(12)作善

建久九年(一一九八)一月十一日、後鳥羽天皇は、わずか四歳の土御門天皇に譲位し、十九歳で上皇として院政を始めた。

一方、正治元年(一一九九)一月十三日、源頼朝が突然薨去した。稲毛重成が造った相模川の橋の供養に臨席して、その帰りのことである。落馬して頭を打ち、意識不明に陥ってから、十六日後に死亡した。

 源頼家が十八歳で後を継ぐが、すぐに頼家の訴訟親裁権は停止され、有力御家人十三人による合議制になった。その後、幕府内では権力抗争が起き、北条時政と政子が最終的にその勝者となる。

 このような次第では、頼家は、父頼朝と違って積極的に造東大寺に寄与することはできない。かといって、幕府としての組織が機能しなくなったわけでもない。

建仁三年(一二〇三)五月十七日に、重源が、大部庄や魚住泊に乱入してくる守護人がいることを鎌倉幕府に訴えると、それを受けて将軍源頼家が重源の申請どおり、守護に対し、乱入の停止を命じている。源頼朝の後を受け、引き続き幕府が支援していたのである。

 幕府内の混乱とはかかわりなく、東大寺の復興は続いている。

正治元年(一一九九)六月、東大寺南大門の上棟が執り行われた。東西十四間四尺、南北五間三尺五寸、高さ十三間半という巨大さである。もちろん、わが国の南大門の中では最大である。

南大門は、平家によって焼かれたわけではない。応和二年(九六二)の台風で倒壊し、その後この日に至るまで再建されることがなかったのである。

どんな大風でも地震でも壊れることのないものを造るというのは大前提であった。重源と陳和卿の考えは一致している。大仏殿と同じ工法で造るということである。貫という横木を多用する。指肘木を重ねて軒を長く突き出させる。

 主要な部材は、わずか六種類の断面・大きさに分類し、部材寸法を規格化した。

 こうして、今に伝わる大仏様の壮大な南大門は建造された。

正治元年(一一九九)八月には、東大寺法華堂を修造し、また、正治二年(一二〇〇)には良弁僧正の開山堂を修造する。さらに尊勝院も完成し、東大寺の伽藍は次々と旧に復されていった。

 幕府からの奉加は期待できなくなったが、重源の勧進活動は絶え間なく続けられている。変わったところでは、迎講(ぎょうこう)なるイベントが催されている。

正治二年(一二〇〇)、播磨別所浄土寺で初めて迎講が行われた。迎講とは、阿弥陀仏が諸菩薩を引き連れて浄土から来迎する様子を演劇的に再現する儀式である。

阿弥陀如来立像は、上半身は裸体、下半身のみ裳を着用しており、迎講に際しては布の衣を着せ、浄土堂から相面して立つ薬師堂まで台車に乗せて動かされた。その阿弥陀像を先頭に、仮面をかぶって菩薩に扮した三十人の聖衆の行列が後に続いた。

驚くべきことに、浄土寺では、この時の始修以来昭和十年(一九三五)に至るまで迎講が断続的に行われてきた。民衆の念仏信仰が七百年の時を貫いて続いてきたことが知れる。

さて、建仁二年(一二〇二)、重源は、また行基の旧跡に関する作善を行った。河内国の狭山池の修築である。

二月七日より土を掘り出し、四月八日より二十個以上もの古墳の石棺を流用して六段の石樋を伏せた。工事は四月二十四日に終了した。

 平成五年(一九九三)十二月の狭山池調査事務所による発掘調査で、「重源狭山池改修碑」が発見され、南無阿弥陀仏作善集に記されたことが真実だったことが証明された。

 南無阿弥陀仏作善集には、

「河内国狭山池は行基菩薩の旧跡であるが、堤は崩壊し、既に山野同様になっている。池の機能を回復させるために、六段の石樋を伏せた。」

 と、あるだけで、詳細はよくわからなかった。ところが、石碑には、工事の経緯がさらに詳しく刻まれていた。

「狭山池は行基菩薩が六十四歳の天平三年(七三一)に堤を築き樋を伏せたが、今は水が漏り崩れてしまった。摂津、河内、和泉の三国の水下の五十余郷の人々の要請によって、八十二歳の重源が建仁二年の春から修復を計画し、同年二月七日より工事にかかり、四月八日より石樋を伏せ始め、同月二十四日に工事が終わった。工事の間、道俗男女、沙弥から小児まで石を引き堤を築き、この結縁をもってすべての人々が一仏平等の利益に預かりたい。」

石碑には、身分や男女を問わない一般民衆の工事への結縁者の存在、工事に関わった重源を含む僧侶や技術者の名前が列記されていた。バン(梵字)阿弥陀仏(鑁阿、高野山の勧進聖)、順阿弥陀佛、浄阿弥陀佛、造東大寺大工物部為里、唐人の大工守保などである。

 興福寺の荘園である河内狭山荘の狭山池であったが、行基への思慕傾倒から、重源は作善を行ったと思われる。

(狭山池と狭山池博物館は、「日本の史跡を巡る98 南河内秘仏巡り 久田巻三」参照)

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