(9)重源の危機

 重源たちは、上棟を終え、いよいよ大仏殿の造営に取り掛かることになった。しかし、大仏殿はあまりにも大規模で、工匠たちにとってまったく経験のない建築であった。どういう工法を取ればいいのか、重源と陳和卿は頭を悩ましていた。

「宋国の福建という地に開善寺という寺がございます。そこの大殿は、素朴で単純な構造でありながら、十分な大きさを有しております。もちろん、この大仏殿ほど大きくはござりませぬが。」

 陳和卿は、宋国南部の地方建築が参考になると考えていた。

「それは、いかような工法じゃ。」

「はい。柱に縦横に穴を空けます。そして、貫という水平材で柱と柱をつないで補強します。用材は、数種類の規格に止め、それを大量に作って組み合わせることで、高い技術がなくても巨大建築が造れまする。工期も短くて済みます。」

「ほう。それはよい。優秀な大工は、皆、興福寺に取られてしまっているからな。工法はなるべく単純簡易な方がよい。」

この当時、平家の南都焼き討ち後の寺社復興の需要はピークを迎えており、藤原氏の氏寺で経済的に余裕のある興福寺は、大勢の大工を囲い込んでいた。そのため、重源は、優秀な大工でなくても建てられるような技術として、陳和卿の提案を採用した。後に「大仏様」または「天竺様」と呼ばれる建築様式である。

 大仏様は、まったくの宋の技術の模倣かというと、そういうわけでもない。

 中国福建省地方の宋代の木造建築に類似例が見られるが、大仏様の特徴をすべて備えた遺構は中国では確認されていない。中国で確立した様式をそのまま移植したものではなく、陳和卿ら宋人技術者と物部為里や桜島国宗ら日本人大工たちが工夫を重ねて生み出したものである。

 これは、禅宗様が、宋の禅宗寺院の建築様式をそのまま移すことを目標としたのとは大きな違いである。

 大仏様は、巨大構造に適した様式であるため、その後、東福寺仏殿、秀吉の方広寺大仏殿、江戸期再興の東大寺大仏殿など、大建築に採用されている。

 重源は、陳和卿にもう一つ注文を出した。

「大仏殿の中に両界堂を作って欲しいのだが。」

「両界堂と申されますと?」

「金剛界堂と胎蔵界堂を大仏の左右に作るのじゃ。両堂には真言八祖像を安置する。」

「それはどのような意味があるのでございまするか。」

「わしは、醍醐寺で修行した真言僧じゃ。つまり、大仏を密教の大日如来にも見立てたいということだ。」

後年のものとなるが、東大寺の設計図ともいえる「東大寺大仏殿図」(一二八四年、鎌倉時代)が今に伝わっている。それには、興味深いことに、大仏の左右に両界堂が設けられている。向かって右に金剛界堂、左に胎蔵界堂が設けられ、両堂には真言八祖像が安置された。元々の華厳経に、密教の要素も付加したのである。

 さて、大仏殿の工法は決まった。周防から巨木は順次到着する。それを柱とする者、肘木に作る者など、大勢が働き始めた。そんな折である。思いもかけぬ事件が起こる。

建久二年(一一九一)五月始め、重源が宋から連れてきた弟子の空諦が、室生寺の舎利を盗掘したのである。

室生寺は、興福寺の末寺であり、興福寺の衆徒たちが怒って、すぐに空諦を捕えた。だが、空諦は知らぬ存ぜぬを貫き通す。空諦は重源の直弟子であり、興福寺の衆徒も強硬な処置は取れない。結局、空諦は釈放された。

しかし、興福寺の衆徒の怒りはおさまらず、やがて大仏殿造営工事の妨害を始めた。

「上人様、大変なことをしてしまいました。」

空諦が重源の元にやってきて詫びた。

「やはりお前が盗んだのか。」

「はい。申し訳ございません。この舎利は室生寺に返したほうがよろしいでしょうか。」

「うーん。いや、ここで戻せば、お前が罪を犯したことを認めてしまうことになる。」

「では、どうすれば・・・」

「うーん。そうだ。空諦よ、その舎利を売り歩け。売り物ならば、世の人もまさか盗品とは思うまい。」

「そんな大胆なことを・・・」

「お前は堂々としておれ。その間にわしが何とかしよう。わしの舎利への執着が、お前にこのようなことをさせたのじゃ。」

 重源は、この時たまたま興福寺に来ていた兼実に会いに行った。

「末代の珍事、およそ言語に及ばざる所である。」

 兼実は、怒っていた。

「お怒りはごもっともでございます。しかし、空諦の処分は待っていただきたい。その前に法皇様にお話をさせていただきたく、お願い申し上げます。」

 六月二十日、重源は空諦を伴って院庁に出向いた。

 そこで、三十粒の舎利を後白河法皇の御前に差し出した。

 すると、法皇の寵姫である丹後局が、そのうちから二粒取る。右大臣も一粒取った。兼実はもちろん取らない。

「これで万事よろしい。詐偽はない。したがって空諦への成敗はない。」

 後白河法皇の勅断である。

 結局、残りの舎利は院庁が所有することとなり、室生寺に返されることはなかった。当時、盗品は持ち主に戻さず、裁いた者が没収することが慣習だったからである。

 七月一日、兼実は、興福寺に対して、東大寺造営妨害の停止を命じた。兼実は、氏長者であり、この時は関白でもあったので、さすがに興福寺の衆徒もその命に従わないわけにはいかなかった。

 なお後日、兼実がこの舎利を砥石で研ぐと磨り減ってしまったことから、偽物であることが判明した。だが、勅断が下ってしまった後ではどうすることもできなかった。

 一方、重源は、なんとか危機を脱することができた。しかも、何食わぬ顔でちゃっかりと本物の舎利を手中にした。

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