付録2 今市紀行

   ・・(前略) 

宇都宮を後にして、今度は今市に向う。特別史跡日光杉並木がお目当てである。JR今市駅と東武下今市駅のちょうど中間に、追分け地蔵というのがあるが、その名の通り、日光街道と例幣使街道の分岐点に当たり、両方の杉並木を同時に見ることができる。

 現在では並木の間を自動車がひっきりなしに往来している。日光杉並木は総延長三十七km、総本数一万三千本という、どえらい規模を有している。しかし、もともとは一万七千本ほどもあったのが、舗装と排気ガスの影響で年々減少し、現在の本数になってしまったという。

 この杉並木を寄進したのは、川越城主の松平正綱・信綱父子である。日光参詣者の便を考えて、一六二五年から二十年掛かりで植樹したということである。現在でも寄進碑が神橋畔、今市市山口、同小倉、同大桑の四カ所に残っている。

 昭和二十七年に国の特別史跡に、そしてさらに昭和三十一年には国の特別天然記念物にダブル指定されている。

 追分けの少し南には、今市市歴史民俗資料館がある。別名杉並木博物館とも呼ばれるとおり、日光杉並木に関する展示紹介が詳しい。また、杉並木以外にも、江戸時代末期に活躍した二宮尊徳の事績なども紹介されている。

 ここ今市は、二宮尊徳が没するまでの数年間、日光神領の再建に尽力した場所である。館内には、彼が領内を廻村した時のルート図があったが、北は川治から南は群馬県境の唐風呂までくまなく訪れている。この時七十才近い高齢であったことを考えると、彼の強靭な体力・精神力にはただただ頭が下がるばかりである。

 市内には、彼が仕法の指揮をした役所跡も残っていた。常時四十〜五十人は勤務できたであろうと思われる大きな建物と、文書収蔵用の小さな蔵などがひっそりと建っていて、当時を偲ばせる。

 市内の報徳二宮神社境内奥には、彼の墓(県指定史跡)もある。一m四方ほどの盛り土の横に、弟子達の言い訳が書かれた石碑が立っている。二宮尊徳は、遺言で自分の墓を作ること無用としたのであるが、それではあんまりだというので、ささやかな墓を夫人の了解のもとに弟子達共同で作ったことを詫びている。

 尊徳のもう一つの遺言は、「速やかならんことを欲するなかれ」というものである。一生をかけて尊徳仕法という理論を構築し、そして実践していった彼の生き方には、個人的には深く感銘を受けているので、いつか詳しく調べてみたいと思っている。

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