第26の謎:卑弥呼の鬼道とは何か?

 

だいぶ前の朝日新聞の記事に、鬼道は、道教のことと書いてあった。

 

「鬼道」という語は、三国志では他に三例あるが、いずれも五斗米道という道教集団が信奉したものとして用いられている。

 

五斗米道について、国語辞書の大辞林で調べると、以下のとおりである。

 

「中国、後漢末、張陵が、蜀(四川省)で創始した宗教。また、その教団。祈祷による治病を主とし、入門の謝礼に米五斗を出させた。孫の張魯の時、一種の宗教王国を形成したが、215年魏の曹操に降服した。」

 

卑弥呼が女王になったのは西暦190年頃と考えられるから、五斗米道の最盛期に当たる。はたして、中国の西の内陸に起きた宗教を、卑弥呼は体得していたのであろうか。

 

魏志倭人伝の著者陳寿も蜀の出身であり、五斗米道のことはよく知っていたであろう。卑弥呼の振る舞いを倭人から聞いて、これは五斗米道であると即断してしまった可能性はある。

 

魏志倭人伝には、「鬼道につかえ、よく衆を惑わす。」とあるが、祈祷によって病気を治癒することができたとしたら、民衆に大いなる驚きを与えたことであろうし、信頼も得たことであろう。

 

卑弥呼の時代以前の弥生時代に行われていた宗教といえるものは、銅鐸の祭りである。

 

少し前の考古学では、近畿を中心とした銅鐸文化圏と、九州を中心とした銅矛文化圏が存在することを取り上げていた。しかし、九州でも、銅鐸の鋳型が発見されるなどして、今では、列島全体で銅鐸の祭りが行われていたと考えられている。

 

その銅鐸が、ある時期に全国的に一斉に埋められてしまった。阿波(現在の徳島県)の矢野遺跡の銅鐸などは、木の箱に入れられて、二度と出てくるな、というくらい厳重に埋納されている。

 

卑弥呼は、鬼道という新しい宗教を引っさげ、弥生の神を否定したのではないか。それは、陳寿の知る五斗米道に似て、祈祷による治病などのほか、国どうしの争いという病も治したのではなかろうか。その方法を次の謎で考えてみよう。

 

第27の謎