(6)大仏造営料国

「聖阿弥陀仏よ、わしは周防国を東大寺に賜わるよう、朝廷にお願いしてみようと思うのだが。」

 重源は、同行の聖阿弥陀仏に相談を持ちかけた。聖阿弥陀仏は、聖賢の阿弥陀仏号である。なお、周防国は、現在の山口県の東半分である。

「え、一国を貰い受けるのですか。」

「そうじゃ。大仏造営料国としてな。」

「しかし、寺に知行国が与えられた前例はござりませぬが。朝廷が簡単にこちらの希望を受け入れてくれましょうか。」

「わからぬ。だが、院庁と頼朝殿に申請の書を出そうと思う。」

「頼朝殿にも依頼するのですか。」

「そうじゃ。いまや、頼朝殿の意向がそのまま朝議の決となることが常のようじゃからな。」

 重源は、造東大寺長官の藤原行隆を通じて、朝廷の内情をよく知っていた。

「ところで、なぜ周防国なのですか。」

「それはじゃな、去る承安二年(一一七二)、わしが五十二歳の時のことじゃ。筑前誓願寺の丈六阿弥陀像に結縁した時に、周防の材を造像に使ったのじゃ。周防国には大木良材が豊富であることを、わしは知っておる。」

「なるほど。それなら大仏殿の用材が手に入るかもしれませぬな。」

この頃は、巨木を得るのに腐心していた時期である。大仏殿に用いる主柱は、長さ七丈(二十一m)から十丈(三十m)、太さは五尺五寸(一.七m)は必要であった。棟木にいたっては、長さ十三丈(四十m)という途方もないものである。これら大材が得られるのは、周防国しかない。重源は、何としても周防国が欲しかった。

だが、重源は、初めに造東大寺大勧進の職を受ける時、衆庶からの知識物をもって東大寺の復興を成すと約束している。したがって、東大寺に一国を与えるなどということを、朝廷がすぐに了承するはずもなかった。

重源は、もう一度伊勢神宮に頼み込んでみようと思った。天平の時代にも、聖武天皇は伊勢大神宮に橘諸兄を遣わし、大仏造立の祈請を行わせている。その時、大仏は天照大神と一体のものという夢告があったという。伊勢に行く名目はある。

文治二年(一一八六)二月一日、重源は十人の同行とともに伊勢神宮に参詣した。二十一日間祈請を行ったが、その間に伊勢神宮の禰宜に対し、三月に伊勢神宮の杣山から材木を切り出したいと懇願したが、やはり同年が式年遷宮であると断られてしまった。

ところで、重源が伊勢に出向いたのには、もう一つ理由があった。それは西行に会うことである。西行は、この時六十九歳で、伊勢の二見浦の庵に隠棲していた。重源は六十六歳なので、三歳年上になる。

「西行殿、お久しぶりでござる。」

「重源殿に最後にお会いしたのは六年前でございますな。私が高野を離れる時には、盛大なお見送り、かたじけなかった。」

「わたしも、今は高野を下り、奈良に暮らしておりまする。」

「東大寺の再興にはご苦労されていると聞き及んでおりますが。」

「はい。実はそのことで、今日はお願いに参りました。」

「さて、こんな老いぼれに頼みごととは。」

「実は、平泉に行っていただきたいのです。」

「やはり、そのことですか。あなたが伊勢に来られたと聞いて、きっと私を訪ねてくると思っていました。」

「大仏を荘厳する砂金が足りません。二年前に藤原秀衡殿は、金五千両の奉加を約束してくださいました。しかし、今になっても金は届いておりません。ここは、奥州藤原氏の一族である西行殿に平泉に行っていただいて、直接秀衡殿にお頼み申していただきたい。」

「そうですか。私の命もそう長くはないでしょう。わかりました。冥土に旅立つ前の最後の一仕事、承りましょう。」

「ご承知いただき、この重源、感じ入りました。よろしくお願いいたします。」

文治二年(一一八六)七月、西行は東海道を下って東に向かった。途中、八月十五日から十六日にかけて、源頼朝と鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮で会った。

話はすんなりと通った。源頼朝も、藤原秀衡に砂金の勧進を口添えし、秀衡もこれに応じたのである。奥州藤原氏は、頼朝に従うことを選んだのである。

砂金の件は進展が望めたが、大仏殿の用材探しの方は暗礁に乗り上げていた。

そこで、重源は、次の手を打った。伊勢神宮で大般若経の転読供養を催行したい旨を、行隆を通して院庁に一通、頼朝にも一通の書状を送ったのだ。十人の持経者、六十人の学僧、その他所従・雑人等を含めて七百人を率いての大々的な伊勢神宮参詣である。

これには、院庁も驚き、伊勢神宮での大般若経の転読供養は、院宣の沙汰となった。つまり、後白河法皇の御願のこととなったのである。

重源の一連の行動は、東大寺の造営に伊勢の神の力を借りようとするものである。天皇や院の頼む神は伊勢であり、院のさらなる後援を引き出そうという意図がものの見事に当たったのである。また、伊勢は、朝廷と幕府の接点でもある。諸勢力の交錯する伊勢に入って行き、伊勢の神の力を借りて東大寺再建への協力を諸勢力に求めようというのが重源の思惑であった。

文治二年(一一八六)四月二十三日から五月三日にかけて、伊勢神宮で大般若経の転読供養は盛大に行われた。無数無辺の貴賤男女も結縁した。

こうした重源の必死の画策が実ったのか、また、頼朝の圧力が効いたのか、文治二年(一一八六)三月二十三日の除目で、ついに周防国は東大寺に与えられることが決まった。四月五日には、後白河法皇の院宣も下された。

「大勧進様、おめでとうございます。これで大仏殿が造れますね。」

 春阿弥陀仏が喜びの声を上げた。彼も同行の一人であり、多年にわたり重源に付き従っていた。

「わしは国司となるが、現地に常駐することは難しい。わしの代わりとして、春阿弥が周防国の目代となってはくれまいか。」

「はい。喜んで。任をまっとうしたいと存じます。」

「うむ、頼んだぞ。まずは、大材探しだな。早く周防に行きたい。」

文治二年(一一八六)四月十日 陳和卿と番匠物部為里、櫻島国宗ら十数人を連れて、重源は周防に乗り込んだ。

国庁のある防府の浜には、前年の源平決戦で家を失い、飢えた人々が待っていた。

「あの者たちに食べ物を与えよ。」

重源は、すぐ船にある米で炊き出しをした。

 重源は、防府から佐波川を三十kmさかのぼった徳地を拠点と定め、いよいよ杣に分け入る。

文治二年(一一八六)四月二十六日、杣始めの式が行われた。重源は、地元の杣人や人夫を前に問いかけた。

「大仏殿に用いる柱は、大材である。太さは五尺五寸(一.七m)以上、長さは七丈(二十一m)以上である。誰か、このような大材の所在を知るものはあるか。」

「そんな大きなものは見たこともねえ。もっと山に入り込まねば見つかるまい。」

 一同は、口々にそう答えた。

「では、巨木を見つけた者には一本につき米一石を与える。」

 オーという声が上がった。米一石といえば、大人が一年間食する量である。重源は、破格の懸賞で用材を探させようとした。

 杣人たちは、競って山に入っていった。やがて何本か大木が見つかり始めた。

 木は伐採されたが、それを運び出すのがまた一苦労である。切り出された木は、佐波川の水運を使って防府の港まで運ぶ算段であったが、木を佐波川まで下ろしてくるのが大変なのである。

まず、荊棘を除き、人が通れる道を作らねばならない。次に、巨木をスムーズに運べるように、道を平らにする。また、谷を横切る橋も架ける。だが、木を引くのに最後の頼りは人力である。作業者は、国中の在家五軒ないし十軒に一人を割り当て、総計七百人を集めた。

「それ、引け。せーの、せーの。」

番匠物部為里の声に、七百人が一斉に巨木に縛り付けた麻綱を引いた。

しかし、大木はびくともしない。

もう一度試みたが同じである。

「もっと人を集めねば。」

重源は、さらに人夫を集め、千人に増やして再び引いた。巨木は少し動いた。だが、一刻がんばって引いても一メートル進めばいい方である。人夫たちは、疲れ果ててしまい、やがて麻綱から手を離した。

これを見ていた陳和卿は、重源に献策した。

「轆轤を使ったらいかがでございましょう。」

「轆轤とはなんぞや。」

「まず、地面から垂直に立てた軸木に円盤を水平に繋ぎまする。その円盤に力棒を四方から差し込み、その棒を多人数で回して綱を巻き上げまする。少ない力で大きな力を出すことができまする。宋国ではよく使われる技でございます。」

「そうか。よし、それを試してみよう。」

 轆轤(ろくろ)とは、てこの原理を利用した仕組みである。重源は、一も二もなく陳和卿の案に飛びついた。

 さっそく番匠物部為里と櫻島国宗に轆轤を二張作らせて、尾根の上に据え付けた。

今度は、十五人ずつが一本の棒に取り付き、総計六十人で轆轤を回し始めた。ゆっくりではあるが、大木が谷から引き上げられていく。

「よし、いいぞ。そのまま回し続けよ。」

番匠物部為里が人夫たちを励ました。

 大木は程なくして杣道まで引き上げられた。これを見守る者たち全員が手を叩き、歓声を上げた。

 他の場所で巨木が見つかれば、また、道を作り、轆轤を据えての木引きという繰り返しであった。

こうして、山中に作った杣道は、延べ三百町(約三十三km)にもなった。

 周防国に上陸してから二ヵ月後、宋仕込みの技術である轆轤の使用で大材引きに目途が立つと、重源は奈良に戻った。

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