(7)周防杣山の難儀

文治二年(一一八六)七月十六日、東大寺大仏の眉間から光が発せられた。大仏開眼から約一年後のことである。

東大寺の大仏の仮殿に参籠していた僧叡俊は、大仏の眉間から光明が放たれていることに気がついた。灯籠の灯が反射したものだろうか、それとも目の錯覚か、と不審に思っていたところ、近くにいた勝恵という僧に「光を見たか」と問われた。それで見間違いではなかったことがわかり、周囲の人々にも確認したが、ほかの人々は見た人もいれば見なかった人もいた。
 さらに閏七月八日には谷尼公(たにのあまぎみ)という尼が、同様に光を目撃しており、十五日には伊賀の覚俊という者が通夜して祈りを捧げた時にも光を見た。また鎮守の手向山八幡宮の巫女も、拝殿でお勤めをしていた時に光を見て感涙にむせんだ。二十一日には観乗という僧が大仏の仏壇に登った時にやはり眉間に光を見ており、小僧の国頼という者もやはり光を見た。
 造東大寺長官である藤原行隆は、閏七月二十七日、これらの話を右大臣の九条兼実に伝えた。

「奇異なことが続けておきました。」

「そんなに多くの者が見たというのなら、偽りではなかろう。貴ぶべし、貴ぶべし。」

「この話を聞きつけて参籠者が後を絶ちませぬ。」

「そうか。奇跡の話が広がって伝わっているのだろう。」

「はい。民庶の大仏に対する信仰は並々ならぬものがございます。」

「一時はこの世の終わりかと思ったが、大仏が再建されて本当によかった。次は大仏殿だな。」

「はい。重源たちが周防国に入りました。大材が見つかればよいのですが。」

「うむ。そうだな。わしも大仏を見に、南都に参ろうかのう。」

「はい。是非にそうなされませ。」

 兼実は、八月十五日、仮屋の中の大仏を拝した。この頃には東大寺にも少しは関心を示すようになっていた。

一方、重源が周防国から帰京したのには、一つのわけがあった。文治二年(一一八六)八月中旬に催される「大原問答」への参加を請われていたのである。

 浄土宗を開いた法然と、既成仏教の天台密教・東寺密教・南都八宗ら総勢百五十名程が、京都大原三千院に集まって、法然の言う「選択本願念仏」とは如何なるものかを討論する会であった。重源も三十余人を連れて参加した。

三日三晩問答は続けられたが、勝敗の結論は出なかった。しかし、参加者らは、法然の教学に賛同を表し、ここに浄土宗の基礎が固まった。

 問答が終わり、法然と重源の二人だけが残り、廊下に並んで対話した。

「この談義をどう思われましたか。」

 法然が重源に尋ねた。

「あなたは、ただ南無阿弥陀仏を唱えなさい、そうすれば阿弥陀如来が手を差し伸べて迎えに来てくださるといわれるけれど、私はそうは思わない。」

「と、申されますと。」

「人の目に見えない仏陀が、民衆を救うとお思いなされるか。」

「いかにも。」

「いや、巨大な堂舎、華やかな壁画、金色の仏像、漂う香の匂い、花に溢れた花瓶、きらめく灯明、朗々と響く読経の声、民衆は、そうしたものを見た時聞いた時に、初めて仏は実在すると考え、救われるものである。わたしの六十六年をかけて培われた考えは、この問答によって崩れることはない。」

 重源は、きっぱりと言った。彼は、南無阿弥陀仏を自称して浄土教には理解を示していたが、法然の言う専修念仏で人が救われるという教義には全く賛同できなかった。

 大原問答が終わると、重源は周防にとって返した。

杣山の沙汰は遅々として進んでいなかった。轆轤が使えない地形も相当あって、やはり最後は人力に頼らなければならなかった。だが、何しろ千人もの大人数が必要であり、容易に人は集められなかった。

さらに追い打ちをかけたのが、地頭の妨害である。鹿狩や鷹狩を頻繁に行って、人夫たちを勝手に使役する。さらには、城郭の堀造りに長期間拘束することもあった。

地頭の狼藉は、これに止まらない。柱引料として米が蓄えられている官庫を打ち破り、百八十六石も押し取る。また、周防国内の二ヶ所の保(公領)を押領して、年貢を自分の懐に入れる。これでは、人夫の食料もまかなえなくなる。

そこで、周防国在庁官人十三名が連署して、訴え状を院庁に送った。

しかし、地頭を任命したのは、源頼朝である。院庁は無力であり、解状(上申文書)として関東に転送するだけである。

文治二年(一一八七)三月四日、頼朝は解状を受け取って、周防国の実態に驚いた。すぐに地頭に対し、造東大寺に協力せよとの命令を出した。

だが、事態は一向に改善されない。

重源は、頭をかかえるばかりである。

そんな時に、重源のもとに悲報がもたらされた。

文治二年(一一八七)三月十七日、造東大寺長官の藤原行隆が卒去したというものである。五十八歳であった。

「俊乗坊はよき人を失った。わずか六年の縁であったが、ともに歩んだ六年であった。御子息をわしの弟子として預けてくださった。播磨国大部庄の立庄にも駆けずり回ってくださった。熱い信仰心の持ち主であった。こんな悲しいことがあろうか。」

 重源は、あふれる涙を押さえ切れなかった。

重源は、行隆から寄進された備前の南北条方については、預所に行隆の後家を任じ、さらにその後は嫡女の左大弁局に相伝されるように取り計らうなど、恩顧に報いた。

同年五月二十九日除目があり、造東大寺長官は藤原定長に交代した。この時、定長三十九歳、後白河法皇随一の近臣である。行隆のような信仰心はなかったが、幕府と法皇との文書を仲介する役目を長く果たしており、重源にとっては都合のいい人物であった。

さて、この頃の重源は、周防のことが一向に進展せず、焦燥の念にかられていた。

四月二十四日、重源は意を決して鎌倉におもむくことにした。

重源は一人で頼朝邸に入った。

「遠路はるばるのお越し、大儀でござった。」

 頼朝が重源にねぎらいの言葉をかけた。

「いや、大儀などというほどのことはござりませぬ。拙僧は、この六十七年の間、日本の隅々を歩き通して参りました。」

「頑健なる体、それでこそ大勧進でござるな。して、御来臨のおもむき、この頼朝よく承知しておりまする。周防国の地頭のことでござるな。横暴の振る舞い、ひらに許されよ。」

「・・・」

 重源は、無言で頼朝の目を見つめた。

「わが御家人に佐々木高綱という者がござる。伊豆挙兵以来の功臣でござる。大変信心の厚い男である。この男を周防国の杣出奉行に任じようと思う。きっと上人のお力になるものと存ずる。」

 重源の鎌倉行きは、無駄ではなかった。佐々木高綱が奉行として周防国に着任してから、地頭の乱暴はおさまっていった。だが、材木引夫や麻綱の不足は相変わらずであり、大材は切り倒されたままになっていた。

十月三日、重源は兼実のもとを訪れ、杣山からの材木運び出しの難儀を訴えた。

兼実は、この時、摂政という最高権力者になっており、御簾を通して重源と対した。

「周防国では、百三十本の大材を得もうした。」

「それは上々。それだけあれば、大仏殿はできあがるな。」

「いえ、まだ肝心の棟木が見つかっており申さぬ。長さ十三丈(約四十m)は欲しいのですが、そのような巨木がはたしてあるかどうか。」

「心配いたすな、俊乗坊。神仏の御加護がきっとあろう。」

「はい。それよりも、もっと困ったことがございまする。」

「なんじゃ。申せ。」

「材木の運び出しができませぬ。引夫の数が足りぬのでございます。千人から二千人が必要でございますが、周防国の在家への割り当てだけではとてもまかないきれませぬ。」

「うむ。」

「さらに材木を引く麻綱も不測しております。」

「それで、わしにどうしろと申すのじゃ。」

「もはや引夫も麻綱も周防国だけではどうにもなりませぬ。他国をあてにしなければ立ち行きませぬ。」

「他国の国司に命じて供用させよと申すか。大勧進は、民庶からの知識物だけで東大寺復興を為すのではなかったのか。」

 兼実は、皮肉を言った。

「勧進は今も続けておりまする。しかしながら、限度もございます。大仏を荘厳する金は奥州に頼らねばどうにもなりませぬ。このたびの引夫と麻綱も然り。」

「わかっておる。わかっておる。そちの今までの働きには、わしも頭が下がる。では、そちの願い、朝議に諮ってみることにしよう。」

重源の申請は通り、院宣が出された。

周辺諸国から人夫が徴発され、周防国に集まってきた。麻綱も全国から寄せられ、ようやく材木引きが開始された。杣出しされた材木は、佐波川上流の木津に徐々に集積されていった。

そんな時にひとつの事件が起こった。豊後の国から駆り出された人夫が、故意に十本の柱を放ち、流してしまったのである。

彼らは、別に結縁の志があってこの周防国に来ているわけではない。強制的に労役を課されているだけなのだ。その不満が今回の事件につながったのである。

この知らせはすぐに南都にいる重源のもとに届けられた。

「何たる失態。春阿弥や国庁の者たちは何をしておったのじゃ。柱を流した者には天罰が下るであろう。」

重源は生まれて初めて怒った。そして泣いた。

「たかだか十本ではござりませぬか。そんなにお怒りにならなくても。」

 同行の聖阿弥陀仏がなだめた。

「いや、一本一本がみな仏じゃ。志のない者に携わせることはできぬ。」

「木材の引夫を一律に諸国に割り当てたのですから、中にはふとどきな者も混じっておりましょう。」

「いや、わしは材木のことしか考えていなかった。焦っていたのじゃ。この大事業を為すのは材木ではなく、人じゃ。聖阿弥よ、周防に寺を作ろう。」

「寺でございますか。信仰の拠り所を作るのでございますね。」

「そうだ。百本の大材を伐採して、良木といえるものは十本程度である。残りの木を捨ててしまうのはもったいない。虫喰いなどの部分を除いて、使える部分を寺の材とするのだ。」

「では、安置する仏像もそれで作ればよろしいですね。」

「そうだな。阿弥陀如来を本尊としよう。人夫たちには阿弥陀の救いを説き、作業への従事が自身の救いであると教化するのだ。」

「では、名前は阿弥陀寺がよろしいでしょう。」

「うむ、そうだな。それから、国庁の官人をすべて寺の檀那にしてしまおう。四十五人のすべてに阿弥陀仏の名号を付ける。それから、合力の結縁同心の誓状を交わす。」

「そうしますと、官人たちの子や孫の代まで、結縁者となりまするな。」

だいぶ後のこととなるが、正治二年(一二〇〇)十一月、周防国阿弥陀寺田畠注文という文書が重源に報告されている。周防国の目代の春阿弥陀仏が、阿弥陀寺の寺領を書き上げたものである。寺領は、周防国内の四郡四十九里の広範囲に点在しており、合計二十五町九段の田畑が記されている。文書の末尾には、多々良盛綱ら四十五人の在庁官人の名が記されていた。周防国では、重源の同行と在庁官人が一致団結して、国政に当たっていたことの証左である。

重源は、さらにもう一つのことをひらめいた。

「そうだ。阿弥陀寺を後白河法皇の祈願所としよう。」

「それはよき考え。法皇もお喜びになられましょう。」

重源は、後白河法皇の恩義に報いることも兼ねて、阿弥陀寺を創建することに決めた。

その後、人夫たちの抵抗はなくなった。材木は、続々と木津に集まってくる。

東大寺から任命された山行事職の橘奈良定(たちばなならさだ)が、材木を検査して、合格品には「東大寺」という文字が陽刻された鉄鎚印を押し、佐波川を流して防府に送る。(鉄鎚印は、重要文化財として今に阿弥陀寺に伝わっている)

だが、この水送にも問題があった。佐波川はそれほどの大河ではなく、上流では水深も浅くて木が水底に引っかってしまい、流せない箇所もあった。

「大勧進殿、関水を作ったらいかがでござろう。」

 陳和卿が意見を具申する。

「関水とはなんぞや。」

「川の端に石垣を組んで狭い水路を作り、水流を集めて水かさを増やしまする。」

「なるほど。」

「さらに、川底に玉石を引いて大木を流しやすいようにします。これが関水でございます。これで巨木を一本流すことができまする。」

「これも宋の技であるか。」

「はい。左様にございます。」

「そうか。よし、水流の弱いせせらぎには、関水を設けることとしよう。」

関水は、木津から防府まで三十kmの間に総計百十八ヶ所も設けられた。

なお、関水は現在も徳地町内に一ヶ所残っている。三mほどの幅の水路が四十六mにわたって続いており、今も敷石の上をきれいな水が勢いよく流れている。昭和12年国の史跡に指定されている。

史跡に指定されている関水の近くに、僧取淵という青い淵がある。搬出中の樹木が、出水時の水勢で岩に当たり、指揮していた重源の弟子の蓮花坊が、材木もろとも沈んだというところである。今でも坊主木と呼ばれる当時の大木が沈んでおり、大雨で川底が洗われる時に姿を見せることがある。先年、この坊主木の放射性炭素法による年代測定が行われ、750±100年前という結果が得られた。重源の時代のものと考えて差し支えない。

それにしても、この悲しい話は、用材搬出の仕事がいかに困難だったかを如実に物語っている。

文治五年(一一八九)五月十八日、ついに佐波川河口に十五本の柱が到着した。重源一行が杣入りしてから三年以上の年月が経っていた。

防府の港に集められた巨木は、一本ごとに前後に二艘ずつ計四隻の船をつけ、瀬戸内海を経て、渡辺の別所(今の天満橋付近)に海送される。そこからは淀川と木津川をさかのぼり、奈良へと運ばれた。

杣仕事は、苦労の連続であったが、重源は杣人たちを癒すための工夫も考えた。

彼は、石風呂を佐波川流域各地に七十ヶ所ほども作った。東大寺再建のための用材を切り出すために多くの杣人が従事したが、彼らの疲れを癒すために用いた。約半数が今に残り、数ヶ所は今も使っている。

当時の原形を止めているのに、野谷(のたに)石風呂がある。大きな岩盤をくり抜いて、小さな入口と、二人ないし三人が入れるくらいのスペースを作っている。その中で火を焚き、水を湿らした薬草などを敷いて寝ころび、蒸気を当てるのである。今で言えば、サウナのようなしろものであり、風呂といっても湯に浸かるわけではない。昭和十年、国の史跡に指定されている。

もちろん、湯屋も十五ヶ所ほど作っている。こちらは、常湯船といって、継続的に湯が沸かされていた。

(佐波川関水や野谷石風呂については、「日本の史跡を巡る50 周防・長門紀行 久田巻三」参照)

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