第13の謎:大倭/一大率/刺史とはそれぞれ何者か?なぜ戸数一千しかない伊都国に権力が生まれたのか?

 

魏志倭人伝には、王/大官/官/副以外に、大倭、一大率、さらに刺史という官職が出てくる。

 

先ほどまでに、魏志倭人伝の冒頭から「郡から女王国に至るまでは、一万二千余里である。」までの地理に関する部分を紹介したが、この後、魏志倭人伝は、倭人の習俗について、かなりの分量を割いて記述している。本書では全部は紹介せず、ポイントとなることだけを後で謎として取り上げることとする。

 

なお、魏志倭人伝は、前にも述べたが、地理/習俗/歴史の3部構成になっている。魏志東夷伝の他の国の記事も、だいたい同じ構成になっている。他の国とは、夫余、高句麗、東沃沮(とうよくそ)、[テヘン邑]婁(ゆうろう)、[サンズイ歳](わい)、韓である。

 

風俗習慣の記述が終わると、次の一節が始まる。

 

『收租賦有邸閣。國國有市。交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。』

 

「租税を徴収し、倉庫がある。国々には市が立っている。色々な物を交易しており、大倭がこれを監督している。女王国より北では、特に、一大率を置いて、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れている。常に伊都国にいて治めている。国中に刺史のような役人がいる。()王が洛陽・帶方郡・諸韓國に使いを遣わしたり、逆に、(帯方)郡の使者が倭国に赴く時に、皆、港に出迎え検閲し、文書・賜物を女王に伝送して、間違うことがない。」

 

まず、大倭である。国々での市における交易を監督しているという。やはり、卑弥呼が派遣した役人であろう。流通統制をしていたということだ。

 

次は、問題の一大率である。伊都国に常駐して、諸国を検察していたという。だとすると、伊都国には、名前が不明の王と、官である爾支と、さらにこの一大率がいたことになる。

 

諸国は一大率を畏れているという。その権力の大きさがわかるというものだ。いったい、一大率とは、どこの国の役人なのか。ある作家は帯方郡の役人だと主張する。しかし、どうであろうか。文章が、女王国で始まっているので、やはり、流れからしたら、女王国の役人と考えるのが穏当だろう。だとすると、邪馬台国からはある程度離れた場所に、第二の権力機構が置かれたと考えるのが自然だと思う。

 

さて、刺史(のような役人)に移ろう。刺史とは、中国では地方官のことをさす。漢代に設けられ、全国を州に分けて州の下の郡や県を監察する役職である。国中に刺史のような役人がいて、文書や賜物を検閲し、伝送するとある。ここでいう国中とは、どこの国のことだろう。伊都国のことであろうか、それとも女王国より北の国々、すなわち対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国のことであろうか。

 

文書・賜物の伝送に携わるとしたら、全国的なネットワークが必要で、常に伊都国にいる一大率では無理であろうから、やはり刺史のような役人は諸国にいたと考えるべきだろう。

 

それにしても、なぜ千余戸しかない伊都国に権力機構が置かれ、帯方郡の使いをもてなす施設が設けられたのであろうか。わずか百里隣の二万余戸ある奴国が、その役割を果たしてもよさそうなものだが。

 

それについては、私は、地理的条件によるものが大きいと思う。現代の地図帳で、糸島半島をいくらながめても絶対にわからないが、実は、鎌倉時代、元寇の時のことだが、糸島半島の付け根を東西に船が通りぬけたという記録がある。つまり、当時は半島ではなく、陸地側の怡土(イト)とその北の志摩は、海で隔てられていたのだ。これを地質学上、糸島水道と呼ぶ。志摩は、文字通り「島」だったのである。

 

そもそも、イトの「ト」は水道を表す。例えば、長門、音戸の瀬戸などの「ト」である。

 

現在は陸の中にあるが、「周船寺」、その西の「波多江」、その北の「泊」などの地名が、かつてはこの地が海に面していたことをあらわしている。

 

邪馬台国の時代は、現代より海面が4mほど高かったらしい。ならば、糸島水道が存在していたと考えていいだろう。つまり、伊都国の地は、北側に大きな島が横たわっていて、波を防いでくれる天然の良港を有していたのだ。

 

似たような場所を探すと、安芸の宮島(厳島)がある。平清盛が、日宋貿易の中継港として目を付け、厳島神社を造営したところである。やはり、島が波を防いで、いかなる時でも鏡のような水面が広がっている天然の良港である。

 

だいぶ前にニュースになったが、厳島にいかだを浮かべて居住し、税金を払っていない人が摘発された事件があった。海上生活ができるくらい波穏やかな場所である。糸島水道とまったく同じような自然条件だったろう。

 

「郡の使者が往来する際に常に留まるところである。」と魏志倭人伝にあるのは、中国の使者が安心して、船を係留しておくことのできる場所だったからではなかろうか。那の津(博多)は良港ではあるが、台風の時はやはり心もとない。

こうした地の利が、伊都国をして北部九州の中心地たらししめている理由だと思う。

第14の謎