(8)大仏殿上棟

文治三年(一一八八)三月十日、重源は、大仏殿再建の協力を求める書状を源頼朝に届けた。

返答書には、次の四つのことが述べてあった。

一つ、後白河法皇へ「東大寺の復興は諸事を止めて御沙汰のあるべき由」を奏上したこと、

一つ、大仏殿の再建用用材の運送については、公領は国司に、荘園は領家にさせるように法皇から命令するよう奏上したこと、

一つ、周防国にいる御家人佐々木高綱が東大寺に信仰を寄せていること、

一つ、東海道、北陸道、さらに陸奥・出羽へも重源の弟子たちを派遣して、勧進することを勧めること。

 四つめの件については、ちょっと興味深い。陸奥国と出羽国は、当時奥州藤原氏の勢力下にあった。にもかかわらず、あえて両国を入れている。頼朝としては、建前であっても、全国に守護地頭を置く権限を有していることを誇示したかったのであろう。

それにしても、この頼朝の返答書は、重源の期待を大きく裏切るものであった。三年前に頼朝が約束した米一万石、砂金一千両、上絹一千疋の奉加のことには全く触れていない。頼朝は、いまだに砂金はおろか、米も銭も送ってはこない。

実は、この時、頼朝の頭には奥州征伐のことしかなかった。

 杣出奉行の佐々木高綱も鎌倉へ下向している。その影響で周防国の事業は遅れるばかりである。

文治五年(一一八九)八月三日、重源は、九条兼実に実状を話した。

「なにしろ地頭による濫妨がひどうござる。倉庫に納めてあった人夫の食糧用年貢米を奪う者もおれば、勝手に農民を徴発して山狩りや城普請をする者もおりまする。」

「ふむ。泣く子と地頭には勝てぬか。」

「何とか地頭を押さえてもらうよう、関東に働きかけてはもらえませぬか。」

「もちろん、何度も文を送っておる。だが、頼朝は、奥州の沙汰に忙しくて、こちらの言うことには上の空じゃ。」

「頼朝は、奥州藤原氏を討つのでございまするか。」

「そのようじゃな。朝廷は、東大寺造営のこともあるので、控えるように言うておる。だが、すでに全国の御家人に動員をかけて、鎌倉に兵を集めておるようじゃ。」

「なんと。宣旨もなしにでございまするか。」

「そうじゃ。頼朝は、何度も奥州藤原氏追討の院宣を奏請してきたが、法皇様は頑としてお認めにならなかった。にもかかわらず、頼朝め。これは王権に対する挑戦じゃな。」

「武士が幅をきかせる世になってしまったのでございまするか。」

「わからぬ。だが、頼朝はあなどれぬ。」

「頼朝殿の力添え無くして、東大寺の復興は叶いませぬ。」

「そう弱気を申すな。」

「いいえ。この重源、むなしく一国を領して無為のそしりを受けるばかりでございます。ですから、このうえは仏事のみを奉行し、造寺のことは辞退したいと存じます。」

「どういうことじゃ。大仏だけ造って、大仏殿は知らぬと申すか。いやいや、それは困る。大仏殿が再興できなければ、東大寺が復興したことにはならぬではないか。なんとか、このまま続けてはくれまいか。わしも、すぐに大仏を参詣しよう。供養の後、まだ一度も訪れておらぬからな。」

いまさら重源に代わる者がいるはずもない。兼実は、必死に慰留に努めた。

「はあ・・・」

重源は、あいまいな返事をして、兼実邸を後にした。

兼実は、重源の辞意をひるがえすため、九月二十二日、南都に下向し、大仏を拝した。

 重源の訴えと同じようなことは全国で起きていた。地頭と荘園領主との争いは頻繁に起きており、頼朝はその処理に困りはてていた。彼は、この時期、たびたび地頭の妨害行為の停止を命令している。これは、裏を返せば、なかなか命令が守られなかったことの証左である。

 さて、源頼朝は、七月十九日、院宣を待たずして、鎌倉を発し、奥州に向かった。総勢二十八万四千の大軍である。院庁は慌てて、頼朝出陣の日付の院宣を送った。

八月七日、ついに合戦が始まる。藤原泰衡は、圧倒的な頼朝の軍の前に、平泉を捨てて逃亡した。だが、九月三日、郎党の河田次郎に背かれ、比内郡贄柵で殺されてしまう。九月十八日には藤原高衡が降伏して、あっけなくも奥州藤原氏は滅亡した。

 頼朝は、十月二十四日、鎌倉に凱旋した。その後、朝廷から陸奥国と出羽国の管領に任じられ、ついに日本全土を支配下に置くことになる。

 杣出奉行の佐々木高綱も周防国に戻ってきた。柱材の津出しにも拍車がかかり、用材が次々と奈良に運び込まれた。

「よくぞ、よくぞ、これだけの大材が集まったものじゃ。」

 重源はうれしくてたまらない。だが、ひとつ問題があった。大仏背後の後山の存在である。

今を去ること三百六十年前、天長四年(八二七)の大仏の調査結果を記した太政官文書によると、尻が一尺三寸八分(四十二cm)折りくぼんで破損している。また、大仏は西に六寸(十八cm)傾いているとある。

対策として、大仏の後ろに腰のあたりまで粘土をつき固めて築山を作った。傾きは止まったが、今回の大仏殿再建には、この築山が邪魔になる。母屋柱が立てられないのだ。

建久元年(一一九〇)三月十一日、重源は、造寺長官の藤原定長に対し、来る十五日に大仏背後の後山を撤去したいので、造寺官を遣わしてほしいという書状を送った。

 それに応えて、藤原定長が、造寺官を引率して南都に下って実見をおこなおうとしたが、重源はその到着を待たずして、勝手に壊し始めていた。

「破損箇所は鋳継ぎ申す。築山の代わりに数本の鋳銀の柱で支える。これで問題はござらぬ。」

 重源は、開き直っていた。

 実は、後山壊退については、五年前から何度も院庁に奏請してきたが、まったくのなしのつぶてであった。院庁は技術的なことはわからなかったので、逡巡するばかりだったのである。院庁の認可を待っていたら、大仏殿の立柱がいつになるかわかったものではない。重源は既成事実を作ってしまうという実力行使に出た。

このことを聞いた兼実は、これを問題なしとした。

「それは、本願である聖武天皇の霊のなせることである。恐るべし、貴ぶべし。」

院庁は追認の許可を出した。

 後山壊退の作業は、三月に始まってやっと六月二日に終了した。

その六月二日には後白河法皇の東大寺行幸があった。築山の最後の土を捨て去る儀式に出席するためである。

 重源と後白河法皇はもっこを肩に担ぎ、築山の土を乗せて運ぶこと三度。儀式は簡単に終わった。

 これで、大仏殿建立に憂いはなくなった。

建久元年(一一九〇)七月二十七日、大仏殿の母屋柱の立柱がなされた。この時、重源は七十歳になっていた。

 口径5尺(一.五m)、長さ九丈一尺(二七.六m)の檜の巨材二本が、地上に横たわっている。

 仮屋の上に八個、地上には六個の轆轤(ろくろ)が据えられている。鼓が打ち鳴らされ、大工が声をそろえると、轆轤の綱が巻き上げられ、巨大な柱はゆっくりと立ち上がっていった。

 柱は礎石の上に立った。続いて二本の庇柱も立てられ、四本の柱は水平材でつながれて安定した。

 重源は、目の前の柱を見上げた。

「よくここまで来れたものだ。」

 重源は、隣にいた陳和卿と手を握りあった。

 同じ日に、頼朝は、上洛の際の京都の宿所の設営について朝廷に申し出ている。

重源は、頼朝が上洛するということを聞いて、この機会を最大限に生かそうと考えた。重源には、ずっと頭を悩まし続けていることがあった。それは、屋根瓦の調達である。十八万枚と見積もった瓦をどうやって集めるか、目途はまったく立っていなかった。

頼朝には大仏殿上棟の儀式に参列してもらって、その時に話を切り出すつもりであった。

一方、頼朝の今回の上洛の意図は明らかであった。征夷大将軍の職を得ることである。奥州藤原氏を倒した今、頼朝は全国の支配権を確固たるものにすべく、鎌倉に幕府を開きたいのである。

陰陽寮の勘文によって、大仏殿の上棟式は、十月十九日と宣下された。院庁は、大仏殿造営の第一の施主である頼朝の上洛を促す院宣を送る。

だが、頼朝の返事はつれないものであった。

「本年はことのほか諸国洪水で煩い事多く、大仏殿上棟に間に合うように上洛するのは難しい。」

 これは、口実である。頼朝はわざと遅れ、上棟の儀式には参列しないつもりである。上棟は、朝廷の正式の儀式であり、位階正二位の頼朝では、席次は末席である。そんな式には参加したくもない。それよりも朝廷に圧力をかけて、征夷大将軍の実を得ることの方が大事であった。

 建久元年(一一九〇年)十月三日、頼朝は鎌倉を発し、翌十一月七日入京した。

その間の十月十九日、大仏殿上棟式は、あわただしく執り行なわれた。棟木に二本の綱が結び付けられ、一方を後白河法皇や東大寺の僧たち、他方を文武百官が持って拝するだけの簡単な式だった。

十月二十七日、造工らの勧賞が行われ、物部為国は伊勢権守・従五位下、桜島国宗は駿河権守・従五位下に任じられた。当時の工人の官職としては最高のものである。

また、陳和卿にも院宣によって伊賀国に荘園が与えられた。だが、陳和卿は、これを東大寺浄土堂に寄進している。よって、重源の支配する所領となった。この地は、長野峠を経て伊勢国に通じる伊賀街道の要衝であり、伊勢神宮参詣の際にもこの道を使った。杣も多くあり、狭いながらも魅力的な土地であった。後のことであるが、伊良子(現在の渥美半島)の瓦を運送するための中継地にもなった。

 頼朝は、十一月九日になって、京で後白河法皇、次いで後鳥羽天皇と会見し、権大納言に任じられた。

 だが、頼朝は満足できない。六波羅邸を出て、大軍勢を率いて京の町を巡回する。示威行動である。

 十一月二十四日、朝廷は、頼朝をさらに右近衛大将に任じた。

 源義仲が補任された征夷大将軍が、頼朝には任じられない。頼朝は、さらに十日間京に滞在したが、諦めて京を離れた。

「天下の大天狗が生きている限り、征夷大将軍が叶うことはあるまい。」

 頼朝は、側近の和田義盛にこぼした。天下の大天狗とは、もちろん後白河法皇のことである。

 頼朝は南都にも寄らず、鎌倉に帰ってしまった。頼朝に大仏殿造営の協力を得ようという重源の思惑は外れてしまった。

次の章へ

ホームに戻る