(1)寿命石

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」

 重源は、治承五年(一一八一)一月元旦、高野山の新別所である専修往生院(現在の円通律寺)において、六十人の同朋とともに、いつも通り朝の勤行につとめていた。

ここは、金剛峰寺のある高野山の中心地壇上伽藍からは一つ峠を越えた所にあり、人家も全くないうら寂しい場所である。ただ、鳥たちの声だけが高野聖(こうやひじり)たちのなぐさめであった。

そこへ、玄関から続く廊下をけたたましく走り来る一人の男の足音が鳴り響いた。

「重源さま、大変なことがおこりました。」

弟子の観房が、息せき切って駆け込んできたのであった。観房は重源の甥であり、数十年来、重源に付き従っている。

「なんだ、観房ではないか。お前は奈良にいたのではないのか。そんなに慌てて、いったいどうしたというのじゃ。」

「東大寺と興福寺がことごとく焼かれました。」

「なに、落ち着いて子細を申せ。」

「はい。この暮れの二十八日、平家と興福寺の僧兵との間で戦がなされました。僧兵は敗れ、平重衡の手によって寺に火がかけられたのでございます。折からの風によって火はまたたくまに両寺を焼き尽くし・・・」

 そう言ったまま、観房は、声を上げて泣き崩れた。

「それで・・・。大仏もか?」

 重源はつぶやくように尋ねた。

「大仏も溶けました。大仏殿も燃えておりまする。」

「あー・・・」

 重源は、天を仰いだ。

同朋衆もあまりのことに、口々に南無阿弥陀仏を唱えるばかりであった。

「とにかく奈良に行ってみよう。」

 重源は、そう言って、すぐに旅支度を始めた。

一月三日未明、重源は、観房とともに高野山から南都へ向かった。この時、重源は六十一歳であった。

 夕刻、2人は、くすぶり続ける東大寺大仏殿の前に立った。

「これは・・・」

仏頭は後に落ち、両の手は前に落ち、全身焼けただれた大仏を見て、重源は言葉を失った。

「なんと、むごい。」

自然に涙がこぼれ落ちてきた。

「聖武天皇の御代からずっと日本を守ってきた大仏。この大仏が滅ぶなどということを、誰が思うことができただろう。」

 重源は、鼻をすすった。

「日本国第一の寺が消えてしまうことなど、あってはならないことにございます。」

 観房が、力無くつぶやいた。

「あー・・・。あー・・・。」

重源は、何度も溜息をついた。

「この世の終わりにございます。」

 観房は、その場に崩れ落ちた。

 重源は、燃え続ける大仏殿と無残な大仏の姿をしばらく呆然と見つめていた。

「いや、このままではいかん。このままにしていいはずがなかろう。」

 大仏を凝視しながら、重源は気力を奮い起こして言った。

「しかし、上人様、もはや朝廷に力はございません。すぐに再興することは無理でございましょう。」

 観房の言うのも、もっともであった。平安末期のこの時代、朝廷の財力は衰え、膨大な資金を要する事業を遂行することは困難であった。

半時もたたずんでいただろうか。重源はずっと考えていた。

「いったい誰がこれを元に戻せるであろうか。」

 この大仏は、天平の御世に、知識物、つまり民衆の寄付によって創建された。

「再び同じことができるであろうか。」

 重源は、六十年間の自分の来し方を思い返していた。勧進聖としてひたすら全国を回っていた。北は関東甲信越から南は鎮西まで、勧進により多くの堂舎や仏像を創建してきた。一昨年には、消失した信濃善光寺の再興のため、京で勧進に努めた。平清盛の長男である平重盛から金五百斤を奉加させるなど、勧進は成功していた。

「やはり、自分には勧進しかない。」

重源は決意した。

「過去六十年の苦難の生涯は、この焼け落ちた東大寺を再建する修行であった。宋国に渡って彼の地の進んだ文化に触れたのもこのためであった。残りの一生をこの東大寺の復興に捧げる。観房よ、一緒に付いてきてくれるか。」

「もちろんのことにございます。しかしではございます。この巨大な仏頭をあんなに高い胴体の上に乗せることが簡単にできましょうか。もう、あらかた溶けております。」

 なにしろ、顔の幅が3メートルもある巨大な頭部を、地面から十数メートルもある胴体の上に継ぎ足そうというのである。観房の疑問はもっともであった。

「四百余年前の天平の昔にできたのだ。今にできぬはずがない。」

「はあ。しかし、大仏を納めるこの巨大な大仏殿も造り直さねばなりませぬ。これを支える大材がこの日本国に残っておりましょうか。」

「それはわからん。探すしかあるまい。とにかく、今は前に進むしかないのだ。」

重源は、すぐに焼け跡の調査検分を始めた。

 重源は、巧明明(くぎょうみょう)にたけていた。工巧明とは、僧侶が身につけるべき五つの学問である五明のうちの一つで、工芸技術・建築学のことである。ちなみに、他の四つは、声明(文法学)、因名(論理学)、内明(教理学)、医方明(医学・薬学)である。

重源は、燃え尽きた四天王像の地下遺構も実見した。像底を貫き、下方に伸びる長大な心木が、一丈二尺の銅管に挿入されていた。

「なるほど、これで像が定まっていたのか。これならどんな地震が来てもびくともすまい。」

重源は、たちまちにして天平時代の大工の技を見抜いていた。

「観房よ。私はやるぞ。朝廷に奏上して、東大寺の再興を任せてもらうようお願いしてみる。」

 東大寺消失の衝撃は、またたくまに民衆の間を駆け抜けた。聖武天皇が「もし我が寺衰弊せば天下衰弊す」と詔(みことのり)した東大寺が無に帰したのだ。この世の終わりの予告と、民衆は受け取った。

 公卿たちの驚きも尋常ではなかった。九条兼実は、第一報を受けた二十九日に、日記「玉葉」に次のように記している。兼実とは、後に摂政関白にまで登り詰めた藤原氏の高級貴族である。

「仏法王法滅盡し了ぬか、およそ言語のおよぶところに非ず、筆端の記すべきにあらず。(中略)父母を失うよりも悲しい。この大仏が再び像立されるのは何世何時哉。」

 嘆きと絶望の言葉で埋められている。

 治承五年(一一八一)の正月は、朝廷も一切の行事を中止した。

 一方、重源は高野山には戻らず、その足で近江の敏満寺(みまんじ)に向かった。そこには、どうしても行かねばならぬという重源なりの理由があった。

二人は、琵琶湖の東岸を進み、北国街道を北上した。琵琶湖は、天上の日の光を受けて、きらきらと輝いていた。

「観房よ、湖国は明るいのう。わしは気分がいい。」

 重源は、さっそうと歩いていた。

「左様でございますな。上人様は、御年六十一歳になりましたのに、達者でございますな。」

「うむ。足には自信があるぞ。わしは、若いころから四国を巡り、大峰には何度も修行に入った。いくらでも歩けるぞ。」

「頼もしい限りにございます。敏満寺で祈願すれば、百歳までも生きることができましょう。」

「ははは。そう願いたいものじゃ。」

 実は、敏満寺は、長寿祈願で有名な寺であった。勧進による東大寺再興には、どれだけの歳月がかかるかわからない。十年、二十年、いやもっとかもしれない。重源は、大願成就までの延命を祈るためにやってきたのである。

一月七日、重源は敏満寺に到着した。

さっそく、寿命石に向かった。1m四方ほどの何の変哲もない石だが、重源は右手を置き、そっと目を閉じた。

「寿命石よ、そして敏満寺の仏よ。この俊乗房重源に長命を与えよ。」

 その日の夜は、枕石を借りて眠った。枕石というのは、長さ三十cmほどの石だが、これを枕にして寝ると長寿が約束されるというものである。

 敏満寺は、当時は百余坊を有し、相当な経済力を保持していた。だが、後の永禄年間、織田信長の命に従わなかったために、全山焼き払われてしまった。そのため、現在では隣の胡宮神社の境内に、下乗石と蓮弁灯籠台の二つのみが焼け残っているだけだ。

 重源の表向きの敏満寺参拝は、長寿祈願であったが、大仏再建のための勧進先として、当時隆盛を極めていた敏満寺の経済力を頼ったという面もあった。

また、敏満寺は、北国街道に面していたため、北陸方面への勧進の拠点としても、重源は重視していた。

後のことになるが、文治三年(一一八七)十月十八日、敏満寺再興供養に際し、重源は、藤原伊経筆の寺額を施入している。

敏満寺から戻った重源は、さっそく東大寺への奉加のための勧進を始めた。同行六十人で畿内各所を分担して回り、一ヶ月ほどでいくらかの財貨と米を集めた。

二月二十七日、重源ら一行は、これらの奉加物を荷車に積んで東大寺におもむいた。そして、まだくすぶっている大仏殿の前で読経を行った後、東南院主に謁した。

「院主殿、この奉加物を受け取っていただきたい。これはほんの手始め、これからも勧進を進めて、ゆくゆくは大仏の再興を果たしたいと存ずる。」

 重源としては、まずは東大寺復興に対する熱意を世に示すという思惑であった。

四月九日には、重源は、院の近臣であり、兼実の家司でもある藤原行隆邸におもむいた。

去る閏二月四日、平清盛が没したが、平家の頭領が死んだことで、平家が焼いた東大寺の復興の話を持ち出す機会が巡ってきたと思ったからである。

「私は、大仏のありさまを見て、涙をおさえることができませなんだ。この我が心を誰かに述べようとしたところ、勅使としてあなたが南都に下ったという話なので、今日参じました。」

 重源は、丁寧に頭を下げた。

「これは、わざわざ高野山から京までのお出まし、ご苦労でございました。それで、今日は何用でございましょうか。」

 行隆は、老僧に向かい合ったが、その目の鋭さに気圧される思いがした。

「大仏を再興したい。そのお役目を私にお与え願いたい。」

 重源は、いきなり東大寺復興の話を切り出した。

「やはり、そのことでしたか。あなたがおいでになると聞いて、きっと申し出があると思っていました。しかし、あなたも御覧になったとおり、大仏のありさまはひどいものです。わたしは、三月十七日に鋳物師たちを率いて実見してきたのですが、彼らは大仏を見て、何と言ったと思いますか。」

「さて・・・」

「人力のおよぶところに非ず、勅勘を蒙るといえども、いかで微力を励まさんや。口々にそう言ったのですよ。」

「みな辞退したと。」

「そのとおり。皆尻込みするばかりでした。簡単にはいきませんよ。それに、金も必要です。東大寺の荘園はほとんどが横領されていて、今や歳入はないに等しいといっていいでしょう。では誰が金を出しますか。朝廷は、興福寺の復興のことしか頭にありませんよ。藤原氏の氏寺ですからね。東大寺のことなど、誰も気にしていませんよ。」

「資金は勧進でまかないまする。拙僧は、勧進により、今までに寺社の復興をいくつも手がけて参りました。自分には同朋六十人がおり、その力を結集すれば、必ずや東大寺復興が成るものと存ずる。」

重源は、必死に訴えた。

「そこまでおっしゃるなら、このことは九条兼実殿の耳に入れておきましょう。ただ、兼実殿も、藤原氏の一族として興福寺の復興に力を注がねばなりません。東大寺のことには関心がないでしょう。あなたの希望が叶うかどうか、約束はできませんよ。」

とりあえず、行隆は、九条兼実に重源のことは伝えた。もちろん、兼実は無反応である。

治承五年(一一八一)六月十五日、朝議で造興福寺司の設置が決定された。

興福寺の場合は、復興計画は実現性のあるものがきちんと作られていた。すなわち公家、氏長者、寺家の三者責任体制である。

公家沙汰は、中金堂、中門、回廊である。公家沙汰とは、つまり国が受け持つということである。

氏長者沙汰は、南円堂、南大門である。氏長者とは、藤原氏の長であり、この時は近衛基通である。

寺家沙汰は、食堂、上階僧坊、東西金堂である。興福寺は、大和一国の国司であり、豊富な財力を有していた。

この体制は、従来の場合にも採用された興福寺復興造営の基本スタイルを踏襲したものである。

担当仏師も、京都円派、院派、慶派などが割り当てられ、以後、興福寺復興は着々と成し遂げられていくことになる。

一方の東大寺は、誰も復興が成るとは思っていなかった。

(敏満寺と胡宮神社については、「日本の史跡を巡る59 近江国宝巡り&胡宮神社 久田巻三」参照)

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