第十章 仕法畳置

 

「小普請役の二宮金次郎でございます。御報告が遅れまして、大変御迷惑をおかけいたしました。やっと雛形が完成いたしましたので、本日納めさせていただきとう存じます」

 金次郎は、完成したばかりの日光領仕法雛形を持って、幕府勘定方を訪れた。

「左様か。大儀である。しかし、二年以上も前の仕事を今頃持ってくるとは、ずいぶんと呑気な話だな。まあよい、見せてもらおうか」

 ぶっきらぼうな上役の言葉を受け流すように、金次郎は外の庭に控えていた弟子の富田高慶に合図を送った。

「こちらでございます。幕閣の皆々様に御高覧をたまわり、これによる早期の仕法実行を私目に御命じください」

 荷車から降ろされた巻物の山を見て、勘定方の役人は目を丸くした。

「な、なんだ、これは。雛形と言っていたのはこれなのか・・・」

「はい、日光領仕法雛形全八十四巻でございます」

「さ、左様か。これでは二年がかりも無理はないな。と、ともかく御苦労であった。追って沙汰いたすゆえ、本日は帰って休むがよい」

 度肝を抜かれた勘定方は、ただその場を取りつくろうより他になかった。

 芝の屋敷に戻った二人はさっそくお茶で乾杯をした。

「先生、狼狽したお役人の顔といったらありませんでしたね。何だかすっきり致しました」

「そうだな、わっはっはっは」

 二人は顔を見合わせて大笑いをした。

「幕府のお偉方も、この雛形を読めば、きっと先生の遠大な考えに驚かれることでしょう。全国の天領に仕法が広まるのも、そう遠くないことかもしれませぬ」

「うん、まあそう願いたいものだな」

 一仕事終えた安堵感から、二人は久しぶりにゆったりとした時間を過ごした。

 だが、現実はそう甘くはなかった。その後、二人の期待は全く裏切られることになる。何ヶ月待っても幕府からは何の連絡もなかったのである。

 その理由は単純であった。雛形の量もさることながら、中味を十分理解できる人材が幕閣の中にはいなかったのである。

「何て幕府の腰は重いのでしょう。私が勘定奉行所に出向いて直談判して参ります」

 しびれを切らした富田高慶は、今にも江戸城に向って出立しそうな様子である。

 だが、金次郎は、首を横に振って静かに制した。

「いや、止めておこう。我らが幕府に期待したのがそもそもの間違いであった。さすがにわしの我慢も限界じゃ。幕府はもう見限ろう」

「しかし、先生。それでは、せっかくの雛形を埋もれさせてしまうことになりましょう」

「うーん・・・。いや、まだあと一つ残された道がある」

「と、申されますと・・・」

「現在仕掛かり中の小田原藩の仕法に雛形を用いるのだ。これから家老と交渉しようと思っている」

「左様でございますか。先年、国府津村から始まった農村の仕法は、あっという間に小田原領内に広まっておりまする」

「うん、そのようだな」

「全員投票による表彰があちこちで盛んに行われております。無利息貸付金制度も定着してきましたし」

「そうだな」

「日掛け縄索法で、日々の積み重ねが大切であることも皆がわかってきました」

「うむ。それから堰や用水路も改修した。これによって荒地復興も進んでおるしな」

「はい。後に続く村々は、先例を見よう見まねで仕法を取り入れておりまする」

「そうなれば、成果はすぐに形になって表れるものだ」

「ええ、それまで停滞していた米の収量が増加に転じました。藩の税収も大いに潤うことになりました」

「だが、良いことばかりではないぞ。一方で、藩の支出の方もそれにつられて増えておる。飲食費の増加、江戸藩邸の修復工事、藩士の俸禄の上昇など、全くもって目に余る」

「武士たちの散財により、農村仕法の成果は、うたかたのように消えてしまったというわけでございますね」

「そういうことだ。農村復興と藩の分度確立は仕法の両輪である。分度が確立されてない状態で仕法を継続するのは、ざるで水をすくうようなものだ」

「はい。では、仕法雛形が完成したこの機をとらえて、分度確立と仕法の本格導入の二つを、藩に対していっぺんに迫りましょう」

「うむ」

「これを受け入れなければ、今まで融通していた報徳金を全て回収すると脅してやりましょうよ」

「あははは、それはよい」

 金次郎たちの要求に慌てたのは藩の重役連である。とり急ぎ会議を招集し、善後策を協議した。

「二宮は、顔を合わす度に分度確立を主張してやまない。全く疎ましい限りだ」

 まず、国家老が口を開いた。

「しかし、資金を引き上げられたら藩財政が立ち行きませぬな」

  他の家老たちも次々にぼやきはじめた。

「裏工作により二宮をうまく幕臣へと追い出したというのにな」

「あー、まったくだ。一息ついていたところだったのに。再び矛先が小田原藩に向けられることになってしまった。何とかしなければ・・・」

 重臣たちの口を突くのは、後ろ向きの話ばかりである。仕法導入の是非に関して、結論はなかなか出なかった。

「多くの藩士にとっては、仕法は迷惑以外の何ものでもあるまい」

「左様。自分たちの代で倹約するのは理不尽と考える者が大半であろう。今日の藩の財政窮乏は、何も昨日今日の話ではない。何代にもわたる浪費の積み重ねが現在の状態をもたらしているのでござるからな」

「できれば、先送りしたいものでござるな」

 だが、もちろんこういった守旧派の連中ばかりではない。二宮を支持しようという重臣たちも少なからず存在した。

「しかし、二宮が言うことも正論でござろう。百姓だけに努力をさせておいて、武士はのほほんとしているというのでは示しがつきませぬからな」

「その通りでござる。ここは二宮の論を取り入れてみてはいかがでござろうか」

 連日、仕法の本格導入の是非について藩内で議論が重ねられていた。だが、藩論は二つに割れたまま、なかなか合意に至らなかった。

 こうした事態に終止符を打ったのは、人事の新旧交代であった。

 金次郎を藩に取り立てた時に藩中枢にいた家老たちが相次いで隠居し、また世を去るに及んで、ついに流れは傾いた。反二宮派が優勢になってきたのである。

「二宮廃すべし」

 忠真公の跡を継いだのが幼君であったのをよいことにして、反二宮派の側近連中が巾をきかすようになっていた。

「仕法は差し止めと致す」

 藩の実権を握った奸臣たちは、ついに小田原藩仕法中止の正式命令を下した。

 藩内に高札が立てられ、仕法の実施が禁止された。それまで藩内の村々に投入されていた報徳金も凍結された。

 それだけではない。さらに、藩士や農民たちが金次郎と面会することも禁止した。

 この決定が金次郎の屋敷に伝えられると、弟子たちは騒然となった。

「恩を仇で返すとはこのことではないですか。先年の飢饉を先生に助けてもらいながら、何という冷たい仕打ちでしょう。私が行って藩の上層部に掛け合ってきます」

 富田高慶が、憤懣やるかたないといった面持ちで、部屋の柱を叩いた。

「無駄なことだ。止めておきなさい。今は何をやってもしょうがない」

 金次郎は、腕組みをしたままじっと座っていた。

「しかし、先生。こんな不誠実が許されてよいのでしょうか」

「許すも許さないもない。今の小田原藩は、季節で言えば冬のようなものだ。冬にいくら苗を植えても芽は出ない。今は種芋を育てておくしかないのだ。自分ができることはそれだけだ」

「しかし、報徳金はどうするのですか。五千両はつぎ込んでいますよ。返してもらえるかどうか知れたものではありません」

「ははは、別に気にはしていないよ。報徳金は貸し捨てを本分としているのだからな」

 高慶の言うとおり、不良債権化する恐れは十分にあった。

 だが、辛抱強い交渉の結果、十年後、すなわち金次郎が七十才で没するその同じ年に、全額返還が終了している。

「それにしても、なぜ藩のお偉方は、先生との面会を藩士や農民に至るまで禁絶にしたのでしょうか?」

「うむ。おそらく、藩の上層部は、仕法の持つ危険な臭いを察知したのだろう」

「危険な臭い?」

「ああ。幕藩体制下の身分制度というのは極めて厳格なものだ。つまり、搾取する側と搾取される側がはっきりと分かれて存在している」

「ええ。百姓は生かさぬように殺さぬようにということでございますね」

「百姓は供給するだけ、武士は消費するだけというのが封建社会だ」

「はあ、わかりました。先生は、武士と百姓を対等の関係と見ておられるのですね。百姓は納税の義務を負う。逆に武士は、それに見合うだけの政をしっかりせねばならぬと」

「そういうことだ」

「だとすると、武士にとって仕法はありがたくない存在という訳ですね」

「ああ。それにしても、仕法の危険な本質を察知した小田原藩の嗅覚も、また大したものだな」

「あれ、先生が小田原藩を褒めることもあるのですね」

「これは参った。わっはっは」

 このような考え方は、近代民主主義の芽生えとも言えるものだが、このことをもってして金次郎が偉大な思想家であるとするのは、ちょっと誉め過ぎであろう。

 それよりもむしろ、時代の大きな流れというものが背景にあったと言うべきであろう。 数十年後に封建社会が消滅し、明治維新を迎えるという大きな歴史の転換点において、尊徳仕法はその一つの落とし種に過ぎないと考えるのが妥当である。

 ともあれ、金次郎はすぐに小田原を去らなければならなくなった。

 一方、この頃、他藩の仕法も多くは壁に突き当たっていた。仕法といっても人間がやることであり、いつもいつも順調というわけにはいかないのだ。

 細川藩谷田部茂木領では、新田開発の効が上がらず、仕法はずっと中断したままであった。

 下館藩では、藩士が分度を守れないということで俸禄が復元されてしまった。二割八分の俸禄減に耐乏できず、下級武士の不満が爆発したのである。

 烏山藩では、仕法推進派の家老である菅谷が失脚し、藩外に追放されてしまった。当然仕法も中止となったのだが、烏山藩の場合はその過ちをすぐに悟って、三年後に再び菅谷を呼び戻し、仕法を復活している。

 幕府の仕事の方も相変わらずである。利根川分水路目論見書はまったく顧みられず、真岡代官の事なかれ主義もそのままである。

 日光仕法雛形に対する幕府の反応は何も聞こえてこない。全身全霊を込めて完成させた仕法雛形全八十四巻も、江戸城の蔵の中でほこりをかぶった状態である。

 金次郎にとって、還暦を迎えてからのこの数年間は、二十年前の成田山参籠以来のつらい時期であった。

「自分にはやることがなくなってしまった」

 喪失感がつのり、残りの人生の意義も見い出せないような心理状態に陥っていた。

 あるいは男の更年期ともいうべき状態であろうか。少なからず金次郎は疲れていた。

〈仕法は畳置きとする〉

 金次郎は、そう心の中でつぶやいた。

〈自分の出身である小田原藩と最悪の禁絶状態となってしまった。こんな有様では、他藩の仕法を継続する道理もなかろう〉

 金次郎は、ついに諸侯へも仕法廃止の通知を送った。

 もちろん各藩からは仕法継続の嘆願書が続々と返送されてきた。だが、それでも気分は晴れなかった。

 そんなある雨のそぼ降る日、金次郎は突然に思い立って、忠真公の墓参りに出かけた。

「辛い御報告をさせていただかなければなりません。公の御遺言である小田原藩の仕法が廃絶となりました。私の力が至らず、申し訳ございません。民の安寧を図りたいという公の念願をかなえることはできなくなりました。私をお許し下さい」

 先君の墓前で号泣する金次郎を、雨は容赦なく濡らし続けた。

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