はじめに
京都の六波羅密寺に、木造の平清盛像が伝わっている。鎌倉時代の作で、国の重要文化財に指定されている。
うつろな目で経を読んでいる、五十才くらいの老僧の姿。
体つきも割りときゃしゃで、傲慢さや冷酷さは微塵も感じられない。
清盛という人間は、本当は気の弱い、神経質な性格だったのではなかろうか。結構病気にもなっているし、ストレスにも弱かったのかもしれない。
いったい、清盛の悪逆非道なイメージというのは、どうして形成されてしまったのだろうか。
それには、原因が二つ考えられると思う。
一つは、平家物語の影響である。軍記物の最高傑作であるこの物語は、終始一貫して、清盛を悪人として描く。
一方、それとは逆に、清盛の長男である平重盛は、横暴な父を諌める穏和な聖人君子のように扱われている。
平家物語の著者は、旧体制側の立場の人間として、寺社勢力とあまり戦いたがらなかった重盛に肩入れしたのであろう。さらには、旧秩序を破壊した武家の象徴である清盛の悪人性を際立たせる必要から、早世した重盛をその対極のキャラクターに仕立て上げたものと推測する。
その後、琵琶法師によって長く語り継がれることとなった平家物語は、清盛のイメージを定着させるのに、大きな役割を果たしたと言えるであろう。
だがしかし、ここで気を付けなければならないことが一つある。それは、平家物語が書かれたのは、源氏の世が確立した鎌倉時代の中頃であるという点だ。つまり、その当時の社会の空気や作者の価値観が、必要以上に清盛を落としめているのではないかということである。
さて、清盛にとって不利な、もう一つの理由は、戦前の教育から来ていると思う。後白河上皇を幽閉するなど、朝廷をないがしろにした行動は、皇国史観にとっては許されざることであった。足利尊氏が否定され、楠正成がもてはやされたのと同じ流れの中にある。
だが、こうしたバイアスや先入観を取り除いて、純粋に歴史的事実だけを眺めてみるとどうであろうか。以下に彼の主だった業績を列挙してみよう。
武士として初めて太政大臣にまで上りつめ、公家に代わって政治の実権を握ったこと。兵庫の港を開き、音戸の瀬戸を開削して、海運や貿易を活発にしたこと。平家納経という、我が国の美術工芸史に残る傑作芸術を残したこと、等々である。
日本の歴史の大きな流れを見た時、清盛はそれまでの公家の時代に幕を引き、鎌倉、室町、江戸へと、七百年にも及ぶ武士の時代に先鞭を付けた、時代の変革者と言えるのではないだろうか。
それは、たまたま清盛が歴史の転換点に居合わせただけだ、或いは、ただ単に運が良かっただけだ、と言って片づけることはできない。彼の小さな努力や計算の積み重ねが、最終的な成果に結びついたのである。
保元平治の乱で源氏に勝ったから権力を確立した、といった単純な構図でもない。彼にはもっと強大な敵がいたのである。それは律令の時代から、朝廷や貴族たちによって営々と築き上げられてきた平安社会の仕組みであった。
彼は、これに、新しいシステムで対抗した。政治や軍事のシステムはもちろん、日宋貿易に見られるような外交や経済のシステムをも駆使して、断固立ち向かったのである。
この小説では、こうした事実に基づいて清盛の足跡をたどっていくこととする。したがって、通常の時代小説にあるような、一騎討ちや一人の豪傑の力によって事が決するような世界は払拭してある。また、通説と異なるような歴史的解釈も多々あるだろう。清盛が、激動する環境変化の本質をどう読み、どう対処していったかを描いたつもりである。
その意味で、二十一世紀という新しいエポックを迎えた現代のビジネスマンや学生にとっても、平清盛の生き様は大いに参考になるものと確信している。