第二章 飛翔
(1)叔父子
「崇徳天皇が上皇にお成りあそばしたが、ちっとも院政を始められる気配がございませぬな」
「これはおじき殿、よく来てくれたな。また何だ、いきなり。何か面白い話を持って参られたか?」
久しぶりに六波羅にある清盛の屋敷を訪れた叔父の平信範が、いきなり話を始めた。
「いやいや、挨拶が後になりましたな。御機嫌麗しゅう存じまする」
「まあよい。で、何の話じゃ」
「はい。実は、天皇家の内紛の件でございます」
「ははは、その話か。おじきは耳が早いからのう」
信範は、清盛の妻である時子の父方の弟であり、堂上平氏の旗頭といった存在である。藤原摂関家累代の家司として仕え、儀式次第にも明るいため、清盛も朝廷とのパイプ役として頼りにしていた。
「いったい何がどうなっているのやら。私には全くわけが分かりませぬ。崇徳上皇が院政を敷くのかと思っておりましたのに。むしろ、天皇位を継いだ後白河の方が、まつりごとの実権を握っておられるようでございますな」
「うむ、そうか。崇徳と後白河の仲違いか」
「はい。やはり、あの噂は本当だったのでありましょうか」
「噂とはあれか。崇徳が白河院の落とし種ではないかということか?」
「はい。左様でございます」
「表向きは、崇徳は鳥羽院の子だが・・・」
「それが、どうも噂の方がまことのようで・・・」
「もしそうであれば、崇徳と鳥羽は異母兄弟ということになるな」
「そのとおりでございます。鳥羽院は、崇徳のことを日頃から叔父子と呼んでおったそうですぞ」
「ほう、左様か」
「だとすれば、鳥羽院が崇徳を嫌い、実子である後白河に跡を継がせようとするのも無理からぬところでございますな」
さすが、事情通の信範である。朝廷内の噂はほとんど把握しているといってよい。
それにしても、白河、崇徳、鳥羽、後白河の関係は、まことに複雑である。ことの発端は、白河院が、自分の養女として育てていた待賢門院璋子(たまこ)と通じてしまったことにある。
あまりにもスキャンダラスな話のため、当然のことながら都でも大評判になった。
これには、さすがの白河院も捨ててはおけず、窮余の一策として、息子の鳥羽天皇に璋子を下賜することにした。
ところがこの時、璋子の腹には子が宿っていた。それが後の崇徳である。
従って、鳥羽は、崇徳を自分の子とは信じず、叔父子と呼んで嫌っていたのである。
白河院の没後、鳥羽の実子である後白河と、白河院の落とし種である崇徳との関係は、非常に険悪になっていた。
このあたりの次第を、信範は、あちらこちらから仕入れて来ているのである。
「しかし、このまま崇徳が黙っているであろうか。何としても院政を敷くであろう。崇徳はなかなかの野心家と聞いておるからな」
清盛の見立ては、崇徳が巻き返しに出るというものであった。
「いや、野心家ということであれば、後白河の方も負けてはおりませぬぞ。このままでは崇徳上皇と後白河天皇がまともにぶつかるやも知れませぬ」
「うむ。そう言えば、藤原摂関家においても、何やらキナ臭い空気が感じられるぞ。忠実と忠通が、氏の長者の相続を巡って争っているようだ」
「はい。それもまことのことかと。となりますると、我ら武家もこれらの内紛に巻き込まれることになりましょうや」
「そうだな。目を離すわけにはゆくまいぞ」
清盛の危惧していたとおり、朝廷や摂関家内部の対立は、日に日に激しさを増していった。
こうした情勢の変化に、平家内部でも連日議論が続いていた。
「崇徳上皇方、後白河天皇方、ともに水面下で密かに兵を募っているようでございます。我が平家にも、双方から応援要請が来ております。我らはいったいどちらにお味方致すのでございますか」
異母弟の教盛はじめ、平家一門が六波羅屋敷に参集し、頭領である清盛の考えを引き出そうとした。
「源為朝はどちらに付くのか」
「はい。崇徳方に付くのは間違いのないところでございます。あの暴れん坊は、すでに九州より五十騎の精兵を引き連れて上京いたしております。今は上皇の屋敷に入っておるそうでございます」
叔父の平信範が、清盛の問いに答えた。
「であれば、我らは後白河方に付く。為朝をたたいて、源氏の勢力を九州から閉め出すのだ。我ら平家は、奴がいるとなかなか九州に手を付けられぬからな。瀬戸内の次は九州だ」
清盛は語気を強め、天皇方に味方することを宣言した。
「その通りでございますぞ。忠盛様の代から築いてきた肥前神埼荘も脅かされようとしておりまする。これ以上奴をのさばらせておくと、九州各地の豪族は、皆、為朝に糾合されてしまいましょう」
叔父の信範が一同を見回して、皆の意思を確認した。
「ところで、我ら以外に天皇方に付く者はおりましょうや?」
異母弟の教盛が、不安げに尋ねた。
「心配要らぬ。源氏の旗頭である義朝も、間違いなく我らと同じ天皇方だ。日の出の勢いの為朝の前に、源氏の頭領の地位を脅かされておるからな。義朝にとって、為朝は目障りな存在だ」
清盛の分析は的確である。一同は大きくうなずいた。
「我らは後白河天皇にお味方するぞ。そうと決まったら、戦の支度じゃ」
そう言って、信範が立ち上がると、皆、鬨の声を上げた。
「朝廷工作にはわし自らが当たる。信範よ、十分な金を用意しておいてくれ」
清盛は、もうすでにこの時、戦の後のことを考えていた。
(2)保元の乱
「為朝勢の奮戦すさまじく、未だ白河北殿は陥ちませぬ。お味方勢、思いの外の苦戦にございます」
先ほどから同じような内容の報告が、前線の斥候から、清盛の本陣に届けられていた。
保元元年(一一五六年)、ついに上皇と天皇が正面から激突した。いわゆる保元の乱の勃発である。
後白河天皇方に付いた清盛は、崇徳上皇方の立て籠もる白河北殿を、西門から五百騎の精鋭で攻めたてていた。
天皇方は、この他にも源義朝が三百騎を、また足利義康が百騎を率い、三隊に分かれて猛攻を加えていた。
これに対し、上皇方の戦力は、源為義三百、源為朝五十、及び平忠正百五十の総勢五百騎であった。天皇方の約半分の勢力しかなかったが、豪傑為朝の奮戦で、戦況は膠着状態となっていた。
「為朝ごとき、たかだか五十の小勢であろう。まったくどういうことだ。もうよい。わしが退治してきてやる」
先の見えない展開にいらだって、ついに清盛本人が馬にまたがって前線におもむいた。
陣中をどんどん進んでいき、やがて双方の声が間近に聞こえるところまで近づいた。
と、ちょうどその時、清盛の肩ごしに一本の矢が横切った。とっさに身をよじった清盛だが、バランスを崩し、もんどり打って馬から転げ落ちた。
「殿、大丈夫ですか。おけがはございませぬか」
すぐに近習たちが、清盛の回りを取り囲んだ。
「かすっただけだ。心配いらぬ。今のは敵の矢か」
「は、はい、そのようで」
「百間はあるぞ。信じられぬ。これが噂に聞いていた筑紫の遠矢か」
清盛は、呆然として、矢が放たれたであろう敵の陣地をにらんだ。
とてもこれ以上前進することはできない。清盛は、すごすごと後方に下がって、再び陣幕の中に腰を下ろした。
この間、清盛方は攻撃を続けたが、事態はほとんど変わらなかった。
「申し訳ござりませぬ。敵の奮戦凄まじく、なかなか門を打ち破ることができませぬ」
前線の司令官が、清盛の前にかしずき、先ほどからの戦況を説明した。
「無理もなかろう。九州勢の弓の鍛錬には恐れいった。皆に引き上げを命ぜよ。このような強弓の前に、貴重な兵力を損じるのは馬鹿げたことだ。速やかに退却せよ」
清盛の命令により、平家の軍勢は早々に後退してしまった。
入れ代わりに、今度は源義朝の軍勢三百が攻撃を始めた。
だが、やはり為朝の守る門は突破できなかった。
天皇方は、さらに後方に待機していた源頼政らの予備隊まで投入したが、上皇方も必死に応戦し、決着は付かなかった。
激戦はもうすでに三時間を越えようとしていた。
「義朝殿、苦戦」
戦況が刻々と清盛の元に伝えられていた。
「備えを固めよ。敵の反撃があるやもしれぬ。義朝ごとき腰抜けに、為朝は陥とせぬからな」
だが、清盛も全く想像できなかったことだが、義朝は、ここで一つの思い切った策に打って出た。このまま攻め続けても戦況を変えることは出来ないと見て、ついに非常手段に訴えたのだ。
「義朝殿が、先ほど白河北殿に火を放った由にございます」
「なんだと。義朝め、血迷ったか」
物見の報告を聞いて、清盛は目を丸くした。
白河北殿周辺には、法勝寺はじめ皇室崇拝の寺社が多く、火攻めは躊躇されるところであった。
「義朝殿は、後白河天皇に迫って、勅許を得たとのことでございます」
「で、北殿はどうなった」
「焼け落ちたとのことにございます」
義朝の暴挙によって、戦況は一変した。上皇方は、迫り来る煙と炎に追いまくられ、先を争って逃走した。
黒こげとなった西門は引き倒され、義朝方が白河北殿の中になだれ込んだ。
天皇方の大勝利である。この報は、すぐに清盛の陣にも届けられた。
「まずいことになったな。義朝に手柄を持って行かれたか」
清盛が、舌打ちをした。
「私がすぐに関白殿の元に参りましょう。義朝に過分の褒美を与えないよう、お願いしてまいりましょう」
信範がすぐに腰を上げた。
「そうだな。おじき、頼んだぞ。それから、ついでに、処罰の話もしておいてもらおうか。源氏方には厳しい罪を与えてもらわねばな。こちらは忠正に犠牲になってもらえばよい」
戦の終わった翌日、早くも後白河天皇による戦後処理が執り行われた。
崇徳上皇は捕えられて、讃岐国に遠流と相なった。上皇方に付いた源平両氏の主立った者たちも厳しい処罰を受けた。
源氏方では、義朝の父為義が斬罪、また、弟の為朝も伊豆大島へ配流となった。
一方、平氏方は、清盛の叔父である平忠正が斬罪となっただけで済んだ。
平安時代に入ってからは久しく執り行われなかった死罪が、この時に復活した。これも、清盛の強い意向によるものである。
平家側は、清盛が無駄な戦いを控えたため、勢力をほとんど損なうことなしに、この内乱を乗り切ることができた。
こうして、天皇家、源平両家がそれぞれ二つに割れて争われた保元の乱は、清盛の思惑通りの形で終結した。
(3)大神宮家
清盛は、久安二年(一一四六年)から保元元年(一一五六年)までの十年間、年齢でいえば二十九才から三十八才までの間、安芸守の職を務めた。
父忠盛は、二年前にこの世を去っていたが、清盛の代になっても、平家の立場はいささかも揺るぐことはなかった。
彼にとって、この時期は、将来の飛躍に向けた基礎固めの期間であったと言ってよい。というのも、宮島の厳島神社を拠点に、一帯の海上交通を押さえ、莫大な税収を上げることができたからである。この十年間で、瀬戸内の経営は盤石のものとなっていた。
「いよいよ、この次の狙いは、九州だな」
清盛は、屋敷を訪ねてきた平頼盛に向かってつぶやいた。
頼盛は、池禅尼の子であり、清盛の義弟に当たる。清盛は、三歳の時に母を亡くし、継母の池禅尼に育てられた。従って、家盛や頼盛とは、義兄弟の関係になる。
「左様でございますな。九州で暴れていた為朝もいなくなったことでございますし」
「ああ。何としても博多が欲しい」
「はい、朝鮮や中国への往来のための要地でございますからな」
「うむ。どうしても押さえておかねばならぬ」
「では、太宰府と一戦致しますか」
「いやいや、まさか。為朝なき今、わざわざ事を荒立てることもあるまい」
「ははは、左様でございますな。肥前神埼荘も安泰でございますしな」
九州には、朝廷の出先機関ともいうべき太宰府があり、一切の政務を取り仕切っていた。「遠(とお)のみかど」と呼ばれていたように、外国との交渉はもちろん、徴収した税の使いみちについても、独立の意思決定が許されていた。
これに対し、平家は、忠盛の代から肥前国神埼荘に根拠を築いていた。院領の預り所の肩書きを利用して、宋との間でさかんに密貿易を行い、莫大な富を得ていたのである。
ところが、先年、源為朝が九州の地にやって来て、勢力地図を大幅に塗り変えてしまった。
為朝が、太宰府に対して反乱を起こしたところ、九州各地の豪族がこれに同調し、源氏方の勢力が急速に拡大していったのである。為朝自ら、鎮西八郎と号するなど、まさに日の出の勢いであった。
危機感をつのらせた清盛であったが、幸いにも時流が彼に味方した。ちょうどこの時、保元の乱が勃発したのである。うまい具合に為朝を倒すことができたので、清盛にとって、今度は逆に九州を切り取る絶好のチャンスになった。
「頼盛よ、原田直種を味方に引き込むぞ」
「はあ。太宰大弐を我らの傘下に組み入れると申されますか・・・」
「そうだ」
「それはよろしゅうございます。ではすぐに使いをお出し致しましょう。して、条件はいかに」
「うむ。まず、博多に平家の拠点を築かせてもらう」
「そこに港を開くのでございますな」
「もちろんだ。そうだな、袖の浜辺りがよかろう。その代わりに、奴らには瀬戸内の航行に便宜を与えてやる。それからもう一つ、平家の姫を呉れてやろう」
「なるほど。直種には、たしか元服したばかりの嫡子がおりましたな。これなら、原田にとっても悪い話ではございますまい」
「うむ。太宰府さえ押さえておけば、こっちのものだ」
「左様でございますな。これで、太宰府から朝廷へは、我らにとって都合のいい話だけが流れるようになりましょう」
「そういうことだ。わしとしても、思いのままに九州で動けるようになるというものだ」
「はい。いよいよ九州総取りと参りましょうか。博多を押さえたとなりますと、次なる狙いはどちらでございますか」
「そうだな。まずは、北の宗像大宮司家だ。それと・・・」
「東の宇佐大神宮家でございますな」
「うむ。そうだな」
「ほほう。神社を狙いに付けまするか・・・」
「いかにも」
「さすがに、殿は目の付け所が違いまする。しかし、たやすく我らになびきましょうや?」
「うむ。宗像社は、あなどれぬぞ」
「はい。玄海灘、それと関門海峡を押さえておりまするな」
「いや、それだけではない。壱岐、対馬、さらには朝鮮との交易をも支配しておる」
「なるほど。そちらのほうが大きいですか。それから、もう一つの宇佐大神宮家は、九州の東側ですな。豊後水道、豊予海峡、あとは日向、大隅、薩摩・・・」
「いや、もっと先がある。南九州はもちろんのこと、さらに琉球、中国に至るまで、ほとんどの貿易船を押さえておる。宇佐神宮の方も大したものだ」
「厳島といい、殿が神社を重く見るのは、いかなるお考えの故にございますか」
「うむ。それはな。つまりは象徴を押さえるということだ。宗像大社も宇佐大神宮も、厳島と同じように、古来より民の崇敬が厚い」
「なるほど。海の男たちを手なずけるには、その信仰心に訴えるのが一番というわけでございますな」
「そういうことだ」
「この二つを押さえることができれば、東は和泉から、西は九州までが一つにつながることになりまするな」
「うむ。それに東の伊勢もだ」
「そうでございました。伊勢はもともと平氏出身の地、伊勢の海も平家のものでございますな」
「もちろんだ。東は、尾張、三河まで盤石ぞ」
「これで、平氏は、日本の海をほとんど手にしたことになりまするな」
「いや、そうではない。ひとつだけ抜けがある」
「はあ、さて・・・」
「わからぬか。紀伊じゃ。熊野灘から新宮の辺りにかけてだ」
「ははあ、そう言えばそうですな。あそこは日の本最強とうたわれる、熊野水軍の根城でございますな」
「うむ。熊野だけはどうにもならぬ。何かよい手だてはないものかな」
後々、熊野水軍が平家の運命を翻弄することになる。すなわち、ある時は清盛の危機を救い、またある時は平家に大いなる災いをもたらすことになるのだが、もちろんこの時、清盛は知る由もなかった。
(4)兵庫築港
「兄上、ご褒美は播磨の国だけでございますか」
義弟の教盛が、清盛の西八条殿の屋敷を訪ねてきた。
教盛は、この時左馬権頭に任じられ、京都の守護に当たっていた。だが、武人というよりも、どちらかと言えば、文人のタイプであり、今までも戦いに出たことはなかった。
「おう、教盛か、よく参ったな。たしかに恩賞をもらったぞ。そう、播州だ。昨日国司に任じられた」
「左様でございますか。播磨の国は確かに大国ではありますが、五畿内には入っておりませぬな。どうせなら、この都のある山城の国を賜ればよかったのに」
保元の乱で手柄を立てた清盛は、一国の国守という存分の恩賞を得たが、それでも弟の教盛には不満であった。
「ははは、贅沢を申すでない。播磨でよいのだ。それに摂津の西の一部も下さると言うことだ」
「左様でございますか。播磨は、都からはずいぶんと離れておりまするが。山城の国が駄目なら、せめて元の都があった大和でもよろしかったのに」
「いやいや、遠かろうと何だろうと構わぬ。山城にも大和にも海がない。海がなければ、貿易ができぬではないか」
「はあ、貿易でございますか。しかし、港ならば、摂津にも難波津や住吉がございましょう」
「いや、どちらも寺社の力が強すぎる。四天王寺や住吉大社が幅を利かせておろう」
「はあ、なるほど」
「それに、難波津や住吉は風に弱い。宋船のような大きな船は、入港が難しかろう」
「それはそうでございますが・・・。しかし・・・。では、賜った御領地に、これらに代わる良い港がございましょうや」
「もちろんだ。福原の地に、大輪田の泊りという、いにしえよりの良港がある。南に向かって突き出した和田の岬が風を防いでくれる」
「しかし、あそこは逆に南風に弱うござりまする。やはり大船を寄せるのは難しいかと」
「まあ、そうかもしれぬな。しかし、難波津よりはまだましだ。きっと波を消すうまい手だてがあるに違いない。それにあそこは寺社の息がかかっていない。それが何よりだ」
「はあ。しかし、兄上はどうしてそのように港にこだわるのでございますか?」
「ははは。お前は貿易の威力を知らぬのだ。貿易で得られる利益に比べれば、一国の国守の役得など、取るに足らぬ」
「そういうものでございますか。しかし、これまで、あまり平家は貿易の富にあずかっておりませぬな」
「その通りだ。では、いったい誰が甘い汁を吸ってきたと思うか?」
「さて・・・」
「わからぬか。今、その富の大部分は、博多と瀬戸内に面した各国に持って行かれているのだ」
清盛は、苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちをした。
「よいか。宋からの貿易船は、ほとんどが博多で積み荷を降ろす。後は日本の小舟に載せ替えて、瀬戸内海を通って都にやってくる」
「はい。その途中の港や狭い海峡には、ずいぶんと関所が設けられておりますな」
「そうだ。当然のことながら税や手間賃が上乗せされていく。荷が都に着いた頃には、卸値の何十倍もの値が付けられている。都の民は、どれだけ高い買い物をさせられているか」
「しかし、清盛様は、九州から瀬戸内にかけて、すべての豪族を支配されておりまするが・・・」
「いやいや、平氏はこれらのうち、税としてホンの一部をかすめ取るだけだ。大方の利益は地元に落ちている」
「左様でございますか。もし、宋船を都の近くまで真っ直ぐに持ってくることができれば、中抜きができまするな」
「そのとおり。わしが港にこだわるのはそのためだ」
「なるほど。分かりました。では、福原の地にさっそく港を造りましょう。で、どなたにお命じになりまするか」
「うむ。もうすでに宗盛に申し伝えた」
「それは、すばやきこと」
宗盛とは、清盛が、久安三年(一一四七年)に、後妻時子との間にもうけた三男である。なお、時子は、その後も知盛、重衡、徳子の計三男一女を産んでいる。
清盛は、宗盛を兵庫築港工事の総責任者に命じ、さっそく大輪田の泊りの工事に取り掛かからせた。近隣から人足一万人を集め、昼夜兼行で埋め立てと築堤を進めていった。
だが、事はそう簡単には進まなかった。
清盛の期待とは裏腹に、この企ては予想外の難工事となってしまったのである。
「父上、もうどうにもなりませぬ」
宗盛が、清盛の元に報告にやってきた。
「どうしたというのだ」
「この度の大風でございます。せっかく沖に積み上げておいた石が、またもや流れてしまいました。この春からの苦労が、まったくの水の泡でございます」
「何だと。もうこれで三度目ではないか」
「はあ。やはり、人柱を立てねば、海の神を鎮めることはできませぬ」
「たわけ者、泣き言を申すな。人柱はまかりならぬぞ。そんなまやかしでは事は収まらぬ」
「いや、父上。呪術も捨てたものではございませぬ。だいぶ前の日照りの時の話でございますが、澄憲様が牛を生贄にして雨乞いの祈祷をしたところ、たちどころに滝のような雨が降ってきたとのこと」
「ふん、馬鹿馬鹿しい。澄憲とは、藤原信西の息子のことか。長い間雨が降らなかったのなら、祈祷などしなくても、じきに降るものだ。そうであろう」
「はあ・・・」
「よいか。そんなことより、なぜ島造りが続けて失敗したのか、本当のわけを考えて見よ」
清盛は、責任感を欠いた息子の発言にいらだって、つい大声を出してしまった。
「それは先ほども申しましたように、台風が悪いのでございます。それにしてもこんなに大きな島を沖合に造ろうとは、初めから叶わぬ夢だったのではございませぬか」
度重なる宗盛の後ろ向きの言葉に、清盛はついに爆発した。
「それだ。そのお前の気持ちが失敗の最大の原因じゃ。けっして台風のせいなどではない。どうせ今度もだめだろうという、そのお前の気持ちが、現場の者たちにも伝わっているのだ。だからダラダラと時ばかりを費やしているのではないのか」
「いえ、そ、そのようなことは・・・」
「そんなていたらくでは、台風にやられてしまうのも当然だ。よいか、今度の夏の三ヶ月が勝負だぞ。そのためには船を大量に集め、それらに石を積んで一気に埋め立ててしまうのだ。この次失敗したら都より追放じゃ」
「はは、恐れいってございます。今度こそ成し遂げて御覧に入れまする。いま一度猶予を下さりませ」
父のものすごい剣幕に、宗盛は額を畳にこすりつけた。
「もうよい。それよりも、人柱に代わって、皆の気持ちを一つにする策はないものだろうか。今度は間違いなくうまくいくと、皆が信じられるような仕掛けは」
「はあ・・・」
「そうだ、よき考えが浮かんだぞ。石に一切経を書き込んでみてはどうであろう」
「一切経でございますか・・・。なるほど、それはよいかもしれませぬ。公家が始めた一切経の書写が、近頃では庶民の間にも広まっておりまする。工事に係わっておる者たちも、きっと御利益を信じましょう」
「おう、人柱よりずっと効き目がありそうだな。すぐに立ち帰って準備を始めよ」
宗盛は、大潮の日を選んでは、一切経を書き込んだ大量の小石を一気に海に投じ入れた。それらの小石は、やがて島の体裁を形作り始めた。
「父上、ようやくに島が完成致しました。父上のご助言のおかげでございます」
三男の宗盛が、にこやかな顔をして報告にやってきた。
「そうか。それは上首尾。ご苦労であったな」
「いえいえ。ところで、あの島は、経ヶ島と名付けましてございます」
「ほう、それはよい」
「これで、南東の風が吹いても大丈夫でございます。波はほとんど消されるようになりました。もうどんな大船がまいりましても、何の心配もございませぬ」
「うむ。上々じゃ。ところで、港の名前も変えたそうだな」
「はい。古代よりの大輪田の泊りという呼び名に代わり、兵庫と改めました」
「ほう。勇ましい名前だな」
「もともとこの地に武器を納める蔵があったことから、付けた地名でございます」
「武士の拠点にふさわしいな。わしは気に入ったぞ」
清盛は、自ら酒を注いで、息子の労をねぎらった。
さて、承安二年(一一七二年)には、さっそく宋から唐船が入港した。
「宋国から祝いの使者が参りました。国書も携えておりまする」
宗盛の報告に、清盛は飛び上がった。
「おー、そうか。やっと来たか」
「はい。まことに大きな船でございます。人々は、皆、宋の軍船の威容に目を見張っておりまする」
「ははは、そうであろう、そうであろう。皆、普段は小ぶりな日本の船しか見たことがないからのう」
「はい。たちまち評判となり、近郷近在、いや京都、奈良あたりからも見物人が大勢押し寄せて、押すな押すなの大騒ぎでございます」
「ははは、それは、それは」
清盛は、すこぶる上機嫌であった。
「さてさて、宋の使節が参ったとなれば、ここは一つ、返書を答礼しよう。さっそく後白河上皇に使者を立てねば」
「え、何ですって。中国に書を・・・。それは、ちと・・・」
宗盛は、父の言葉に、思わず我が耳を疑った。というのも、聖徳太子の時代から、日本は独立の国としての立場を貫いてきており、中国の求めに応じて返書をすることなど、歴史上未だかつてなかったことだからである。
「分かっておる。宋の属国になったと受け取られはせぬかと案じておるのだな」
「ええ。日本は、古来より中国とは対等の外交を押し通して参りました」
「うむ。たしかに従来の慣行を無視することになるな。朝廷や公卿たちの猛反発を受けような」
「はい。日本は神国であるという自負がございます。天平の御世から今日に至るまで、中国の冊を受けるということは避けてまいりました」
「たしかにそうだ。だが、面子や建前にこだわるよりも、宋との貿易による現実の利に目を向けよ。それに返書を渡したからといって、それはあくまでも礼儀上のこと。宋に屈したことにはなるまい」
「はあ・・・、しかし・・・」
「宋も、北方の金とにらみ合いを続けている。日本を是非とも味方につなぎ止めておきたいのだろう」
「なるほど、そのような思惑がありましょうか。さすがに父上は見る目が広うございます」
「うむ。宋は日本を必要としておる。ならば、我らも宋を利用すればよい」
清盛は、きっぱりとそう言って、立ち上がった。
かくして、兵庫の開港は、平家に莫大な富をもたらしたのは言うまでもない。
だが、それだけには止まらなかった。日本の歴史を変える、あるいは人間の本性をも変えてしまうような、歴史上の重大な転機となった。
このことは、後々明らかになる。