第一章 入るを図って出るを制す
「二宮殿、折り入って話があるのだが」
金治郎は奉公先の主人、服部十郎兵衛に呼び出された。服部家は小田原藩でも三本の指に入る譜代の名家であり、金治郎がそこに奉公に入ってから、すでに七年の歳月が流れていた。
主人の言葉使いがいつもと違って少し丁寧なので、彼は不審に思い、尋ねた。
「いつものように金治郎とお呼び捨てくださりませ。さては、何か私目に落ち度でもございましたか?」
「いやいや、落ち度などとはとんでもない。いつもよく働いてくれるので感謝していますよ。常日頃奉公人たちをまとめてくれているので、大助かりだ。三十二才と歳は若いが、お頭のような存在だな。先日も皆で講を作ったそうじゃないか」
「はい、五常講と申します。普段から皆で小金を出し合って蓄えておき、いざという時に金が入用な者に無利息で貸し出すのでございます。もちろん銭の出し入れは、私がすべて帳面に付け、年に二回皆に報告いたします」
「ほほう。お前はとても並の百姓とは思えぬな。読み書きそろばんはもちろん、帳簿を付けるわざまで会得しているとは。いったいどこで学問を修めたのだ」
「いえいえ、学問と呼べるような正式なものは何もございません。もともと書を読むことが好きだっただけでございます。十代の頃は、菜種を栽培してその油で夜な夜な四書五経をひもといておりました」
「そうか。全くの独学とは・・・」
「もっともよく伯父に叱られておりましたが。百姓に学問は無用だといつも言われておりました」
「そうだな。百姓の子供に学問をさせるような親はなかなかおらぬだろうからな」
「こちらにお世話になってからは、御子息様の修学に侍し、ふすまの陰でその時々の講義を聞いておりました」
「ほう、そうか。それは知らなんだ。苦労しているのだな。たしか、お前は十四才の時に父親を亡くしたのであったな」
「はい。その後、また母も失いました。十六才の時でした。それから一家は離散し、親戚の家を転々としておりました。今思い出しても辛いことの連続でございました。やっと元の家を再興できましたのは二十四歳の時です」
「そうか、大変な危難であったな。だが、聞くところによると、お前は今では栢山村一番の地主になっているそうじゃないか。家を再興してからわずか十年ちょっとでそれだけになるとは、並大抵のことではあるまい。是非秘訣を聞かせてはくれまいか」
「いえいえ、特別の事は何もございません。『入るを図って出るを制す』ただこの一つにございます」
「入るを図って出るを制す・・・」
「はい。こちらでいただいたお給金はなるべく使わないようにし、余ったお金で田畑を買い増していったところ、知らぬ間に四町ほどになっていたのでございます。田は全て小作に出し、自分で耕したことは一度もございません。ひたすら小金を得ることに専念しておりました」
「左様か。実は今日呼び出したのはそのことじゃ。お前も知ってのとおり、この服部家は先代以来借金がかさみ、家計は火の車だ。そこで是非、お前、いや二宮殿のお力をお借りしたいのだ。当家の台所の立て直しを請け負ってはくれまいか」
「はあ?」
あまりの突然の申し出に、金治郎は一瞬たじろいだ。
〈今日の主人の物言いがやけに丁寧だったのはこういうことだったのか〉
〈たしかに、己が奉公人の中で頭抜けていることは自らも認識している。しかし、服部家は、かりにも小田原藩の大家、自分のような百姓にお家再建のような大それたことができるのか?〉
〈それに、自分は去年結婚したばかりで何かと忙しい。今でさえ、栢山村と小田原城下の往復で、妻のきぬとは満足な夫婦の会話もできていない。もし、この大役を引き受けるようなことになれば、それこそ夫らしいことは何一つできなくなるのではないか?〉
様々な思いが金治郎の頭の中を駆け巡った。
「私のような未熟者には、自分の百姓家一軒を再興するのがやっとでございます。とてもお武家様の家の立て直しなど手に負えませぬ。私には肩の荷が重すぎまする。どうか、他の者をお当て下さい」
金治郎は、主の前に頭を下げた。
「いや、今までにも多くの名のある人たちに頼んでみた。そしていろいろ手を打ってもらったのだが、どれもうまくはいかなかった。もう二宮殿にすがるしかないのだ。是非考えておいてもらえないだろうか?」
「はあ・・・。しかし・・・」
「よろしく頼む」
そう言って、十郎兵衛も深々と頭を下げた。
金治郎は、自分の部屋へ戻ってから考えてみた。
〈とりあえず断りはしたものの、こんな形で自分の力を発揮できるような機会は、この先そうそうあるものではない。〉
〈それに、この家の財政にはかなりの無駄があることは、自分でも日頃から気になっていた。主人から末端の奉公人まで、冗費に慣れっこになっているように感じられる。確かに借金が積み重なっているが、月々の収支の赤字黒字は紙一重のところである。うまく工夫すれば悪循環から抜け出せるかもしれない。〉
一晩思い悩んだ末、引き受ける方向に傾いていった。新妻には耐えてもらうしかないが、きっと理解してくれるだろう。
翌日さっそく服部家の蔵の中に籠もり、帳簿や借用書をひっくり返して再建の構想を練り始めた。
藩からの収入は一定である。やはり、支出を切りつめるしか方法はない。といっても、一つ一つの支出項目にはそれなりの理由があって、そう簡単に切り捨てるわけにもいかない。さて、どこから手を付けたものか、悩みは尽きなかった。
金治郎の帳簿の調査は十日間に及んだ。気が付かないうちに、もうかなり深く首を突っ込んでしまっている。
その間にも、二度三度と当主の十郎兵衛からは依頼が来る。ここは乗りかかった船、もう後には引けない。
ついに金治郎は正式に受諾することにした。
「そこまでこの私に期待をかけて下さるのなら、お引き受け致しましょう。ただし、向こう五年の間、全て私の申し上げることに従っていただくというお約束でよろしいでしょうか。勝手気ままは無しということにさせていただきたい」
「もちろんのことだ。たった五年で再興がなるのなら、必ずや二宮殿に全てを委ねよう」
こうして主人の言質(げんち)を取ってから、今度は奉公人たちを全員広間に呼び集めた。
「皆も承知のとおり、この家の身代は千両もの借金を抱え、いまや存亡の危機にある。誰か、これを救う妙策を持っているものはいないか。あれば是非この私に教えてほしい」
金治郎の急な問いかけに、一同は顔を見合わせるばかりである。
しばらくの沈黙の後、最年長の茂助が皆の気持ちを代弁するように答えた。
「そんなことが分る者など、ここには居りませぬ。あなたがよろしくお取り計らいください」
「そうか。この度、ご主人様はこの私に再建を任せて下さるとおっしゃった。これから五年の間、何も言わずにすべてを私に託すと申された。お前たちも私の指図に従って、ともに主家の安泰を願って勤めてくれるか。もし、異存があるのなら、今のうちに暇を取るがよい」
一瞬緊迫した空気が流れ、しばらく沈黙の時間が流れた。
「わしらは長年この家にお世話になっております。今、潰れそうだからといって、すぐに立ち退くことができましょうか。あなた様に従い、ともに再建に尽くしたいと存じます。なあ、皆もそうであろう」
そう言って茂助が一同を見回した。
「はい、私も二宮様に付いて参ります」
口々に彼らは答えた。
「そうか、みんなありがとう。ではさっそく今から鍋墨を落としてもらおうか。汚れてもいい恰好に着替え、いますぐ全員台所に集合してくれ」
あっけに取られる奉公人たちの顔を見渡して、金治郎はにっこり微笑んだ。
奉公人たちの決意をすぐに形にするために、金治郎はまず彼らができることから始めさせた。鍋の底についた墨を削ることにより、飯炊きの際に火の通りが良くなり、薪の節約になるのである。
「食事は一汁一菜とする。これはもちろん私も同じだ。例外は認めない」
この日から服部家の奉公人たちには節約意識の徹底が図られた。
こうして、試みに一ヶ月回してみたところ、約一両の節減になった。金治郎は、その金を持ってさっそく当主のもとに報告に出向いた。
「この一ヶ月の間、奉公人たちにも十分節約を言い含め、このとおり一両の余剰を生じました。どうかお受け取り下さい」
「左様か。それはご苦労さん」
十郎兵衛は少しがっかりしたのか、投げやりな口調で答えた。
「二宮殿もご存じのとおり、この服部家の借金は千両ですよ。一ヶ月苦労してたったの一両では焼け石に水というものではありませんか」
「はい、その通りです。一両では奥様の帯代にもなりません。それを分っていただくために、こうして小判を一枚持って参ったのです」
「う・・・」
しばらくの沈黙の後、主人の十郎兵衛は天を仰いで深く息を吐き出した。
「ははは、そういうことか・・・」
「そうです。まずはご主人や奥様自らが節約していただかなければ、いくら下の者が頑張ってみてもたかがしれています。そのことに気付かれましたからには再興の道は成ったも同然でございます」
「いや、済まなかった。私の覚悟が足りなかったようだ。私がなすべきことは何か、何なりと申してくれ」
「はい、では遠慮なく申し上げさせていただきます。衣服は木綿、食事は一汁一菜。夜遊び、遊興は一切禁止。これが守れなければ、始めから再興など目指さない方がましというものです」
「わかった、わかった。すべて言うとおりにしよう」
服部家の支出の半分以上を占める当主自身の出費を抑えることに成功した金治郎は、一方で、無秩序に積み重なった借金の金利の減免についても画策を始めた。高金利のものについては債権者と交渉し、五年割賦を確約する代わりに利子率を引き下げてもらった。それでもなかなか話がまとまらない案件も多く、最終的には小田原藩の財政から低利の借り換えをしてしのいだ。
支出節約、金利削減の効果はめざましく、翌年には単年度黒字に、そして最終の五年目には念願かなって累損を一掃し、約百両の余剰まで得た。金治郎はそれを持って、主のもとに赴いた。
「これはひとえに二宮殿のおかげです。この百両はあなたに受け取ってもらいたい」
当主服部十郎兵衛の喜びようはたいそうなものであった。
「そうですか。それでは折角ですからありがたく頂戴いたしましょう」
金治郎は、その金を持ってさっそく奉公人たちを全員呼び集めた。
「五年間の約束を違えずに当家の再興がなったのは、お前たちが努力してくれたおかげだ。だから、この金は皆で分けてほしい。これは私から与えるのではない。ご主人様からの下されものじゃ」
この成功は、金治郎に新たな世界を提供することになる。ついに鳳雛が大空を羽ばたく時が来たのである。