第五章 一夜の夢

(1)鹿ヶ谷

 

 後白河院にとっては屈辱の厳島行幸から三年が経過した、治承元年(一一七七年)五月二十五日、東山鹿ヶ谷(ししがたに)の閑静な山荘に、珍しく多くの人々が集まった。

この山荘の持ち主は、法勝寺の執行(しゅぎょう)俊寛僧都である。

 訪れた人々の顔ぶれは、大納言藤原成親、近江中將入道蓮浄、式部大輔雅綱、中原基兼、平判官康頼、多田蔵人行綱、その他に北面の武士が数人である。

 皆、緊張で顔がこわばっている。

「平氏の手の者に後を付けられてはおりませぬな」

 成親が念のため、一人一人に確認を取った。

 そこへ、輿に担がれた一人の人物が到着した。

「さぞやお疲れのことでございましょう。ささ、こちらへ」

 俊寛が玄関に額づいて、頭巾で顔を覆ったその賓客を、客殿の最奥へと導いた。

一同が平伏する中をその人物は進み、上段の間に腰を下ろした。その客とは、他ならぬ後白河上皇であった。

 主賓を迎えて、いざ、謀議は始まった。

「平家の横暴は目に余るものがござる。このままでは清盛に国を乗っ取られてしまいまする。何とか朝廷の威厳を回復する手だてはないものでござろうか」

 まず、大納言藤原成親が、口を開いた。

「我ら摂津源氏にお任せあれ。すぐに国元に帰って、数千の兵を集めて参りましょう。平氏の思い通りにはさせませぬ」

 摂津源氏の領袖、多田行綱が、すぐにこれに応じた。

「いや、私も微力ながらお役に立ち申そう。数百の兵を動員いたしまする。ほかにも、諸国の源氏、比叡山の堂衆、南都六宗の僧門など、お味方は多数でございます。これらの勢力を結集すれば、腰抜け平氏など、何ぞ恐れることがございましょうや」

 中原基兼も、負けずに大言を吐いた。

「左様でございます。清盛の勝手な振る舞い、これ以上は許すまじ。我らもともに立ち上がりますぞ」

 平康頼も、その後に続いた。

「さすが御所の北面をあずかる蔵人たちのお言葉。その気概はよし。しかし、平氏の力はもはや絶大でござる。諸国の源氏や僧兵が束になってかかっても、微動だに致しますまい。正面から立ち向かっても勝ち目はないと存じまするが」

 成親が、冷めた言葉を返した。

「では、ひそかに清盛調伏の祈祷をあげたら如何でございましょうか。清盛さえ死ねば、平家は一気に瓦解するものと存じまするが」

 蓮浄が、真面目な顔で、新たな提案をした。

それを見て、一同は苦笑するばかりであった。

「祈祷もよろしいが、いつ効き目が現れるかわかりますまい。今すぐにでも何とかせねばならぬのですぞ」

 成親が、溜息まじりに引き取った。

 いつしか院も御簾から出てきて、一同の輪の中に加わった。

皆、院の御前で気概を見せようとして、威勢のいい言葉を発するが、裏付けが乏しいので、具体的な実行案は何一つ出てこなかった。

「今日は初めての顔合わせじゃ。これくらいにして、後は酒にせよ」

  いい知恵が出そうもないので、後白河院がその場を締めくくった。

 その後、酒量が上がるにつれて、平氏の悪口で座は盛り上がっていった。ろれつの回らなくなった成親が、回りの者にからんでは悪態をつき始める。

誰かが取り押さえようとしたその時、成親の裾が酒の瓶子(へいじ)を引っかけて倒した。

「いや、瓶子が倒れましたぞ」

 俊寛が、とっさに言った。

「げに、瓶子が倒れた」

 一同が、どっとはやし立てた。

「これはめでたい。平氏が倒れる前祝いだ。誰ぞ、舞を舞え」

 後白河上皇も上機嫌で命じた。

 一同、次々に居並ぶ瓶子を足で蹴倒しては踊り、そして舞った。

 その夜は、結局平家打倒の具体的な議論はほとんどなされぬまま、一同酔いつぶれてお開きとなった。

 翌朝、多田蔵人行綱は、二日酔いでガンガンする頭を叩きながら、昨日のことを思い返していた。

〈平家を討ってみせるなどと大言壮語を吐いてはみたが、冷静に考えればとんでもないことである〉

 行綱は、ふーと溜息をついて肩を落とした。

〈自分のような者が、後白河上皇に声を掛けて頂いたことから、舞い上がってしまった。だが、このまま後白河方に付いていても、矢面に立たされるだけで、ろくなことはない〉

 酔いがさめて、そう悟った行綱は、すぐに馬にまたがった。行き先は福原である。

 この時、清盛は、京の六波羅を離れ、兵庫港にほど近い福原へと本拠を移していた。港の拡充工事が気がかりだったのである。

「行綱よ、よくぞ知らせてくれた。この礼は後で必ず返す。わしとともに戦ってもらえまいか」

「ははあ。もとよりその覚悟にございます」

「うむ。火事はぼやのうちに消し止めねばならぬ。時を費やせば、たちまちに燃え広がって、手が付けられぬようになるからな」

 行綱の内部告発を聞いた清盛の反応は、実に素早かった。

清盛は、福原にいるありったけの兵を集めて、ただちに京に向かわせた。

 そのため、早くも翌日には、重盛に率いられた三千の武装兵が、京に充満することとなった。

 成親はじめ鹿ヶ谷の謀議に参加した者たちは、またたくまに全員が捕えられた。

「父上、藤原成親を捕えました」

 重盛が、成親を引いてきて、清盛の面前に差し出した。成親は、顔面蒼白である。

「どうか命だけはお助け下さい」

「首謀者は誰か」

「そ、それは、私目にございます」

「お前のような小心者が頭か。そうではあるまい。黒幕がおろう」

「い、いえ、全て私の一存でございます」

 行綱の告発でも、首謀者は成親ということであった。

 後白河上皇の名前は出なかったが、清盛はうすうす感づいてはいた。だが、あえて行綱を問いつめることはしなかった。この時点では、清盛にも後白河院を相手にするまでの覚悟はできていなかったのである。まずは後白河派の勢力を、院のまわりから排除すればそれで十分と考えていた。

 そのため、逮捕者は死罪ではなく、遠国への流罪とした。すなわち、首謀者の藤原成親は備中へ、式部大輔雅綱は播磨へ、中原基兼は伯耆へ、そして俊寛や平判官康頼らは鬼界ヶ島に流した。ただし、捕縛の時に清盛に悪口雑言を吐いた西光だけは、口裂き刑の後、斬罪に処した。

 今回の事件はすぐに鎮まったが、清盛に与えた心理的な影響は甚大であった。

〈ついに来るべきところまで来てしまったか〉

 清盛は、天を見上げた。

〈今までにも、平氏の隆盛をねたましく思う者は少なからずいたであろう。しかし、それらが自分の目に触れることはなかった。ところが、今度の鹿ヶ谷事件で、ついに反対勢力の動きが表に出てきた〉

 清盛は、頭を抱えて低い声で唸った。

「この密謀の首謀者が、後白河院であることは明白じゃ」

 とうとう越えなければならない壁に突き当たってしまったということを、この時、清盛はひしひしと感じざるを得なかった。


(2)銭の病

 

「見事な壷でございますな。是非銭百貫文でお譲り頂きたい」

「百貫でござるか。ほかの者はいかがでござるか?」

 たった今、兵庫の港に到着したばかりの宋船から、次々と積み荷が降ろされていた。そのかたわらでは、もう商談が始まっているらしい。

「いやいや、これほどの名品、当方は百五十貫文出しましょう」

 別の商人が、横やりを入れた。

側で見ていた平清房が、不思議そうな顔をして父親に質問した。清房とは、今年まだ十才になったばかりの清盛の末子である。

「父上、私には何の変哲もない壷に見えますが、百五十貫文もの値打ちが本当にあるのでございましょうか?」

「そのようじゃな」

「いったい物の値段はどうやって決まるのでございますか、父上様」

「ははは。見ての通りじゃ。ものの価値を決めるもの、それは人間の欲だ。銭とは、人の欲望を写す鏡なのだ」

「私も銭が欲しゅうございます。どうすれば手に入れることができまするか」

「ははは、お前も銭の病にかかってしまったか。これはおかしい、わっはっはっは」

 平安時代末期に大流行し、それ以降、現代にまで延々と続いている病気、それが銭の病である。現代人たちは、自分達がその病気に冒されていることさえ、もはや自覚していない。

だが、当時の人たちは、その病気に感染したことを、ちゃんと自分たちで意識していたのである。

 歴史上、日本人はこの時から変わってしまった。安寧で平和な生活から離れ、成長かつ上昇しなければ済まされない、修羅の生活へと一変させてしまったのだ。まるで、絶えず鞭でたたかれ続ける競争馬のような人生を、それぞれが歩まなければならなくなってしまったのである。

 六年前、兵庫の港が開港してからというもの、大量の銅銭が市中に出回るようになった。日宋貿易が盛んになり、膨大な量の銅銭を輸入することができるようになったからである。

「輸入」という表現はちょっとおかしいかもしれないが、日本から漆器や刀剣類を輸出し、その代金として宋銭を大量に日本に持ち込んでいるのである。

 奈良の律令時代には、皇朝十二銭と言われるように、日本でも国産の銅銭を生産していたことがあった。だが、これらはほとんど巷に根付かなかった。

それは銅銭の生産量が少なかったこともあるが、最大の理由は、日本経済の世界市場の中に占める割合が、全く取るに足らないものだったからである。

日本の信用力は低くて、国際貿易を日本の銭で決済することはできなかった。それに引き替え、中国銭は国際通貨であり、今日で言えば米ドルのような存在であった。

 さて、兵庫を窓口として日本に大量に持ち込まれた銅銭は、港や問丸の人足の手間賃として、また、平氏の傭兵達への給与として支払われることにより、市場に放出されていった。

兵庫が開港して四〜五年も経つと、市場では従来の物々交換に代わって、銭が使われるようになっていった。

 そうなると、あとは自然に物の価格が決まっていった。それはもちろん、需要曲線と供給曲線の交点で生産量と価格が決定されるという、経済学の法則が純粋に成り立つ世界である。

 銭が急速に普及していったのは、やはり銭の持つ決済機能が大変便利だったからであろう。一言で言えば、「売」と「買」の分離ということである。

物々交換では、自分の売りたい物を欲している人を探し、逆に、さらにその人が自分の買いたい物を持っているという事が取引成立の条件であった。

ところが、銭が使えれば、売った物をいったん銭に替え、別の機会に、またその銭で自分の買いたい物を買えばいいのである。これにより、取引機会は飛躍的に増加し、いわゆる商業というものの発展が始まるのである。

 銭の登場によって、庶民の暮らしも一変した。それまでは、庶民は基本的にその日暮らしであった。米でも野菜でも、何年も貯蔵できるものではない。あくまでも自給が主であり、必要な分だけ生産し、それを自分達で消費するだけである。たくさん作ったとしても、腐らせるだけだ。

 ところが、生産物を銭に交換できるようになると、人々は余分に物を作るようになっていく。つまりはGNPの増大の始まりである。

人々は皆、成長指向、上昇指向を持つようになった。そして、腐らない米、すなわち銭の獲得を目指してアクセクし始めるのだ。

 当時の人はこれを「病」と感じ、現代の我々はもう麻痺してしまっている。


(3)清盛の焦り

 

 治承二年(一一七八年)鹿ヶ谷事件が一件落着したこの年、すでに平家一門が受領する国は十四ヶ国、うち知行国は十ヶ国にもなっていた。

また、先年には、清盛の娘徳子が、高倉天皇の中宮として入内しており、政治的にも経済的にも平家の勢いは止まるところを知らなかった。

 だが、そうは言っても、鹿ヶ谷事件が清盛に与えたショックは相当なものであった。確かな証拠こそないものの、この事件の首謀者が後白河院であることは明白であったからだ。

上皇が、初めて正面切って、対決の姿勢を打ち出してきたのである。三十三間堂造営に始まる両者の蜜月時代は、完全に終わったと言ってよい。

 しばらくして、それを如実に示す出来事が発生した。

「盛子様の領地が上皇に没収されましたぞ」

 京都守護の職にあった弟の教盛が、息せき切って駆け込んできた。

 盛子とは、清盛の三女である。関白藤原基実に嫁いでいたが、基実亡き後、膨大な摂関家領を相続していたのである。

 ところが、盛子もまた、若くして後を追うようにして亡くなってしまった。すると、後白河上皇は、それを院領として没収してしまったのである。

「しまった。手を打つのが遅かったか。まさか、院がそのような素早い動きをするとは・・・」

 清盛は、一言唸ったなり、天を仰いだ。

 たしかに律令の制度から言えば、無主となった荘園を、院が没収することに何ら問題はない。だが、まさか自分の娘の領地を、事前に何の相談も無しに接収するとは、さすがの清盛も思い至らなかった。

 悪いことは続くものである。この後、平家には、さらに不幸が襲った。盛子が没して一ヶ月後に、今度は重盛が突然の病で亡くなってしまったのだ。

 軍事は長男重盛に、作事は三男宗盛に、また、朝廷工作は叔父の信範や義弟の教盛にと、清盛はそれぞれに役割を与えて、一門で平家を支える体制を維持してきた。

ところが、重盛という、その一番の柱を失ってしまった。清盛の後継者として平家の行く末を託していた長男が、あっけなくも世を去ってしまったのである。

 清盛の落胆ぶりは著しかった。

屋敷に引き籠もったまま、呆然と日々を過ごすばかりであった。

 そこへさらに追い打ちをかけるように、信じられない知らせが教盛から届けられた。

「重盛様の知行国である越前が、またもや後白河院に没収されましたぞ。平家の息のかかった者たちが、次々と越前の国外へと退去させられている由にございます」

「何だと。越前は、先祖代々平家の知行国ではないか。我らの地盤ぞ。それを没収するとはどういう料簡だ」

 清盛は大声を張り上げた。

「詳しいことはわかりませぬ。われらが、重盛様の葬儀を執り行っている間に、院は北面の武士を大挙越前に差し向け、国衙を乗っ取ってしまったようでございます」

「何ということだ。まさかそこまでやるとは・・・。いったい、院の強気の源は何だ」

「さて・・・。おそらく、比叡山や南都の僧兵どもを当てにしておるのでございましょう。近頃では、堂衆どもを盛んに焚きつけておるようでございます。堂衆たちもこれに乗って、たびたび都に押し入っておりますれば」

「堂衆だと。何を小癪な。下賤の者どもめ。許してはおかん。すぐに比叡山の堂衆を討て」

「はは、承知つかまつりました。今、比叡山は二つに割れて争っておりまする。我らは学生たちを支援して、山門の乱れを収めましょう」

 堂衆とは、元々は諸堂に勤仕する僧たちのことで、寺の管理職ともいうべき学生(がくしょう)の下位に位置付けられるものであった。ところが、近頃では堂衆たちが集団化して暴力を振るうようになり、力関係はまったく逆転していた。

「後白河院の頼みの綱は、南都北嶺だけではあるまい。奥州藤原氏からも目を離すでないぞ。それに諸国の源氏の動きもだ」

 こうした後白河院の大胆な攻勢の前に、清盛もおっとりと構えているわけにはいかなくなった。もちろん、教盛の思いも同じであった。

「上皇がそのおつもりならば、我らは天皇をお味方に付けましょう」

「そうだな。これからは天皇の権威を大事にせねばならぬ」

「高倉天皇に何か贈り物をなさったらいかがでございましょう」

「なるほど。それはよき計らいじゃ。さて、何がよかろうか・・・」

 と言いながら、清盛が膝をたたいた。

「そうだ、太平御覧を献上しよう」

「え、太平御覧でございますか。あれは、たしか、宋が国外持ち出しを禁じている書ではありませぬか」

 教盛が目を丸くして驚いた。

「そうだ。先だって、李慶仲に命じて、裏から手を回しておいたのだ」

「それはそれは。きっと天皇もお喜びになりましょう」

「うむ。それに、宋と平家の結び付きの強さを、世上に訴えることもできる。平家の後ろには、大国宋が控えておるということをな」

「はい、まさに一石二鳥でございますな」

 ひとまず善後策を思いついて、ほっと一息ついた清盛であるが、教盛が帰った後、再度腰を落として思案をめぐらせた。

〈このまま後白河院を自由に泳がせておいてよいものであろうか。反平家の画策はますます露骨になっている。本気で平家を潰すつもりに違いない。もはや決断の時かもしれない〉

 清盛は、ふと思い出したように、妊娠六ヶ月の我が娘徳子のもとに見舞いに立った。


(4)軍事政権

 

「そうか。生まれたか。男子であったか。それはめでたい」

 治承三年(一一七九年)十一月十二日、徳子が、ついに待望の男子を生んだ。後の安徳帝である。

 清盛の喜びようはたいそうなものであった。彼は、その日、御祝いにやってくる者たちの言上に、相好を崩しっぱなしであった。

 だが、喜びの宴も一日限りであった。翌日にはいつもの厳しい顔に戻っていた。

 その晩、清盛は、平家一門の者を屋敷に集め、次のように命じた。

「ついに機は熟した。かねての手筈どおり、明朝出陣いたす。くれぐれも遺漏なきように」

 清盛は、三千の大軍を率いて福原を発した。

そして、入京するや、摂関家などの主だった貴族達の屋敷を次々に包囲し、押し籠めてしまった。

そうしておいて、最後に、後白河上皇を、京の南にある鳥羽離宮に幽閉した。

 上皇側にとっては、青天の霹靂であった。全くの無警戒と言ってよかった。福原に平家の一門が集っていることは耳に入ってはいたが、それも誕生祝いのためだろうということで、気にも留めていなかった。

 ところで、このクーデター計画について、宗盛は、実は一ヶ月前にすでに知らされていた。彼は、清盛の三男であり、亡き重盛に代わって平家の頭領に指名されていた。だが、父からその話を聞かされた時、宗盛は目を丸くして驚いた。

「恐ろしきことにございます。摂政、関白、左右大臣を追い出し、さらに上皇様まで幽閉するとは・・・」

「天地開闢以来の暴挙と申すか」

「はい。そのようなことが果たして許されるのでございましょうか」

 相も変わらぬ凡庸な跡取りを前にして、清盛は吐き捨てるように言った。

「公卿どもの権力の源は何ぞや。お前にはわかるか」

「は・・」

 突然の問いに、宗盛は言葉に詰まった。

「それはな、やつらが官位を世襲できることだ。例えばだ。藤原摂関家に生まれれば、悪くても参議にはなれる。さらに正三位なり従二位の位階を得れば、それに多くの知行が付いてくる。これが親から子へ、子から孫へと代々続いて行くのだ」

「はあ・・・」

「そうなると、今度は回りの者が摂関家に近づこうとする。寄らば大樹の陰といういうわけだ。庇護を受けようとして、こぞって荘園を寄進するものだから、ますます肥え太っていく。なぜ、そういうことになるのか分かるか」

「いえ、さて・・・」

「それは、人々が位階に対して価値を認めているからだ。それをいいことに、公家どもは経済力を蓄えるようになる。やがては武士を雇う余裕も生まれてくる。つまり軍事力まで手にするようになるのだ」

「はい、たしかにその通りでございます。しかし、このような連鎖を断ち切るためには、如何致せばよろしいのでございましょうか」

「そうだな。それには、位階が人に付いて回るという制度自体を変えねばならぬ」

「しかし、位階というものは、中国から取り入れたものと存じますが」

「その通りだ。しかし、宋国のそれは一代限りじゃ。優秀な人間には位が与えられるが、そいつが死んでしまえば、それまでだ。その子どもに位が引き継がれることはない」

「左様でございますか。日本とはだいぶ異なりますな」

「おそらく高句離を経由してこの制度が入ってきたためであろう。彼の国の悪しき影響を受けてしまったのだ。この日本で、公家が長い間まつりごとを牛耳ってきたのは、まさにこの由縁じゃ」

 清盛はさらに続けた。

「軍事力はあるものの、政治力や経済力を持たない武士が、この世でのし上がるにはどうすればよいと思うか」

「さて・・・」

「それには二つ方法がある。一つ目の方法は簡単じゃ。武士も貴族になればよい。だからわしは、八方手を尽くして、こうして太政大臣にまで上りつめた。だが、最高の位を得たと言っても、所詮土地を前提にした俸禄だ。限度はある」

「はい」

「ではどうするか。そこで第二の方法だ。つまり、陸でダメなら海でということじゃ。わかるか、宗盛」

「あ、なるほど。はい、海は確かに金の成る木でございます」

「うむ。海運や貿易から湧き出る富は莫大なものだ。これによって、有力公家や寺社と比べても、遜色のない経済力を平家は身に付けることができた」

「はい、まことに父上のお力でございます」

「だが、これだけ苦労しても、やっと彼らに追い付いたというに過ぎない。一線に並んだ状態だ。貴族達はまだまだ力を持っており、わしのやろうとすることを邪魔する」

「公家に取って代わるには、彼らのよるべである官位というものを否定するしかないということでございますな」

「その通りだ。我ら武士達が、武力で公家どもを位階から引きずり降ろすのだ」

「はあ。この宗盛、やっとわかり申した。しかし、やはり、げに恐ろしいことにございます」

 社会システムそのものを変革しようという、清盛の革命者的思考を、当時の常識人であった宗盛は、心底理解できなかったようである。

 ともあれ、清盛は公家の勢力を押さえ込むことに成功し、事実上の武家政権を樹立した。クーデターによる軍事政権の誕生である。もちろん日本の歴史上初めてのことであった。

 この年、平家一門の者が受領する国は二十九ヶ国、うち知行国は十四ヶ国というすさまじさであった。日本国は全部で六十六州であるから、実に半分近くを平家が支配していたことになる。

次の章へ

ホームへ戻る