印刷博物館開館特別企画展「家康は活字人間だった」

 平成12年11月18日、文京区の印刷博物館の開館特別企画展と記念講演に行ってきました。

 NHKでもお馴染みの小和田哲男教授の講演は興味深かった。家康を天下人にし、300年続く徳川政権を実現させた礎は、駿府「人質」時代に受けた教育にあったという。「」付きにしたのは、人質という言葉の響きとは全く異なり、むしろ国費留学とも言えるものであったからだ。

 家康は、14才の時に元服し、元信と称したが、「元」の字はもちろん今川義元の元の一字である。「元」をもらえるのは、実は重臣でもごく一部なのだ。さらに16才の時には、義元の姪である築山殿と結婚したが、これはまさに一門待遇と言っていい。そして、家康にとって決定的に重要だったのが、太原雪斎の教えを8才から14才の多感な時期に受けることができたことである。雪斎は、臨済寺の僧でありながら、今川氏の軍師的存在であり、彼の存命中に今川氏は全盛時代を迎えた。

 家康は、吾妻鏡や貞観政要を始め、多くの和漢の書を読んだ。中でも、源頼朝を理想としていたようだ。吾妻鏡はすり切れるほど読んだであろう。彼は、また義経を評して次のように言っている。「義経は平氏をあまりにも早く滅ぼしすぎてしまった。少しは残しておくべきだった。月も雲間の月が味わいがあるというものだ。」

 実は、先日恵林寺を訪れて知ったのだが、武田信玄も同じ事を言っている。「戦の勝ちは五分を上とし、七分を中とし、十分を下とする。」なかなかに面白い。

 平成12年11月19日甲斐国宝特別開帳ツアーへリンク

 さて、家康は、晩年になって出版事業を伏見と駿河で行っている。先ほどの吾妻鏡や貞観政要の他、群書治要など、家康の好みの書だ。長崎天草でのキリシタン版鉛活字による出版を見て、プロパガンダの威力を知ったのであろう。

 次のロナルド・トビ教授と樺山紘一教授の対談「江戸時代は鎖国だったのか」も面白かった。江戸時代を通じて、4つの口、すなわち、松前、対馬、長崎、薩摩を通じて海外と絶えず接していた。朝鮮・琉球とは「通信」、中国・オランダとは「通商」という使い分けをしてはいたが。それに「鎖国」という造語も1801年に初めて登場したのだから、1853年のペリー来航までのわずか50年しか通用していなかったことになる。

 さて、博物館では、国の重要文化財に指定されている駿河版銅活字が展示されている。紀州徳川家から凸版印刷鰍フ所有になって、今日ここで見ることができるのだ。大と小の2つのサイズの他、罫線や輪郭もあった。

 展示にも工夫を凝らしてあって、子供や学生も楽しめる。また、VRシアターも必見である。「出島−海を渡った書物たち」というテーマで、迫力満点のバーチャルリアリティ映像が見られる。SGI社の高速WSから繰り出されるCG(コンピュータグラフィクス)は、本当に臨場感あふれる。

 特別企画展は12月10日までです。

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