第五章 天保大飢饉餓死者ゼロの奇跡

 

 成田山参籠以来、桜町の仕法は驚くばかりに順調に推移した。村人たちは金次郎を信頼し、金次郎もすっかり自信を回復していた。

 米の収量も増加に転じ、報徳金も積み増されていった。当初の約束通り、年で一千五俵を越えた分は余剰金として報徳金勘定に組み入れられていったからである。

 そんなある日、横田村名主の円蔵という者が、家の改築資金としてどうしても二十両足りないということで、金次郎の所へ無心に来たことがあった。

「お前の村は極度の貧困にあえいでいる。名主たる者、これを悲しんで自分のことなど考える暇がないものだ。どのような了見で自分だけいい思いをしようとしているのだ」

 金次郎は、いきなり円蔵の出鼻をくじいた。

「いえ、その・・・」

 円蔵は、金次郎の勢いに気圧されて、返す言葉がなかった。

「多少古くなって傾いているかもしれないが、住んで住めないわけではなかろう。第一、普段の暮らし向きでも足りないものを、多額の金を使って家を建てた後では、返金がいよいよ難しいに決まっている。返す当てがないのを知りながら借りようとするのは、私を欺くものだ。そうであろう」

「いや、そのようなつもりでは・・・」

 円蔵は、ただうつむくだけで、声も消え入りそうであった

「家を建てても返金が容易だというなら、建てずに返すことは何でもないことだ。試しに二十両借りたものとして、今から五年の間に返納だけせよ。その金を荒地復興、村民救済の一助に使ってやろう」

「ははあ・・・」

 円蔵は絶句した。そして自分の不明を大いに恥じた。目が覚めたとでも言ったらよいであろうか。大いに感激し、その言葉に従って借りない借金を返し続けた。

 後年、横田村がすっかり復興し、豊かになった時、金次郎は村一番の豪邸を円蔵のために建ててやった。その時、村人たちの間に恨む者は誰一人いなかったのは言うまでもない。

 またある日、金次郎の使いの下男が、物井村に住む無頼の農夫某の便所を借りた時に、うっかり支えの竹を引っかけて壊してしまったことがあった。柱は傾き、壁は腐っていて、いつ壊れてもおかしくなかったのだが、この無頼の者は大いに怒り、六尺棒で下男を打とうとしたので、彼は驚いて桜町陣屋まで逃げて帰ってきた。

 後を追いかけてきた無頼は、門前でさらに騒ぎ立て、詫びる大勢の者に対しても棒をふるって打ち掛かる始末であった。

 この騒ぎを聞いて、金次郎が応対に出た。

「おれの便所があんたの下男に壊されたんだ。そいつを引き渡してもらおう。十分に腹いせをしてやるから」

「まあ、少し落ち着きなされ。下男の不注意には違いないが、何も壊そうと思って壊したわけではない。もう倒れそうになっていた便所だからこそ、ちょっと触れただけで倒れてしまったのだろう」

「壊れたものは壊れたのだ」

 無頼は、持ってきた棒を再び振り回そうとした。

「まあ、話を聞きなさい。便所だけがそんな状態なのではあるまい。母屋の方はどうだね」

「ぼろぼろに決まっているだろ。修繕する金などあるものか。こういう貧乏人が便所を壊されたんだ。腹が立たないわけがないだろ」

「そうか、分った。私の下男がお前の便所を壊したのだから、すぐにでも修繕しよう。そのついでに母屋も新しく普請してやろうと思うがどうかね」

「な、なんだって・・・」

 驚く無頼に向って、金次郎は続けた。

「家に帰ってすぐに準備をしなさい。これで、下男にも恨みはなかろう。下男が便所を壊した縁でこの幸いが来たのだから、いわば下男も恩人というものだ」

 その無頼は恥じ入り、前非を悔い改めるとともに、その後博打をやめ、農業に精を出すようになったという。

 この件といい、円蔵の件といい、金次郎は相手の人物により、臨機応変に対応を変えていた。四十歳代半ばのこの時期、彼はまさに波に乗っているといってよかった。

 さて、天保四年の初夏、金次郎四十七才の年、例年になく長梅雨の続くある日のことである。金次郎が収穫されたばかりの茄子(なす)を食べていると、その味がいつもと違って秋の茄子のようであった。

「まだ初夏だというのに、もう秋茄子の味がする。夏の陽の気が失せ、陰の気が盛んになっているに違いない。これでは米は豊熟できない。備えをしておかないと民衆は飢渇の災いにかかるかもしれない」

 そう危惧した金次郎は、村内に至急触れを回した。租税を免除するので、一戸につき一反歩の稗(ひえ)を蒔くようにと命じたのである。稗は冷害にも強い救荒用の作物であり、昔から幾度も飢饉を救ってきた。

 だが、一部にはこれに不服を唱える者もいないわけではなかった。

「いくら先生でも、前もって豊年か凶年か予知できるわけがない。だいたい一軒に一反歩ずつ稗を作ったら、桜町全体ではおびただしい量になるだろう。日頃稗のようなまずいものは誰も口にしたことがない。誰がそんなものを食うのか」

 だが、金次郎は一人の例外も認めず、なかば強制的に稗を蒔かせた。

「天道の循環はおよそ五十年である。前回の飢饉が天明年間だったことを考えると、この次の飢饉はいつ来てもおかしくない。昨年は秋から日照りが続き、冬も暖かかった。さらに数度の地震もあって、陽が三つも重なった。と言うことは、逆に今年の夏は陰が重なるのではないか。これは天理の自然である。お前たちは真剣にこれに備えよ。もし怠る者があれば、名主はこれを私に報告せよ」

 果たして、八月まで冷気雨天が続き、真夏というのに着物を重ねる有様となった。関東、奥羽では餓死者数万人が道ばたに倒れるという大災害となった。

 だが、前もって備えた桜町では一人の餓死者を出すこともなく、常と変わらぬ生活が保たれていた。まさに「先見の明」というものである。

 桜町の奇跡は、飢饉で苦しむ近隣諸国の注目を集めずにはいられなかった。桜町のすぐ北隣りの烏山藩では、飢えた農民による米屋の打ち壊しが何件も発生し、不穏な情勢となっていた。だが、藩の米蔵も空同然の有様であり、とても民衆の飢渇を救える状態ではなかった。

 ここに、天性寺という烏山藩公の菩提寺の住職で、円応という者がいた。何とか烏山の窮地を救おうと努力したが、一つの寺の力では及びもつかず、やむなく金次郎の所へ助けを求めに来た。

「拙僧は仏の道に仕える身であります。いま烏山の民が飢渇に倒れようとしております。どうか先生の哀れみをいただきたいと存じます」

 円応は丁重に頭を下げて頼んだ。

 だが、金次郎の応対は、にべもないものであった。

「私は小田原藩に仕える身であり、この桜町の差配だけで手一杯だ。とても他藩のことを顧みる余裕はない。そもそも烏山の民の安否はその領主の職分にあり、私の知ったことではない。金が入用というなら商人に当たってくれ」

 だが、円応も必死であった。

「そ、そうおっしゃらずに。この飢饉では、金を貸してくれるところなどどこにもございません。是非報徳金を融通していただきたい。お願いいたします」

「いや、私の仕法は慈善事業ではないし、ましてや単なる金貸しでもない。私は忙しい。早々にお引き取り願いたい」

 金次郎の冷たい態度にも円応は諦めず、門の前に座り込んで断食行を始めた。

 その後、二日経っても、三日経っても少しも動かなかった。

 ついに金次郎の我慢も限界に達し、円応を呼び出して言った。

「坊主、何のために私の仕事の邪魔をするのだ。さらに門前で死のうとはどういう了見だ」

「他事はございません。先生の教えにより烏山の民を救いたいのです」

「お前は坊主であろう。であれば、仏の道を知らないのか?」

「は?」

「餓死した者が成仏するように祈るのが坊主の仕事であろう。それとも仏の道に荒れ地を開き、民を撫育する道があるというのか?」

「いえ、その・・・」

 愕然とする円応に、金次郎はさらに続けた。

「世の中のことは、おのおの職分があり、相奪わぬようにできておる。お前は僧侶の分際で領主の道を奪い、これを行おうとするのか。もし、お前が本当に民の飢渇を嘆くならば、どうして領主に進言しないのか。領主が愚かで救うことができないというのならばそれも天命だ。せめて仏に祈り、私の門前で餓死しようとする行いを、自分の寺で行ったならば、それでお前の道をなしたと言えるのだ」

「・・・」

 円応の顔からは血の気が失せている。

「言うことがなければ早く帰れ。私は私の道に忙しいのだ」

 しばらく呆然と門前に立ちつくしていた円応だが、今までに味わったことのない感動に身を包まれていた。

 彼は烏山へ帰るなり、家老の菅谷八郎右衛門に働きかけた。

 事の次第を聞いた菅谷は、二宮の人物に感嘆し、烏山公の直書を携えて金次郎に面会した。

 今度は家老直々の来訪であり、藩主の書状が伴っていたので、金次郎もすぐに応対に出た。

「礼記に、『九年の蓄え無きことを不足という。六年の蓄え無きを急といい、三年の蓄え無きを国その国に非ずという。』とあります。およそ歳入の四分の一を余してこれを蓄え、水害、干害、衰乱のような非常時に当てるのが聖人の制度ではありませんか。今、たった一年の飢饉でも立ちゆかないというのは、どういうわけですか」

「はは。全く面目ござらん。家老たる自らの不徳の致すところで・・・」

 そう言って、菅谷がうつむいた。

「その通り。君臣ともに道を失ったからに他ならないのです。国政をあずかる者が道を失ったがために、国民が餓死に及んでいるものは、諸国を挙げて数え切れないくらいあります。しかるに、今烏山藩は、君臣ともに過ちを悟り、私に道を求めてきた。他藩よりはまだ救いがあります」

「はは。何とか烏山藩のためにお力をお貸しいただきたい」

 菅谷と円応が一緒に頭を下げた。

「事情はお察し致します。だが、残念ながら私は小田原藩の禄を頂戴する身。せっかくの御依頼ですが、固辞する他はありません。けれども烏山公はわが主君の親族に当たられる方ですから、烏山公から直接大久保公に御依頼なされれば、主君から私に下命があることでしょう。また、私からも主君にその旨を言上致しましょう」

 そう言って、懐中から二百両を取り出し、当座の資金として差し出した。

「こ、これは。ありがたきことかな・・・」

 この年、商人からは一両の融資も受けることができなかったのに、たった一度の面識で二百両もの大金を与えられ、菅谷は三拝して受け取った。

 円応の天性寺にはただちに御救い小屋が建てられ、救援の米や稗が桜町から続々と送られてきた。もちろん無償贈与ではなく、その時の相場に近い額(前年の約五倍)での融資である。

 報徳金は金次郎個人の金ではない。桜町の領民の丹誠から生み出されたものであり、特別会計として運用している金である。慈善事業として寄付することはできないのだ。

 金次郎は、お礼の言上に桜町に再来した烏山藩家老の菅谷に、その点についてしっかりと釘を指した。

「無利子で融資しますが、貸し金は全額五年間で返済していただきたい。それからもし、今回の徳に報いる気持ちがあれば、冥加金としてさらに一年または二年返済を継続してもらえるとありがたい。後の人が、また報徳金を活用して多くの難を免れることができるからです。報徳金は貸し捨てを本分とするので、返済を継続するか否かは、あなたがたの問題です。私の問題は今ここで終わった」

 この緊急融資により、餓死に瀕していた千人近い領民が救助された。烏山領の人口が約一万人なので、実に一割に当たる人々が死の淵から生還したことになる。

 当座の応急措置が一段落したある日、円応和尚は、金次郎に礼を述べるために、桜町を訪れることにした。

 この時、円応は何とか感謝の気持ちを表したいと思ったが、如何せんちょっとした手土産を買う金も不如意であった。

 そこで、ついに意を決して、彼は川の中に入り、鮎をしこたま捕って手土産に代えることにした。

 これを見ていた村人たちは一様に驚いた。殺生は仏道の大いに戒めるところである。とても藩の菩提寺の住職がすることではない。気でも狂ったかと一同は心配した。

「和尚さん、自分で殺生をなさるとは正気の沙汰とは思えません。どういうわけがあるのですか?」

「いや、私のしていることは仏意にかなっているのだ」

「仏の戒めを破っておいて、仏意にかなっているとはどういうことですか?」

「この度、二宮先生のおかげで数千人の命が助かった。もし、先生のお力が無ければ、罪もない人民が空しく命を失ったに違いない。愚僧はこの方の御労苦を何とか慰めたいと思ったが、そのすべがない。そこでこの鮎を取って召し上がっていただき、少しでも気力を補ってもらおうと思ったのだ。先生の気力が補われれば、この国の人民が救われるのだ。その功徳はたいしたものではないか。この鮎も二宮大人の腹中に入ってその元気を補い、万民の苦を除くことになるのならば、きっと成仏してくれることだろう」

 こう言って、たくさんの鮎をぶら下げて、自ら桜町へ出かけていった。道々、多くの人の誹(そし)りを受けたが、円応和尚は平気であった。そして桜町に着いてから鮎を出して言った。

「野僧は先生に差し上げたいと思って、自らこの鮎を取って持って参りました。どうぞお受け取りください」

 しばらく円応の顔を見つめていた金次郎だが、何も言わずにすぐに塩焼きにして食べ始めた。

 円応の目から涙があふれ出た。

 この後、烏山に帰ってからも、円応は鮎を取り続け、市場で売ってその代金を仕法金に加えた。のちに人々もその意中を悟って、得難い善知識であると感心したという。

 さて、金次郎の元には、烏山藩の他にも近隣諸藩から仕法依頼が相次いだ。桜町の仕法だけでも多忙を極めていたが、金次郎はそのほとんどの要請に応えている。

 だが、それらがすべてうまくいったというわけではない。むしろ短期間で成果が出たと言えるものは皆無といってよかった。

 以下に、金次郎が手掛けた諸侯の仕法を取り上げておく。

 烏山と相前後して手掛けたのが青木村の仕法である。領主は旗本の川副(かわぞえ)勝三郎である。初期の仕法としては比較的順調にいき、十五年目には収穫高が倍増するという成果を上げた。しかし、年貢高も四倍に上ってしまい、百姓にとってみれば、仕法の果実は単に年貢の上昇になっただけということであった。

 このことは、川副が分度を守らずに、収入が増えた以上に自分の支出を増大させたという不誠意を表している。皮肉なことに金次郎の思いとは全く逆の結果になってしまったのである。だが、金次郎は百姓を見捨てずに、報徳金での支援を継続している。

 細川藩谷田部茂木領は、財政再建が眼目であった。肥後の細川本家の分家筋に当たるのだが、累積債務が何と十三万両もあった。現代で言えば、一部上場企業が債務超過に陥って、いつ倒産してもおかしくないという状態である。

 この事態に対して、金次郎は再建屋の才能をいかんなく発揮した。十三万両のうち十一万両の借金を棒引きにしてしまったのである。この間、一人の商人とも会わずに手紙のやり取りだけでこれを実現させている。残りの二万両については、報徳金の活用により荒れ地を開拓し、その収入増で年賦償還する計画を立てた。

 しかし、もともと新田開発の余地が少なかったために産出が上らず、借金の償還も滞りがちになった。その後徐々に疎遠となってしまったが、十五年後になってやっと貸付報徳金を三年がかりで返済するという示談が成立した。

 相馬藩の仕法は、金次郎の晩年に手掛けられたものである。相馬は奥州の南端、今の福島県東部に位置している。相馬公中村氏は平将門の血を引く名家として知られている。

 相馬の仕法は、直接金次郎が采配を振ったものではない。弟子たちに任せたのであるが、諸侯の仕法の中では最も成功した例である。晩年に手掛けたということで、それまでの経験が活かされた、すなわち学習効果が出たということであろうか。あるいは相馬という土地柄、誠実な人が多くいて仕法がうまくいったのであろうか。特に相馬藩には、家老クラスの実務上のリーダの中に優れた人物がいたようである。

 例えば、草野正辰という家老は、仕法導入を藩主に働きかけるに当たり、次のような進言をしている。

「古今を通じて論説の万人に優れたる者多しといえども、事業に至ってはその議論ほどではない。しかるに二宮尊徳は・・・(後略)」

 まさにその家老の、人を見る目の鋭さを表している。

 さて、この他にも、金次郎が少しでも関与した領所は数多く、全部挙げると東日本の十数ヶ国に及んでしまうので、この辺で切り上げることとする。

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