最終章 永遠の命

 

「先生、幕府から正式の指令が来たそうですね。やっと日光に発てますね。是非私も一緒に連れていって下さい」

 金次郎の屋敷に、弟子入りして間もない斉藤高教が駆け込んできた。

「そうだな。だが、もう気が抜けてしまったよ。わしももう年だしな」

 日光神領復興の幕命が下ったのは、金次郎六十七才の春であった。小田原藩と絶縁し、幕府の禄を食むようになってから、もうすでに十年の歳月が流れようとしていた。

「いえいえ。先生はまだまだお元気でございます。隠居するのは早すぎます」 

「そうであろうか。凡愚の代官に従って、あたら年月を無駄にしているうちに、いつお迎えが来てもおかしくない年となってしまったよ」

 金次郎はそう言って笑った。

 ところで、日光仕法の命令は今回が初めてではない。実は、九年ほど前の真岡代官所手附時代にも受命している。そのことが、仕法雛形を作るきっかけにもなったのであるが、その後はほとんど何の進展もなく、今日に至っていた。

 従って、再び命を受けたといっても、すぐに腰を上げなければならないというわけでもなかった。

 あまり、気乗りしていない様子の金次郎の態度を見て、斉藤高教は長居せずに帰っていった。

 金次郎は一人、縁側に腰を下ろし、ぼんやりと庭を眺めた。 

〈一気に全国の幕府直轄領に仕法を展開しようという夢はもう捨てた〉

〈残された時間もあまり無いであろう。息子の弥太郎や多くの弟子たちに後を託して、自分はこの世から去らねばならぬのか〉

〈そうそう、この夏には初孫も生まれる〉

 実は昨年、実の娘の文子が、最も信頼する弟子の富田高慶の元へ嫁いだのだ。それが目出度いことに、さっそくに子宝に恵まれたのだった。

〈もうよかろう〉

 金次郎は、障子を閉めて部屋の中に入り、ごろりと横になった。

 金次郎が日光領復興に二の足を踏んでいる理由は、もう一つあった。日光の領民たちの反応である。彼らの中には、仕法の趣旨に疑念を抱いている者が少なからずいた。いや、それどころか、奸智に長けた連中の中には、村民を扇動して仕法反対を唱える者さえ出始めていた。

「昔からこの地は下田や荒れ地ばかりで、年貢は定免と決まっている。もし、多額の財を投入して廃田を起こすからには、必ずや元を取ろうとして年貢を上昇させるに違いない。表向きは貧農救済とか村々復興とかを唱えながら、実は二宮は年貢の増加が目的なのだ」

 民衆もこれに同感して、仕法反対運動は尊徳の赴任前から相当の高まりを見せていた。

 そんなこんなで、金次郎はすぐに行動を起こす気にもなれなかった。しばらくは江戸で諸侯の仕法の整理などをして時を過ごしていた。

 鬱々とした日々を送っていた金次郎だったが 四月に入ると、ついに黄水を吐いた。 持病の胃潰瘍が再発したのである。

 病床に伏すことが多くなって、ますますふさぎ込むばかりであった。

 そんなある日、とんでもない知らせが飛び込んできた。

 これ以上の悲劇があるだろうか。

 その知らせというのは、心待ちにしていた初孫は死産、娘の文子もまもなく死亡したというものであった。

「文子が・・・!」

 金次郎は絶句してその場にへたりこんだ。

「あー」

 金次郎は、畳を爪でかきむしった。

「何ということだ。文子や、さぞや無念であったことだろう。新しい命の創造が、これほどまでに大変なこととは。父は知らなんだ」

 胃の中が引きちぎられる思いである。

「文子よ、よくぞ頑張った。それに引き替え、自分は何をしていたのだ。許せよ」

 何度も何度も畳を叩いた。 

「この数年無為に過ごし、大切な生を粗末にしてきた。息子や弟子たち、そして未だ見ぬ孫にまで期待するばかりで、自分は楽をし過ぎていた。済まぬ、文子よ」

 嗚咽が何度も何度もこみ上げて来て止まらない。

「何と愚かだったのだ。諸侯の仕法の整理など、後ろ向きのことしかやらなかった。おお、自分が間違っていた」

 金次郎は額を畳にこすりつけて、泣き崩れた。 

「文子とその子供は、命に換えてわしを諭してくれたのだ。おー、何ということだ!」

 ひとしきり大泣きすると、金次郎はすくと起き上がり、杖を取って庭を一人歩き始めた。

「自分が切り開いてきた道ではないか。もうこれで十分だなどということがあるものか。生ある限り仕法を続けるのだ」

 夏の真っ盛りであるが、金次郎は直ちに江戸を発って日光に向った。

 病気もまだ快癒していない上に、常人でも参ってしまうようなこの炎暑である。門人たちは袂にすがって押し止めた。だが金次郎の決心は変わらなかった。

「自分にはもう時間がない。お前たちは、厭なら江戸に残っておれ。日光にはわし一人でも行く」

 今市の陣屋に着任するや、炎天下の中、金次郎は広大な日光領八十九箇村を一気に巡回した。

 日光領は広い。しかも山間に集落が点在している。山また山のきつい行脚であった。だが、金次郎はへこたれなかった。行く先々で耕作の状況を聞き、そして助言を与えていった。さらに、当座の生活に困っている貧農がいれば、その場で金を貸し与えた。

 江戸を出てからのスピードがあまりにも早かったので、仕法反対派が気勢を上げる暇もなかった。教えに感服し、仕法を願い出る者が後を絶たない状況となり、一頃の反対運動は全く影をひそめた。

 仕法は順調に推移し、次々と荒れ地が開墾されていった。翌年には、長男の弥太郎も幕府から御普請役見習いを命じられ、父子ともども仕法に尽くすことになった。

 父子の仕事は日光だけにとどまらない。その間にも、烏山藩、細川藩、下館藩、相馬藩等の諸侯の仕法も継続していた。また、函館奉行からも、金次郎に対して蝦夷地開拓見聞の依頼があったりして、実に忙しい日々を送っていた。

「弥太郎よ。わしは蝦夷に参ろうと思うがよいかのう。日光はお前に任せておいても大丈夫だ。わしは新天地に行って、また仕法を広めたいと思うのだが」

「父上、あまり御無理をなさってはいけません。蝦夷は極寒の地、父上のお体では到底耐えられません」

「そんなことはないぞ」

「いえ、今でも時々黄水を吐いていらっしゃるというではないですか。だいたい父上は、文子が亡くなって以来、それこそ不眠不休で働いてきました。あまり御自分を責めてはなりません」

「いや、ここで楽をしたら文子に顔向けができぬ」

「いえいえ。あんなに反対の強かった日光の仕法が、このように順調に進んでいるのを見れば、文子もきっと喜んでくれていると思います。文子とその子供の命は失われましたが、父上には永遠の命がございます。仕法という永遠の命が」

「そうか、そうだな。ありがとうよ。弥太郎、お前も一人前になったな」

 金次郎の頬を一筋の涙が流れた。それを悟られまいとして顔を少し上に向けた。

「父上、これからは私や門人たちにお任せ下さい。皆、父上の子供であり、孫であります。きっとうまくやりますから」

 上を向いても、金次郎はもはや涙を溜めておくことは出来なかった。

 しばらくして、金次郎はまた病の床に付いた。前年における一気の回村の無理がたたったのであろう。それからは、ずっと寝込む日が続いた。

 そして安政三年(1856年)十月二十日、金次郎の容態は急変し、ついに帰らぬ人となった。

 享年七十才であった。

 表立った葬儀は行われなかった。墓石も建てるなという遺言であったが、それではあんまりだというので、弟子たちが、なみ夫人の了解を得て、ささやかな土盛りの墓を今市に残している。

 金次郎にしてみれば、自分の肉体は滅んでも、仕法雛形、そして報徳金は永遠に残るわけだから、墓などは必要なかったのであろう。延べ千五百人にも達する弟子たちが、仕法を未来につなげていってくれることを、きっと信じていたにちがいない。

 後年、尊徳の墓所に報徳二宮神社が建てられた。同名の神社がこの今市ともう一ヶ所小田原にある。

 通常、人が神社に祭られるというのは、怨霊封じのためである。菅原道真の天満宮しかり、柿本人麿の人丸神社しかり、さらには、平将門の神田明神や浅草鳥越神社しかりである。過去に無念の死を遂げた人物を祭って、現世に災いをもたらさないようにするのである。

 では、尊徳も怨霊だったのであろうか?

 没年に幕府から加増があったが、それでも三十俵三人扶持と、最下層の武士クラスの俸禄に過ぎない。終身不遇で、偉業は十分に認められたとは言えないだろう。小田原藩に至っては、恩を仇で返すようなまったくひどい仕打ちをしている。

 尊徳没後三十年にして、日本は明治維新を迎えた。中央集権体制のもと、西欧の新制度が次々と導入され、まさに日本の社会は一変した。

 国が事業を興すことになり、報徳金のような私的ファンドの意義は薄れていったことだろう。富国強兵、殖産興業の号令一下、商工業の比重がアップし、農業は相対的に重要度が低下していった。

 こうした時代の変革の中で、尊徳の偉業は風化していったのだろうか?

 やはり、尊徳は怨霊だったのではないか。

             完

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