あとがき

 

 治承五年(一一八一年)閏二月四日、清盛は没した。

その直後、後白河上皇は、いち早く比叡山に逃れてしまった。

上皇を奉ずることに失敗した平家は、ずるずると後退を重ね、ついに壇ノ浦で滅びてしまう。

 一時、清盛の最後の仕掛けである惣官体制が効を奏し、美濃の墨俣川の合戦や、越前の燧ヶ城の合戦では、源氏の勢力を撃退したこともあった。五畿内ほか九ヶ国からの渡船、兵糧などの徴発や、兵站部隊の動員に成功したためである。

 しかし、全国に燃え広がった反平氏の炎の勢いを、結局は止めることはできなかった。

歴史は、木曽義仲、源義経、そして源頼朝による源氏内部の内戦に移行する。それは、太平洋戦争の終結の際、日本が去った中国における国民党と共産党の内戦にも見られた現象である。また、最近では、ソ連が撤退した後のアフガニスタンでも、ゲリラ組織間の主導権争いが起こっている。強大な敵を倒した勝者の中では、必ず内戦が始まるのである。

  源氏の内戦の場合は、最後に勝利した頼朝が、鎌倉幕府を創始することで決着した。

以後、明治維新までの七百年間、建武の親政の一時期を除いて、武家の政権は揺らぐことがなかった。それは、頼朝個人の力によるところもあろうが、むしろ、平清盛が切り開き、そして築き上げた武家政権の基盤の強固さを物語っているのではなかろうか。

 すべては清盛から始まったのだ。

彼が生涯かけてやったことは、革命と言ってもいいだろう。貴族や寺社など、既得権益にしがみつく旧勢力を否定し、本当に国を護る者、そして国を富ます者に報いる政治を目指したのだ。

変革のための原動力として、彼は「武力」を用いたのはもちろんだが、さらに強力なメカニズムも導入した。

それは「銭の力」である。貴族、寺社等の旧勢力から、商工業者、武士、豪農等の新勢力への富の移転が、「銭」の機能によって促進された。

 ところで、少し話は変わるが、清盛の人物像は、織田信長のそれにイメージが重なるところがある。清盛が、宋との貿易に力を入れたように、信長も、南蛮貿易を奨励した。また、清盛が、海運を中心とした物流を重視したように、信長も、楽市楽座を押し進めて、商業の活性化を図った。両者とも、経済こそが力の源泉であることを見抜いていたのだ。

 両者が、華美好みだったことも共通している。清盛の方で言えば、厳島神社や平家納経など、また、信長の方では、安土城や南蛮屏風などである。ともに、その時代としては異色の建築や美術であった。

 さらに面白いことに、志半ばで、言わばトンビに油揚げをさらわれた恰好になったこともよく似ている。清盛がつかみかけた天下は、源頼朝の手に渡り、鎌倉幕府という形に結実した。また一方、本能寺で倒れた信長の後釜には、今度は徳川家康が座り、同じく江戸幕府という長期安定政権を樹立した。

ただし、頼朝の時代は、まだ鎌倉、京都の二元政治であったのに対し、江戸時代は、信長の目指した「天下布武」を具現化した武家単独政権であった。その違いは、その間を流れる四百年という時間がもたらしたものであろう。

  もう一度言おう。

すべては平清盛から始まったのだ。

もしも、日本の政治が公家どもの手に委ね続けられていたら、この国の歴史はいったいどうなっていたであろうか。有職故実に従うだけで、旧例から一歩も出ようとしない、或いはグローバルにものを見ることができない、そして自らは生産せずに全く社会に寄生するだけの公家の政治下では、この国はきっと沈滞と退廃の支配する世界になっていただろう。

 私は、時代を変えた男、平清盛を評価したい。                                                              以上

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