(5)大仏開眼供養

 この頃、もう一つ重源の頭を悩ませている問題があった。それは大仏殿の用材のことである。どこから巨木を調達するか、まったく目途が立っていなかったのである。大仏殿ができなければ、大仏は雨ざらしのままだ。

 重源の頼るべきは、造東大寺長官の藤原行隆しかいない。重源は頼みこんで、行隆に院庁に行ってもらう。

元暦二年(一一八五)三月三十日、行隆は、兼実邸を訪れた。

「重源が、伊勢神宮の杣山から大仏殿の材木を採取させてほしいと願い出ております。」

「何を馬鹿なことを申すか。明年は、伊勢大神宮の遷宮の年であるぞ。その材は伊勢杣山から採るものと決まっておる。六月三日には山口祭の式も執り行われることになっておる。」

「しかし、他にあてがございません。」

「そんなことはわしの知ったことではない。帰って重源によく申し伝えよ。伊勢はまかりならぬとな。」

行隆は帰って、事の次第を重源に伝えた。

「やはりだめでござったか。」

「力及ばず申し訳ござりません。」

「いや、このように壁に打ち当たることは予期していたことにござる。大勧進の宣旨を受けてから、こういうことが起こるのは覚悟しておりました。」

「砂金は届かず、材木は当てがなく、・・・」

 行隆は肩を落とした。

「焦ることはございませぬ。勧進を続ければよろしい。御子息も熱心に諸国を回っておりまするぞ。」

 行隆は、自分の息子を重源の弟子にしていた。それだけ重源に惚れ込んでいたのである。二人は同志のような間柄となっていた。

 そんな重源と行隆の苦悩を知ってか知らずか、院庁は、大仏開眼の日時を陰陽師に勘文させ、来る八月二十八日と決めてしまった。あと二ヶ月しかない。

これを聞いた陳和卿は、重源に苦言を言った。

「荘厳はこれからでございますぞ。面相の鍍金さえ、まだ一部にしかほどこされてはおりませぬ。」

「奥州からの金が到着していない今、仕方のないことよ。」

「まだ、この大仏は半作でござる。この国のあるじは、この中途半端な大仏で儀式を行うと申されるか。」

「わしも、開眼供養の日を延期してほしいと申し出た。だが、院庁はまったく聞く耳を持たぬのだ。」

「なぜでございますか。」

「大勧進といえども、あくまでも勧進によって供養料を集めることを期待されているだけじゃ。朝廷のなす行事に口出しすることはできぬ。」

「日本のあるじは、何を考えておるのか、わしら宋人にはわかりませぬ。」

「まあ、よいではないか。ここらあたりで開眼供養を行えば、民衆の心を更に盛り上げ、大仏殿の復興へとつながっていくというものだ。」

重源は、盛大な儀式を行うことで、大仏殿再建などの今後の事業への衆庶の関心が盛りあがることに期待していた。

文治元年(一一八五)八月二十八日、大仏開眼供養は予定通り執り行われた。開眼供養の式次第は、天平のそれに準じて左大臣藤原経宗が起草した。

経宗は、天平の開眼が婆羅門僧正によってなされたことから、実際の開眼を行うのは僧侶を想定していたが、重源はこれを最高権力者の後白河法皇に依頼した。周囲の反対はあったが、法皇自身も強く望んだことであった。

 大仏前の広場に、後白河法皇をはじめ公卿百官が居並び、僧一千人が参加した。重源と陳和卿は、広場の後方の隅で式を見守った。

正倉院の勅封倉から、天平勝宝四年(七五二)の大仏開眼時に使用された筆と墨が取り出され、後白河法皇の手に渡される。   

あいにく昼頃から大雨になった。それでも、後白河法皇はびしょぬれになりながら、自ら筆を執って開眼した。

 筆には善の綱十二本がつながれ、多くの道俗が念珠、髪飾りを結びつけて大仏に結縁した。雑人は腰刀を舞台に投げ入れ、それを重源の弟子が拾い集めるという始末であった。およそ公式な行事とは思われなかった。

勧進に応じた人々が「わが大仏」の完成を見に押し寄せたのだ。皆、末法の世に生まれ合わせた不幸せを信じている。当時は源平の合戦のため戦乱が絶えず、また時を同じくして襲った飢饉のため生活するだけでも大変な時代であった。さらにこの前月には大地震まで発生している。そういった悲惨な状況であるからこそ、人々は大仏再建に救いを求めたのであった。

衆庶の熱狂は、重源の思惑通りであった。

「大変な騒ぎであったな。」

夕刻、大仏開眼の儀式が終わって誰もいなくなった大仏の前で、重源は陳和卿に言葉をかけた。

「朝廷の儀式なので、もっと厳かなものかと思っておりましたが。」

「いや、これでよいのじゃ。大仏は、民衆のものだからな。あははは。」

重源は、満足そうに笑った。

現場に居合わせなかった兼実は、供養会を実見した源雅頼を自宅に招いて尋ねた。

「開眼の儀式は、衆庶が押し寄せて大混乱だったそうだな。」

「はい、およそ公事にあらずといった様相でございました。」

「わしも民衆の熱狂を見てみたかった。ところで、大仏開眼は、後白河法皇がなされたそうだな。天平勝宝の先例に従えば、開眼師は婆羅門僧が行うのが筋ではないのか。法皇はいつから僧侶になり申したのかのう。」

 兼実は皮肉を言った。

「法皇自身が強く望まれたことのようにございます。」

「ところで、大仏の面相はいかがであった。」

「さようでございますな。御面ばかり滅金を塗り奉り、相好はなはだ微妙でございますな。あえて言えば、昔に比べて少し劣るというのが、私の感想にございます。」

「どのように劣るのじゃ。」

「何と申したらよろしいか。あれが宋風の相貌と申すのでございましょうか。なんとなく柔らかみに欠ける気がいたします。」

「そうであるか。宋人に任せたのだから、それは致し方あるまい。」

 実際に大仏の面相はどうであったのか。戦国時代に松永久秀によって焼かれ、大仏頭部が現存しない以上、それはわからない。現在我々が見ることができるのは、江戸期に再鋳された大仏の面相だ。

 重源も、大仏の面相に関する否定的な評判は耳にしていた。だが、彼はまったく気にしていなかった。

「これからは、宋国の空気を取り入れていかなければならない。そういう時代になったのだ。いや、そうしなくてはいけない。」

 渡宋して、宋の進んだ文化や技術を目の当たりにした重源だからこそ、他人の誹謗中傷にも平然としていられた。

 さて、この間、政局は混乱の極みに達していた。

文治元年(一一八五)十月十八日、後白河法皇は、義経・行家に源頼朝追討の院宣を下す。

だが、十二月二十四日、北条時政が入京し、義経・行家が都を落ちると、手の平を返したように、今度は源頼朝に義経・行家追討の院宣を下す。

頼朝の圧力で、後白河法皇の近臣は解官させられ、義経の探索を名目に、朝廷は守護地頭の設置を許可せざるを得なくなった。

義経は各地を転々として、ようやくのこと、文治二年(一一八七)二月に奥州平泉に至る。

一方、九条兼実は、頼朝の推挙で内覧に就任し、朝廷の実権を掌握した。そして、文治二年(一一八六)三月十一日には、晴れて待望の摂政・氏長者になった。

政治の転変に、重源も関心を示さなくてはならなくなったのか。この頃の重源は、東大寺復興事業に行き詰まりを感じていた。

大仏殿再建は、大仏復興とは桁違いの大事業である。大材を何百本と深山から切り出し、奈良まで運び込んで、巨大建築物に仕立て上げなければならない。これに要する費用は膨大なものであった。

江戸期の大仏再建の例を引いてみよう。大仏修復には一万二千両かかったが、大仏殿の再建には十八万両もの資金が必要だったという。実に十五倍である。

現在の大仏殿は、江戸期の再建で、正面五十七mだが、重源が建てたものは、横幅で1.5倍も大きい。正面が八十七.九mもあり、しかも総二階建てだった。主柱の数だけでも、現在の六十四本に対し、九十二本を必要とした。

こうした点も考慮すると、重源の時代の大仏殿再建は、大仏復興の二十五倍程度の費用を要したと推定できる。

 重源は、大勧進就任の際、衆庶の知識物のみによって東大寺復興を成し遂げると宣言した。だが、ここに来て、通常の勧進だけでは、大仏殿再建はとても成就できないのは明らかだった。重源は、国家権力の微妙な変動をにらみながら、ここで方針転換を考える。

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