ち寄ったとしても、十時前には善照寺砦に到着しているはずである。

 信長は、ここにしばらくとどまって情報を収集していたが、千秋ら三百が討ち死にしたのを見て、中島砦に移動している。この時の時刻が「信長公記」ではあいまいであるが、義元が謡いをうたった正午の前後と思われる。善照寺と中島は二kmも離れていないので、十二時半には中島に着いていることになる。

 義元本隊が旗本三百に激減していたのが、午後二時であるので、開戦はその前ということになる。中島から桶狭間まで三km弱として、一時過ぎには着いていると考えられる。その後、集中豪雨での中断があるので、おそらく午後一時半頃に両者が激突したのではないか。

 では終戦の時刻はどうだろうか。義元を討ち取った時刻が明記されていないが、日のあるうちに清洲に凱旋したということから逆算できそうだ。二十四kmの行程は約四時間かかるが、日没が午後七時頃であるので、戦場を引き上げたのは午後三時頃ということになる。ということは、義元の最期はその少し前、午後二時半頃である。一時半に開戦し、わずか一時間という実に短時間で勝敗が決したことになる。

 以上が、桶狭間の戦いの時間的経過である。

 では、いよいよ序章で述べた四つの疑問について、以下考察を加えてみよう。

4.今川義元は暗愚か?

 桶狭間という窪地で昼食を取っていたところを信長に急襲されて、輿に乗ってしか移動できない今川義元は、四万五千の大軍を擁しながらも、わずか二千の織田軍に討ち取られてしまった、というのが世間に認識されている桶狭間の戦いの概要である。

 しかし、義元は東海一の弓取りと言われ、駿河、遠江、三河、さらに尾張の東部及び西部の一部を支配下に収めていた。戦国大名今川家は、彼の時代に最大版図を迎えたのだ。貴族趣味の軟弱人間と言うよりも、むしろ戦国の乱世を生き抜いてきた極めて有能な武将と言えるのではないのか?

 彼は若い頃、京都に”留学”して、五山の僧から中国流の兵法を学んでいた。

 今回の尾張侵攻に際しても、彼は入念な前工作を行っている。それはすなわち、甲相駿三国同盟である。甲斐、相模、駿河の地は、それぞれ強力な戦国大名が君臨しており、隙あらば領土を拡張しようと互いに機会を窺っていた。例えば、義元が西上すると泥棒猫のように相模の北条氏政が駿河に攻め込む。それではたまらないということで、姻戚関係にある甲斐の武田信玄に頼んで、牽制のために出兵してもらう、といった具合である。

 こうした緊張状態に対して、三者がついに戦略的和解を選択した。義元の軍師である太原雪斎が仲介して盟約を成立させたのである。

 北条にとっても、安房の里見氏はじめ関東の諸豪族の経略に専念できるし、また信玄も宿敵上杉謙信との激突を控えているということで、それぞれの利害が一致したのである。こうして今川義元は後顧の憂い無く上洛できることになった。

 だが彼は、織田を攻めるにもいきなり軍兵を出したりはしない。まず、調略によって織田方の武将を次々に寝返らせている。その最大のものは鳴海城の山口左馬助父子の調略である。

 尾張八郡のうち、最も東で三河と接している知多郡の一部は、戦う前から今川方のものとなっていたのだ。(もっとも信長も負けてはいない。左馬助の筆跡を一年がかりで家来にマスターさせ、ニセの手紙をわざと今川方の手に渡るように仕組んで、山口父子を切腹に追い込んでいる。桶狭間決戦の二年前のことであり、その時からすでに戦いは始まっていたのだ。)

 さらに義元は、伊勢湾をはさんで尾張の西の端、海西郡にも触手を伸ばしている。この地域を支配していた服部左京大夫なる坊主を手なづけて、今川方になびかせているのだ。

 尾張の東と西の両側から信長を挟み撃ちにする体制を整えてからの西上である。まさに王者の戦いぶりそのものであり、とても暗愚な武将とは言えない。桶狭間の戦いに敗れたという結果論からものを言ってはいけないのだ。

5.桶狭間は谷間か?

  次に第二の疑問点に移ろう。まずは地形であるが、決戦の場所は、尾張と三河の国境、正確に言うと三河から尾張に入ってすぐの所である。国境というからには、そこには国と国を区切る自然の仕切り、例えば大きな川とか高い山脈とかがあるのが常である。尾張と三河の場合は小高い丘陵がこれに当たる。三河湾に突き出した知多半島の背骨の続きが内陸にまで延びて、濃尾平野と三河平野を仕切っている。

 従って、桶狭間一帯はちょっとした山々が重なりあった自然の隘路と言っていい。大軍の移動には極めて不便な場所である。それは、義元が当日出発した沓掛城の名前からも見て取れる。沓掛とは、文字どおり靴を掛ける、すなわち険しい峠道を登ってきて一休みするところという意味である。

 そんなことは百も承知の智将今川義元が、戦の最中にわざわざ谷間に陣を敷くであろうか?

 桶狭間という言葉の響きからはどうも谷間というイメージがあるが、はたしてどうであろうか。

 信長公記には、義元は「桶狭間山」に陣取ったと書いてある。あくまでも”山”である。義元は当然のことながら高所に陣取って采配を振るったと考えた方がよいのではなかろうか。

6.四万五千対二千は本当か?

  義元は高所に陣取って、万全の備えをしていた。

 では、二千の小勢がなぜ四万五千の大軍に勝つことができたのであろうか?

 そもそも、この数字は信頼できるのであろうか。今川方に比べ、織田方があまりにも少ない気がするのだがどうだろうか。

 そこで、まずは数字の検証をしてみよう。

 今川方の兵力として、「信長公記」には四万五千という数字が二回出てくる。また、「武功夜話」には、総数十万だが、甲斐相模への備えを差し引いて実勢は五万とある。

 だが、誰かが兵の数を客観的に勘定したわけではない。今川方が勝手に情報を流しているのを、織田方が記録に残しているに過ぎない。当然、情報を出す側のWILLが入った数字である。従って、これをそのまま事実として採用することはできない。ここはもう少し客観的な根拠に基づいて両者の兵力を検討してみよう。すなわち、支配領地の石高、つまり経済力から動員可能な兵力を算出するのである。

 決戦当時ではないが、すぐ後の豊臣秀吉の時代に行われた太閤検地の石高が分かっている。尾張五十七万石、駿河十五万石、遠江二十五万石、三河二十九万石である。尾張は大国であり、普通の国の二〜三ヶ国分に匹敵するのが分かるであろう。

 信長は、尾張の国をほぼ統一はしていたものの、一部歯抜け部分がある。まず、尾張八郡のうち丹羽郡は、叔父織田信清が犬山城に拠って全域を支配しており、信長には従っていない。

 また、西の海西郡の蟹江城も、今川水軍の後ろ盾を得た服部左京助友定が支配していた。桶狭間の戦いの際に、舟二十艘を率いて大高城下に参戦したということが、「信長公記」に出ているので、まずは間違いないだろう。二十艘ということは、せいぜい数百人の動員規模であるので、服部が海西郡全域を支配していたとは考えられない。それでも半郡ぐらいは義元西上前に今川方に属していたのではないだろうか。

 さらに、東の境の知多郡は、要の鳴海、大高の両城が今川方に寝返っていた。ただ、知多半島側はまだ織田方に属していたから、知多半郡は生きていて信長方に付いていると考えてもよいだろう。

 以上のことをまとめてみると、尾張一国のうち丹羽一郡、海西半郡、知多半郡は信長の支配下に無かったことになる。そこで、大雑把な計算だが、尾張八郡五十七万石を八分の六倍すると、信長の支配地は四十三万石という計算になる。

 一万石当たりで動員可能な兵力は一般的に二百五十人と言われている。三百人は可能という人もいるが、留守部隊も少しは必要なので、無理のないところで二百五十人としたい。(という無責任な言い方であるが、私自身確たる裏付けのある数字を持ち合わせていないので、ここではこれを用いることとする。)

 43×250=10750

 すなわち信長軍の総兵力は一万人強ということになる。

 では一方の今川方はどうであろう。義元は駿河、遠江、三河三国を完全支配している他、前述したように尾張のうち海西半郡、知多半郡の合わせて尾張の八分の一を押さえている。

 従って、今川義元の領地は、次の計算式により七十六万石となる。

 15+25+29+57/8=76

 これは、織田信長の四十三万石に対して、二倍弱に過ぎない。動員可能兵力は、先ほどと同じ前提で計算すると、一万九千人である。

 76×250=19000

 両者には倍の差もないのに、ではなぜ兵力が四万五千対二千ということになるのか?

 もちろん、少ない兵力で勝ったということを誇張したいという織田側のWILLもあるだろう。だが、もう一つ留意しなければならない点がある。それは兵站要員の計算である。軍兵といっても、その全てが直接の戦闘要員というわけではない。大ざっぱに言って、大体半分は非戦闘員として後方の任務にたずさわっていると考えてよい。(ちょっと大胆すぎるかもしれないが、そんなに無理はないと思う。)

 兵站要員の任務とはすなわち、食糧や武器の輸送、食事の賄い、道路や橋の補強、部隊の移動の計画作成、金の計算、情報の連絡等々である。これは、現代の「企業」という戦闘組織でも同じことが言える。総務や経理などの間接部門や広告宣伝などの販売促進部門に半分ほどの人を割いており、残りの半分の要員で直接のプロフィットを上げている。

 さて話を元に戻そう。信長方としては、清洲城から戦場まで二十kmしかないので、兵糧の輸送や食事の準備の必要性がない。兵二千というのは兵站部隊を含まない正味の戦闘兵力と考えてよい。

 一方の今川方は、はるばる駿府からやってきているので、当然非戦闘員も大勢連れてきていると見るべきである。四万五千は兵站要員も含めた数字であり、織田方と同じに論ずることはできない。

 もっとも四万五千という数字自体疑問なのだが。あまりにも多すぎると感じる。経済力から考えると、やはり先ほどの計算のとおり、二万弱というのが妥当な線だろう。

 では次に、それぞれの兵の内訳について考えてみよう。

 まずは比較的誤差が少ないと思われる織田方の兵力についてである。経済力から計算して、総兵力約一万、正味の戦闘兵五千であるが、その配置状況は以下のとおりと推定する。

●信長方の兵力

丸根守備隊 四百(ほぼ全滅)
鷲津守備隊 六百(ほぼ全滅)
陽動隊(佐々、千秋) 三百(全滅)
善照寺/中島の押さえ 千七百(ほぼ全滅)
本隊 二千

  これで合計五千である。

 まず、丸根、鷲津であるが、合わせて一千に満たないということが、「武功夜話」に書かれてあるので、まず間違いないであろう。四百、六百の人数比については、丸根より鷲津の方が砦の規模が少し大きいので、こう推定した。

 佐々、千秋のおとりの三百と、信長本隊の二千は、「信長公記」にあるので、そのまま採用しよう。

 後の残り千七百は、善照寺砦と中島砦に籠もって、背後の敵を防ぐ盾になったと考えた。信長が全軍を率いて桶狭間に向かったとは考えにくい。そんなことをすれば、丸根、鷲津を占拠していた今川軍から丸見えである。さらに鳴海城、大高城の大軍にも背後を突かれ、挟み撃ちにされてしまう。

 「武功夜話」には、戦場に遅参した佐々衆、柏井衆の動きが詳細に記されている。彼らは、急いで信長の後を追って鳴海から中島に向かったのだが、”駿河勢満々たれば為す術(すべ)を知らず”といった状態であり、多くの郎党が討ち死にした。信長の本隊が義元を討ち果たす間に、中島、善照寺の部隊は全滅に近い犠牲を払わされたと思われる。

 信長軍五千という数字の根拠がもう一つある。「大久保本三河物語」に出てくる次のような記述である。今川陣中にいた石川六左右衛門という歴戦のつわものが、攻め寄せてくる織田方の軍勢の目利きを宿老たちに求められて、”うちわに見ても五千は下らない”と答えている。”五千もいるものか”とあざ笑う重臣たちに答えて、六左右衛門は次のように反論している。

「下から上の軍勢を見る時は、兵数を過大に見積り易い。逆に上から下を見る時は過小になりがちである。」

 さすが歴戦の雄だけあって、実体験に基づいた見積りであり、信頼してもよいのではないだろうか。

 では一方、今川方の兵力の配置はどうであろう。ここでは「信長公記」の四万五千ではなく、石高から割り出した一万九千を用いる。これはもちろん兵站部隊をも含んでいる数字である。

 まず、義元は動員可能兵力を全部引き連れてきたかどうかであるが、甲斐の武田、相模の北条との盟約がなり、後顧の憂いが無くなったので、おそらく最大可能な軍勢を仕立てたと見てよいだろう。

 それでは、次に今川方の兵力の配置を考えよう。

●今川方の兵力

鳴海城守備隊(岡部元信) 三千
大高城守備隊(鵜殿長照) 二千
丸根砦攻略隊(松平元康) 一千
鷲津砦攻略隊(朝比奈康朝) 二千
沓掛城守備隊(浅井政敏) 千五百
清洲先遣隊  (葛山信貞) 四千五百
義元本隊(義元、三浦義就) 五千

 これで合計一万九千である。

 まず鳴海城であるが、ここは織田領内深く入り込んだ今川方の橋頭堡である。合戦前には八百人しかいなかったが、決戦直前に今川方の援兵が入って大いに増強されている。

 このことは大高城も同様であり、前々日に松平元康(後の徳川家康)が兵糧を運び入れて兵力も増強されていた。

 丸根と鷲津の攻撃隊はこんなものであろう。沓掛城に千五百も残したかどうかであるが、織田方の水野氏の動きを牽制するためと、駿河本国との情報連絡の必要性から、備えを万全にしたと考えられる。

 問題は、葛山隊の所在である。今川家家臣団の中でもトップクラスの位置付けにある葛山氏の当日の動きがはっきりしない。ここでは、丸根、鷲津落城後、清洲城に向けて東海道を攻め上る先遣隊として配置した。

 義元は、信長が城を捨てて討って出てくるとは思っていなかっただろう。尾張内の城を順番に陥としていき、最後に清洲城に籠もる信長をじっくり攻めればよいと考えていたに違いない。義元本隊に最大兵力として五千を残すとしても、先遣隊には最も有力な武将を当てただろう。

 では、いよいよ双方の兵力がどのように相対して勝敗に係わったのかを見てみよう。

 まず、中島界隈であるが、今川方の鳴海在番、大高在番、丸根攻略、鷲津攻略、清洲先遣の計一万二千五百に対し、織田方の丸根、鷲津、善照寺、中島の守備隊三千(正味の戦闘兵)が盾となって信長の桶狭間への前進を助けた。先ほどの「武功夜話」にあるように、織田方はほとんど全滅したに違いない。

 さて、次はいよいよ本隊決戦に移ろう。信長の本隊二千(正味の戦闘兵)が、義元の本隊五千(兵站部隊含む)と決戦に及んだ。輜重隊や工兵を除いた今川方の正味の戦闘要員の数は二千五百といったところか。「信長公記」でも、味方(織田方)の死傷者数知れずと書いていることから、両者の兵力はほぼ拮抗していたものと考えられる。

 ただ、今川方では兵站部隊が算を乱して逃げ去ったので、戦闘要員の中でもこれにつられて逃亡する者が続出したのであろう。「信長公記」にあるとおり、義元を守る兵はあっという間に三百に減ってしまった。さらに四回、五回と返し合って戦ううちに五十にまで減り、そしてついに義元討ち死にに至る。

 以上が、この戦いにおける双方の兵力の動きである。

7.奇襲だったのか?

  ではいよいよ最後の疑問点の検証に移ろう。

 帝国陸軍参謀が、三十年前に桶狭間の戦いの研究をしている。それによると、信長の勝利は、突然の豪雨に紛れて今川軍の目に付かないように義元本陣に近づき、奇襲をかけたことによってもたらされたという。すなわち、正面から戦いを挑まずに、山道を迂回し、太子ヶ根という背後の山に回った後、一気に山を駆け下りて義元の本陣を突いたという解釈である。逆に言えば、義元の敗因は、偵察兵、警戒兵を出さなかったことにあるというものだ。

 しかし、この説はどうも納得しがたい。結果論から導き出している気がしてならない。小兵が大軍を破ったのなら奇襲に違いないと。それと、日本のような小国が欧米列強を倒すには、奇襲がもてはやされたという時代背景も感じられる。

 まず、いきなり山道を迂回できるであろうか。道を切り開きながらの行軍となれば、迅速な移動は望むべくもなく、奇襲どころではない。かといって、事前に道を整備しておいたというようなことは全く考えられない。義元の当日の行動など予測できなかったであろうし、仮にできたとしても敵の支配圏の中で土木工事を行うことは不可能だっただろう。

 義元が偵察兵、警戒兵を出さなかったということも考えられない。幼少の頃より中国の兵法書を勉強していた義元が、戦術の初歩を怠るはずがない。そのことは、文献にも示されている。

  「武功夜話」の中で、次のような記述がある。蜂須賀小六が敵の気分を緩ませようと、義元の進軍路に酒と料理を用意して待ちかまえていたが、今川方の先触れ十数騎がやってきて、”退散、退散”と取り払われてしまった。休憩工作が失敗しそうになり、”今川衆用心深きことかな”と蜂須賀党の面々が色を失ったとある。

 やはり、「信長公記」にあるように、信長は正面から主力決戦を挑んで勝利したと考えたほうがよいのではないか。

 義元は、たまたま桶狭間山で”休息”したのではなく、初めからそこに本陣を据えるつもりだったのだ。家康らが丸根、鷲津の攻撃を開始する時には、当然戦況を見下ろせる桶狭間山の頂上に陣していたはずである。なぜなら、将兵たちも親方様が見ているからこそ、手柄を立てようとして必死に頑張るからである。

 義元は高地に陣取ったのであり、信長は乾坤一擲、大部分の兵力を敵の本陣に集中させ、正面から打ち破ったのである。

 では、信長は、たまたま偶然に義元と正面決戦をするチャンスに恵まれただけのであろうか?

 いや、そうではない。

 信長はこの日の決戦のために入念な準備、つまりシナリオを作成していたのではないか?

 まず、事前の情報収集には万全を期していた。「武功夜話」によれば、信長は細作飛人、すなわちスパイというか情報工作要員を五十人も沓掛城周辺にばらまいていたということだ。蜂須賀小六や前野将右衛門といった川並衆たちがこれである。さらに決戦直前には、義元の進軍経路である海道沿いには十八人を配置していたという具体的記述もあり、「武功夜話」の記録はかなりリアルである。(もっとも「武功夜話」自体の真偽については既に結論が出ているようですが)

 シナリオが出来上がっていたということは、決戦前夜の清洲での作戦会議の様子からもうかがえる。信長は、居並ぶ武将たちの前で世間話だけしてそのまま家に帰している。そして、夜半になってやおら起き上がり、敦盛を一差し舞ってから突然単騎駆け出して戦場に向かったとされている。

 その行動は場当たり的な印象を受けるが、そうではなく、練りに練った計画が出来上がっていたので、後は天運に任せるだけという心境だったのではないか。諸将の前で作戦を明らかにしなかったのは、万が一つにも情報が今川方に漏れるのを警戒したのだろう。信長は、最初から野戦で決着をつけるつもりだったのだ。

 兵力の配置についても全く無駄がない。尾三国境に砦を築いて、そこに集中的に配備し、後は清洲まで全く繋ぎ城を置かなかった。途中に大きな河川もないし、国境が破られれば、尾張の東半分は今川方の蹂躙するがままである。清洲までは一瀉千里であり、そうなったらアウトということは明らかだ。初めから、国境で勝負をつける腹だったのだ。

 兵の役割配分にも緻密な計算があった。国境に事前に配置した部隊は始めからすべて見捨てるつもりだったのだ。無理に助けようとして援軍を出すようなことをしたら、今川方も本気で備えをしてかかってくることだろう。そうなれば、人数に劣る織田方には勝機はなかったに違いない。少ない手駒で相手に勝つには、それなりの戦い方をしなければならないのだ。将棋で言えば、敵の王様を詰ますための捨て駒のようなものである。

 そのことを裏付ける証拠が一つある。それは、信長の熱田出発後の奇妙な行動である。まっすぐ東南の善照寺方面に向かわないで、一旦南下して上知我麻神社に寄り道している。戦勝祈願はすでに熱田神宮で済ましている。もう神社に用はないはずである。

 このことは、丸根、鷲津の両砦が意外に持ちこたえていたので、わざと時間を遅らせていたことの証左ではなかろうか。丸根、鷲津に着いてしまったら、いやでも助けなければならない。でないと、部下を見殺しにしたとされてしまう。信長の計画上、何としても陥落後に到着して、間一髪間に合わなかったという形にしなければならない。

 上知我麻神社は、熱田神宮の境内にある末社なので、たまたま通り道だったということかもしれないが、私にはどうも信長が熱田で時間調整をしていたような気がしてならない。

 「信長公記」によると、当初鷲津砦の守備隊長だった佐久間信盛が、信長が駈けつけた時には善照寺砦の守将に移っている。信盛にだけは信長の作戦が知らされていた可能性がある。午前八時頃上がった黒煙も、敵による攻撃によるものというよりも、むしろ信盛から上知我麻神社にいる信長への合図だったのではないだろうか?

 さらに信長は、戦場での実戦心理もよく捉えていたと言える。それは、丸根砦四百、鷲津砦六百の守備兵の数、および善照寺での遊撃隊というか囮(おとり)三百の数字に表れている。相手にして見れば、これだけ攻めたのだからまずは名分が立つというギリギリ最低の人数である。これより下回ると、もう一働きせねばならないと敵が考え、信長本隊に攻めかかってくる恐れがある。だが、鳴海、中島界隈に充満していた今川軍は、織田の本隊を襲うことはなかった。

 この他に、信長は自然をも味方に付けていた。といっても突然の集中豪雨のことではない。こればっかりは信長でも事前に予想はできなかっただろう。信長にとって予知できたのは、潮の干満である。「信長公記」にも、信長が大高城の攻防の際に潮の干満を気にかけていたという記述がある。

 信長の戦術は、一言でいえば、敵の先鋒隊や主力の中軍がうまく働かないように持っていき、最後尾にいる義元の本隊に自分の主力勢力を当てるということである。丸根、鷲津、善照寺、中島の諸砦の兵の犠牲はそのためである。従って、自分の主力が義元本隊に当たる前に、敵の先鋒にぶつかってしまったならば全ては水の泡である。

 だが、これも読んでいた。今川方の先鋒の葛山隊四千五百は、丸根、鷲津攻略後に、ただちに清洲へ向かって先発したことだろう。大量の荷駄を運ばなければならないので、当然メインルートの東海道を進んだのは間違いない。ところが、鳴海から熱田へ向かう途中で今川軍の進軍の足が止まった。今は埋め立てが進んでいて当時の面影はないが、このあたりは干満の差が激しいところである。ちょうど満潮の時間に当たり、大軍の葛山隊は一列縦隊で進まざるを得なくなったのだ。

 本来織田方の本軍と当たるはずだった敵の先鋒隊がもたもたしているうちに、信長は初めから山沿いの道を通って、あっという間に前線の善照寺砦に入ってしまったというわけである。

8.真相

  四つの疑問が全て明白になった今、すなわち、

@暗愚ではなく、智将の今川義元が、

A谷間ではなく、山の上に陣取って、

B奇襲ではなく、正面から挑んできた信長に対して、

C四万五千対二千とはいかないまでも、二倍近くの兵力を有しながら、

なぜ敗れ去ったのであろうか?

 理由は二つある。一つは、義元本隊のパニック、もう一つは義元の兵力分散である。

 豪雨が織田方から今川方に向かって吹きつけたことは、「信長公記」の記載のとおりである。織田の兵士たちは、皆、”熱田神宮の神戦(かみいくさ)か”と言って非常に勇気付けられたという。

 逆に今川方は心理的に劣勢になった。大木が自分達の方に向かって倒れてきたことなどもあって、群集心理が働いたのであろう。兵站部隊の逃散が止まらなくなった。これにつられて、正規の戦闘兵たちも算を乱して逃げまどう有様である。忠誠心の高い馬廻り衆三百のみが義元を囲んで踏み止まったが、結局力及ばなかった。

  「大久保本三河物語」では、桶狭間山での長評定を今川方の敗因として挙げている。誰を大高城の鵜殿長照と交代させるかについて、結論がなかなか出せなかったというのだ。結局は、松平元康(徳川家康)に命じているのだが、そのために長く桶狭間山に留まることになった。

 もしかしたら、当初は大高城の守将交代の予定は無かったのではなかろうか? 

 あれば初めから決めておいたはずである。兵糧攻めで参っていた鵜殿は、かなりのストレスを受けていたに違いない。もしかしたら病気だったのかもしれない。大高城を解放して初めて分かったことだったので、急遽交代人事をせざるを得なくなり、人選に時間がかかったというわけだ。

 今川の合議制対信長の独断即決の違いと言ってもいいかもしれない。今川方に軍師の太原雪斎がいた頃は、彼がリーダシップを発揮して皆が納得のいく決定を行ったが、五年前に雪斎が世を去ってからというもの、それぞれの有力武将たちが一つにまとまるということが難しくなってしまっていたのだ。

 そんなことからやっと交代人事の結論が出て、軍勢を退かせるという判断をした矢先に、織田軍が攻めてきた。そこで我れ先にと退いたので、群集心理で散り散りになってしまったのだろう。タイミングも悪かったのである。

 義元敗北のもう一つの理由としては、今川方の兵力の分散配置の問題も大きい。鳴海城、清洲先鋒隊、大高城の部隊一万余が主力決戦に参加しなかったのは、今川方にとって実に痛かった。全滅した部隊がある一方で、無傷で駿河に帰っている武将もたくさんいる。

 鵜殿長照に代わって大高城に入った家康も動いていない。早暁からの戦で疲れていたこともあっただろうが、それ以前の問題として、義元の危機がまったく伝わってこなかった。家康に見えていたのは、目前の中島界隈での味方の大勝利である。

 以上、長々と愚説を繰り広げてきたが、真相が闇の中なのをいいことに、好き勝手に空想した次第である。別稿の「桶狭間紀行」を書いているうちに、自分なりの結論を出しておきたいという念にかられたということで、どうか御容赦いただきたい。

                                      以上

P.S. 桶狭間合戦に御興味のございます方は、「桶狭間紀行」([中部北陸]に入っております)も御覧下さい。

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