第四章 太政大臣

(1)平家納経

 

「なぜ、厳島が、海の民の信仰をひとえに集めているのでございましょうか」

 李慶仲が、厳島参詣の船中で、清盛に訊ねた。

李慶仲は宋の商人であるが、国際情勢にも詳しいことから、日頃から清盛に重用されていた。今では、絶えず清盛のお側に付いて、行動をともにするようになっていた。

「お前は弥山のことはを知らぬであろうな」

「弥山と申しますと?」

「厳島で一番高い山だ。小さな島だと思ってあなどると痛い目に合うぞ。一日がかりの行程だ。なぜこの島が特別なのかは、頂きに登ればわかる」

「山上に何かあるのでございますか?」

「巨大な磐座だ。とてもこの世のものとは思えぬ」

「大きな岩でございますか・・・」

「左様。神話に出てくる高天原も、かくあろうかというような風景だ。まさに神のおわす所だ」

「岩が信仰の対象なのでござりますか?」

「そうだ。日本人は、古来より巨大な岩を神としてあがめておる。厳島とは、すなわち神の居付く島、他の島とは違うのだ」

「なるほど。聖なる島なのでございますな」

「うむ。厳島神社を海上に造ったのも、人が島の地を踏むと穢れるからじゃ。わしは、三日三晩海中で禊ぎをし、神官の許しを得て、やっと入山することができた」

「はあ。その厳島を平氏が崇拝することで、海の民を味方に付けるのでございますね」

 李慶仲は、日本人独特の感性を不思議に思いつつも、ある一つのことを思い付いた。

「それほど大切な島でございますか。では、いっそのこと、厳島神社に何か奉納したらいかがでございましょう」

「ほほう。それは良き考えじゃな」

「平家の繁栄と海の民の安全を願ってでございます」

「うむ、そうだな。何がよかろうか・・・」

「左様でございますな。例えば、経などを納めたらいかがでしょうか」

「経とな」

「はい、単なる写経ではございませぬ。金銀で装飾し、さらに絵画をあしらった経でございます。今、宋の国では、金銀をちりばめた陶磁器が流行っておりまする」

「なるほど、それは面白い」

「それと、経箱も、今までにない立派なものに致しましょう」

「うむ。納経こそが、日本の美と言えるかもしれぬな」

「はい。工芸、絵画、それに書の三つが組合わさった美は、日本にしかございませぬ。当代の匠の粋を集めて、後世に残るものを作らせましょう」

「うむ、なかなかに良い考えだ。それならば、是非とも三十三巻を奉納しよう」

「はあ。三十三、でございますか」

「そうだ。観音菩薩の応身の数だ」

「それはそれは。と致しますと、これは大作になりまするな」

「いや、造作もないこと。平家一門の主だった者たちに、一巻ずつ作らせて競わせればよい」

「なるほど。一門の結束を図るのに、これ以上のことはございませぬな」

「うむ。これぞ、一石三鳥というものだ。繁栄祈願、芸術の結集、一門の結束。これはいけるぞ」

 清盛は、李慶仲の出したアイデアに興奮していた。

 さっそく、平家一門の者たちに命令が下った。

もちろん、清盛も第一巻の作成を受け持った。彼は、わざわざ宋から工人を招いて、最新技術の導入を図った。平家一門の主に恥じない名作に仕上げようと必死である。

また、一門の者たちも、それぞれに絵師や書の名人を囲い込んで、創作に当たった。

 こうして、翌年には、無事三十三巻が完成した。

 厳島神社の拝殿に、平家一門の者と、都から呼び寄せた公家衆が一同に会し、奉納の儀が執り行われた。

金粉、銀粉をふんだんに用いた色鮮やかな装飾経が、一巻ずつ披露されると、居並ぶ公卿たちから一様に感嘆の声が上った。

紙を赤く染めたり、金箔を塗したりするのは、当時、宋で陶磁器の装飾に用いられていた技法である。清盛は、同時代の中国の最先端技術を、既にこの時日本に持ち込んでいたのである。

さて、その後三日三晩にわたって、豪華な宴会が続けられ、招待された貴人たちも束の間の極楽気分を味わった。

 いい思いをしたのは、公家衆たちだけではない。厳島社参詣の際には、道々の瀬戸内衆にも大いに振る舞いがなされた。酒、肴は言うに及ばず、祝儀として金銀が惜しげもなくバラまかれた。平家の力を見せつけるには絶好の機会であり、瀬戸内の在地豪族の取り込みがさらに進んだ。

 言ってみれば、清盛の厳島参詣とは、社長が第一線の現場を視察して、督励するようなものなのかもしれない。

 なお、この時、懸案となっていた音戸の瀬戸の開削工事も開始された。瀬戸内海を東西に往き来する船にとっては、航行距離が短縮されることになるので、メリットは大きかった。これは、現代風に言えば、インフラストラクチャーの整備というものに当たるだろう。

 こうして、平氏の瀬戸内における覇権は盤石のものとなった。

そして、平家納経は、日本を代表する国宝として、現在にまで伝わり、日本美術史において燦然たる光を放っている。


(2)名誉職

 

 応保元年(一一六一年)、清盛四十四才のこの年、彼は、検非違使の別当に任じられた。別当というのは、京の治安を司る検非違使庁の長官のことである。また、検非違使とは、今日で言えば警視庁のようなものである。

警視総監たる別当は、公卿の中から選任されるのが常であった。清盛も、前年に晴れて参議に任じられているので、当然ながら有資格者である。と言うよりも、初めて位に応じた具体的役職が与えられたといったところだろう。

「殿、まずは検非違使の別当、御就任おめでとうございます」

 さっそく、弟の教盛が訪ねてきた。

「何がめでたいものか。検非違使には相当する領地も与えられず、俸禄も微々たるものだ」

 清盛は、憮然とした顔で答えた。

「いやはや、兄上殿は御機嫌斜めの御様子・・・」

 教盛は苦笑いをした。

「いかにも。考えてもみよ、教盛。すべて手弁当でやらねばならぬのだぞ。お飾りの役職などもらって、得なことなどあるものか」

「しかし、後白河上皇様は、殿を頼りにしておりまする。この度、検非違使別当に任じられたも、平家の力に期待してのことでございましょう」

「さもあろう。ここ数年、上皇は寺社勢力の締め付けを強めておるからな。寺社領の荘園など、これまでにどれほど取り潰したことか。強訴の歯止めに、平氏の力を利用しようとしておるのだ」

「左様でございますな。延暦寺や園城寺、それに興福寺でございますか。僧兵どもの動きは、最近とみに激しくなっておりまする」

「公家と寺社、どちらもまだまだ力を有しておる。武家たる平氏の勢力を伸ばすためには、両者の分断を図らねばならぬ」

「はい。まずは朝廷や公家と結んで、寺社を押さえましょう」

「うむ。荘園整理令の効き目やいかに。ふっふっふっふ」

 兄弟は、お互い顔を見合わせて、ほくそ笑んだ。

荘園整理令というのは、朝廷が出したものだが、もちろん清盛の後ろ盾あっての詔である。内容は、記録荘園券契所という役所を新たに設け、そこで院の正式の承認を受けていない荘園は停止するというものである。前にも述べたが、まさに寺社領荘園を狙い打ちにしたものであった。

 この間、清盛は、朝廷勢力との結び付きを強化すべく、様々な裏工作にも余念がなかった。

まず、三女の盛子を、時の関白藤原基実のもとに嫁がせて、摂関家とのきずなを強めた。

次に、後白河上皇の常の住まいとして、法住寺殿を新造し、院の歓心を買った。

 さらに、長寛元年(一一六三年)には、莫大な金をつぎ込んだ三十三間堂を完成させ、三十四体の仏像とともに後白河院に引き渡した。

 さて、これだけのもてなしを受けては、上皇側もそのままにはしておけない。当然、何らかの形で報いざるを得ない。

そこで、さっそく、使者を清盛のもとに送った。

「本日、後白河上皇様より、貴殿を内大臣に推挙致したいとの御内示がございました。謹んでお受け頂きますよう、お願いつかまつります」

 院の使者が、清盛に面会し、内示を伝えた。

 だが、清盛は、朝廷の使者に対しても何のはばかることもなく、声を荒げた。

「検非違使に続いて、今度は内大臣でござるか。余をたばかるにも程がある。令外の官など、清盛は不承知であると伝えよ」

 令外(りょうげ)の官とは、律令に正式に規定されている官職ではないということである。内大臣とは、左大臣、右大臣に次ぐ位置ではあったが、員外大臣であった。

 使者は、清盛の仏頂面を見て、必死の説得を試みた。

「内大臣を御承諾いただいた折りには、安芸の国の知行国主にも任じたいとのこと。これも、院の意向でございます」

 知行国主になれば、様々な収奪が可能であり、経済的なメリットも大きい。朝廷としては、左大臣、右大臣のような正式の位を、武士である清盛に授けることにはどうしても抵抗がある。そこで、経済的「おまけ」を付けて、当たり障りのない内大臣という名誉職で、当座をしのごうとしたわけである。

 清盛も、その辺の事情は分かっていて、わざとごねているのである。

「やれやれ、しかたがない。それでは院の顔を立てましょう。内大臣の件は承知つかまつった。しかし、これで満足したわけではござらぬぞ」

 清盛から応諾の返事を得て、何とか役目を果たしたことから、使者も安堵の表情に変った。

 清盛が、朝廷との交渉に力を注いでいる間、寺社勢力にも大きな動きが起こっていた。すなわち、長寛元年(一一六三年)、ついに山門と寺門が正面衝突したのである。

山門、つまり延暦寺の衆徒が、寺門すなわち園城寺を焼き討ちにし、日頃のうっぷんを晴らすという事件が起こった。

 翌々年には、延暦寺は、興福寺とも争いを繰り返すようになった。荘園整理によって激減した寺社領の取り分をめぐって、寺社勢力内部で争いが本格化してきたのである。

 清盛の思惑通りの展開なのだが、少し度が過ぎて、これらの戦火が、いつ都に飛び火してもおかしくない状態になってきた。心配した公卿たちは、すぐに太政官会議を招集した。

「京では、悪僧たちが乱暴狼藉を働き、物盗りの類も頻発しておりまする」

 一人の公卿が口を開いた。

「たしかに。近頃、京の治安は乱れに乱れておりまする。いったいどうすればよろしかろう」

「左様。一刻も早く旧の都に戻って欲しいものでございますな」

 公卿たちは、ただ大変だ大変だと騒ぐばかりで、具体的な解決策は何も打ち出せない。清盛が動かなければどうにもならないのである。皆、清盛の顔色をうかがうのだが、当の清盛は素知らぬ顔である。

結局、太政官会議は何も決することなく終了した。

 事ここに至っては、後白河院はついに腹をくくらざるを得なくなった。

「清盛に頼るしかなかろう。致し方ない。清盛を太政大臣に任じよう」

 仁安二年(一一六七年)、ついに太政大臣選任の宣旨が下った。この時、清盛はちょうど五十才になっていた。

 予想はしていたとはいうものの、清盛は、それほど喜びはしなかった。

祝いに訪れた李慶仲に向かって、彼はこぼした。

「太政大臣とはな」

「お望みのものが手に入ったのではございませぬか」

「いや、わしは摂政か関白が欲しかった。太政大臣ではまつりごとの実権はないのだ」

「太政大臣の位では、まつりごとを司ることができないのでございますか?」

「そうだ。お前は宋人だから知らないだろうが、今を去ること二百年前、そういう結論が出ているのだ」

「はあ、左様でございますか。で、それは、いったいどのような経緯でございましたか」

「うむ。時の摂政、藤原基経が辞任した時のことだ。残った太政大臣の肩書だけで、まつりごとができるかどうか、議論になったことがあってな。当時の博士たちが、あーでもない、こーでもないと、さんざんもめたらしい」

「はあ、それでどうなりましたか?」

「その時は、結局まつりごとはできないということになったのだ。太政大臣とは、内外のまつりごとを総轄する、という意味の官職に過ぎないという見解だ。つまりは飾り物じゃ。摂政や関白、あるいは内覧といった官職を別に賜らない限り、まつりごとはできないのだ」

 むくれる清盛に向かって、李慶仲は諭すように答えた。

「日本の国ではそうかもしれませぬ。しかし、古来中国では、太政大臣というのは最高の役職でございます。国家を経営し、また道徳を論じて、自然の運行まで穏やかにする人物に贈られるものでございます。人臣としては、これ以上の名誉はござりませぬ」

「なに、まことか。宋の国ではそうなのか・・・。いや、だが、ここは日本だ。名誉職は名誉職だ」

「はあ」

「まあ、そうは言っても、後白河院もここまでが限度という事なのであろう」

「はい。大功田として、播磨、肥前、それに肥後にも領地を賜るということではございませぬか」

「ははは。いつもの付け足しというわけか。領地が増えるのに超したことはないがの。だが、それだけでは物足りぬ」

「と申しますと・・・。ほかに何を御所望で?」

「うむ。実は、息子の重盛に、諸国海賊追捕の院宣を授けてもらおうと思っている」

「あ、なるほど・・・」

 清盛の狙いは、平家を頂点とした日本国の軍制を確立することにあった。

いや、それだけではない。この院宣申請には、さらにもう一つ別の思惑が隠されていた。


(3)入道

 

「重盛、お前をここに呼んだのはほかでもない。わしの重大な決心を打ち明けるためだ」

 六波羅の清盛邸で、親子は二人きりで対面していた。

「父上、またあらたまって何のお話でございますか」

「うむ。いいか、よく聞け。わしは出家するぞ。今日からは、お前がまつりごとを取り仕切るのだ」

 父の突然の話に、重盛はたじろいだ。

「な、なにを唐突に申されますか。父上は、御歳五十一才。隠居するような年ではございませぬ。まだまだ平家一門を引っ張って行ってもらわねば困りまする」

「いや、そうではない。わしは、先だっての栄西禅師の講話を聞いて悟ったのだ。人の世の無情というものをな。生ある者もいつかは滅する」

「はあ。栄西とは、先だって宋より帰国した禅僧でございますな。そんな者の言葉に惑わされるとは、いったいどうなさったのでございますか」

「どうもこうもせぬ」

「しかし・・・。この国で最も力をお持ちの父上の言葉とも思えませぬが。どこか具合でもお悪いのでございましょうか」

「いや、すこぶる元気じゃ。たしかに太政大臣となった今、わしは絶頂期にあるだろう。しかし、わし一代で終わってしまっては何にもならぬ。平氏の世を永遠に存続させねばならないのだ」

「はあ、それはそうですが・・・。しかし、私では力不足にございます」

「いや、そちは昨年、諸国海賊追捕の総大将として、申し分のない働きをした。もはや押しも押されもせぬ、この国の頭領だ。これからはお前の時代だ」

 こうは言ってはみたものの、実はこの時、清盛は、自分の長男の器量に相当の不安を感じていた。

 だが、代わりの人間もいないので、後継者として彼に平家の将来を託するよりほかに道はなかった。先に、海賊追捕使の院宣を賜ったのも、重盛の格を上げるための苦心の策である。

「わかりました。何とかやってみましょう。しかし、私一人では心細うございます。これからも父上の後見をお願いしとう存じます」

「うむ。わかった。では頼んだぞ」

 この後、重盛は、張り切ってまつりごとに取り組んだ。口では自信なげに言ってはいるが、心の底では思い切り采配を振りたいと思っていたのである。父を越えることは無理でも、父と比較されて恥ずかしくないだけの実績は上げようと意気込んでいた。

 清盛の太政大臣就任と同時に、重盛は権大納言になっていたが、清盛が政治の表舞台を去ると、太政官会議は重盛の独壇場となった。

 他の大納言、中納言、参議はおろか、格上の左右大臣さえも、平家の威光を恐れて、発言を控える有り様であった。

公家達の不満は鬱積していき、それがついに一つの事件を引き起こした。

 嘉応二年(一一七〇年)十月、重盛の次男資盛が、摂関家に辱めを受けたのである。当時十二才の資盛が、鷹狩から帰る途中、摂政藤原基房の一行に馬から引きずり降ろされたという出来事である。

 この事件では、摂政側が早々に詫びを入れて関係者を処分したのだが、恥をかかされた重盛は、事件を蒸し返し、報復の襲撃を行った。

 また、承安二年(一一七二年)には、今度は重盛の郎等が、春日大社の神人とつまらぬ喧嘩沙汰を起こし、相手を殺害してしまうという事件が起った。

この時は、春日大社の後ろ盾である興福寺の衆徒が怒り、入洛するという騒ぎにまで発展している。

 後継者に指名されてからの重盛の傲慢なふるまいは、当然清盛の耳にも入っていた。

「重盛よ、もう少し落ち着いた行動が取れぬのか。お前は平家の頭領であるぞ」

「・・・」

清盛は、重盛を呼んで、意見をした。

「摂政の報復襲撃などはやり過ぎだ。今回の春日社の件にしても、事を荒立てずに穏便に済ますことはできなかったのか」

「父上、お言葉を返すようですが、平家を侮る者どもをそのままにしておいたのでは、私の威厳が保てませぬ。断固たる態度を取るべきかと存じますが」

 重盛の発言をさえぎるように、清盛が諭した。

「威厳とは自然ににじみ出てくるものだ。お前の場合は、個人的な妬みにしか過ぎぬ。そのようにいつもいらだっていたのでは、人は付いて来ぬぞ」

「いえ、そのようなことは・・・」

「だいたい、太政官会議でも口数が多すぎる。普段は公家どもにしゃべらせておいて、ここぞという節目だけを押さえておけばよいのだ」

 だが、父の気持ちも、凡庸な息子には通じないようである。

「父上は甘すぎまする」

 そう言って、重盛は席を立ってしまった。

 後事を託すには余りにも頼りない長男の後ろ姿を眺めながら、清盛は途方にくれた。

〈いまや、この国で平氏になびかぬ者はいない〉

 清盛は、ぼんやりと庭を眺めていた。

〈ただ一つ、奥州藤原氏だけは従っていないが、これも先年来の交渉により、打開策が見えてきた。鎮守府将軍の位を授けることと引き換えに、膨大な奥州砂金と蝦夷の毛皮を、貢ぎ物として毎年納めさせることで決着しそうである。そうすれば、もはや平氏に敵対する勢力はこの日本には存在しないのだ〉

 庭の鹿威しの音だけが、規則的に繰り返している。

〈しかし、このような状態を永続させることはできるであろうか。自分が死んだ後、何代にもわたって平氏が栄えることはできるのであろうか。代々の頭領として優秀な嫡子に恵まれればよいが、時には重盛のような凡庸な者もいよう。そういう者でも栄華を維持できる仕組みを作らねばならぬ。いかが致せばよいか・・・〉

 清盛は、大きく溜息をついた。

〈やはり、あれしかないか〉

 清盛は、切り札とも言うべき策について、周到な準備を進めていた。

 彼の残り少ない人生の中で、どうしても成し遂げねばならない大仕事に向かって、最後の力を振り絞った。


(4)後白河の焦り

 

「清盛め、ついに本性をむき出しにしてきおったか」

 後白河上皇は、そう呟いて天を仰いだ。

「そのようでございますな。出家したので気を緩めておりましたが・・・」

 摂政の藤原基通が、法住寺殿の奥の間で、上皇に対していた。

「入道は隠れ蓑に過ぎなかったというわけか」

「御意」

「まさか、おのれの娘を皇后にするとは・・・」

「生まれた子を、ゆくゆくは天皇の位につけて、権勢を振るうつもりでございましょう」

「うーむ。このままではまずいぞ、基通」

「はあ。しかし、いかがすれば・・・」

「何か手を打たねばならぬ。でなければ、神武以来の御先帝たちに申し訳が立たぬではないか」

 承安元年(一一七一年)、清盛の娘徳子が、わずか十四才で入内した。そして、その翌年には高倉天皇の中宮となった。後の建礼門院である。

高倉帝は、清盛の義妹である滋子が、後白河院の側室となってもうけた子である。朝廷内は平家の色で染められようとしていた。

 朝廷側の危機意識は、日増しに強くなるばかりである。

 だが、清盛の攻勢はこれに止まらなかった。

  承安四年(一一七五年)には、後白河上皇と建春門院(高倉帝の母)に対して、清盛は、福原御幸と厳島参詣の誘いをかけた。

「なぜ上皇のわしが、平氏の守神をあがめねばならぬのだ。余は御免こうむる」

 後白河院は、関白藤原基通に当たり散らした。

「いや、ここで清盛に逆らうのは得策ではござりませぬ。ここは耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、時節をお待ち下さい」

「しかし、徳子が男子を生んでしまってからでは手遅れだぞ。天皇家が、平家の血で汚されてしまうではないか。その前に何とか食い止めねば」

 後白河の焦燥感は膨れ上がるばかりであった。

「平氏に不満を持っている公家もあまたおりまする。山門の堂衆なども黙ってはおりますまい。必ずや立ち上がってくれるものと存じます」

 しかし、根拠の乏しい、通り一変の慰めの言葉など、後白河院にとっては何の助けにもならなかった。

「清盛は、天皇の外戚となることで権力を手中にしようとしているのだ」

「恐れながら、それは我ら藤原氏がやってきたことにございますが・・・」

「ははは。そうであったな。しかし、藤原氏の場合は、それでも軍事力は持っていなかった。ところが今の平氏は違う。強大な軍事力の上に、さらに政治力まで手に入れたら、鬼に金棒じゃ。そうなったら公家の世は終わりだぞ。武家の手から政権を取り戻すことなど、永遠にできなくなる」

 基通にできることは、後白河の暴発を諌めることだけであった。

「あまり無茶をなさいますな。隣の高麗では、先頃武臣政権が誕生したということでございます」

「なに、まことか」

「はい。鄭仲夫なる武官が反乱を起こし、全ての文官を抹殺して権力を握ったという話でございます。あまり清盛を怒らせて、この国が高麗の二の舞にでもなったら、元も子もございませぬ」

「分かっておる。だが、何とかせねば・・・」

 後白河院は、ふーと大きくため息をついた。

「うーむ、毒をもって毒を制すか・・・」

 後白河院は、独り言のようにつぶやいた。

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