「天下統一と城」 展&歴博フォーラム

 平成12年11月26日、最終日になってしまいましたが、歴博の企画展示を見てきました。また、併せて去る10月21日に津田ホールで行われた歴博フォーラムのトピックもさわりをちょっとだけ紹介しますのでどうぞ。

 入り口でガイドテープを借りていざ出陣。東京国立博物館は500円だったが、ここは無料とは良心的だ。

 3部構成になっていて、まずは中世の城と館である。重要文化財の「洛中洛外図屏風(歴博乙本)」は巨大な黄金の屏風である。上杉本が有名であるが、甲本とともに本品もすばらしい。花の御所を中心に京都の民衆の動きが生き生きと描かれている。

 中世は、まじないも重視された時代だ。重要文化財「軍政略暦書」は、陰陽五行説に基づく城の善し悪しを解説した巻物である。

 北九州の長野城の模型も分かりやすい。縦堀を多用し、土塁で尾根をグルリと囲んだ典型的な戦国山城である。中央の谷が、避難民たちにとって安全な場所であることが一目瞭然だ。

 第2部は、城と戦いがテーマだ。文禄慶長の役でのウル山城の攻防を描いた「朝鮮軍陣図屏風」が2つあった。朝鮮半島に築かれた典型的な倭城が、無数の朝鮮中国連合軍にとり囲まれている。総構えの土塁はすでに破壊され、石垣の天守だけが裸になっている様は、かなりリアルだ。この他には、原城の攻防戦も主要展示になっていて、出土品の展示が豊富だ。 韓国ウル山城と慶州の紀行へリンク

 第3部は、安土と織豊系城郭である。安土城の大手道の復元過程が分かりやすい。金箔のまだ残っている瓦も展示されていて、安土城がかつて黄金の城だったことが証明された。重要文化財の「安土山下町中掟書」は、信長が、楽市楽座の特権を町衆に認めたものだ。天下布武の朱印が押してある。直径5.8cmで、まわりを2匹の龍が取り巻いている。龍は中国皇帝しか使えないモチーフだが、信長の意図やいずこに?

 印は、武田や北条などの東国大名がすでに使用している。毛利や大友などの西国大名が花押のみであるのと対照的だ。東国では、個人ではなく、公権力として文書を発給していたことになるのであろうか。

 秀吉が、天正十七年(1589年)に亀井茲矩に出した朱印状も展示してあった。これは、信長のものの倍以上の大きさがあっていかにも秀吉らしい。内容は、因幡国多気郡に一万三千八百石の知行を与えるというものである。そのうち二千八百石は無役で、残り一万一千石に対し五百五十人の軍役を課すということが事務的に記されている。すでに天下を手中にしたこの頃の秀吉の尊大さを感じさせる。

 出口で、先ほどの信長の朱印のスタンプを記念に押して、博物館を後にした。

 さて、歴博フォーラムの方だが、5人の先生の講演と、討論が丸一日行われたので、信長絡みのトピックのみ紹介致します。

・安土城の大手道は、天皇行幸のためのお成り道であり、普段は使われていなかった?!

・本丸御殿は、清涼殿そっくりの建物であったことが今回の発掘調査で分かった。と言うことは、信長は天守から天皇を見下ろそうとしていたことになる?!(実は、フロイスの「日本史」の中にも、秀吉が大阪城内に御成御殿を造ろうとしたという記述がある。ただし、この時は町人に反対され、仕方無しに京都に聚楽第を造ることになった。)

・信長は、安土に皇帝政権を作ろうとしたのではないか? 双龍の印を使い出したのも安土に移ってからである。本能寺の変は、武士あるいは公家勢力の信長への反発から起こったのではないか?

 簡単ですが、以上です。

ホームに戻る