(13)東大寺総供養と幻の供養

建仁二年(一二〇二)、重源は、伊賀の地に別所を設けることにした。大仏開眼のおり、陳和卿に与えられた荘園だが、すぐに東大寺に寄進されて、重源の進止するところとなっていた。

彼は、大仏殿の余材を送り、浄土堂を建立した。さらに快慶に作らせた金色の丈六阿弥陀仏を安置し、新大仏寺と号した。

翌年九月一五日には、板彫五輪塔も造立している。重源の別所では、浄土堂、阿弥陀仏、五輪塔はセットである。

 なお、この時から約五百年後の元禄元年(一六八八)、松尾芭蕉がこの地を訪れている。すでに伽藍・堂舎はなく、礎を残すばかりに荒れ果てていた。

芭蕉は、「笈の小文」の中で、次のように記している。

「伊賀の国阿波庄という所に俊乗上人の旧跡あり、護峰山新大仏寺とかや云う、・・・伽藍は破れて礎を残し、・・・丈六の尊像は苔の緑に埋もれて・・・涙こぼるるばかりなり・・・。

丈六に かげろふ高し 石の上」

芭蕉は、雨ざらしになっていた仏像の台座を見て大いに涙し、この句を詠んだ。(新大仏寺については、「日本の史跡を巡る58 五劫院・室生寺・新大仏寺 久田巻三」参照)

さて、建仁三年(一二〇三)七月五日、朝議では、東大寺総供養の日取りと行事次第について議定があった。この席には、正治元年(一一九九)一月二十日に、第四代造東大寺長官に任じられた藤原資実も加わっている。

総供養の日時は十月下旬と決せられる。

 これを聞いて、重源はすぐに藤原資実のもとに走った。

「総供養とは思いのほかのことにござる。東大寺は未造でござる。なにせ、いまだ、東塔ができておりませぬ。それに僧房や鐘楼も。総供養は時期尚早と存ずる。延期をお願い申し上げる。」

「それはできぬ。院のご意向でござる。」

 後に承久の乱で、幕府に戦いを挑んで敗れた後鳥羽院は、この時二十四歳であった。若いときから独断専行の気が強く、何としても幕府抜きで、総供養の法会を催したかったのである。

 重源は、忙しくなった。七月二十四日、南大門仁王像の造像を開始させる。総大仏師は運慶である。阿形は運慶、快慶が、また、吽形は定覚、湛慶が大仏師となり、小仏師十六人の体制で、工期わずかに六十九日で造り上げた。

八月七日、二丈六尺(約八m)の筋骨隆々とした巨大な仁王像が、南大門の左右に立てられた。

それからしばらくして、九月七日、突如幕府から二代将軍頼家の死去が朝廷に奏上されてきた。頼家の四十九日が過ぎるまで東大寺総供養は実施できない。朝議で一月の延期が決定された。

 実は、頼家死去は、虚偽の奏上であった。頼家は、母である北条政子によって、幽閉されていたのである。事情のわからない朝廷は、幕府の上奏を信じるほかはない。

建仁三年(一二〇三)十一月三十日、東大寺総供養が行われた。大仏殿落慶供養以後に建立された堂舎・仏像は、大仏殿脇侍・四天王像、回廊、中門、八幡宮、戒壇院、南大門、仁王像である。

 東大寺総供養の供養主は、九歳の土御門天皇である。後鳥羽上皇は、軒廊に御座している。

一千人の僧が入場し、供養式は始まった。幕府は、平賀朝雅に守護役を命じただけで、鎌倉から将軍や御家人が大挙して上洛し、警護することはない。

 この日も、雨やあられ、雪が交じった天気になってしまう。午後になると西風が激しくなり、会場は一面泥の海と化した。しかし、供養は予定通り進められた。

「二人の檀越、後白河法皇と源頼朝はもう世にない。自分だけが長く生きておる。」

 重源は、一人感慨にふけっていた。

「そのわしもそう長くはないであろう。残り少ない命、東大寺再建に捧げよう。」

 寂しげな東大寺総供養は終わり、重源は、一人東大寺別所に戻っていった。

しばらくして、重源は、臨終仏として阿弥陀如来立像を快慶に造らせた。

さらに、十二月、自らの生涯の事跡を記録に留めた。いわゆる「南無阿弥陀仏作善集」である。

「聖阿弥陀仏よ、わしも八十三歳になった。いつ死んでもおかしくない歳じゃ。ここらで、この生涯で為した作善をまとめておきたい。わしの言葉を書き留めてくれるか。」

「承知しました。では、紙を用意いたしましょう。」

「いや、この裏に書いてくれればよい。」

 そう言って一枚の巻紙を広げた。

「これは、備前国の麦年貢の決算報告書ではござりませぬか。こんなものに大事な記録を残してもよろしいのですか。」

「よいのじゃ。後世に伝えるために書き記すのではない。神仏に報告して、極楽浄土に行かしてもらうためじゃ。わははは。」

 重源は、一つ一つ記憶を確かめながら、慎重に言葉にした。

堂塔の造立四十一・修造十四、大仏修復と丈六仏像五十三体、別所の寺の創建七ヶ所、摂津魚住泊や河内狭山池の修復など、書き連ねた事跡は二百件近い。

「これですべてじゃな。」

「大和尚様、まだ、これは途中のものでございます。さらに作善を為して追加していきましょう。わたしが書き加えまする。」

「うむ。そうじゃな。次は七重塔であるな。ますます勧進に励まねばならぬな。」(「南無阿弥陀仏作善集」は、重要文化財として東京大学史料編纂所に保管されている。)

 元久元年(一二〇四)四月五日、七重塔の「御塔事始め」の儀が執り行われた。重源は、勧進状を執筆し、諸所に送った。

総供養が終わり、朝廷によって行われる供養はもうない。あとは、重源自らが行う供養だけである。

「法華会を行いたい。持経者千人を七重塔の前に並べて、千部の法華経を読誦せしむる。」

 重源は、聖阿弥陀仏に自分の思いを伝えた。

「なにゆえに法華会でございますか。」

「およそわが国で始めて法華会が行われたのは、天平の昔、この東大寺においてであった。」

「なるほど。であれば、供養会を上人様が催されたとしても、朝廷もご納得なさるでしょう。」

「うむ。それから、東塔が完成したら千人の童に法華経を転読させたい。」

「童にですか。なぜ童なのですか。」

「童は無染無欲、無相無著、清浄であるからだ。童には白い直垂、小袴を着させる。これがわしの夢だ。」

「上人様も白直垂を着されるのですか。」

「もちろんだ。白装束は死に装束でもあるからな。わははは。」

「塔が出来上がるまでには何年かかりましょうか。」

「そうだな。三年、いや五年か。」

「ということは、あと五年は、上人様は生きていてくださるということですね。」

「東塔を見るまでは死ねぬわ。」

 そう言って、また重源は笑った。

 だが、建永元年(一二〇六)に入ると、重源は体調を崩した。下痢が止まらなくなり、ついに五月には東大寺勧進所の刻屋の畳に横たわったまま、立つことができなくなった。

 京から典薬頭が呼ばれ、薬が処方されたが、一向に快復のきざしは見えない。

 陳和卿が重源を見舞いに訪れた。

「大和尚、具合はいかがでござるか。」

 重源は、ぼんやりと陳和卿の顔を見つめただけで答えなかった。

「実は、謝らなければならないことがございます。木経が宋国より届きそうにありません。申し訳ございません。」

 陳和卿は、畳に額をつけた。

 木経とは、宋の国に仕えた喩浩という大工の棟梁が書き記した書物である。喩浩は、開封寺の塔を設計した人物であり、木経は、この度の七重塔建立の手本となるはずのものであった。

重源は、手を伸ばして、無言のまま陳和卿の手を握った。陳和卿は目に涙を溜めた。

陳和卿は、その後もずっと日本の地に留まり、宋に帰国することはなかった。

六月に入ると、重源は、水も食べ物も摂らなくなった。そしてついに、六月五日の午前二時、静かに息を引き取った。最期を看取ったのは、同行の者二人だけであった。

東大寺で重源の葬儀は行われない。東大寺は葬儀場ではないからである。九月十五日になって、東大寺で百箇日の追善供養が行われた。七重塔も、童による法華経転読も見ることもなく、重源は八十六年の生涯を閉じた。

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