(4)大仏鋳造

「是助よ。そちに、ちと頼みがある。醍醐寺の大湯屋に湯釜を作ってほしいのだが。」

 重源は、鋳物師の草部是助を東大寺の別所に呼んだ。

「大勧進殿、それはおやすい御用。で、いかほどのものを作ればよろしいか。」

「湯釜の大きさは水三百石納で、鉄八百斤を用いる。」

「それは、なんと大きな。」

「わしは、高野に移るまで醍醐寺に世話になっておった。今回の寄進は、その御恩返しじゃ。」

重源は、四十五歳になって高野新別所で独立するまで、京都の醍醐寺に住んでいた。

「さようでござるか。では、この是助、やってみましょう。」

寿永二年(一一八三)三月十七日、重源は、醍醐寺大湯屋の鉄釜を日本人鋳物師草部是助らに造らせた。

今回の依頼は、またもう一つの意味合いを持っていた。それは、これから行う大仏頭部の鋳造という大工事に当たって、日本鋳物師筆頭の草部是助の初仕事への準備作業という側面である。「支度第一俊乗坊」と呼ばれた重源の用意周到さが表れている。支度第一とは、事前の準備や手配に優れているという意味である。

寿永二年(一一八三)四月十九日から大仏の頭部鋳造が開始された。

「それでは始めようぞ。事前に十分に吟味したゆえ、間違いはないはずじゃ。手筈どおりに進めればよい。」

 勢揃いした工人たちを前に、重源は、一人一人と目を合わせた。陳和卿を惣大工に、弟の陳仏寿以下中国人七人、日本の鋳物師草部是肋ら十四人の工人たちである。

「では、銅を流し込め。」

 陳和卿が号令をかけた。

大仏の傾きを止めるために築かれていた後山の上に、炉三基を構え、そこから一気に銅七百斤を注ぎ込む。

「ゴーン。ドーン。ド、ドドーン。」

融解し灼熱した銅は、空中に炎を上げ、雷電のごとき大音響を発した。

周囲では多数の僧が大般若経を転読した。転読とは一部分のみ読むことである。大般若経は六百巻という大部の経なので、転読されるのが常である。

また、東大寺鎮守八幡社と春日大社の神楽も催された。

読経と神楽は重源の趣向である。大仏鋳造を単なる工事に終わらせず、一つの見世物として世間の関心を集めようとしたのである。

その効果は絶大であった。鋳造の様子を伝え聞いた民衆は、続々と東大寺に集まり、水瓶、匙、鏡など多くの奉加物を施入した。

一日おきに銅を流し込み、十四度繰り返した。一ヶ月で銅一万斤を使い、仏身につなげた。

途中、銅湯が漏れ出て、工事のために組まれていた仮屋が炎上する事故もあったが、居合わせた僧俗が身命を惜しまずに消火に奔走し、事なきを得ている。

 鋳造開始からちょうど一ヵ月後の五月十八日、頭部鋳造は終わり、表面の研磨と荘厳(金箔の貼り付け)に作業は移る。

翌五月十九日、兼実は大仏に仏舎利と願文を籠めた。彼は、重源からの影響を徐々に受け、この頃には東大寺の再興にも少しは関心を示すようになっていた。

もう一人影響を受けた者がいる。仏師運慶である。彼は、大仏頭部鋳造の最中の四月二十九日から法華経の書写を開始した。軸木には東大寺の焼失した柱の残り木を使ったという。書写し終えた法華経は、礼拝を五万回した。(この国宝「運慶願経」は、兵庫県の個人が所蔵して今に伝わっている。)

 さて、無事大工事を成功させた重源は、自分を権威付けるために途方もないことを始めた。自らを「南無阿弥陀仏」と名乗りはじめたのである。

「わしは、今より阿弥陀仏の化身となった。」

仏の名を名乗るなど前代未聞であり、ちょっと図々しいというか厚かましい。しかし、こうしたことを平気でするのが重源らしいところでもある。

また、弟子や帰依者にも阿弥陀仏号を勧め始める。例えば、自分の甥である観房には、「阿弥陀仏」の上に一字を付けて「観阿弥陀仏」という名号を与えた。

阿弥陀仏の名をつけることは重源が初めてではなく、以前から行われていた。従来と大きく違っていたのは、重源の場合は、組織的に行ったことである。

後のことであるが、周防国長沼・神前両庄の預所に任じた春阿弥陀仏や得阿弥陀仏、播磨国大部庄の預所に任じた如阿弥陀仏、また、備前国野田庄には重阿弥陀仏など、重要な別所には信頼の厚い同行を当てていた。

また、快慶には安阿弥陀仏、その弟子長快にも定阿弥陀仏など、重源の重用した仏師たちにも阿弥陀仏号を与えている。

さらに、重源よりも位の高いと思われる人物にも阿弥陀仏号を授けている。例えば、重源の最晩年に寺領を譲った東大寺東南院主の定範は含阿弥陀仏だし、高野蓮華三昧院の明遍も空阿弥陀仏を称していた。

もちろん、一般の民衆にも分け隔てなく、阿弥陀仏号を与えている。

「地獄で閻魔大王に名を問われた時、仏の名なら極楽行きは間違いないだろう。」

重源は、分かりやすく大衆を教化した。多くの民衆は素直に喜び、喜捨に励んだ。

重源の大胆さというか図々しさの例は他にもある。安元二年(一一七六)、重源五十六歳の時、高野山延寿院に銅鐘一口を施入しているが、その鐘の銘には「勧進入唐三度聖人重源」と署名している。彼は、一度しか入宋してない。自分を権威付けるためにあえて嘘をついているのである。(この銅梵鐘は、重要文化財として、高野山にも近い和歌山県泉福寺に今に伝わっている。)

さて、この間、政局は揺れに揺れていた。大仏頭部鋳造のさなかの寿永二年(一一八三)五月十六日、平氏の官軍が北陸道で木曽義仲に大敗する。七月二十五日に後白河法皇が比叡山に逃れたことが発覚すると、平家は都落ちを決断した。代わって義仲が入京し、翌寿永三年(一一八四)一月十一日、征夷大将軍に補任される。

だが、義仲は、九日後の一月二十日には、近江の粟津で源義経に討たれてしまう。六日後の二十六日には、後白河法皇は、源頼朝に平氏追討の宣旨を下す。

寿永三年(一一八四)二月七日、一の谷の合戦で平家は敗れ、副将軍平重衡は生け捕りにされてしまう。平重衡は南都焼き討ちの張本人である。二月十四日京に送られ、市中を引き回された。

重衡は、三月十日には京から鎌倉に送られる。四月二十八日、伊豆の国府で頼朝と対面した後、狩野介宗茂に預けられた。

元暦二年(一一八五)三月二十四日、壇ノ浦合戦でついに平家は滅ぶ。

同年六月二十三日、焼き討ちの張本人平重衡は、南都の大衆によって斬首され、その首が奈良坂に懸けられた。

重源は、その首を、日野の里にいた重衡の妻、佐の局に届けた。南都からは非難の声が上がったが、彼は次のようにきっぱりと答えた。

「戦乱の審判は勝者がするもの。自分は、重衡殿の罪は、勝敗者全員の罪と考えて、届けたものである。大仏の再建は一命をもって必ず実現する。人々が相争うことが如何に馬鹿げたことか、後世に、再び繰り返してはならないことを教えねばならない。」

 重源にとっては、源氏も平氏もない。ただ大仏という目に見えるものによって、人々に心の安寧をもたらすことができれば、それだけでいいと考えていた。

 寿永三年(一一八四)六月になって、重源は、大仏修造の進み具合を報告するために行隆邸を訪ねた。

「大仏の体部の表面は磨き終わり申した。鋳込みを十四度に分けて行ったので、十四の繋ぎ目ができておりましたが、その横筋も今は見えませぬ。」

「それは、上々でございますな。」

「ただ、荘厳の方が進んでおりませぬ。なにしろ大仏の面相に貼る金箔が足りませぬ。これでは一部にしか施せませぬ。」

「金ですか。勧進の方はいかがでございますか。」

「金は民庶からはなかなか望めませぬ。大口の寄進を得ることを考えねばならぬ時かと。」

「大口というと、奥州のことでしょうか。」

「いかにも。秀衡殿に頼むことはできませぬか。」

藤原秀衡は、陸奥で金鉱開発を進めて大きな財力を持っていた。

「はあ。できないこともないとは思いますが・・・。では、右大臣殿に相談してみましょう。」

六月二十三日、藤原行隆は、九条兼実を訪れた。

「行隆か、大仏の方はいかがじゃ、」

「体部の鋳造はだいたい完了いたしました。」

「それはよきこと。それで、この後の見込みはどうなる。」

「はい。翌月中には仕上げと表面の荘厳、その後開眼という次第になるかと存じます。ただ、金の量が不足するため、諸人の寄進を仰いでおります。しかしながら、なかなか集まりが悪うございます。」

「そうか。それでは、秀衡と頼朝に頼んでみるか。法皇から文を出していただこう。」

「はい。よしなにお願い申し上げます。」

後白河法皇の要請に、藤原秀衡は金五千両、源頼朝は一千両の奉加を約束した。頼朝は、平家と戦っている最中ではあったが、平家の焼いた東大寺の再建を源氏が助けるということで、民意を源氏方に向けさせるという政治的な思惑もあった。

 頼朝は、重源に対しても寿永三年(一一八四)七月二日に御教書(大江広元奉書)を出している。

 一つ、東大寺領を含め、北陸道にあった寺社領に対する武士の狼藉を停止する下し文を出したこと

 一つ、平正盛が寄進して六条院領となっていた伊賀国鞆田庄を東大寺に返付すること

 一つ、大仏の鍍金について、秋に上洛する折りに金を持参すること

(「大江広元奉書」は、国宝東大寺文書として今に伝わっている。)

平家は、屋島を拠点に依然有力な兵力を有しており、戦況は決して予断を許さなかった。そのような時期にもかかわらず、頼朝は、東大寺のことに対して非常に意を配っている。

元暦二年(一一八五)三月七日にも、頼朝は、米一万石、砂金一千両、上絹一千疋を奉加するとの書状を重源に送っている。三月九日に、西国で戦う弟範頼が兵糧の不足を訴えてきたという時にである。

 とは言え、秀衡も頼朝もすぐには約束を果たさなかった。

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