(3)宋人陳和卿

 この頃、重源にはずっと頭を悩ましていることがあった。それは、大仏鋳造についての技術的裏付けである。重源は、奈良の鋳物師の代表格である草部是助に会いに行った。

「是助殿、大仏の頭を胴体に鋳継ぐことはできようか。」

「そのことについては、御辞退の旨を行隆様に申し上げておりまする。」

「そなたでも無理だと申されるか。」

「できるかどうかはわかりませぬ。何しろ誰もやったことがないことですから。」

「では、できるかもしれないということでござるか。」

「大仏鋳造はやってみなければわからない。私には自信がない。要するにそういうことでござる。」

重源がしつこく聞いても、是助の回答ははっきりしない。

「では、大仏殿の再興についてはいかがでござろう。」

「それはもっと難しいと存ずる。天平の時代の技が今に伝えられておりませぬ。わしの知る木工たちも、皆、そんな大きな建物はできないと申しておりまする。」

 重源は、京での勧進の最中、同行の聖賢を九州へ遣わしていた。宋の技術者を探すためである。日本人の大工では埒があかないと思ったからである。聖賢は、重源が最も信頼する同行で、重源の右腕といってよかった。年は重源より十歳下である。

 朗報は聖賢からすぐに重源のもとに届いた。陳和卿(ちんなけい)なる者が、博多で船を破損して帰れないでいるというものだ。陳和卿は、船頭で、木工事、鍛冶、鋳造もできるという。

重源は、すぐに博多に向かった。

「私は、奈良に住む勧進聖の重源と申す者でござる。いま、戦乱で焼け落ちた大仏とそれを納める大仏殿を再興しようとしておりまする。大仏の大きさは、高さ五丈を超えるもので、おそらく貴国にもない大きな銅の仏です。この工事は、日本の匠たちの力の及ぶところではありません。どうか貴殿の力をお借りすることはできませぬか。」

 重源は、丁寧に頭を下げた。

「そのような大掛かりな工事、私にもかないますまい。せっかくのお誘いですが、断るほかはございません。」

 陳和卿は、ぶっきらぼうに答えた。

「いや、私は知っておりまする。宋国の船頭が優秀な技術をもっていることを。私自身、宋国に行ったことがございまする。貴国の高い文化と技術をこの目でしっかりと確かめて参りました。」

「いや、それはかいかぶりすぎでござる。それよりも私は帰国したい。寧波には、妻子や父母が待っているのです。舎弟の陳仏寿や五人の従者も同じ気持ちです。」

「貴国では衰えてしまった仏法が、この日本国ではまだ盛んでござる。大仏を再興することは、この火を衰えさせないためには大変重きことではござらぬか。中華の国は、この東夷の国に助力する義務があると存ずるが。」

 重源は、あえて日本をおとしめることで、陳和卿の中国人としての使命感に訴えた。

 陳和卿は、しばらくの間考えていた。

「たしかに、私は船大工として、多少の鋳造や木工の技術は持っています。しかし、それが大仏に応用できるかは、その大仏の状況を見てみなければ何とも言えません。」

「それはそうでござろう。では、これより南都に一緒に行って下され。引き受ける、引き受けないは、その後決めていただければよろしい。」

 陳和卿は、無言でうなずいた。

 重源は、喜びでおもわず笑みがこぼれた。

寿永元年(一一八二)七月二十三日、陳和卿一行と重源は大仏の前に立った。

大仏殿の数十本の柱の根元だけが焼け残り、その上部は黒く焦げている。その中央に、頭と両腕の落ちた大仏が座している。胴体は焼け爛れている。

「いかがでござろう。」

 重源が、陳和卿の顔を覗き込む。

「両の手を胴に付けるのはたやすいでしょう。問題は首つなぎですが、頭部は鋳継ぎできるほど良い状態ではありませぬ。鋳溶かして鋳直すしか方法はないでしょうが・・・」

 陳和卿はしばらく考えていた。弟の陳仏寿や従者たちとも、何やら中国語で話している。

「できましょう。幸いにも後山に炉をいくつか置くことができまする。そこから何回かに分けて銅を流し込めば、鋳ることはかないましょう。」

 後山とは、天平の造営後しばらくして大仏が傾き始めたのを止めるために、大仏の背後に築かれていた土の山である。

「それは、それは。」

 重源は、おもわず安堵の息を漏らした。

「して、大仏殿の方はいかが思われるか。」

 陳和卿は、また、従者たちと中国語で相談を始めた。

「宋国においてこのような大きな建物を私は見たことがございません。再建できるかどうかは何とも言えませんが、宋国の福建という地に大型の建物を造る工法がございます。それを用いれば、できないことはないかもしれませぬ。ただし、巨木が何十本も必要となりまする。」

「大材は日本で探せばよろしい。これで見極めがつき申した。」

 重源は、陳和卿の手を取って、強く握りしめた。

やはり、重源の見込んだとおり、陳和卿は優秀な技術者であった。

「では、陳和卿殿には惣大工になっていただき、この工事一切を取り仕切っていただきたい。」

「宋人が棟梁でよろしいのですか。」

「問題ござらん。日本人の鋳物師や木工たちには、私から話をいたしまする。」

「左様ですか。では、承知いたしました。お受けいたしましょう。」

「それで、契約のことでござるが、帰国までの一切の費用と船の修理代、それと報酬として・・・」

「いや、船の修理代だけで結構。船が元通りになれば、また商いができまする。報酬は無用にございます。」

 重源には陳和卿の言うことがわかった。下しものをするのは、中華の国の方なのである。周辺の蕃夷の国が朝貢をして、それに応えて中国が豊富な物産を下賜するというのが、中華世界の建前なのである。渡宋した経験のある重源だからこそ、陳和卿の宋人としてのプライドが理解できた。

 いずれにしても、重源は東大寺復興の技術的見極めがついて、一安心した。これで、ますます勧進に励むことになった。

 陳和卿の合力で、大仏鋳造が成就することは確かであると聞いた兼実は、その日記「玉葉」の中で、

「これは神の助けであり、天の力である。」

と感謝し、

「世が滅びんとしている時にそれだけが頼みである。」

と喜んだ。

 寿永二年(一一八三)一月二十四日、右大臣九条兼実は、重源を自邸に招き、両者は初めて相まみえた。この時、兼実三十五歳、重源六十三歳である。

「大仏のこと、大儀である。で、進み具合はいかがじゃ。」

「すこぶる順調でございまする。まもなく大仏の右手を鋳造し、仏身につなげることができましょう。頭の方も、あと三月もあれば。」

「それは、上々。安心したぞ。ところで、そちは唐の国へ行ったことがあるそうじゃな。」

「はい。四十七歳の時に渡宋いたしました。五台山に巡礼して文殊菩薩を拝したいとの思いからでございました。しかし、それは果たせませなんだ。五台山が異民族である金国の支配のもとにあったためでございます。」

「それは残念なことであったのう。」

「仕方なく、寧波にある四明山に上りました。天台宗山家派の聖地でございます。そこで、なんと栄西に会いました。」

「栄西か。名前は聞いておるぞ。」

「私は、十余人の宋人を弟子にし、栄西とともに今度は天台山と阿育王山を巡拝いたしました。天台山では面白いことがございました。」

「ほう、それはなんじゃ。」

「天台山には、破戒罪業の者は渡れないとされる石橋がございます。橋の幅は四寸(十二cm)、長さは四丈(十二m)ほどでございます。中国の人も十人中八、九人は達することができないと言われております。私はこの石橋を渡ったのでございます。」

「ほう、そうか。それは貴ぶべし、貴ぶべし。」

 兼実は、手をたたいて、我がことのように喜んだ。

重源は、自分の渡宋体験を具体的に話すことで、権威付けをしようとした。東大寺のことにはまったく無関心だった兼実を少しは振り向かせることができたようである。というのも、同年二月十一日に、兼実の妻が、春日詣でのついでに大仏を見物しているからである。

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