第八章 唐御陣(からごじん)

(1)止められぬ成長

「利休よ。この日本の国の力をいかに見る」

 信長は、狭い茶室で茶筅をかき混ぜている利休に尋ねた。

「未曾有の強国になりましたな」

 信長が天下を統一して、世の中に平和がもたらされると、日本国内の諸産業は著しい発展を遂げることとなった。

「そうさな。米がよう取れるようになった」

 信長は、茶を飲み干しながらつぶやいた。

「戦国の初めの頃と比べて、三倍には増えておりますな」

この時代に至って、米の生産高は大幅に増加していた。

「潅漑が進んだからな」

「はい。それから、逆に水を抜く技もございますわ。沼地が、みな田に変わりました」

 潅漑とは、すなわち水を引いて土地をうるおすことであるが、この技術の導入により、いままでかえりみられなかった荒れ地が立派な田畑となった。

また、一方の排水技術であるが、こちらは逆に沼地や湿地から水を抜く技術である。これらの技術の進歩により、耕地面積は五割も増加したのである。

「いま一つは、蝦夷を得たことが大きいな」

「はい。魚肥のおかげでございますな」

「うむ。収量が倍になった」

潅漑排水技術が量の拡大をもたらしたのに対し、魚肥の使用の方は質の増大を実現した。蝦夷や千島などの北方領土を獲得したことにより、大量の漁業資源が肥料となって内地に流れ込んだ。

この肥料の使用により、単位面積当りの生産高は飛躍的に増大した。中でも鯡(にしん)から取れる魚肥は、収穫高を倍増させるほどの威力があり、金肥とも呼ばれていた。

このような農業の急速な発展は、必然的に大きな社会的変化をもたらした。それは農民たちが皆豊かになり、余裕ができたことで、農業に従事しないでも済む大量の余剰人員を生み出したことである。

 これらの人間たちの多くは、商工業に乗り出すことになり、今度は商工業の方の発展に拍車がかかった。

「農民だけではございませんぞ。我ら商人も大いに活気づいておりますがな」

「おう。交易は、富を産む。自らは何も作らぬのにな。面白いものよ」

 信長は、利休に器を返しながら、ニヤッと微笑んだ。 

 中でも東南アジア貿易は、日本が一手に握っていたこともあって、大変な活況を呈していた。そのため、海外から豊富な物資が流入し、国内流通もそれにつれて活発になっていった。

「今、この国で一番稼いでいる商人は、どこのどいつだ。利休、お前のところか」

「いえいえ、とんでもございません。やはり、兵庫の日向屋さんでっしゃろ。シャムから硝石を持ってきて大儲けですわ」

「ほう、どのくらい貯め込んでおる」

「はあ、おそらく年に三十万貫は下りませんやろ」

「なに。三十万貫というと、石高に直してだいたい八十万石ではないか。近江一国よりも多いのか。これはたまげた」

当時、日本における最大の石高を有する国は近江であった。その石高は七十七万石である。ということは、一商人が、日本のどの国主をも凌駕するほどの財を成していたことになる。

 商工業の発展は、日本の産業構造に大きな変化をもたらした。というのも、この時商工業のあげる総生産高(すなわち今日言うところのGNP)は、二千万石を越えていたのである。当時の農業のGNPは二千万石弱であるから、既に商工業のGNPの方が農業のそれを上回っていたことになる。それまで日本経済はずっと農業中心、米中心であったが、ついに商工業が逆転し、表舞台に出ることとなったのである。

 さて、こうして日本経済が飛躍的に拡大すると、その成長を阻害するような困った問題も生じてきた。

「利休よ。このまま日本の国は伸び続けていけると思うか」

「はあ。何か御心配事がございますか」

「うむ」

「貨幣が足りませぬ。そういうことでっしゃろか」

「ははは、さすがだな。わしも同じことを危惧しておる」

当時市中で流通していた貨幣は、主に室町時代に中国から輸入した銅銭であった。しかし、量が絶対的に不足していたため、粗悪な私鋳銭も中国銭に混じって一緒に流通していた。

「撰銭は止まりませぬか」

「ああ、わしも何度か撰銭禁止令を出したが、効なしじゃ。すぐに撤回した」

撰銭令とは、文字不鮮明な悪銭を選び嫌うことを禁止し、良銭と同じように扱うことを命じた通達である。ところが、人々の悪銭を忌み嫌う傾向はまったく変わらなかった。

室町将軍の時代からの度重なる撰銭令にもかかわらず、悪銭は良銭と同じようには扱われなかった。悪銭は悪銭なりに良銭より低く値付けされ、市場価格で流通していたのである。

「この命令はもともと無理だで。質の良いものには高い値が、悪きものには安い値が付くのは当然の事じゃ」

 信長をもってしても、経済の法則すなわち市場原理には楯突くことができなかったわけである。

「明銭に頼っている限り、どうにもなりませぬな。いかがでしょう、ここは一つ・・・」

そう言いながら、利休は二杯目の茶を信長に差し出した。

「わしに貨幣を鋳れ、と申すか。ふふふ・・・」

日本経済が中国の通貨体制に依存している限り、絶対的な貨幣不足を解消することはできない。高度経済成長を続ける日本経済を支えるには、もはや日本独自の新しい統一貨幣を鋳造する以外に方法は無かった。

現在のアジアの基軸通貨である中国銭に、日本の新通貨が取って代わろうというのが、利休の提案である。

「幸いにも、この国には優良な鉱山が多数ございます。佐渡金山や石見銀山はもちろん、但馬の生野銅山や伊豆の土肥金山など、どこも大量の金銀銅を産出しております」

「それにスペイン人から新しい製錬の術も手に入れたしな」

この頃さらに、マニラのスペイン人から水銀アマルガム法という新しい製錬技術を入手し、産金に拍車がかかっていた。当時日本は世界最大の金銀生産国といっても良かったのである。

「よし、分った。いよいよ始めるとするか」

 信長は、この豊富な金銀を元に統一貨幣を制定した。世に言う安康通宝である。金と銀は一両の小判と十両の大判が作られ、銅銭も大量に鋳造された。

当然のことながら金銀銭の間の交換比率も定められた。金は十両で銭十五貫匁、銀は十両で銭二貫匁である。

  さて、統一通貨の制定で貿易・流通は一層盛んとなり、日本人は皆豊かになった。そうすると民衆はさらに贅沢品への需要を高めていくことになる。特に幻想的な美を有する朝鮮の白磁・青磁などの陶磁器や、眼も鮮やかな中国の絹織物は、日本人の購買意欲を大いにそそった。

 だが、困ったことに、この時朝鮮政府や中国政府は、自由な貿易をまったく認めていなかった。朝鮮国王は、日本との貿易窓口を三浦(さんぽ)、すなわち釜山浦、塩浦、乃而浦の三つの港に限定していたし、また明国皇帝も朝貢貿易しか認めていなかった。

 朝貢貿易とはすなわち、近隣諸国が貢ぎ物を持ってくれば、その見返りとして品物を下賜するという制度である。中国人は、中国は世界の中心であるという中華思想を持っており、近隣の蛮国との間で、自由で対等な交易など思いもしないことであった。

 朝貢貿易では、取り扱う品物の種類や数量にも限りがあり、とても日本人の旺盛な購買意欲を満たすことはできなかった。当然のなりゆきとして、密貿易が横行し、これを取り締まろうとする明の役人との衝突が絶えなかった。

 このような背景から、日本の商人たちは、中国との自由貿易を渇望するようになっていた。

 もっとも、中国開国への圧力は商人たちからだけではなかった。武士もまた働き場所を求めていたのである。信長によって日本の天下統一がなると、武士は活躍の場を失い、エネルギーを持て余していた。

 日本人は皆豊かになり、上昇志向を持ち始めていた。農民、商人であろうと、また武士であろうと、皆さらなる成長を望んだ。こうした日本国民のバイタリティーはすさまじく、そのエネルギーを全て国内だけで消費させることはもはや不可能と言ってよかった。

 信長としてもこのような空気は十分すぎるほど分っており、朝鮮や中国への軍事的働きかけは、もはや時間の問題となっていたのである。

 

(2)朝鮮出陣

「宗湛よ。近頃の朝鮮の状況はどうじゃ」

信長は、博多一の豪商神谷宗湛を兵庫城に招いた。

「はあ。日本の貿易商人たちは、こぞって朝鮮沿岸に押し寄せております」

「左様か。しかし、朝鮮国王は対外貿易を禁止しておるのではないのか」

「はい。鎖国を建前としておりますが、取り締まる力はございませぬ。沿岸の小島などでは堂々と密貿易が行われております」

「ふむ、そうか」

「朝鮮南端の巨済島などは、日本人商人らの基地となっております。と申しますより、もはや日本人の支配する島と化しております」

「巨済島と言えば、朝鮮で最も大きい島ではないか」

「はい。このようなことは巨済島にとどまりません。朝鮮の南岸や西岸に浮かぶ多くの島も似たり寄ったりの状況でございます」

「島だけか。朝鮮本土はどうなっておる」

「これも時間の問題かと存じまする。質に取った農民の土地を、日本の商人たちは次々と手に入れております」

「そうか。宗湛よ、引き続き朝鮮からは目を離さぬようにな」

「はい。承知いたしました」

 宗湛の予想通り、やがて朝鮮本土の沿岸部の土地も、日本の商業資本の蚕食するがままになっていった。

 もともとは自給自足の生活を送っていた朝鮮農民たちであったが、商品経済の波が訪れるとその奔流に巻き込まれ、徐々に贅沢を覚えるようになっていった。彼らが、自分の土地を担保にして、日本人商人から借金をするようになるまでに、それほどの時間はかからなかった。

 朝鮮は、それほど豊かな土地柄ではない。ついに借金を返せなくなった農民たちが、次々と土地を手放すようになるのは自然の成り行きであった。そのため、朝鮮沿岸部では日本人商人の領地となるところが続出した。

 はじめは自営農だった朝鮮農民も、日本人領主の小作人に転落し、朝鮮政府と日本人領主の双方に年貢を納めなければならなくなった。

 しかし、彼らにはそれだけの余力はない。やがて日本人領主への地代の納入が滞るようになっていった。もちろん、日本人領主は無頼の徒を使って厳しい取り立てを行うようになる。

 こうした農民たちの困窮を、時の朝鮮政府はどうすることもできなかった。それどころか、朝鮮の政治家や官僚たちは東人と西人に分かれて派閥抗争に明け暮れる毎日であった。とても下々の事などに構っていられるような状態ではなかったのである。

 土地を失い、日々の生活にも困窮した農民たちは、ちまたに溢れるほどであったが、やがて彼らは各地で団結し、日本人商人排斥の運動を展開するようになっていった。

 こうした動きに危機感をつのらせた商人たちは、当然の事ながら信長に救いの手を求めることになる。

「朝鮮各地では一揆、打ち壊しが頻発し、我らの蔵が襲われておりまする。どうかお助け下さりませ」

 兵庫港出入りの商人組合の幹部連が、信長の元に陳情に訪れた。

「お前たちも相当貯め込んでおるのではないのか。いったい朝鮮における日本の領地はいかほどあるのじゃ」

「農地はさほど多くはござりませぬが、沿岸や島々の津々浦々には、交易で用いる金銀銭米が数十万石は蓄えられております」

「朝鮮の法では盗みは罪に当たらぬのか?」

「とんでもございません。重罪でございますが、お役人はまったく見て見ぬ振りでございます。何とか取り戻してくださりませ」

「そうか、わかった。考えておこう」

 信長は、商人たちを帰した後、京都五山の名僧天海を呼び出した。

「朝鮮国の乱れは存じておろうな。これを懲らしめようと思うがどうじゃ」

「はは。朝鮮を片づけるのはたやすいと存じますが、朝鮮を攻めれば、その宗主国たる明国が、必ずや出張って参りましょう」

 天海が、旨そうに茶を飲み干して答えた。

「ならば、明も討てばよい。天海どうじゃ。いくら中国が大国と言っても、漢民族が敗れたことは今までにもあるだろう」

 信長は、知っていてわざと尋ねた。

「はい。近くは蒙古が中国全土、いや、はるか西のペルシャまで征服しております。また、古くは契丹族などが王朝を中国にうち立てた例がございます」

「大和民族はどうじゃ」

「残念ながら。天智天皇の昔、朝鮮の百済と組んで、唐と新羅を攻めたことがございますが、海の戦で日本は敗れております。白村江の戦いと申します」

「日本が中国を破ったことはないのか」

「はい、恐れながら」

「わしはこれから朝鮮と明国を討とうと思う。儒仏の国を滅してバチは当たらぬかな」

「戦には大義名分が必要でございます」

「わしは、日本の国を統一して、この世に極楽浄土をもたらしたと思っておる。民の暮らしは安定し、皆豊かになった。しかるに、かの国の人民は長年の悪政に苦しめられておる。わしは、天下布武を唐天竺にまで広げたいのだ」

 この十年来、信長は明国攻略の筋書きを練りに練ってきた。また、その実現のための準備も十分に整えてきた。諸大名に命じた巨大軍船一千隻の建造も既に終えた。弱体だった日本の海軍も、南海大遠征により経験を積み重ね、ついには世界最強と言われたオランダの海軍をも打ち破るほどの実力を備えるようになっていた。

 また、シャムを押えたことで大量の硝石を手に入れることができるようになり、今や弾薬の備蓄は十分すぎるほどであった。貿易や国内の商工業の発達で軍資金も数千万両に至り、いつでも大規模な戦争を始めることが可能な状態であった。

  あとはきっかけを求めるだけなのだが、そんな折りに朝鮮で日本人に対する反乱が起きたのである。信長にとってこれ以上の好都合は無かった。朝鮮を攻めれば、その宗主国である明国が必ず朝鮮救援のために出兵してくる。その機を捉えて一気に明を攻め滅ぼすのである。

 もちろん長期戦は不利である。あくまでも総力をあげて短期決戦を目指し、明国を制する算段であった。既にそのための作戦も出来上がっていた。あとはいつ実行に移すかだけであったが、ついにその時がやってきたのである。

 天海を帰した後、信長は森蘭之丞と将棋を楽しんだ。うららかな春の日差しは、信長に束の間の休息を与えた。

「お蘭、お前の将棋はいつも同じだな。一方的に攻めるばかりじゃ。わしの玉は早逃げしてつかまらんだろう」

「はあ。しかし、相手の駒をたくさん取って攻めている時は、気持ちが良うございます」

「将棋は相手の玉を詰めれば勝ちじゃ。一方からだけ押しても駄目だで。左右から挟み打ちにするのだ」

「はい、戦と同じ要領でございますな」

「そうだ。わかっておるではないか」

「もちろん、実戦ではこのようなヘマは致しませぬ」

「ははは。ではそろそろ本物の大戦さを始めるとするかのう。まずは、城造りからじゃ」

 安康八年(1597年)四月、信長は徳川家康に命令を発し、肥前の国名護屋の地に大規模な城を築かせることにした。大陸侵攻のための前進基地である。

城は新たに作るのではなく、石垣山城のものを移築させることにした。石垣山城は小田原北条氏を攻めるために、今から十年ほど前、小田原のすぐ南の高台に構築したものである。今はその役目を果たし終え、廃城となっていた。

 家康は、石垣山城の石垣や遺構を分解し、次々と早川の港から肥前の呼子の港へ回送した。名護屋城は当時の日本のどの城をも凌駕するほどの巨城であったが、家康の昼夜を厭わぬ努力により、なんと三ヶ月後にはすべて完成してしまった。

「よし、陣触れじゃ。全国の兵を名護屋へ集めよ」

 準備万端整えた信長は、いよいよ朝鮮・明国攻略作戦を開始した。

彼はまず、東山道、東海道、北陸道、関東道、東北道の五道の兵三十万に動員をかけ、船五百隻とともに名護屋に集結させた。そして自らも安康九年(1997年)三月、名護屋に赴いた。

「これより海を渡る。総大将は信雄じゃ。勝家と長可には先鋒を命ずる。東海と関東の兵は第二陣として準備を怠るな」

 信長は、彼の次男であり東北道主でもある織田信雄を総大将に任じ、一気に朝鮮を平定することとした。

まず第一陣として、柴田勝家率いる北陸道五万と森長可率いる東山道五万の合わせて十万が、朝鮮南端の釜山に上陸した。

 この時、釜山城にはわずか千人足らずの兵しか詰めていなかった。日本軍は一ひねりのもとにこれを降ろし、さらに三里北方の東莱(とくねぎ)城に向かった。

東莱城は、朝鮮軍が日本軍を食い止めるための最大の防衛地点と定めていた城であり、二万もの戦士が集結していた。

 だが、勢いに乗る日本軍は、第二陣の東海道、関東道の兵十五万をも加え、これを包囲した。

「井楼(せいろう)を組み上げよ。大砲を載せて一気に放て」

 勝家の号令のもと、足軽どもが、竹で頑丈にしつらえた無数の井楼を城の回りに林立させた。

 圧倒的な火力にものを言わせ、城内に向けて大砲や鉄砲を連射する。その隙に、別の工兵部隊が角の石垣最下部の根石に、鉄で編んだ綱を引っかけた。

「そーれ、そーれ。息を合わせて引きに引け」

 数千人が縄を握り、一気に根石を引き抜いた。と、上に載っていた石垣が雪崩を打って崩れ落ちた。

「オー」

 日本軍から大歓声が上がった。

「埋め草を堀に投げ入れよ。その上に石を撒け」

 柴田勝家と森長可の軍勢が、お互いに一番乗りを目指して、崩れた一角からどっと攻め入った。東莱城には朝鮮国中から精兵が集められていたが、城壁が崩れてからは急に浮き足立ってしまった。逃亡する者が続出し、立て直すことはできなかった。激闘三日にして、城は落ちた。

頼みとしていた東莱城の余りにもあっけない落城に、各地の朝鮮軍はパニックになってしまった。朝鮮の都である京城(現在のソウル)に至る道筋に並ぶ諸城は、ことごとく打ち捨てられ、兵士は、皆、都を目指して遁走していった。

日本軍は、東莱城攻略以来ほとんど抵抗らしい抵抗も受けず、釜山上陸後わずか二ヶ月で京城近くの漢江南岸にまで迫ることができた。

「よいか、かねてのお達しのように、放火、略奪、暴行は厳禁だ。一銭でも盗んだ者は斬る。女は遊女を金で買え」

 勝家は、進軍の先々で高札を立てて、治安の維持を図った。ハングル語で書かれた高札には、朝鮮領民の生命の保証並びに年貢の引き下げがうたわれていた。

 当初は、山奥に隠れて様子を見ていた農民たちも、安全なことを知って自分たちの土地に戻るようになっていった。もっとも、食料が尽きて、出て来ざるを得なくなったという事情もあろうが。

「朝鮮の監司や兵使どもは一早く逃亡してしまったようだな。腰抜けどもめが。よほど我らが怖いらしい」

勝家は、京城の手前で合流した森長可に対面し、得意げに話しかけた。

「いや。我ら日本軍を恐れたと言うよりも、圧政を恨んだ民衆に捕らえられて日本軍に引き渡されるのを恐れたのであろう」

「わははは。そうかもしれん」

「実際に咸鏡道の観察使は、我らが到着する前に土豪によって惨殺されておった。この地では、朝鮮国王の王子二人が逃亡した道筋まで、進んでわしに知らせようとするありさまじゃ」

「ほう、それで王子は捕らえたのか」

「無論だ」

「それは上々。ところで、長可殿、朝鮮水軍が対馬に現れたことはご存知か」

「いや。知らぬ。北の方を総なめにしておったのでな。船戦でござるか」

「いかにも。亀甲に棘が生えたような奇怪な船が、我らの退路を断とうとしたそうな」

 陸戦で圧倒された朝鮮軍は、何とか海戦で突破口を開こうとした。将軍李舜臣が、日本の補給路を断とうとして、亀甲船部隊を率いて対馬海峡に出没してきた。亀甲船とは、矢弾を防ぐための丸い亀の形の鉄甲をかぶった、朝鮮の誇る戦艦である。

「それで勝敗やいかに」

「もちろん退けた。こちらも鉄甲船だからな。だが、だいぶ被害を蒙ったようだ」

李舜臣は、震天雷と呼ばれる爆弾を日本船に浴びせて善戦はしたものの、鉄張りの日本の軍船に大きなダメージを与えることはできなかった。

そのうちに都が危うくなったことから、李舜臣の亀甲船隊も対馬海峡からその姿を消していった。

「勝家殿、今のところ、兵站は大事なかろうな。あまり一気呵成に攻め込むと、糧食に難儀致すこともままあることだでな」

「心配は無用じゃ。兵站線はしっかりと固めておる。釜山から京城までまっすぐに向かう道と、東側の慶州を回る道の二つを確保してある」

「それは準備がいい。兵站が行き詰まると、兵士たちの略奪が起こり、そのためにますます民衆の抵抗を生むからな」

 日本軍は、万全の体制で京城攻略の準備を着々と進めていた。

 一方、朝鮮国王宣祖は、明国の救援を仰ぐために矢のような催促を繰り返していた。

だが、明国皇帝万歴帝の腰は重かった。

日本軍の進撃が余りにも早いため、日本と朝鮮は、実は裏で手を結んでいて、一緒になって明に攻め込むという筋書きができているのではないかと疑ったためである。

「明の援軍は、来る気配がござらぬな。勝家殿、朝鮮軍に降伏を勧めまするか」

 森長可は、柴田勝家に相談した。

が、その時、都の朝鮮軍は最後の運命を賭して、二万の兵でもって日本軍に攻撃を仕掛けてきた。

「勝負をかけてきたな。我らの第二陣が到着してからでは、手も足も出ないと見たのであろう」

 柴田勝家が腕まくりをした。

「敵の主力は、北部六鎮に置かれた女真族向けの精兵でござる。勝家殿、御油断召されるな」

「おう。そちもな」

だが、勝負はあっという間についた。最強の朝鮮軍も、数が一桁違う日本の大軍に敵するはずもなかった。

さらに双方の武器の出来にも大差があった。朝鮮の大砲は粗悪でしばしば自爆した。また、鉄砲も命中精度が悪く、日本のものとは雲泥の差であった。さらに、鍛え抜かれた日本刀の切れ味も朝鮮兵を戦慄せしめた。

 朝鮮軍は散り散りとなり、日本軍はこれを追って漢江を渡った。京城に向かう逃亡兵がわざわざ浅瀬を教えてくれたようなもので、大軍が一時に渡り終えることができた。

 頼みとしていた近衛兵も破れ去り、もはやこれまでとなった朝鮮国王宣祖は、仕方無しに明へ亡命することとした。

 都へ迫る日本軍に対して、主を失った朝鮮兵たちは、まったく戦意を喪失し、あっけなく降伏した。日本軍はほとんど無傷で京城を手中にすることができた。

 なおも日本に反抗する一部の朝鮮兵は、北朝鮮の平安城(現在の平壌=ピョンヤン)に籠って抵抗を続けたが、これらも柴田勝家の猛攻の前に全員討死を遂げた。

 こうしてわずか半年足らずで、日本は朝鮮を支配することに成功したのである。

釜山にいた信雄は、後からゆっくりと北上して京城に入った。

「長い平和に慣れきった朝鮮兵では、所詮、戦国乱世に揉まれてきた我が日本軍の敵ではなかったか。わっはっはっは」

 凡愚の総大将は、戦の指揮を全くすることなく、異国の都の主におさまった。

一方、柴田勝家と森長可は、釜山から京城を経て平安城に至るまでの道中に、十里毎に城を築いて補給路を確保するとともに、武器弾薬を補充して平安城の守りを固め、来るべき明軍の攻撃に備えた。

 

(3)閘(こう)

「遅い。明軍は、何ゆえ出張って参らぬのだ」

 柴田勝家は、森長可の他、第二陣として平安城に合流した池田恒興と徳川家康をも交えて、軍議を開いていた。

「ひょっとして朝鮮を見殺しにするつもりではござらぬか。明軍が来ないのであらば、ここに詰めていても仕方ありませぬな。いっそのこと、こちらから明に攻め入ってはいかがでござろう」

 池田恒興が口を開いた。

「いや、明国は中華の国。朝鮮の宗主国としての自負がございましょう。必ずや攻めて参ると存じまするが」

 徳川家康が反論した。

「しかし、日本軍が釜山に上陸してからもう一年近くになりまする。明国には、もはや朝鮮を助けるだけの力が残っておらぬのでは」

 森長可も不審の念を口にした。

「たしかに。わしも、北虜南倭の禍により、明国は衰弱しきっているやに聞いておる」

 柴田勝家も同調した。

北虜とはアルタン汗に代表される、塞外のモンゴル系民族による北方国境への侵入のことである。また、南倭とは南方における倭寇の騒乱に他ならない。明国は、長年にわたる北と南の戦役での出費により、極度の財政不足に陥っていた。

「いや、必ず攻めて参りましょう。大国の面子にかけても、東夷の日本を退治せずにはいられぬと存じまする。それに、今ここで動くと、徳王様の作戦に齟齬をきたす恐れも出て参りましょう」

 徳川家康が、厳しい口調で場の空気を制した。

「今しばらくここに留まり、様子を見ることと致そう」

 柴田勝家が、とりあえずの結論を下した。

 それから三日後のことである。ついに、明国の軍勢四十万が、朝鮮との国境を流れる鴨緑江を渡って北朝鮮に侵入してきた。

時の明国皇帝である万歴帝は、日本軍に占領された朝鮮を解放するため、中国全土から精兵を募り、一気に日本軍を朝鮮半島から駆逐しようと図ったのである。

 四十万と言えば、当時の明の財政力からして、ほぼ限界に近い動員であった。

「我が日本方の出城は、全て陥ちましてございます。城兵はこちらに向かって敗走中の由」

 物見からの報告に、平安城の中は急に慌しくなった。

「やはり来たか。ただちに戦の準備に入れ」

 柴田勝家の号令のもと、日本軍はすぐに臨戦体制に入った。

安康九年(1598年)四月、李如松を提督とする明国軍は、朝鮮に侵入するや、たちまちのうちに国境沿いに設けられた日本軍の出城を粉砕し、怒涛のごとく平安城に迫った。

「明軍の様子を話せ」

 柴田勝家ら日本の指揮官たちは、各地の出城の敗残兵を集めて、情報の収集整理に当たった。

「さすがに、明国軍は朝鮮軍と違って強うございます」

「うむ、そうか。それで、奴らの武器は何じゃ」

「はい。まず、大砲の威力がものすごく、城壁があっという間に壊されてしまいました」

「うむ」

「それから、明兵の矢には附子毒という猛毒が塗ってございます。これを受けると命を保つことができませぬ」

 敗兵たちが、次々に明の強さを勝家に訴えた。

「左様か。鉄砲はどうじゃ」

「鉄砲の数はあまり多くないようでございます。むしろ、偃月刀、眉尖刀、鎖鎌などが主な武器かと」

「うむ。あと、奴らの装備の方はどうじゃ」

「はい。甲胄は堅固でございます。しばしば鉄砲の玉を弾きまする」

「そうか。それから肝心の兵の志気はどうじゃ」

「はい。こちらが鉄砲隊で応戦しても、集団で向かってくるので、隊列が乱れませぬ。志気は高いと存じまする」

「よし。よく、分った。相手にとって不足はない。いざ勝負じゃ」

明軍の火砲は、仏郎機(フランキ)というオランダから輸入した攻城用大砲であった。その威力は絶大で、もっぱら城門の破壊に使われた。

しかし、武器や装備の充実もさることながら、明国兵が何よりも優れていたのは、軍紀が徹底していて取り乱すことがなかったことである。

 日本軍は平安城で明国軍を迎え討った。日本軍も二十万の大軍である。しかも二千門の大砲と六万挺の鉄砲で固めている。戦線は膠着状態となった。

こうした情勢は、わずか十日後には名護屋にいた信長の元へ届けられた。朝鮮の地でも継ぎ飛脚制度が十分に機能していたのである。

「よし、これでよい。では我らも参ろうか」

 朝鮮戦線からの戦況報告を受けた信長は、自ら総大将となり、西海道、山陽道、山陰道、南海道、畿内の五道二十万の大軍を率いて名護屋の港を出立した。

「まずは抗州に向かう。そこでルソン、マカオの南海軍十万と合流する。あとは明の都に向かって一気駆けじゃ」

 明国の都である北京は、もちろん内陸にある都市である。ところが、何とこれが船で行くことができるのである。と言うのも、その名も京抗大運河と呼ばれる長さ1800kmの運河が、北京と抗州を結んでいたからである。抗州は、現在は浙江省の省都であるが、当時も江南の中心都市であった。

 信長は、安康九年(1598年)六月、抗州湾に入り、七百隻の大船団で大運河を北京目指して北上した。

 五日後、大運河は揚子江にぶつかった。そこで信長は、十万の軍勢を割いて別働隊を組織した。

「丹羽長秀よ、かねての手筈通り、南京に向かってくれ。良いな、頼んだぞ」

 当時、南京は応天府と呼ばれ、首都北京に次ぐ大都市であった。信長は、南京の兵に背後を衝かれることを恐れ、南海道主である丹羽長秀に命じて、これを押えさせることにしたのである。

 長秀は本隊と別れ、揚子江を西にさかのぼった。そして南京郊外に到着するや、艦砲を台車に降ろして攻城戦に取り掛かった。

 この時、南京城には一万の守備兵しか残されていなかった。大部分の兵が朝鮮の役に徴用されていたためである。とは言っても、南京城は周囲約十キロメートルを堅固な城壁に囲まれた城塞都市である。その防御力は尋常ではなかった。

 だが、この時、可搬式の艦砲が威力を発揮した。

「北の城門に大砲を浴びせかけよ」

艦砲の集中砲火により、半刻後には城門に穴が開いた。日本軍はそこから大挙して侵入すると、あっという間に町を制圧してしまった。

「秀吉殿のマニラでの嘆息が、ここで活きたというわけだ。わっはっはっは」

 丹羽長秀は、あっけない勝利に、思わず高笑いをした。

 さて、一路北京目指して大運河を北上していた信長の本隊は、折からの南風に乗って順調に航海を続けていた。

「ほとんど抵抗らしい抵抗もございませぬな。親方様、この秀吉、腕が鳴ってしょうがありませぬ」

 やることの無い秀吉が、信長の元に御機嫌伺いに訪れた。

「明の兵は、皆逃げてしまったようだな」

この地の人民は、以前も倭寇にはさんざん悩まされていたが、それでも数千人規模であった。ところが今回は桁違いである。空前絶後の大艦隊を眼のあたりにして、中国の留守部隊が怖気付いてしまったのも無理はない。

 ところが、あまりの抵抗の無さに拍子抜けしていた艦隊に、突然の異常が襲った。見る間に運河の水位が低下し、立往生する船が続出したのである。

「どうしたのだ。川の水が急に無くなったぞ」

「わかりませぬ。すぐに調べさせまする」

 馬廻り衆がすぐに飛び出していった。しかし、あたりは一面泥田のようになっていて、物見の兵も予備の小舟に分乗して行くしかない。

 何とか二里ほど進むと、そこには関所が設けられていた。川の水を堰き止めるための水門である。

 京江大運河は、中国大陸の北と南を結ぶ長大な運河であり、途中にはかなりの高低差がある。従って、標高の高いところでは水が下方に流れ落ちてしまうために河床が浅くなり、船の航行に支障をきたすことになる。そこで、川をせき止めて水を溜め、船が通れるようにしているのである。

 もちろん、関の上と下とでは段差ができてしまう。前世紀までは、船にロープをつなぎ、斜面を人力や畜力で引き上げる方法が取られていたが、この時代になって画期的な仕掛けが発明されていた。

関を上流側と下流側に二ヶ所造り、地下に導水管を通す。そして交互に開け閉めすることにより二関間の水位を上下させ、高低差を調節するというサイフォンの原理を応用した仕組みである。

閘(こう)と呼ばれたこの関の出現により、水上交通が飛躍的に便利になり、物資の流通がはなはだ盛んになった。

 さて、物見の兵がこの閘にたどり着いたときには、二つの水門は完全に破壊された状態であった。

 報告を受けた信長は天を仰いだ。

「見事なからくりを考え出したものじゃ。さすがに中国人は手強いな。それで閘の修理に何日かかる?」

「は、一月ほどかと」

「馬鹿を申すな。こんなところで時を費やしていては獲物を取り逃がすぞ。十日でやれ」

「はは、かしこまってござります」

 信長は作事奉行をどやしながらも、早くも次の策を考えていた。この切り替えの早さが、信長の過去の危難を何度救ったかしれない。

「一気に都を陥とすという目論見が崩れたな。閘というものはこの先いくつあるか?」

「は、中国人商人の話ですと、十はあるということでございます」

 物見が答えた。

「そんなにあるのか。それらの閘がみな生きているという保証は無かろう。地方の軍が、閘を壊しながら北京に向かっているに違いない」

「いかがいたしましょうか?」

 傍らに付いていた羽柴秀吉が、小さな声で尋ねた。

 信長は地図を開いて、暫し沈思黙考した。

「ここは邵伯というところだな。北京まではまだ三百里はありそうだ。三分の一も進んでおらん。このまま運河を北上しても北京にたどり着けるかどうかわからんな。ここはいったん楚州まで戻って、そこから淮河を東へ下って海に出よう」

「はは。東岸沿いに北上して渤海湾に入りまするか?」

「そうだな。天津あたりに上陸するか。そこから北京までは二十里ほど歩かねばならんがな」

 信長は、ふーと溜め息をついた。

「だいぶ遠回りになりまするな。あと何日かかりますやら・・・」

 秀吉も、大きく溜め息をついた。

「なぜ初めからまっすぐ北京を目指さなかったのか、そちは不審に思っておるようだな」

「め、滅相もございません」

「秀吉、隠しても無駄だ。顔にちゃんと書いてある」

「はは、恐れ入ってございます」

 秀吉が平伏した。

「わざわざ江南まで行って、そこから運河を北上するのは確かに遠回りだ。信雄が、せっかく敵の主力を朝鮮表に引き付けたのだからな。手薄となった北京を一気に襲えば、大勝利は間違い無しだ。わしも初めはそうしようかとも考えた。だが、どうしても南京に寄りたかったのだ。是非とも欲しい人物が一人いる」

「欲しい人物・・・」

「そうだ。中国征服を遅らせてでも、絶対に手に入れておきたい人物だ」

「そのような人物がいるのでございますか?」

「ああ。まもなく丹羽長秀が連れて参るであろう」

 閘の修理が終ると、再び水位が上がってきた。もと来た水路を楚州まで戻ると、果して丹羽長秀が信長を出迎えた。

「運河の水門が壊されてしまったそうで。とんだ邪魔が入りましたな。でも戦はまだまだこれからでございますぞ。この長秀も、老骨にむち打って親方様にお供つかまつりまする」

「そうだな、頼むぞ。それで、南京の方の首尾はどうであった」

「はい。朝飯前でござりました。艦砲で城門の一つを破ると、敵は戦う気も失せたようで、簡単に攻め落としました。こちらは全くの無傷、腕がなまっておりまする」

「ははは、それはよかった。で、もう一つのお役目の方はいかがした」

「あ、そうでござりました。あちらの船に控えておりますれば、召し連れて参ります」

 長秀に連れられた一人の西欧人が、通訳と一緒に信長の面前でひざまずいた。

「マテオリッチでございます」

「信長である。よくぞおいで下さった。頭をお上げ下され。南京ではお怪我はござりませんでしたか?」

 この異国人に対して、信長の言葉使いは異常に丁寧であった。

「はい、丹羽様に良くしていただきましたので」

「それは上々。キリスト教の布教の方は順調にいっておりますかな?」

「はい、南京には信者もだいぶ増えてまいりました。応天府のお役人様にも目をかけていただき、わざわざ教会まで建ててもらいました」

「左様でござりますか。しかし、今日からはこの信長が力になりましょう。何なりとお申しつけ下されよ。望みは何でも叶えて差し上げよう」

「はあ・・・」

 異国人が、再び頭を深く下げた。

 信長は、さらに続けた。

「日本は学問が盛んでござるぞ。天文、地理、数学、何でも教えておる。中国人は、大地が球であることを信じておらぬと聞いたが、日本人にはそんな者は一人もおりませぬ。セミナリオも国内に百はござろう。何ならそれらを束ねる長になってもらってもよい。もちろん、キリスト教の布教も思いのままでござる」

「はは、ありがたきお言葉。しかし、私は南京の人々に大変お世話になりました。その恩を忘れて中国を離れるわけには参りません」

「そなたは、まだ時代がお分りになっておられないようじゃな。中国はまもなくわしのものになる。そうしたら南京のような狭い所から、一気に中国全土に布教が叶うのですぞ。是非この信長にご協力下され」

「はあ・・・」

「よろしい。それではこれから一緒に北京に参るがよかろう。そしてそなたの目で明朝の最期をしっかりと見ていただこう」

 さて、マテオリッチとは、いったい何者であろうか。

彼は、はるばる海を越えてやって来たイタリア人宣教師である。イエズス会員であるが、若い時にローマ学院に学び、数学、天文学などヨーロッパの先進的科学技術の知識を身に付けていた。

彼は、1582年、当時ポルトガル領だったマカオに到着したが、その翌年にはすぐに中国に入り、今は南京に居住していた。

 信長がマテオリッチに目を付けた最大の理由は、彼が初めての世界地図作成に取りかかっていたことにある。

 地球儀を作っては地球が丸いことを中国人に説明して歩いている宣教師がいるという情報を、マカオに出入りしている日本人商人が聞きつけていた。

信長がさらに探らせると、各国国境さらには河川や道路までをも記した詳細な世界地図をも作成中だという。「山海輿地全図」と名づけられたその世界地図を、信長は何としても手に入れたかったのである。

 当時彼が認識できた「世界」というのは、朝鮮、中国、東南アジアまでであった。インドから西方向、すなわち中東、ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカは全くの闇の中であった。そこで、どうしても地球一周分の情報が欲しかったのである。

 信長は、もう既に中国征服後の事を考えていたのだ。山海輿地全図を手にした信長は、ついに自らの”最終目標”の大きさをとらえた。

 

(4)信帝国成立

 約一ヶ月の航海の後、信長はすんなりと天津に上陸した。

「拍子抜けでございましたな。渤海湾に入る時には一戦あると覚悟しておりましたのに。明の水軍はいったいどこに行ってしまったのでございましょう」

 秀吉は、いつも信長の機嫌の良さそうな時を狙ってやってくる。

「船も残っておらぬのだろう。朝鮮表に回してしまってな」

「はあ、そうでございますな。それに、残っていた船隊も、我らの大船団の北上に恐れをなして逃げ去ってしまったのでございましょう。しかも南京があっさり陥落した後とあっては、明兵の志気も衰えましょう」

「まあ、そうだな。あとは最後の仕上げといくか」

 三十万の大軍は、さっそく都の包囲に取り掛かった。

仰天したのは、平安城の日本軍を攻撃していた明の提督李如松である。彼は、都の危急を聞いて、即座に兵を撤収し、北京へとって返した。

 だが、この時点ではもう既に手遅れであった。

 遼東を経て、北京に戻ろうとする明国主力軍は、万里の長城に差し掛かると、雨あられと鉄砲の弾が浴びせられることとなった。何と、既に万里の長城は日本軍の手に落ちていたのである。

 北京を囲んだ日本軍は、さらに山陰道主羽柴秀長が別道隊十万を組織し、長城を押えてしまっていたのである。

といってもは総延長一万キロメートルを越える長城の全てを押えることは不可能だ。北京の北の八達嶺に設けられた約五十キロメートルの長城について、全ての敵楼(武器・弾薬を貯蔵した見張り台)と堡(兵士の駐屯地)を完全に制圧したのだ。

「李如松も驚いておろうな。秀長もなかなかに素早い」

 信長は、筋書き通りの進行に、上機嫌で秀吉に話しかけた。

「はい。我が弟ながら実にあっぱれ。誉めてやってくださりませ、親方様」

「うむ。本当によくやった。しかし、中国の兵も、万里の長城が、まさか壁の内側から攻められるとは思いもしなかったであろうな」

明の長城守備隊に秀長軍が迫ると、彼らは堡を捨てて長城の壁の中に籠るよりほかはなかった。だいたい百mおきに敵楼という見張り台が設置されているが、そこにはせいぜい二〜三十人しか入れない。

 日本軍が簡単に各個撃破していくと、長城防衛隊は少しでも高い敵楼を目指して算を乱して逃げていった。嶺の頂上に設けられた楼には入りきれないほどの兵士が押し寄せ、互いに味方同士を殺し合う有様であった。

こうした状況にあっては、日本軍が長城を制圧するのに苦労はいらない。明軍の武装解除までわずか半月しかかからなかった。

 万里の長城に行く手を阻まれ、背後にも日本軍の追撃を受けた李如松の軍は、完全に進退に窮してしまった。まったくの挟み打ちの状態である。北方異民族を悩ませ続けてきた長城に、まさか逆に自国の兵が追い詰められるとは思いもしないことであった。

 死地に追い込まれた李如松は潔く降伏した。とても長城を突破することはできないし、かと言ってこのまま手をこまねいていても糧食が欠乏し、餓死するのを待つだけだからである。

 李如松の降伏でいよいよ北京の都は孤立した。日本軍は、例の可搬型大砲によって城壁の一角を崩し、内部に侵入した。

北京城を守る明軍の兵約五万に対し、攻める日本軍は南海の諸国の兵を合わせておよそ三十万である。明軍は、死力を尽くして奮戦したが、優勢な日本軍の火力の前に、じりじりと内へ内へと押し込められていった。

 日本軍は、押し包むようにして明軍を追い上げ、町の中心部に迫って行った。すると驚くべき事に、またもや巨大な城壁に出くわすこととなった。何と、城の中にまた城があったのである。紫禁城である。

 信長は、紫禁城の南にある景山に本陣を構えて戦況を見守った。

「何と見事な都であろう。赤黄色の瓦屋根には、日本の備前焼のような美しさがあるのう。これを灰にしてはならぬぞ。無傷で手に入れるのだ」

 紫禁城は、周囲3.4キロメートルを、高さ7.9メートルの城壁で囲んだ、北京城の中の城である。その正門である午門は、門とは言いながら、それ自体巨大な要塞と言って良かった。日本軍は午門を避け、比較的手薄な裏門の神武門を破壊して、中に攻め入った。

 ところが、城内にはほとんど人がいなかった。既に敗北を悟っていた万歴帝は、十日ほど前に千人ほどの供を連れて西方の成都に向かって落ちのびていたのである。

「申し訳ございませぬ。中国皇帝を取り逃がしました。すぐさま追っ手を差し向けまする」

 紫禁城に一番乗りした羽柴秀吉が、信長の前にかしこまった。

「いや、よい。捨て置け。閘のためにだいぶ時を使ってしまったからな。是非もない。もうすでに遠くに逃げおうせておろう。おそらく西安か、あるいはもっと奥の成都か」

「いや、今ならまだ間に合うかと存じますが」

「さて、どうかな。我らの足は船のみじゃ。馬は積んでおらん。成都までは遠いぞ。いつ行き着けるかわからん。それよりもまずは都の安定が先じゃ」

 信長は、紫禁城に腰を据えると、軍事行動はひとまず停止し、足場固めの方を重視した。成都に逃れた万歴帝の動向が気にはなったが、すぐに攻撃することは避けた。

中国は広い。馬を持参してきていないため、勝手の分らない土地を徒歩で行軍することは危険が大きいと判断したのである。それに北京と南京を結ぶ線と中国大陸東側沿岸を押えておけば、経済的基盤としては十分だという思いもあった。

「これが夢にまで見た玉座か」

 信長は、太和殿の黄金の宝座に腰掛けながら深呼吸をした。

 目の前に立つ四本の璧玉の香炉からは、得も言われぬ沈香が立ち昇る。その煙の先を目で追うと、天井には人頭大もある龍の玉が吊されていた。巨大な緑璧の玉からは無限のエネルギーが自分に注がれているような気がする。

 太和殿は世界の中心として築かれた建物である。白大理石の基壇の上に立つ、まさに世界最大の木造建築であった。これこそ、中華の象徴以外の何物でもない。その偉大な明帝国を、東方海上の夷狄の国が滅したのである。

 信長は、宝座を立って、太和殿の入口まで進んだ。大理石の白い階段が遙かずっと下まで続いている。

階段の真ん中には見事な龍の彫刻が施してある。龍は皇帝の象徴だ。

 目をその先に転じると、大広場を護衛の兵が右に左に行き交っている。皆、自分の馬廻り衆である。

「今、この都を自分が支配している。よくぞ、ここまで来られたものだ」

 信長は、いつまでも心地よい風に吹かれてたたずんでいたかった。

 だが、ゆっくりと感慨に耽っている暇は与えられていない。

信長は、まず検地刀狩の実施や税制の改正など、内政の充実に手を付けた。税はもちろん日本と同じ五公五民である。また、汚職を厳禁するとともに、その原因となっていた宦官制度も廃止した。かわって科挙を復活して、優秀な人材の登用を図った。

 このように、占領政策も軌道に乗り始めたが、心配事が一つあった。

〈信雄はまだ来ないのか。朝鮮からここまで二月もかかるまい。李如松が降伏したというのに何をぐずぐずしておるのか〉

 実の息子の相も変わらぬ不出来に、信長はイライラしていた。

そこへ驚くべき知らせが飛び込んできた。

「柴田勝家の軍がこちらへ向かう途中、遼東において満州人に敗れたとのこと。信雄様はじめ全軍が、朝鮮の平安城に引き返した由にございます」

 使者の言上を聞いて、信長は唖然とした。

「何だと。信雄は李如松を追撃してきたのではないのか?」

「はい、李如松を追って満州に入ったところで、満州族の待ち伏せを受け、大敗を喫したとのことでございます」

「二十万もの大軍が敗れたと申すか。相手は何者だ」

「いや、確かなことは分りませぬ」

 首都北京を占領して有頂天になっていたが、すぐ目と鼻の先にまだ強敵が残っていようとは。

信長は慄然となった。

「秀吉、すぐに朝鮮に行って調べて参れ」

 信長の命を受けた秀吉は、状況を把握するため、急ぎ海路平安城に渡った。

 そして、すぐに信雄に会った。だが、彼は取り乱していて、状況さえ満足に説明できない有様であった。

仕方なしに、森長可が捕らえた捕虜の中で、最も位の高い者を連れて北京に戻ってきた。

「秀吉、どうであった」

「はい、知らせはまことでございました。柴田様が討死されました。敵は数十万の騎馬軍団だということでございます。寝返り者を一人連れて参りましたので、詳しいことはその者から話させます」

 そう言って、異国の武将と通詞を信長に目通りさせた。

「その方は何者だ」

 信長が、屈強な兵士を睨みつけた。

「はい、私はアラルと申します。東のアムール川下流のフルハという地を預かるジャンの長でございます」

「ジャンとは何だ」

「はい、軍団の単位でございます。兵士三百人でニルとし、ニル五つでジャンとします」

「アラルとか申したな。お前は千五百人の軍団長というわけだな。それで、なぜ我らに寝返った?」

「私は、織田信長様のことをよく存じております。お会いしとうございました」

「何? わしのことを知っておるとな? それはどういうことだ」

「はい、間宮森蔵様からお話をうかがっておりました」

「間宮? 誰だそれは?」

「津軽為信様の御家来衆でございます」

「何? なぜ為信を知っておる? あ、もしや・・・」

「はい、四年前にアムールの都司で間宮様にお会い致しました。私は、明国の役人どもを追い出して、毛皮の取引を一手に治めておりました。津軽為信様にも贔屓にしていただき、大いに利を上げておりました。ところが、昨年ヌルハチに攻め込まれて敗れてしまいました。それからは毛皮を年四回、満州の都興京まで貢ぎ物として運ばなければならなくなったのです。いつかヌルハチの支配を脱したいと思っておりました」

「ヌルハチとは何者だ」

「満州の支配者です」

「柴田勝家もそいつに討ち取られたというわけだな。満州の総兵力はいかほどじゃ」

「はい。先ほどのジャン五つで旗(き)となし、満州国には八つの旗がございます。八旗合わせて六万は下らないかと」

「その軍がなぜ強い?」

「騎馬でございます。満州の地は優秀な俊馬を産します」

「そうか。勝家は、武田との戦を経験しておらぬからな。ところで満州は何万石じゃ」

「石と申しますと?」

「米はいかほど獲れるのじゃ?」

「米はできませぬが、小麦や大豆などはいくらでも獲れまする。東北平原は、中国一の穀倉地帯でございます」

「ふむ。それがヌルハチの力の源か。ヌルハチとはどんな男だ」

「大変な戦上手でございます。もとはマンジュという地方の小さな一部族の出に過ぎませんでした。ところが、父を亡くして跡を継いでから、急速に力を付け、あっという間にマンジュ国を統一してしまいました。さらに、今から五年ほど前には、満州の他の九ヶ国連合軍三万を相手に、三千の兵で勝利し、東満州を切り従えたのです。グレの戦いと申します」

「ほほう、桶狭間の戦いのようなものだな。満州は広いと聞いたが、皆ヌルハチに従っておるのか?」

「従うも何も、ヌルハチは征服した土地の兵士たちを、皆マンジュに無理矢理移住させてしまいました」

「何、城下に住まわせたと申すか! それもわしのやり方と同じではないか。何という恐ろしい奴。何か弱点はないのか?」

「さあ。酒も飲まず、女色に溺れるということもございません。冷徹な男でございます」

「酒も女もやらぬとは、ますますもってそっくりだ。わしが明国を奪わなかったら、きっと奴が征服者となっていただろう。これとまともにぶつかってはならぬぞ。秀吉、済まぬが信雄に至急使いを送って、朝鮮に留まるように申せ」

 もし信長がいなければ、ヌルハチは明を滅して、代わりに例えば「清」の国を建国していただろう。

だが、ヌルハチは、信長の軍門に下るしかなかった。中国中原と江南の要地を押えた信長との経済的格差は、歴然としていたからである。馬と朝鮮人参の定期的市の開設という信長の和睦条件を受け入れて、人質を信長に出して従ったのである。これで、信長に敵対し得る勢力はなくなった。

  そこで、信長は、安康十二年(1600年)正月を期して、明の国に代わる新しい国「信」の建国を宣言した。そして自ら初代信国皇帝に就いた。

また、都である北京も「信府」と改称した。もちろん年号もそれまでの安康から新しく「平成」というものに変えた。日本、中国統一年号である。

 かつて、この広い中国を異民族が征服したことが幾度かあった。契丹族の「遼」、蒙古族の「元」、女真族の「金」などである。そして今、東夷とさげすまれていた倭(大和)族が頂点に立った。

「親方様。いや失礼いたしました、皇帝様。明国も意外にもろかったですな。この秀吉、もう少し手強い相手かと思っておりました」

 秀吉が、御機嫌伺いに太和殿にやってきた。

「いや、我らは運が良かっただけじゃ。鉄砲と鉄船という新しい技術を、中国よりほんの少し早く取り入れただけの話だ。大運河、閘、万里の長城、そしてこの紫禁城、どれを取っても日本の力など足元にも及ばぬわ。中国の政治が乱れ、もたもたしているわずかな隙を突くことが出来たのは、運以外の何ものでもあるまい」

「はあ、確かに。何事も大きさが違いまするな」

「日本は、まだまだ中国から学ぶことが多いということじゃ。まあ、何はともあれ、我らは勝ったのだ。めでたい限りじゃ」

 信長は幸福の絶頂であった。まったく不可能と思われていた明国征服が、今まさに実現したのである。

信長は既に六十六才という当時としてはかなりの高齢ではあったが、気力はますます充実していた。彼はこの善政をさらに世界に広げるべく、また次なる目標を定めていた。

 

(5)夢まぼろし

「一万両、でございますか?」

 博多の豪商神谷宗湛が、目を丸くして驚いた。

「そうだ、一万両だ。この信長が出すと言ったら出す。ポルトガルにあるというハウトマンの地図を手に入れた者には、一万両の報奨金を出そう」

 ハウトマンとは、ポルトガルの地図職人である。大航海時代のヨーロッパでは、各国王室の庇護の元、地図職人がさまざまな地図を作製していた。イギリスのエリザベス女王、フランスのフランソワT世、スペインのフェリペU世など、互いに争うようにして最新情報を書き込んだ地図の作製に力を入れていた。

「そのハウトマンの地図というのが、世界で一つしか無い鍼路図でございますか」

「ああ、そうだ。ポルトガルから日本までの航路が描いてある」

ハウトマンの地図は、それまでの絵画的な大雑把な地図とは異なり、実用を重視して作られたものだった。喜望峰を回ってインド洋から東南アジア海域に至り、モルッカ諸島までを安全に航海するためのルートが克明に記されたものであった。

「マテオリッチの世界地図を初めてお見せいただいた時にも驚かされましたが、それからわずか三年で世界の海図が出来上がったとは」

「そうだ。それさえあれば、日本からポルトガルまで安全に航海できる。何としても手に入れたい」

「一万両頂けるなら、この宗湛も探しに行ってみますかな」

「ははは。それはよい。任せたぞ」

 二人は、声を上げて笑った。

 前代未聞の高額賞金を目指して、無数の船が、ポルトガル目指して船出していった。彼らは、当然のことながら行く先々で日本の武威を誇らしげに示す。こうして、明国が日本に征服されたという情報が、あっという間に全世界をかけ巡ることになった。

 これに何よりも驚いたのがスペインとポルトガルである。両国は、かつて世界を東西に二分して領有していた大国であったが、今はルソンやマラッカを失って、東アジア海域からは完全に締め出されていた。

 彼らを追い出したのが日本であり、その強さは十分認識していたものの、まさか朝鮮・中国を含むアジア全域を支配下に置くとは夢にも思っていなかった。数百年前のオスマントルコやジンギスカンの悪夢が、再び今よみがえったと言ってもよいだろう。

 彼らにとって、その恐れはやがて現実のものとなった。

「秀吉よ。南蛮の国々に書を送って、わしの元に挨拶に来させねばならぬな」

 信長は、太和殿の玉座にどっかりと腰を下ろし、傍に控えていた秀吉に言葉を投げかけた。

「はあ。スペイン、ポルトガル。それにオランダでございますな」

「うむ。あとイギリス、フランスもだ。それからインド各地の首長国も突っついた方がよかろう」

 信長は、朝貢を促す使者を世界各地に送った。

これに真っ先に答えたのがオランダであった。オランダは、先のカリマンタン海峡における日本との大海戦に敗れており、日本の強大さを身に滲みて分っていたからである。一も二もなく、信長に対して臣従の礼を取った。

「オランダがさっそく貢物を持って参ったで。これだ。秀吉よ、何だか分るか」

 信長は、オランダ製の精巧な機械時計を手に取りながら、表裏を回して見せた。

「さて・・・。純金の箱のようでございますが、矢がついておりますな。新しい武器でございますか」

「ははは。外れじゃ。これは、時を刻むからくりじゃ。こうしてネジを巻くと動き出してな。ほら、ちゃんと鐘まで鳴るぞ」

「ほう。よき音色でございますな。しかし、オランダは、随分と早く使節を送って参ったものですな」

「ああ。奴らとしては、下手に日本と争うよりも、貿易の利を上げる道を選んだのであろう」

「左様でございますな。ヨーロッパ最強と言われた国が屈服致しました。これを世界に知らしめましょうぞ」

「そうだな」

「さすれば、スペイン、ポルトガル、イギリス、フランスなども、この信帝国に朝貢の使いを送って参りましょう」

「うむ。ポルトガルも我らには痛い目にあっておるしな。何とかインドのゴアだけは安堵してもらいたいと、頭を下げに来るに違いない」

 しばらくして、インドの各首長国からも、貢ぎ物として色あざやかな綿織物がもたらされた。信長の元には、世界の珍品が集まるようになっていた。

 さらにその後、ローマ法王から遣日少年使節が、信長の元に派遣されてきた。

「ヨーロッパの諸王国め、うまくやりおったな。朝貢の使いではなく、有馬・大村が先年送った使節への返礼という形を取ってきたわ。うーむ」

 信長は、一本取られたという風に低い声で唸った。

「いえいえ、親方様。実を見れば、朝貢と同じでございましょう。こんなに多くの貢ぎ物を持参して参りましたゆえ」

 秀吉が、すぐにとりなした。

「まあ、そうだな。ヨーロッパ勢の末永い友好の気持ちを、ありがたく頂戴すると致すか。わっはっはっは」

「これで、全ての国が、親方様に従いましたな」

「おう。ついに世界を自分の足下にひざまずかせたぞ」

ここに信長は、名実ともに世界の王者に君臨することとなった。

 ところで、ハウトマンの海図を、信長は手にすることができたのであろうか?

 いや、それはもうどうでもよいことであった。数多くの命知らずの日本の船乗りどもが、一斉にポルトガルを目指したことにより、その目的は自ら達成されてしまったからである。

 うららかな日差しに包まれたある初秋の日、信長は紫禁城の内廷をのんびりと散策していた。

東北隅の角楼(見張り台)に腰掛け、北京の町をぐるりと眺め渡してみる。

〈一年前の激しい戦いが嘘のようじゃな〉

今は、昼餉の煙がのどかに立ち昇るばかりである。

〈自分はもう十分に生きた。これからは子供達に頑張ってもらわねばならぬ〉

 彼は、ひとしきり思索にふけった。

〈そうだ。信政も既に十六才になった。そろそろ元服させてもいい頃だろう。あいつには日本の徳王の位を授けよう〉

信政とは、お藤、すなわち淀の方にもうけさせた子である。

〈とすると、朝鮮は信雄に任せることになるか。南海の国々は信孝がいいだろう。さすれば、これで盤石の体制が築ける〉

 信長は、そう考えて安心すると、束の間の心地よい眠りに落ちていった。

・・・

「殿、一大事でございます」

 突然の注進の声に、信長は目を覚まされた。

「騒々しいな。いったい何事ぞ」

「謀反でございます。明智光秀が裏切ったのでございます」

「な、なに、まことか」

「はい、間違いございませぬ」

「明智とあらば、是非もない。ここ本能寺は要害ぞ。出会え、出会え、戦うぞ。弓矢を持て」

 信長は、肩をはだけ、さんざんに矢を放ったが、敵は雲霞のごとく押し寄せて来る。

「敵の数は一万余り、こちらはわずか五十人。とても勝負にはなりません。殿、御覚悟のほどを」

「蘭丸か。わかっておる。館に火を放て」

 信長は、そう言い捨てると奥の間に入った。そして静かに敦盛を一差し舞った。

「人間わずか五十年〜。下天のうちをくらぶれば〜、滅せぬもののあるべきか〜」

  舞い終えると、潔く切腹して果てた。本殿を包む炎は、全てを灰にして後に何も残さなかった。

・・・

「皇帝陛下、ずいぶんうなされておりましたが、いかがなされましたか」

 淀の方が、信長の額の汗を拭いながら尋ねた。

「うん・・・、淀か」

「大丈夫でござりますか?」

「ああ、何でもない。そうか、夢であったか。ここは北京、いや信府であったな。悪い夢を見た。わしが本能寺で明智光秀に殺された夢じゃ」

「それはそれは、とんだ夢でござりましたな。きっと少しお疲れになっておられるのでしょう」

 そう言って、淀の方は、信長の手を引いて太和殿に戻った。

 信長は、平成元年(1600年)の暮れ、新しい世紀を見る事なくこの世を去った。享年六十七才であった。

                            完

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