(11)譲り状

建久六年(一一九五)四月十四日、重源は、伊勢神宮に向けて東大寺を発った。四月十七日、外宮において、また、翌日には内宮において、大仏殿完成を報ずる法楽を催した。その後、大般若経を両宮に一部ずつ納めた。

伊勢から東大寺に戻ってから、五月十三日には重源は誰にも告げず、一人で高野新別所に向かった。そこには多くの同行たちがいる。勧進のために全国を駆け回ってくれた者たちである。重源は、心から彼らを慰労した。

突如東大寺から重源が失踪したことに、朝廷や寺家は大騒ぎになった。重源なしでは、これからの東大寺復興は継続し難い。

すぐに造東大寺長官の定長の使者が、高野の重源のもとに差し向けられた。だが、重源は山を下りることはしない。彼は待っていたのだ。

五月二十四日、源頼朝からの使者が京を出る。頼朝の招請により、やっと重源は東大寺に帰った。

そして二十九日、京の六波羅邸に出向き、頼朝と対面した。

「将軍様直々の芳命ゆえ、まかりこしました。」

 重源は深々と頭を下げた。

「大和尚殿が戻られて、この頼朝、安心致し申した。」

「将軍様におかれましては、大仏殿落慶供養が終わって、東大寺のことはもうすっかりお忘れになったと思っておりました。」

「埒もないことを。これからも助力させてもらうぞ。大和尚殿もいつまでもお元気でいてくだされ。」

 重源は、頼朝との駆け引きに勝った。

頼朝は、征夷大将軍として、北は陸奥から南は薩摩まで全国支配を成し遂げ、さらに今回の上洛で朝廷や世間に対し、その勢威を見せつけることができた。造東大寺の大檀越という役割を続ける必要性は薄れてきたといえる。

だが、それでは重源は困るのである。頼朝が重源を呼び戻したということは、造東大寺の支援を継続するという意志を表明したということになる。

 重源の大仏殿成就のお礼感謝の旅は続く。八月七日から九月二十八日にかけては、周防国一宮である玉祖神社の造替を行った。さらに、日別御供料所として、十町の田も寄進した。

十一月七日には、宋版一切経を醍醐寺に施入した。七千余軸の大量の経巻である。それらは、重源が建立した経蔵に収められた。

なお、経蔵は昭和十四年(一九三九)に焼失したが、一切経は宝蔵に移されていて事なきを得ている。

建久六年(一一九五)十一月十一日、造東大寺長官の藤原定長が卒去した。享年四十七である。長官の任にあること八年であった。

「行隆殿といい、定長殿といい、若い者が先立っていく。なのに、わしはいまだに生きながらえておる。」

重源は、世の無常を感じずにはいられなかった。

造東大寺長官の職は、翌年二月一日、藤原宗頼が後を継いだ。

 大仏殿再建という最大の山を越えて、重源にも少し余裕が生まれてきていた。

建久七年(一一九六)四月二十八日、重源は、魚住泊・大輪田泊の修造に対する援助を朝廷に請うた。

「行基が築造したにもかかわらず、長い年月の間に荒廃し、船も困難をきわめ、人命も失われているので、行基の聖跡を旧に復したい。微力ながら努力する。」

南無阿弥陀仏作善集には上記のように述べられている。重源の行基に対する思慕がにじみ出ている。なお、南無阿弥陀仏作善集とは、重源が死の二年半前に、自ら手掛けた一生涯の事業をすべて一覧に書き出した書である。

魚住泊も大輪田泊も、備前国からの米や瓦、あるいは周防国からの材木を奈良に運ぶための瀬戸内海の中継地点として、重要な港であった。

申請は認められ、院庁は、六月三日、摂津国司に対して重源への援助を命令した太政官符を下した。

魚住泊は、現在の江井島漁港と考えられている。ここには「上人の波止め」と呼ばれる石組みが残されている。また、昭和五十四年(一九七九)と昭和六十一年(一九八六)の二度にわたって、松の巨木が引き上げられている。この松は、水中にあっては二段の方形に組み立てられており、その枠の中には人頭大の石が詰まっていた。これは、重源が設置した石椋と考えられる。

大輪田泊は、現在の神戸港であるが、重源の時代のものは何も残っていない。

建久七年(一一九六)六月十八日には、待望の大仏殿脇侍像の造像が開始された。これは、二年前に幕府有力御家人二人に造立が割り当てられていたものだが、いまようやくに準備が整ったものである。坐像ながら六丈(約一八m)の巨像である。康慶、運慶父子が虚空蔵菩薩を、また、定覚、快慶が如意輪観音を担当した。

始まると早いもので、大仏師四人、小仏師八十人の体制で、わずか七十一日で造り上げた。分業が可能な寄せ木造りの工法を用いたのだが、完成までのスピードが速いのが特徴である。 

十二月十日には、大仏殿四天王像も出来上がった。こちらも二年前に有力幕府御家人四人に造立が割り当てられていたものだが、四丈三尺(約一三m)とやはり大きい。運慶、定覚、快慶がそれぞれ受け持って、百六日で造り上げた。

 慶派仏師たちが造像に励んでいるころ、京で異変が起こった。

建久七年(一一九六)十一月、九条兼実が失脚したのである。中宮として入内していた兼実の娘任子に皇子が誕生せず、源通親の養女に皇子が誕生したことから、源通親が後鳥羽院別当となり、実権を掌握するところとなった。この政変の裏では、頼朝の意を受けた丹後局が動いていたようである。任子が内裏を出たことで、大姫の入内に道が開かれたからである。

頼朝の後押しによって関白、氏長者につけられた兼実は、同じ頼朝によって、その地位を降ろされたことになる。

重源は、そんなことにはおかまいなく、大仏殿完成の記念の作善をしようとしていた。いまだかつて誰もしたことのない海外事業である。

建久七年(一一九六年)十二月、宋国阿育王山の舎利殿修造用として、周防国の大材四本を送った。

「わしが入宋した時に世話になった阿育王山の舎利殿がいまだ壊れたままであると聞いた。」

「上人様が宋にお渡りになった時に御参拝になった寺でございますね。」

 聖阿弥陀仏が応えた。

「そうだ。宋国では良き大材を得ることが難しいらしい。そこで周防国の材を役立ててもらおうと思う。」

「それはよき考えにございます。」

「また、わしの肖像を彫像および画像として造らせ、一緒に送ることにしたい。舎利殿に安置してもらおう。」

重源は、舎利殿を建立しただけでなく、永久にその舎利に仕えるための形代として自らの肖像を送ったのである。

 重源は、いよいよ大仏殿に次いで重要な東大寺八幡宮の建立に着手した。この八幡宮は、大仏の守護神として、宇佐八幡宮から勧請されたものである。当時は、神仏混交の時代であり、寺と神社はワンセットのものであった。

建久八年(一一九七)二月二十九日、本殿の上棟があり、四月には完工した。正面五間の大型の社殿であったが、大仏殿と比べたらはるかに小規模である。

 重源は、さらに各地の別所の沙汰にも励んでいる。

建久八年(一一九七)八月二十三日、播磨別所の浄土寺の浄土堂に、快慶作の阿弥陀三尊像を安置した。

十一月二十二日には、周防阿弥陀寺に鉄宝塔を建立した。銘文には阿弥陀寺の四至、境内堂舎、仏像、資財や東大寺の造営経過を刻み込んだ。鉄宝塔の内部には、真舎利七顆を籠めた水晶五輪塔を安置した。(鉄宝塔と水晶五輪塔は、国宝として今に阿弥陀寺に伝わっている。)

舎利信仰は阿弥陀信仰と並び、重源の信仰活動を特徴づける柱である。重源が学んだ醍醐寺には、舎利は、願いを叶える不思議な玉、宝珠とみなす教えがあった。

 舎利はもはや釈迦の遺骨という本来の意味は薄れ、不思議な力を有する魔法の玉としての意味のほうが重要だった。

舎利容器には五輪塔を用いた。古代インドにおいて宇宙を構成すると考えられた、地・水・火・風・空をそれぞれ四角、球、三角、半円、宝珠形で表し、組み上げて塔婆としたものである。

重源の五輪塔は、火輪が正四面体である三角五輪塔が特徴だが、重源の創案ではない。実際には応徳二年(一〇八五)に崩じた白河法皇中宮の遺骨を納めた五輪塔が三角五輪塔であり、それは上醍醐の円光院の須弥壇下に埋納されている。醍醐寺には以前から三角五輪塔を用いた例があるのである。重源は、醍醐寺で修行しており、このことを知っていたと考えられる。

建久九年(一一九八)十二月十九日には、重源は、近江の敏満寺にも金銅三角五輪塔を奉納した。五輪塔の中には、空海招来の東寺舎利一粒が納められていた。東寺舎利は、大仏やその脇侍や四天王に奉納されたように、最も貴重なものとされていた。

これは、当時隆盛を極め、経済的にも豊かであった敏満寺が、東大寺再建に大きく貢献したことへの謝礼の意味を持っていた。重源は、東大寺再興を決意した始めに敏満寺を頼り、また、死の半年前の元久二年(一二〇五)十二月十七日にも七重塔勧進にあたって書状を出している。

「参拝の意志はあるが、造営のことや老骨で進退かなわず、心ならずも失礼している。」

といった文意の書状である。

 さて、建久八年(一一九七)、重源は七十七歳になった。余命は、もはやいつ絶えてもおかしくはない。東大寺では、八幡宮、戒壇院、回廊、僧坊などの建築工事や、大仏殿脇侍像・四天王像の造立が次々と行われている。また、各地の別所の経営も安定してきた。

「自分の死後もこうした状態が続くであろうか。」

重源は、自分が営々として築いてきたものを守り伝えるため、然るべき人物に譲与しようと考えていた。

建久八年(一一九七)六月十五日、重源は、自ら開発、造営してきた寺領荘園および別所堂舎を、東大寺東南院主である定範に譲った。定範は、重源から含阿弥陀仏の名号を与えられている。

寺領荘園としては、伊賀国の四庄、播磨国大部庄、周防国の二庄、備前国の二庄である。毎年の年貢の合計は一九二八石であった。

別所堂舎としては、高野新別所、東大寺別所、渡辺別所、播磨別所の諸堂舎である。

「定範殿、ここにおいて譲るところの所領と堂舎は、代々東南院家のみが相承し、決して余所に分与してはなりませぬぞ。そういうことをすると、衰退の因縁になってしまう。」

 重源は、譲渡にあたって、一つの条件を付けた。

「わかり申した。お約束いたしましょう。」

「それから、ことあるごとに公家ならびに鎌倉殿に仔細を言上し、地頭の乱暴を停止してもらうようお願いなされよ。」

「はい、わかり申した。大和尚の築き上げたもの、この含阿弥、しっかりとお守りいたします。」

「頼み申したぞ。これでわしはいつ死んでもよい。」

 重源は、これで肩の荷が下りたと感じた。

 しかしながら、重源は、この時より、なお足掛け十年の歳月を生きることになる。

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