第六章 諸行無常

(1)源三位頼政

 

  治承四年(一一八〇年)三月十九日、高倉天皇は、生まれたばかりの言仁親王(後の安徳帝)を伴い、厳島神社に行幸あそばした。

 もちろん、これは清盛が誘ったものである。冬の季節風もおさまり、だいぶ暖かくなってきたので、ちょっと遅いお宮参りといったところであろうか。

「大変な人出だな」

 一行は、途中立ち寄った瀬戸内の港で、盛大な歓迎を受けた。平家の血を受けた皇子様の姿を一目見ようと、近郷近在から人々が集まり、黒山の人だかりとなった。いわゆるロイヤルフィーバーというやつである。

厳島神社に着いたら着いたで、また大変な騒ぎであった。

「先ほどから、献上品を携えた人々が、順番を待っておりまする。何とぞ、早うお会い下さりませ」

 到着したばかりの清盛を、厳島の内侍がせかした。

「おー、わかった。すぐに行こう。それから、皆には盛大なもてなしを頼むぞ」

 挨拶に訪れる人々の行列も絶えることなく、祝宴も果てしなく続けられた。清盛も、銭に糸目を付けず、金品をばらまいた。

 さて、その日の夕刻、厳島神社では天竺の舞楽が催された。

海に突き出した高舞台の回りには篝火が焚かれ、唐装束に身を包んだ内侍たちが、笙やひちりきの音に合わせて優雅に舞い踊る。

桃の花びらがあたり一面にふりそそぎ、甘い匂いを放っている。平家一門の者たちは、皆、異国情緒に酔いしれていた。まさに、この世の極楽といったところであろうか。祝宴は三日三晩休まずに執り行われた。

ただ、今回の厳島詣でを単なる遊行三昧、物見遊山の旅と見るのは一面的にすぎる。

厳島行幸の旅は、西国の体制固めの旅でもあった。清盛も、その点については抜かりはなかった。

「そうそう。ところで、宗盛は如何致しておるか」

 清盛は、隣で飲んでいた伯父の頼盛に尋ねた。

「はい、今朝ほど三原の城へ向かわれました」

「そうか。それは上々。重盛亡き後、宗盛に軍を束ねてもらわねばならぬからな」

 頼盛の答えに、清盛は満足げに微笑んだ。

各地の海衆と平家との経済的なつながりを強固にすることは、一番に重要なことであった。もちろん、船団の統率状況や城の備えの確認など、軍事面のチェックも怠りなかったのは言うまでもない。

 高倉天皇と清盛一行は、厳島神社参詣を無事終え、再び船で瀬戸内を通って都への帰途についた。

 一ヶ月近くにも及ぶ行幸の旅も終わりに近づき、一同は最後の寄港地である播磨の室津で、のんびりと時を過ごしていた。

 清盛も、春の夕日が長く裾を引いた水面を眺めながら、一人つぶやいた。

「何とか間に合ったな」

 清盛は、得も言われぬ満足感に包まれていた。自分が生きているうちに、親王の厳島行幸を済ますことができたのだから。

〈京都に帰れば、あとは新帝を即位させるだけだ〉

 清盛は大きく息を吐き出した。

〈残り少ない自分の人生の中で、やるべきことはやった。あとは息子や孫たちが、さらに平家を繁栄に導いてくれるだろう〉

 清盛は、水平線に沈みゆく太陽に向かって合掌した。

 ところが、安穏はその時までであった。いよいよ明日は福原に帰るというその日の夜、早船によってとんでもない知らせがもたらされた。

「源三位頼政が寝返りました。一昨日、以仁王を奉じて、都で挙兵したとのことにございます」

 急使の言葉に、清盛はわが耳を疑った。

「なに、あの爺じいが謀反だと。何かの間違いであろう。頼政は病にふせっておるはずじゃ」

「いえ、六波羅からの知らせでございます。確かなことと存じます」

「まさか。第一、頼政がわしに刃を向ける道理がない。一昨年、わしの推挙で参議になれたのだぞ。泣いて感謝しておったではないか。その頼政に限って、平家に恨みの一かけらも持つはずがない」

 源頼政は、源氏の勢力が衰退していく中で、唯一公卿に食い込んでいる源氏方の武将である。それは、ひとえに保元、平治の乱で清盛方に味方したことによる。清盛は、頼政が齢七十才を過ぎても参議になれなかったのを哀れんで、従三位に推薦してやったのである。

「頼政は、今までわしにひたすら忠義を尽くしてくれた。挙兵は誤りであろう。もう一度確かめて参れ」

 使者が立ち去った後、清盛は歯がみをした。以仁王については、あまりマークをしていなかったからである。

以仁王は、後白河上皇の皇子であるが、先ほどのクーデターで清盛に領地を没収され、無位無冠の状態であった。もちろん、平家に対して遺恨を抱いていることはわかっていた。だが、与力する武将もいないので、たとえ令旨を発したところで、徒労に終わるだけである。したがって、わざわざ押し籠めるまでもないと、清盛はタカをくくっていたのである。

 福原に舞い戻った清盛は、ただちに命令を発した。

「すぐに頼政に使者を立て、真意を確かめるのだ」

 だが、留守を預かっていた義弟の平時忠が、ゆっくりと首を横に振った。

「いや、もう既に、知盛様と重衡様が頼政邸を攻めたてておりまする。頼政と以仁王は、南都目指して敗走しているよしにございます」

「何だと。何と早まったことをしたものか。いったい、頼政の謀反が判明したのはいつのことだ」

「それが・・・。令旨を発した以仁王を、頼政が密かに三井寺に逃したという噂が広まり、それで知盛様と重衡様が・・・」 

「なに、噂に惑わされて、息子どもが兵を動かしたというのか?」

 時忠の答えに、清盛は大声を発した。

知盛は、清盛の四男である。清盛最愛の息子ではあったが、今回は父の怒りを買ってしまった。

「ええ・・。なにぶん、頼政は自分の息子の馬を維盛様に横取りされたことから、平家に恨みを持っていたということで・・・」

「馬鹿者。機を見るに敏な頼政が、そんな些細なことで危ない橋を渡るはずがなかろう」

「はあ・・・」

「そうか、しまった。これは策略じゃ。まんまと後白河院に乗せられたな。同士討ちをさせて、こちらの勢力を削ごうとする陰謀じゃ。すぐに追撃を止めさせよ」

 しかし、時すでに遅く、頼政は、宇治川の合戦で平家方に敗れ、無念の最期を遂げていた。


(2)都遷(うつ)り

 

「相国様、火事でございます。早うお逃げ下さいませ」

 お付きの者が、清盛の寝床に駆け込んできた。

「なに、またか。で、火の手はどちらじゃ」

「はい、八条院のあたりでございます。風向きは逆でございますが、念のためにお支度を」

「うむ。それにしても連日連夜のこの騒ぎ。いったい京の町はどうなっているのだ。まずい。実にまずい」

 以仁王の令旨が発せられてからというもの、京都では火付け盗賊の類が頻発していた。政治的混乱に付け込んで、一稼ぎしようとする悪党が後を絶たなかったのである。

 翌日、清盛は、叔父の信範を屋敷に呼んだ。

「叔父上、急がねばなりませぬぞ」

「はい。即位の儀のことでございますな」

「いかにも。早く幼帝を押し立てて、世の乱れを正さねばなりませぬ」

「承知いたしました。さっそく朝廷にお諮り申し上げましょう」

 治承四年四月二十二日、清盛は、安徳帝即位の儀をあわただしく執り行った。清盛が外戚としての地位を確立して、世の賊どもを鎮めようというわけである。

幼帝は、むつき(おしめ)を当てたまま、建礼門院に抱かれ、すやすやと眠っている。

だが、清盛は、そんなことにはお構いなく、皇位継承の儀式を次々とこなしていった。

その夜、六波羅の清盛の屋敷には、一門の者が次々とに訪れ、盛大な祝宴が執り行われた。

「相国様、おめでとうございます。これで一安心でございますな」

 信範は、清盛に祝いの言上をした。

「うむ。そちの骨折りには感謝するぞ。だが、まだまだ枕を高くして眠るわけにはいかぬ」

「はあ、南都北嶺でございますか。何とかせねばなりませぬな」

「うむ。そこでだ。どうだろう、比叡山に禄を与えようと思うが」

「ほほう。坊主どもも、俸禄は嫌いではございますまい。で、いかほど」

「そうだな。二万石もあれば、十分だろう」

「承知致しました。それで平家方につなぎ止められるなら、安いもの。すぐに取り計らいましょう。で、南都の方はいかが致しましょうや」

「奈良は捨ておこう」

「なるほど。南都と北嶺が手を結ぶことさえなければ、平家としては安泰でございますからな」

「そういうことだ。ところで、京の町の様子はいかが相なった。少しはマシになったか」

「はい。すでに禿童の数を倍に増やしました。これだけ取り締まりを厳しくすれば、まずは一安心でございます。火付け盗賊の類もかなり減ってきております」

「左様か。それは上々」

 清盛は、朝廷や南都北嶺に手を回す一方で、禿童(かむろ)と呼ばれる子供の隠密を都のあちこちにばらまいていた。もちろん、反平家の動きを探らせるためである。怪しい者は容赦なく逮捕し、事前に危険の芽を摘み取っていた。

 ところで、禿童という奇妙な存在は、この時突然出現したかのように思われるが、そうではない。

平安末期、すなわち院政期のこの時期、京都界隈では男色が大流行していた。女や血を忌み嫌う風潮が蔓延しており、むしろ男同士の愛の方が純粋だと思われていたくらいである。有力貴族や武士、高僧たちは、こぞって若い男を囲うようになっていた。

禿童の正体は、実はこの者たちであった。彼らは、主君のために必死に働いていたのである。

 平家の公達に従属する禿童たちは、秘密警察としてそれなりに機能はしたのだが、それでも京の治安の状況は好転しなかった。

反平家分子は地下にもぐり、ゲリラ的に放火略奪を繰り返していた。人家が複雑に密集している京都では、彼らの隠れる場所はいくらでもある。

 信範の報告とは裏腹に、京における騒動は激しさを増していった。

こうした事態に直面し、さすがの清盛も、落胆の表情を隠せなかった。

〈以仁王の令旨が、これほどまでに効くとはな〉

 清盛は、昼間から床についたままだった。

〈このままでは、民の暮らしも立ちゆかぬ〉

意気消沈しているときは、否定的な考えしか頭に浮かばなくなる。

〈仕方がない。都を捨てよう〉

 清盛は、ついに苦渋の決断をした。

 治承四年(一一八〇年)六月二日、福原遷都の詔が出された。

 それを伝え聞いた宗盛が、息せき切って、清盛の屋敷に駆け込んできた。

「父上、早まってはなりませぬ。なにゆえに、あわただしく都替えなどなさるのですか。宇治川で以仁王を倒し、平家はまだまだ安泰でございます」

 床の間を背に、沈思黙考していた清盛が、おもむろに口を開いた。

「いや、そうではない。以仁王の令旨によって、全国の反平氏の者どもに大義名分が与えられてしまった。奴らが、いつ天皇や上皇を奪い取って、蜂起するやもしれぬ。この乱れた京都に留まっているのは危険なのだ」

「しかし、この京は、我らが祖、桓武天皇が開いた都でございます。ここに居れば、必ずや御先祖様の御加護がございましょう。それに平家の兵力は、まったくの無傷でございますぞ。まだ戦らしい戦もしておらぬではございませぬか」

「いや、桓武平氏の威光が衰えたからこそ、今の乱れが生じたのだ。この京は、南都北嶺の目がいつも光っておる。それに源氏の密偵だってうろうろしておるではないか。もし戦いになれば、とても平家の力だけで都の静謐を保てるものではない」

 あいかわらず部屋の入口に立ったままの宗盛が、いらだち気味に続けた。

「しかし、福原に移るのはもっと危なくはございませぬか。六甲の山々が、海縁まで迫っておりまする。福原は、地割りをしようにも五条が限度と申すではございませぬか。守るに難く、敵を迎え討つことなど至難の業でございましょう」

「ははは、それはどうかな。たしかに、福原の地だけを見ていたのではそう思うのも無理はない。だが、眼前の海を忘れてはおらぬか。瀬戸内海は、我らにとっては庭のようなものだ。兵や物資をいくらでも補給することができる」

「あ、なるほど・・・」

「それにだ。いざという時には、天皇や上皇を伴って、海上に逃れることだってできる。常に天皇や上皇を掌中にしていることこそが大切なのだ」

 清盛の話を聞いて、ようやく宗盛は腰を下ろした。

「左様でございますな。瀬戸内各地の港には、平家の息のかかった兵どもが、いくらでも控えておりまするからな」

「そのとおりだ。瀬戸内海こそが我らの城なのだ」

「わかりました。父上の深謀遠慮、この宗盛、感服つかまつりました。ひとまずは、福原において、巻き返しを図ることと致しましょう」

 そう言って、宗盛は引き上げていった。

  清盛は、遷都の予定日を一日早め、駆け込むようにして福原に移った。途中で上皇や天皇を奪われることの無いように、念には念を入れたのである。

 その日、清盛の義弟である平頼盛の福原山荘が仮の御所と定められ、安徳天皇と高倉上皇が遷座された。

安徳帝は、この時わずか一歳であった。また、高倉上皇も、上皇とはいっても、まだ二十歳の若さであった。

天皇、上皇ともに、平家の傀儡であることは、もはや明白であった。


(3)頼朝旗揚げ

 

「頼朝が、伊豆で挙兵した由にございます」

「なんだと」

 清盛は、深夜の急使の言上に、床から跳ね上がった。

「大庭景親殿からの知らせでございます」

「挙兵とは、いつのことだ」

「は、去る八月十七日のことでございます」

「五日前か。で、奴は今、どこにいるのだ」

「しかとはわかりませぬ。しかし、御安心下さりませ。大庭殿の軍が、相模の石橋山で大いにこれを打ち破っておりまする」

「うーん・・・」

 清盛は、一言唸ったまま、足下にあった掛け布団を思い切り蹴飛ばした。

「頼朝に養う兵などおらぬ。いったい誰が後ろ盾をしたのだ」

「北条氏政のようでございます」

「北条とは・・・」

「伊豆の豪族にございます」

「ふむ。関東にも源氏に味方する武士がおったか」

「はい。北条は、頼朝の妻方でござりますれば」

「なるほど、そういうことか・・・」

「今は第一報にて、子細はわかりませぬが、おって次の急使が参るものと存じまする」

「うむ、御苦労。下がって休め」

 清盛は、舌打ちをして、布団の上に胡座をかいた。

〈それにしても、何ということだ。頼朝は、恩を仇で返すつもりか。池禅尼の懇願で、命を助けてやったというのに〉

 清盛は、ふーとため息をついた。

〈やはり、頼朝の元にも、以仁王の令旨が届いておったか〉

 その後も、関東からの知らせは、次々と清盛の元に届いた。だが、頼朝の行方はようとして知れなかった。

「まだ頼朝を討ち取れぬのか」

 清盛は、何人目かにやってきた使者に対し、激しく声を荒げた。

「はは。いや、それが。実は、頼朝は、舟で安房に落ちのびた由にございます」

「なんだと。それはいかん。それはいかんぞ。大庭景親は何をしておったのだ」

「はは、ただいま追っ手をかけておるやに聞き及んでおりまする」

「手ぬるい。何があっても潰さねばならぬぞ。景親にきつく申し伝えよ」

 清盛は、頼朝を取り逃がしたという報告を聞いて、天を仰いだ。

 この頃には、清盛の屋敷に、一門の者たちが詰めかけるようになっていた。

落胆している清盛に対し、宗盛が声をかけた。

「父上、頼朝ごときに何ができましょうぞ。それほど気にかけることはございますまい」

「そうではない。たしかに、頼朝一人なら何ほどのことはない。だが、頼朝をかついで一暴れしようと企んでおる輩があまたおる。わしは、それを案じておるのだ」

「はあ・・・」

「考えても見よ。頼朝は、自ら望んで兵を挙げたと思うか」

「それは・・・。平家を倒して源氏の世にしようと・・・」

「たわけ。頼朝が、そんな危ない橋を渡るものか。以仁王の令旨さえ無ければ、奴は安楽な一生を送ることができたのだ」

「では、父上は、頼朝は仕方なしに立ち上がったと申されまするか」

「そうは思わぬか。税を払いたくない田舎侍たちに背中を押されて、いやいや立ち上がった。まあ、そういったところだろう」

「なるほど。源氏本流としての血筋を利用されたにすぎないと」

「そういうことだ。関東の豪族どもが、反平家で一つになることは、何としてでも避けねばならぬ。頼朝は、奴らの旗頭としてはうってつけだからな」

「そう考えてみれば、頼朝も気の毒でございますな。いまさら平家に恭順の意を表しても、今度は反対に謀反人どもに殺されるだけ、というわけですな」

「宗盛よ、同情している場合ではないぞ。火は小さいうちに消しておかねばならぬ。旗頭である頼朝を、すぐにでも叩いてしまうのだ」

 だが、関東からは、清盛の望むような知らせは一向にもたらされなかった。

イライラのつのる毎日を送っていた清盛のもとへ、さらに追い打ちをかけるような知らせが届いた。

「去る九月七日、源義仲が挙兵いたしました。木曽を発して、すでに北信濃を押さえた由にございます」

「なに、今度は義仲だと・・・」

 北国からの使者の報告に、清盛は絶句した。

〈木曽の豪族どもが、源氏に付いたというのか〉

清盛は頭を抱え込んだ。

〈北信濃に向かったということは、義仲め、北陸道に出るつもりだな。南の尾張、三河は平家の地盤、まず突破することはできまい。こうなると、後白河院に越前を没収されたのが痛いな〉

 清盛のショックは相当なものであった。

だが、ここでしょげているわけにはいかない。必死で対応策を考えた。

〈よし、すぐに若狭の敦賀へ兵を出そう。敦賀の港だけでも押さえておくのだ。そうすれば、山陰や九州からの補給がきく。敦賀の地で義仲を食い止めようぞ〉

そう考えた清盛は、すぐに平経盛を敦賀に派遣した。

 経盛は、清盛の異母弟に当たる。長らく若狭の知行国主を勤めており、平家の有力武将の一人である。

だが、経盛の登場も遅きに失したようである。義仲の破竹の進撃を前にしては、経盛も十分に力を発揮することはできなかった。

「義仲は、すでに越中、能登を押さえた模様」

 敦賀に本陣を構えた経盛の元へ、次々と斥候からの報告が入った。

 そしてついに、トドメとも言うべき敗報がもたらされた。

「加賀の倶利伽羅峠で、我が軍が大敗した由にございます」

 これを聞いて、経盛は思わず耳を疑った。

「今何と申した。こちらは五万の大兵ぞ。なにゆえ数千の田舎武者に敗れたのだ」

「はは。義仲の奇策にございます」

「奇策だと・・・」

「はい。牛の角にたいまつをくくり付けて、我が平家の陣中に突進させたと聞き及んでおりまする。我が軍は、谷底に突き落とされて、多くの将兵が命を落とした由にございます」

「なんということだ・・・」

 経盛は、そう言ったきり、その場に立ちつくした。

 ところで、義仲の戦術は奇想天外で、ちょっと日本人離れしているところがある。むしろ、どちらかというと遊牧民的でもある。

もしかしたら、義仲は、女真族の金の援助を受けていたのかも知れない。さかのぼること、奈良時代の渤海使の頃から、北陸の地は、日本海を介して大陸との交流を続けていた。そういったことから、女真族が、能登あたりに頻繁にやってきていたことも十分に考えられる。

 また、信濃は、木曽駒でも有名なように、日本で唯一、「牧」が集中しているところである。遊牧民の金と相通じ合うところが多いのかも知れない。平家が南の宋と結び付くのなら、木曽源氏は北の金とつながろうというわけである。

 倶利伽羅峠の戦いでは、金の兵士がいたかどうかはわからない。だが、少なくとも参謀くらいは付いていたのではなかろうか。でなければ、牛という、コントロールの難しい動物を用いた戦術を考え出すことは不可能だったに違いない。

 さて、北陸での敗戦に続いて、清盛の元にはさらに衝撃的な知らせが入った。

「源頼朝、鎌倉城に入った由、早馬よりの知らせにございます」

 治承四年(一一八〇年)十月六日、頼朝は鎌倉に入った。

鎌倉には、八幡太郎義家が建立した鶴ヶ岡八幡宮がある。つまり、鎌倉は源氏の聖地とも言える場所である。そこに頼朝が入ったということは、相模の国の在地系豪族が、頼朝という名門源氏の旗頭に従ったということを意味している。

「うーむ。のっぴきならぬことになったな。関東の平家方は、雪崩を打って源氏方に付くことであろう。はー」

 清盛は、頭を抱えたまま、うずくまった。

 頼朝の勢力は、十月十四日には、さらに西に向かって動き出していた。鉢田の戦いにおいて、駿河の目代を討ち取ったのである。関八州だけでなく、隣の駿河の地からも、平家方の勢力は追い出されてしまった。

 この知らせを受け取っては、もはや一刻の猶予も許されるものではなかった。

「維盛を至急ここに呼べ」

 清盛は、すぐに使いの者を走らせた。

「それから、食糧と軍船の用意じゃ。出陣は五日後とする。陣ぶれじゃ」

 清盛は、平維盛を総大将とする、三万の大軍を関東へ派遣した。一気に決着をつけようと図ったのである。

維盛は、重盛の長男であり、清盛の嫡孫に当たる。重盛亡き後は、清盛の後継者候補の有力な一人に位置付けられていた。

 こうして、源平両軍は、ついに富士川で対陣することになった。


(4)都還(がえ)り

 

「維盛を鬼界ヶ島へ流せ。上総守忠清は死罪じゃ」

 清盛は、富士川の敗戦の報を聞いて、激怒した。

「お待ち下さいませ。父上、短気はなりませぬ」

 三男の宗盛が、すぐになだめようとした。

 だが、清盛の勘気は収まらない。

「だいたいだ。水鳥の羽音を源氏方の奇襲と思いこんで、総崩れになったとは何たるザマだ。許せぬ」

「いえいえ、平家の武者がそのような腰抜けとは思えませぬ。何かの手違いがあったものかと・・・」

「何があったというのだ」

「はい。おそらくは兵糧が尽きたのでございましょう。この数年、西国は未曾有の大飢饉で、兵糧を十分に持参できませなんだ」

「だからこそ、一気の決着を命じたのだ。それに、もし足りなくば、兵糧は現地でも調達できよう」

「はは。しかし、駿河は敵地にございます。それに、彼の地に荘園を有するのは、多くは京の公家達でございましょう。おそらくは、我が軍に対し、兵糧を出し渋ったのではないかと・・・」

 宗盛は、何とか処罰を撤回させようと、必死の説得に当たった。

 だが、清盛も簡単には聞き入れない。

「ならば、なぜ三河の地で踏み止まらなかったのだ。尾張、三河は、平家の地盤ぞ。兵糧に苦労することはあるまいに」

 もはや、清盛の怒りは収まりそうになかった。

 ところで、富士川の合戦の真相についてであるが、今日我々が知ることはできないが、おそらくは次のようなものだったのではなかろうか。

 すなわち、平家の軍勢は、駿河という東国世界に一歩踏み込んだという不安感も手伝って、いったんは補給のために三河へ退却しようとしたところ、収拾がつかなくなって軍勢が雲散霧消してしまった、というものである。

大軍の弱点がもろに出てしまった例であり、前進的攻撃よりも戦略的撤退の方がはるかに難しい由縁である。

「やはり許すことはできぬ」

 清盛は、低い声でキッパリと言った。

「お待ち下さいませ、相国様。ここで両名に罰を与えては、平家が源氏に敗れたことを世に認めてしまうことになりまする」

 叔父の信範も、何とか清盛をなだめようとする。

「まだ、申すか。では、聞こう。いにしえより、朝敵を平らげんと都を出る者には、三つの存知があると言う。その三つとは何か、答えてもらおう。おじき殿は知っておろうな」

「は、はい。えー、たしか一つ目は、『天皇より節刀を賜る日、家を忘れる。』でございましたな」

「うむ」

「二つ目は、『家を出る時、妻子を忘れる。』でございます。それから、えー、あと一つが、『戦場で敵と戦う時、身を忘れる。』だったと覚えておりまするが」

「そのとおりだ。維盛や忠清は、いったい、このことを何と心得ておったのじゃ」

「しかし、上総守忠清殿も、武勇の者として都中に聞こえておりまする。何らかのわけがあったものと存じます。よくよくお調べのほどを」

「たわけたことを申すな。調べたとて、何の甲斐があろう。もはやこれまでじゃ。源氏と一戦も交えずに引き上げてしまったとはな。はー、情けなや」

 清盛は、平家一門の集まった戦評定の場で、長嘆息をした。

そして、力無くつぶやいた。

「平氏の力の無さを天下に示してしまった。比叡山などは、近江の国を横領すると脅しをかけてきておる。今後は誰も平氏の言うことを聞かなくなるであろう」

「いえいえ、そんなことはございませぬ。いにしえより、朝威を滅ぼさんとする輩で、一人として素懐を遂げた者はおりませぬ。古くは蘇我入鹿や恵美押勝、近いところでは平将門や藤原純友、そして先だっての藤原信頼。皆、首を獄門にさらしておりまする」

 信範が、必死で清盛を励まそうとする。

だが、清盛の気持ちは盛り上がらない。

「それというのも、力の裏付けがあってのことだ。このままでは、いつ我らが朝敵にされてしまうやも知れぬ。事ここに至っては、まつりごとを上皇にお返しするほかに道はなかろう」

「相国様、お待ち下さい。平家の兵力は、いまだ手つかずのままでございます。いくらでも戦をすることができましょう。それほど弱気になることはございますまい」

 義弟の頼盛も、意気消沈した清盛を元気付けようとした。

だが、清盛の決心は変わらなかった。

「いや、ここで悪あがきをすれば、朝廷側は源氏を引き込んで平家に対抗しようとするであろう。天皇や上皇を源氏方に渡さずに、こちらにつなぎ止めておくにはこれしかないのだ」

 その場に、しばらく沈黙の時間が流れた。

「父上、無念でございます。しかし、まつりごとを朝廷にお返しするということになりますと、この福原の都はいかが相なりまするか」

 三男の宗盛が、心細げに口を開いた。

「やはり京に帰らざるを得まい。後白河上皇の望むがままに致そう」

「まつりごとを上皇にお返しすれば、源氏はおとなしくなりましょうや?」

「いや、そうはいかぬだろう。決戦は避けられぬと覚悟せよ。そのために今から策を巡らすのだ」

「策でございますか?」

「そうだ。まず何を差し置いても、京と五畿内を押さえるのじゃ。山城、大和、摂津、河内、そして和泉の五ヶ国からの年貢は、すべて平家が握る」

「はは。父上はまだ諦めたわけではなかったのでございますね」

「もちろんだ。まつりごとは上皇に譲るが、肝要な所領はこの手に握って、来るべき源氏との決戦に備えるのじゃ」

  清盛は、大政奉還を行うことで、源氏方による平家打倒の名目を無効なものにする一方、惣官の直轄支配による五畿内の体制固めを図ったのである。

 畿内惣官制については、天平三年(七三一年)に先例がある。清盛もこれに倣ったのであり、けっして突飛な政策を強引にひねり出したわけではない。

  十一月二十六日、わずか半年足らずの滞在だった福原京を捨てて、再び京都に還都した。

そこから清盛は、休む間もなく、全面的な軍事行動を開始した。

「総動員じゃ。平家一門の軍勢をありったけ集めよ」

 清盛は、阿修羅の形相で次々と命令を発した。

「知盛と忠度には兵三万を付ける。十二月二十三日には出立して、近江源氏を討て」

「ははあ」

「重衡には兵四万じゃ。南都を攻めよ。二十八日には発つように」

「ははあ、かしこまりました」

 清盛は、最後の大勝負に出た。京都の回りにいる平家の敵を一掃してしまおうと、大軍勢をもよおしたのである。

 だが、南都攻めの方は、手こずることとなった。

重衡の大軍にも怖じず、七千の興福寺僧兵どもが、頑強な抵抗を見せたのだ。そのため、一日では決着が付かず、夜戦になだれ込んだ。

平家方は民家を燃やして明かりとしたが、折からの強風に煽られて、火はまたたくまに市中に広がり、大仏殿までをも焼き尽くしてしまった。当然ながら大仏も熔けてしまい、人々に慈悲を授け続けた尊い巨像も、単なる金属の固まりになってしまった。

京に戻ってきた重衡から、戦況を聞いた清盛は、渋い顔をした。

「重衡よ、大仏まで焼き討ちしたのは、ちとやりすぎだったぞ。平家には天罰が下ると、町の者は皆、噂しておる」

「相国様、申し訳ございませぬ。僧兵どもに威しをかけるつもりが・・・。折からの大風で・・・」

「まあよい。わしは仏など信じておらぬからな。そのことよりも、例の件はどうなった。厳島内侍は、もう到着したか?」

「はい。すでに福原を出発したとのことでございます。まもなく参るかと存じまする」

 翌治承五年(一一八一年)一月十七日、後白河上皇による院政が再開された。

清盛は、今年十八になったばかりの実の娘、厳島内侍を参内させ、院の御機嫌を取った。

 清盛は、こうして朝廷工作にいそしむ一方で、軍事面でも次の手を打った。

すなわち、二月一日、城助長を越後の守に任じたのである。もちろん、北国の木曽義仲に対抗させるためである。

だが、この間にも、全国で次々に反乱が勃発していた。

「九州は、総崩れでございます。緒方氏、臼杵氏、戸次氏、さらに松浦党までもが、平氏を見限って源氏方に付いたよし」

 悪い知らせは、東からももたらされた。

「関東では、頼朝の元に続々と兵が集まっておりまする」

 さらに、南海道でも信じられない離反が起こっていた。

その知らせを聞いて、清盛は、天を仰いだ。

「なに、堪増が裏切っただと。何と言うことだ」

 平家重恩の熊野別当堪増までもが、源氏方に寝返ったのである。さすがに、清盛もがっくりと肩を落とした。

 このように、東国、北国、西国、さらには南海道にいたるまで、平家を取り巻く環境は、日に日に厳しいものとなっていった。

 しかし、清盛は、最後の気力をふり絞り、巻き返しの準備を進めていた。この時、すでに六十四才になっていたが、意気はまったく衰えていなかった。

無念にも、上皇には院政再開を要請するしかなかったが、それでも只では転ばなかった。

「宗盛よ、本日、そちの惣官の勅許を得た。これで、まだまだ戦えるぞ。心してかかれよ」

 清盛は、後継者である三男宗盛の惣官職就任を、院政再開の取引条件にしたのだ。

惣官とは、五畿内のそれぞれの国から、直接的に税を徴収できる権限を有する職である。その後、対象地域も拡大され、さらに伊賀、伊勢、近江、丹波も惣官の支配に組み込まれた。都の周辺は、国守に代わって、平氏が直接支配するようになっていったのである。

「東大寺や興福寺などの寺社荘園は没収せよ。摂関家領には、戦さ米の賦課を命じよ」

 清盛は、有無を言わせず、惣官支配下の寺社領を次々と取り潰していった。また、公卿の受領に対しても、少なからぬ圧力を加えた。すなわち、平家軍への兵糧米の供出を命じるとともに、渡船の徴発を行ったのである。

来るべき源氏との全面対決を前に、言ってみれば、国家総動員法を発令したようなものである。

 こうした強行策を、清盛は、寝る間も惜しんで、次々と実行に移していった。これは、まったく体力気力の限界を越えていた。

 疲れ果てた清盛を何とか元気付けようとして、宋の商人李慶仲が、彼を外に誘い出した。

「中国船が寧波より参っております。兵庫の港に停まっておりますので、船の中を御案内致しましょう」

 清盛は、船倉に続く階段を、李慶仲に続いて下りた。

すると、湿った空気が彼の体を包んだ。

「この扉は、まだ誰も開けてはおりませぬ」

 そう言って、李慶仲が船倉の鍵を外すと、目も鮮やかな金銀財宝が目前に現れた。

李慶仲は、一つ一つ取り出しては、清盛の手に持たせた。

「これは南宋の白磁の壷でございます」

「うむ」

「こちらはシャムから取り寄せた香木でございます。鼻を近づけて下さりませ」

「うむ。なかなかに良き香りじゃな」

「それからこちらは・・・」

「いや、もうよい」

「はは、失礼いたしました。お疲れのところを、申し訳ございませぬ」

「いや、そちの気遣いには感謝しておる。それにしても、中は暖かいな。冬だというのに」

「はあ」

「何だ、蚊がいっぱい飛んでおるではないか。これは体が大きい」

「はい、南方の蚊でございましょう」

「左様か。おお、わしの腕に止まって血を吸うておる。何ということだ。こんな小さな虫にも、わしの凋落ぶりがわかるのであろうか」

 清盛は、その場でうずくまり、残りの珍宝奇宝には目もくれずに帰ってしまった。

 翌日、清盛は高熱を発して倒れた。

それからは、三日三晩うなされ続け、生死の境をさまよった。

 北の方、平時子は、ずっとお側に付いていたが、清盛が目を開いた一瞬をとらえ、声をかけた。

「あなた様、しっかりなさって下さりませ」

「おお、時子か」

「何か思し召すことがあれば、仰せ置き下さりませ」

時子は、涙をおさえつつ、清盛の耳元でささやいた。

 朦朧とした意識が正気に戻るわずかの時間に、清盛は遺言を発した。

「これから申すこと、固く守ってもらいたい。まず、わしの死後、葬礼には及ばぬ。遺体は兵庫の経ヶ島に埋めよ。それともう一つ。恩知らずの頼朝の首を、我が墓前に手向けてくれ」

 消え入るような声であった。

だが、それは、儀式や礼儀を重んじる公家社会に挑戦してきた、清盛らしい最期の叫びであった。また、仏による救済を求めなかったのも、彼の気骨を表していた。

「あなた様、しっかりして下さりませ」

 再び意識を失いそうになった清盛を、時子が揺り起こした。

「おー。兵庫の港は、どうなっておるか」

「はい。それはもう、異国との往来の船で、大賑わいでございます」

「そうか・・・。であれば、今の世に何の煩いもない。自分の体は、経ヶ島の浜の真砂と一つになればそれでよい。さらばじゃ」

 源氏の旗頭である頼朝を潰せ、という命令も、最も重要かつ本質的なものであった。もしかしたら、平氏が源氏に取って代わられることを、清盛はこの時すでに予感していたのかもしれない。

 この間、国中の医者や僧侶が、清盛の屋敷に呼び集められた。

だが、どの薬も、そして、どんな加事祈祷も、もはや無力であった。

 治承五年(一一八一年)閏二月四日、清盛は、ついに息絶えた。

享年六十四才であった。

 長年続いたストレスで、抵抗力、免疫力の弱った清盛の体は、ウィルスの侵入を撃退するだけの力を、もはや有してはいなかったのである。

 死因はマラリアであった。

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