(10)大仏殿落慶供養

後白河法皇が、建久三年(一一九二)三月十日、崩御された。御年六十六歳であった。

「わしは、最大の後ろ盾を無くした。これまで大勧進を続けてこられたのも、法皇様がいらっしゃればこそのことだ。」

 重源は、天を仰いで嘆いた。

「わしは、後白河法皇に代わって東大寺復興をやっていたにすぎない。法皇様なき今、わしは何をすればよいのだ。」

 重源は、虚脱感に襲われた。

この時、後鳥羽天皇はまだ十三歳である。一時的に朝廷では権力の空白が生じていた。

頼朝がこの機を逃すはずがない。建久三年(一一九二)七月十二日、源頼朝は、晴れて征夷大将軍となった。

後白河法皇亡き後、重源が頼りとするのは頼朝以外にはなかった。また、頼朝にとっても、国の寺である東大寺再興の第一の施主として、その威を見せつけることは、政治的にも大きな意味のあることであった。

 その間、大仏殿の工事は続けられていた。材木は継続的に周防国から送られてくる。重源は、人夫たちの食料の確保に走らなければならない。

 東大寺の荘園の中で、最も米の生産量の多かったのは播磨国(現在の兵庫県)の大部庄である。重源は、大部庄の支配権を確立するために、建久三年(一一九二)八月二十五日、朝廷に求めて荘園の境界を確定する宣旨を発布してもらった。

 大部庄は、二年前の建久元年(一一九〇)から本格的な経営が始まっている。重源は、甥の観阿弥陀仏と、もう一人如阿弥陀仏を大部庄の預所職に任命し、播磨国に下した。彼らは、浄土寺の段丘上に溜池を築き、段丘面に水田の開発を進めていった。また、荒廃していた堂舎の復興、仏像の修復にもあたった。

建久三年(一一九二)九月、その播磨の浄土寺で、浄土堂が大仏様で建てられた。規模は大仏殿にははるかにおよばないものの、大仏殿の工事に万全を期すため、重源は新工法で試作をしたのである。重源は、当時「支度第一俊乗坊」と称されていた。

 この浄土堂は、国宝として今に伝わっている。快慶作の宋風の色合いの濃い阿弥陀三尊を納める堂内は、広い空間とむき出しの木組みの美しさで大仏様の特徴を見せている。

 こうして、大仏殿建立の準備が着々と進められていたのだが、重源を悩ましている一つの大きな問題があった。それは、先にも述べた大仏殿の屋根瓦の調達である。大和、山城、河内は、良質の瓦の産地であったが、すべてを興福寺が押さえている。そこで重源が目を付けたのが、備前国(現在の岡山県)である。ここも瓦に適した土が産した。重源は、周防に出向いた帰りには、必ず備前に寄って、何ヶ所か下見をしていた。重源は、何とか備前を手に入れたかった。

 そこで、重源は、文覚上人を頼ることとした。文覚は、東大寺大仏勧進と同時期に、京都神護寺の再興を成し遂げた人物である。この時、重源より十八歳歳下の五十五歳であった。

「文覚殿、折り入って頼みがござる。」

「さて、何でござろう。同じ勧進聖どうしでござる。何なりと申して下され。」

「実は、大仏殿の瓦の手当てに難渋しておりまする。周防国には大材あれど、良土はござらぬ。そこで、厚かましい願いではござるが、備前国を東大寺造営料国として賜りたい。そのための口添えをお頼み申したい。」

「なるほど、そのことでござるか。よろしい。頼朝殿に私から話をしてみましょう。わしと頼朝殿とは、伊豆に配流されておった時からの付き合いでござる。わしの申し状に否とは言わないはず。待っていて下され。」

建久四年(一一九三)一月十四日、文覚は、重源から東大寺造営の困難を聞き、備前の国を東大寺造営に当てることを鎌倉に申請した。

「東大寺の造営は、いま困難をきわめ、大仏殿の造営を終ることさえもむつかしい。今はもう将軍家おんみずから御支配なさらないと、すでに立柱上棟あれど、東大寺の功は成り難い。よって、後白河院のかずかずの分国のうち、この文覚が預かり申している備前国を、東大寺に給されたい。その旨を早々に京の後鳥羽朝廷へ申されたい。」

 建久四年(一一九三)四月九日、頼朝の申状が到来し、故後白河法皇の知行国であった備前が東大寺に寄進されることになった。大仏造営期間に限って重源が国司に任ぜられた。

 東大寺大仏殿などに使われる瓦は、備前国万富(まんとみ)に窯を築き、十八万枚を焼いた。東大寺八幡宮を勧請し、その前面の東、南、西に十基ずつの計三十基の窯を築いた。(現在国の史跡として指定されている場所から十三基の平窯跡が確認されている)

瓦は、万富からは用水路、吉井川、瀬戸内海を経て奈良に送られた。

なお、重源が亡くなると、備前国は造営料国から外され、瓦生産の拠点は、渥美半島の伊良子に移された。(その窯跡も、現在国の史跡に指定されている。)

重源は、万富や伊良子で作った丸瓦には「東大寺大仏殿」と名を入れさせた。日本で初めての工夫であった。

 ずっと懸案だった瓦の調達にも目途がついて、大仏殿造営工事は佳境に入った。朝廷もこれを応援する。

建久四年(一一九三)五月、朝廷は、頼朝に命じて東大寺造営を勧めるようにとの宣旨を出した。

これを受けて、五月二十九日、頼朝は、諸国の守護に対し、東大寺供養料を勧進するように命じた。こうして、造東大寺は、国をあげて推進されることとなった。

 建久五年(一一九四)三月十二日には大仏の光背が造り始められた。後山を撤去したことで可能になったことである。材木は重源が沙汰し、砂金は頼朝が奉加することになり、三月二十二日に二百両、五月十日に百三十両が進上された。また、食料は備前国の収入が当てられた。

さらに六月二十八日、源頼朝は東大寺大仏殿の脇侍二菩薩と四天王像の制作を六人の有力御家人に割り当てた。この日、戒壇院の造営についても二人の有力御家人に分担させている。

十二月二十六日には中門の二天像の造像が開始された。二丈七尺(約七m)の巨像である。大仏師には快慶と定覚の二人が任じられ、小仏師二十七人で造像にあたった。日数はわずか七十九日という早さである。

 大仏殿落慶供養に向けて、工事は急ピッチで進められていった。

建久五年(一一九四)二月十三日、造東大寺長官の藤原行長は、東大寺大仏殿供養の日次の相談のため、兼実邸におもむいた。

屋根葺き工事が遅延しているため、明年正月と決し、幕府に伝える。しかし、幕府はさらに延引した方がいいとして、結局明年三月十二日ということで合意が成立した。

建久六年(一一九五)二月十四日 源頼朝は、東大寺大仏殿の落成式典参列のため、妻北条政子や子供たちを伴って鎌倉を発した。行列の先頭に立ったのは鎌倉武士の鑑とも言われる畠山重忠である。そのほか、稲毛重盛、小山朝政、和田義盛、三浦義澄、梶原景時、佐々木定綱、北条義時、下河辺行平、武田信光、比企能員、大江広元、といったそうそうたる面々が付き従って行った。一行は、三月四日には勢多橋を渡って京都に入り、六波羅の屋敷に入った。以前の平家の屋敷、後の六波羅探題の前身である。

その後、九日には源氏の守り神であり、鎌倉に祀った鶴ヶ岡八幡宮の本社でもある石清水八幡宮に参拝・通夜し、その後十日に奈良に到着、東大寺東南院に入った。

十一日には、千匹の馬、米一万石、黄金一千両、上絹一千疋を東大寺に奉納、その絶大な財力を見せつけて翌日の式典に臨むことになる。建久六年(一一九五)三月十二日、ついに大仏殿落慶法要の日を迎えた。

辰の刻(午前八時頃)、乱声あり、笛が鳴り渡った。後鳥羽天皇が行幸されたのである。御輿は西の回廊から壇上に登り、天皇は下御して大床子にお座りになった。続いて公卿たちと文武百官が着座する。

源頼朝は、莫大な供養料を奉加しながら、式には出ず、東南院の寝殿にいる。征夷大将軍とはいえ、もし出席すれば、後鳥羽天皇の下座につかなければならない。

乱声、振鉾あり、いよいよ供養の法会は始まった。

殿上人が名香をかつぎ入れ、大仏の前に立てる。大仏殿は七色の布で飾り立てられている。その前で、和舞(やまとまい)と東舞(あずままい)が舞われる。

次いで衆僧迎えが行われ、導師、呪願師、引導、散華などの南都北都の供養僧千三百二十四人が入場する。

奈良時代の大仏開眼会における華厳経講説にならい、衆僧は金字華厳経の題名を称揚した。

導師と呪願師が舞台の礼盤に着座し、礼仏する。関白以下官人起座の中、願文ならびに呪願文を奉る。

続いて金鼓あり、背に鳥の羽を付けた四人の童が舞う。また、金鼓あり、唄が歌われる。

大仏開眼の時も悪天候であったが、この日も正午過ぎから雨に見舞われた。さらに未の刻(午後二時頃)には地震まで起きた。最悪の天候であったが、予定通り大仏殿の落慶供養は挙行された。風雨・地震についても、天神地祇までもが降臨されてこの盛儀に立ち会ったためと理解された。

重源は、東大寺の僧四五七名の中には加わらず、南大門脇の隅の座敷にいて式を見ていた。供養の法会は朝廷の儀式であり、重源が表に出ることはない。彼がしておかなければならなかったのは、僧侶たちへの布施など、法会にかかる膨大な経費の準備であった。公家たちにはそのような財力はない。

「大雨の法会も悪くはないな。式が引き締まる。」

 重源は、次々に執り行われる舞や読経を静かに見守っていた。

この日の警護は、未明から和田義盛、梶原景時らが数万の兵士を率いて厳重に行った。かつて威を誇った南都の大衆ではなく、鎌倉武士が主役になった。東大寺の宗徒でさえ中に入れなかった。

「公家や寺家の時代は終わり、これからは武家の時代になるのかのう。」

 重源は、独り言を言った。

大仏殿の前には、貴賎、老若男女を問わず、無数の群衆が集まった。だが、民衆は回廊の中には入れなかった。前回の大仏開眼時の「公事に非ず」といった混乱に懲りて、関白九条兼実が要請したものである。

大仏信仰の盛り上がりは、やがて鎮護国家のための仏教を、民衆の仏教へと変遷させていく。この後、鎌倉新仏教が広がっていくのは歴史の示すとおりである。

丸一日がかりの供養の法会は終わり、宵が迫ってきた。四面の回廊におびただしい灯があげられる。万灯会である。金色の大仏に光が当たる。

重源は、大仏に向かって合掌した。

「足かけ十五年かかったか。長いようで短かったな。」

 重源は、苦しかった勧進の日々、周防国での杣山での難儀など、心の中で思い返していた。

「だが、なさねばならぬことが終ったわけではない。」

 大仏殿内に据えるはずの脇侍二菩薩と四天王像は、間に合わなかった。回廊は仮設である。南大門、八幡宮社殿、七重塔、僧房は、まだ着工にも至っていない。多くの仏像も造らねばならない。

「まだまだこれからだ。わしは生きるぞ。」

重源は、再び気を引き締め直した。

 その翌日、頼朝は、初めて大仏を拝した。そして驚いた。その大きさ、荘厳の美しさに頼朝は感動した。

 重源が、東南院の御所へ頼朝を訪ねると、頼朝は興奮して言った。

「見事な大仏、そして稀有壮大な大仏殿。大勧進殿、良くぞやってくれた。」

 頼朝は、重源の手を両手で握った。

「いえ、これもひとえに将軍様のお力添えの賜物、感謝いたしまする。」

「これだけのものを造った陳和卿なる者にも是非に会いたい。」

頼朝は、大仏再建を技術面で支えた宋人の陳和卿に、重源を仲立ちにして面会を求めた。

重源は、急いで陳和卿の所に出向いた。

「和卿、頼朝殿からたいそうお褒めのお言葉をいただいた。頼朝殿はそちに会いたいそうだ。行ってくれるか。」

「いえ。お断りいたします。合戦によって多くの人命を奪った罪業の深い人とは会いたくはございません。」

「なに。そうか。うむ。そちらしいな。それではしようがない。」

重源は、あえてそのままの返答を頼朝に伝えた。

ところが、逆にその言葉に感激した頼朝は、奥州征伐に使った甲冑・馬具を金銀と共に馬に乗せて贈った。しかし和卿は、すべての財宝を東大寺に寄進し、馬はそのまま頼朝に送り返してしまった。

 重源には、陳和卿の振る舞いが理解できた。陳和卿は中華の国の人間である。頼朝が貢物として献じてくるというのなら納得しただろう。しかし、大仏殿造営に対する礼として贈られるのは、宋人の誇りを傷つける。入宋したことのある重源だからこそ、陳和卿の気持ちはよくわかった。

 供養の後、観賞の発表があった。重源は、「大和尚位」の宣旨を受ける。この時重源七十五歳であった。昔、鑑真に与えられた僧位である。(ただし鑑真の場合は「大和上」と書く)

「うれしいことよのう。」

 重源はこれを素直に喜び、以後、どんな時も大和尚重源と名乗った。

 さて、頼朝のこの度の上洛の目的は、東大寺大仏殿落慶供養臨席のためだけに止まらなかった。頼朝は、わざわざ子供たちまで連れてきた。その中には、娘の大姫もいた。頼朝は、大姫入内の根回しをしに来たのである。大姫を後鳥羽天皇の中宮とすることで、自分は天皇の外戚として権勢を振るおうという魂胆である。

 四月十七日、頼朝は、丹後局を六波羅邸に招き、内意を伝えた。丹後局は、故後白河法皇の愛妾で、朝廷内で強い政治力を有していた。その後、頼朝はことあるごとに大姫入内を画策するが、病弱な大姫は結局二年後に亡くなり、入内が実現することはなかった。

(播磨浄土寺については、「日本の史跡を巡る56 浄土寺での神秘体験 久田巻三」参照)

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