第六章 打ち壊し

 

「どうか哀れな兄をお救い下さいませ」

 一人の中年男が、深々と金次郎に頭を下げて頼み込んだ。

 関東、奥羽でも大変な難儀をした天保大飢饉の折りのことである。東海道は相模の国、大磯宿でも事態は同様であり、川崎屋という大店(おおだな)が打ち壊しの目にあった。主人の孫右衛門という者が、ことのほか吝嗇(りんしょく)で、米を買い占めて暴利をむさぼっていたために、飢えた民衆が怒って蔵に襲いかかったのである。

 官は打ち壊しの首謀者のほかに、被害者とも言えるこの孫右衛門をも捕らえて、伊豆韮山の代官所の獄につないでしまった。

 孫右衛門はその不当を恨み、必ず仕返しをすることを誓って、日夜憤怒の叫びを上げていた。官はいよいよこれを許さず、入獄は一年半にも及んだ。

 大磯の家の留守を預かっていた孫右衛門の妻も、心労が重なって病死する有様で、さらに悲劇に輪をかけた。

 こうした惨状を見るに見かねて、金次郎を頼ったのが、孫右衛門の義理の弟である宗兵衛であった。彼は、以前に金次郎の教えを受けたことがあり、義兄の苦境を救うべく、久方ぶりに金次郎のもとを訪れたのである。

「以上のような次第でございます。何とか兄を救う道をお教えいただけないものでしょうか」

 宗兵衛は両手を突いて、額を畳に擦り付けた。

 だが、金次郎は冷たく一言で突き放した。

「おまえの兄は滅ぶべくして滅んだのだ。私にはどうすることもできぬ」

「そ、そうおっしゃらずにお願いいたします。先生は桜町において、どんな無頼の徒でもお見捨てになりませんでした。何とかお慈悲をくださりませ」

 金次郎は、しばらく目をつむって沈思黙考した。そして、おもむろに口を開いた。

「おまえはその孫右衛門の妹を娶っていると聞いたが、おまえの妻は悲しんでおるか?」

「それはもう、実の兄が獄につながれていると聞いて、私の倍も悲痛しております」

「そうか。では、身には粗末なものをまとい、口には粗末なものを食しておろうな?」

「いえ、は・・・。別段そのようには・・・」

「何だと。まことに悲しむ者には旨いものも喉を通らないものだ。実の兄が獄中で苦しみ、実家がまさに滅亡しようとしている時に、憂える気持ちが薄いのはどういう訳だ」

「そ、それは・・・」

 宗兵衛は完全に言葉に詰まってしまった。

「よいか、帰ったらお前の妻に次のように申すのだ。『実家から持ってきた衣類や道具をすべて売り払い、実家再興の一助にしなさい。たとえわずかな額でもお前が兄とともに艱苦をともにしようと願う真心があるならば、そこからして兄が禍を免れる道が生じるだろう』と、そのようにな」

「はあ・・・」

「お前がまず妻にこの道を示せ。それで、誠を立てさせることができなければ、他のことは何をやっても無駄だ。よいか、これは、お前の天分力量の及ぶ範囲で話したのだ」

「は、ははあ。私めも愚かでございました。目から鱗が落ちました」

 宗兵衛は、帰ってからさっそくこの話を妻に話した。すると、妻も大いに感じ入ったようであった。すぐに着物、調度類を処分し、実家再興の資金として差し出した。また、宗兵衛も一緒に財産を処分したので、夫婦合わせると百両ほどの金になった。

 獄中でこれを聞いた孫右衛門は、今までの怒りたけっていた心が消え、慚愧の念を生じ始めていた。しばしば反省の言葉を発し、涙を流すようになっていった。

 この孫右衛門の様子の変わりようを見て、代官所もついに罪を許し、晴れて二年近くの監獄生活が終わることとなった。

  さて、孫右衛門が出所して大磯に帰ってみると、家は焼け落ち、わずかに黒こげの柱が二、三本残っているばかりであった。蔵もすべて打ち壊され、瓦礫が累々としている有様であった。

 これを目の当たりにして、彼の悔悛の情はいっぺんに吹き飛んだ。しかも、母を失った我が子が泣いてばかりいる毎日である。いつしか町の人への復讐の念が再びわき上がってきた。

 何とか恨みを返そうと、日夜考えを巡らすが、如何せん焼け出された身ゆえ、一人ではどうにもならぬ。そこでもう一度、義弟の力を借りようと、伊勢原の宗兵衛のもとに出向くことにした。

 これを迎えた宗兵衛は、兄の豹変ぶりに驚いた。これでは妻の真心も無に帰すと思い、必死に説得を試みた。だが、孫右衛門の燃えさかる復讐の炎を消すことは難しかった。

「私には兄上のお力になれるだけの資産がすでに残っておりません。しかし、一つだけ心当たりがございます」

「おお、そうか。是非に教えておくれ」

「はい、私の知り合いに二宮金次郎という者がおります。小田原のお殿様の抜擢で、野州の領地の再興を任されている者です。彼には良法があって、今まで数多くの廃屋亡村に多額の無利息金を貸し与えて、再復の道を立てて参られました。私は以前に教えを受けて師弟の縁がございますので、その人に嘆願してみましょう」

「ははは、何を馬鹿なことを言うか。このようなどん底の状態を見れば、高利の金さえ貸す者はいない。それを無利息とは、わしをからかうのもいい加減にしておくれ。きっと別に大きな利を取ろうとしているに違いない。そんな話に引っかかるわしではないぞ」

 そう言って、孫右衛門はすぐにはねつけてしまった。

 だが、宗兵衛があまりにも強く勧めるので、話だけでも聞いてみようかという気持ちになった。そこで、その後、金次郎が小田原藩の仕法のために足柄に戻った機会をとらえて、宗兵衛とともに訪ねてみることにした。

 村の名主の家に滞在していた金次郎は、ちょうどこの時風呂に入っていた。孫右衛門兄弟のことは以前から耳に入っていたので、彼らの来訪の意を聞いて舌打ちをした。

「孫右衛門という男は、容易に道に入るような者ではない。宗兵衛は、何ですぐに彼を来させたのか」

 そうつぶやいて、こっそり裏口から抜け出し、隣村の小八という者の家に雲隠れしてしまった。

 名主は、金次郎の入浴の長すぎるのを不審に思い、行ってみると、果たして風呂場はもぬけの殻であった。

 その日は、村人が総出で方々を探し回ったが、ついに金次郎は見つからなかった。

「先生は、この村の衰貧を救おうとして日夜苦労されています。いま急に訳もなく出て行かれるはずはございません。おそらく、あなた方の訪問を察して・・・」

 名主の言葉を聞いて、孫右衛門も宗兵衛も全身から血の気が引くのを感じた。

「我々は先生を試そうとしてやってきた。しかし、先生は、我々がうわべだけで実意がないことを、会う前から見抜かれてしまった。何と恐ろしい明知だ」

 彼らは、名主に頼んで何とか金次郎に会えるように取り次いでもらったが、それは許されなかった。

 仕方なしに、二人はしばらく名主の家にやっかいになることにした。

 その間、金次郎の村での仕法の実態を聞くにつけ、孫右衛門はあらためて自分のあさましさを大いに恥じた。そして十日の懇願の後、ようやく金次郎の許しを得て会うことができた。

「お前たちは何のためにやってきて、私が衰村を興すのを邪魔するのだ」

「いえ、けっしてそのようなつもりでは・・・」

「孫右衛門は自分の罪深いことを知らず、他人を恨む様子がある」

「は、はあ・・・」

「お前の妹は、私の一言を聞いてすぐさま兄のために全財産を供出したではないか。しかるにその本人たるや、一婦人にも及ばず、他人の力を借りて人を苦しめようとしている。私の道とはすることが正反対だ。早く帰って、お前はお前の滅びの道を行うがよい」

  孫右衛門の着物は、冷や汗でびっしょり濡れている。

「すべて先生のおっしゃる通り。面目ございませぬ。しかし、これからもう一度やり直したいと存じます。何とぞ教えを請い願いたく」

 孫右衛門は、宗兵衛とともに繰り返し頭を下げ続けた。

「お前の先代は天明年間の大飢饉のおり、米を高値で売りつけて富を築いた。そうであったな」

「は、はい」

「とすれば、天はこれを憎んでいたに違いない。この度、お前の代に至って天保の飢饉が起こった。お前は救助の行いをすることなく、再び蓄財に走ろうとした。天がこれを許すはずもない。どうだ」

「は、ははあ。い、いかにも」

「飢餓に苦しむ者がお前の家を打ち壊したのだが、これは天が、町の者の手を借りて行ったものだ。もし、今この災いが無かったとしても、お前の子孫の代でもっと大きな災害に見舞われることになったに違いない。それが、打ち壊し程度で済んだのだ。よしとすべきであろう。そう思わぬか、どうだ」

「は、ははあ。私めの了見が狭うございました」

「官もこの道理を悟らせようと、二年もの間お前を投獄し、反省の機会を与えた。つまり滅亡の道から救ったのだ。高恩と言わずして何と言おう。そうではないか」

「は、はい。そ、そうでございましたか」

 孫右衛門は、もうまったく頭を上げることができない。

「しかるに、お前は町の者を恨み、官の理不尽を嘆くばかりである。お前は今、家の再興を願っているようだが、とても無理だ。どうしてもというならば、おまえの心をそっくり入れ替えるほかは無かろう。事の成否はお前の心一つにある。どうだ」

「は、はい。すべて二宮先生の申される通りでございます。私は間違っておりました。今、ここで生まれ変わりまする」

 孫右衛門はすっかり感じ入り、教えに従いたいと請うばかりである。

「そうか。よし、わかった。では聞くが、今お前の全財産はいかほどだ」

「はあ、えーとー」

「焼け失せたとはいえ、お前の家は長年の富商である。焼け残った財産も無いわけではあるまい。全部集めるといったいどのくらいになるか?」

「はい、ざっと五百両ほどでございます」

「そうか。ではその全額を町の者に分け与えるがよい。お前の家を壊した町の人々は、罪人となって処罰されることをも顧みず、一身を投げ打って打ち壊してくれたのだ。お前の先祖以来の悪行を取り除こうとしてな。恩人と言わずして何と言おう」

「そ、それは・・・」

 孫右衛門は、金次郎のとんでもない提案に言葉を失った。

「何を迷うことがあろうか。打ち壊しの場にあった物はすべて災いの種である。病毒は全部処分してしまうのだ」

「はあ・・。しかし・・・」

「たった今、心を入れ替えると言ったのは偽りか」

「いえ。しかし、そのように申されましても。それでは当方が立ちゆかぬのでは・・・」

 無利息の金を借りて家を興そうとしてやってきたのに、反対にすべて吐き出せと言われて、二人は顔を見合わせた。

「全財産をはたいては、日々の衣食にも事欠き、命を保てないと言うか。ならば、回船で露命をつなぐがよい。お前は船を持っていて、江戸との通船で運賃を得ていたそうだが、この船は打ち壊しの災難とは関係なかったようだからな」

「ははあ。恐れ入ってございます」

 この大胆な提案を実行に移すのに、なかなか踏ん切りがつかなかった孫右衛門ではあったが、ついに意を決して、ほぼ金次郎の言に従って処理を進めていった。

 結果はまさに金次郎の予想したとおりであった。町の人々の信頼を回復した川崎屋の復興ぶりは目を見張るほどであった。数年後には五百両の余剰が生じたが、孫右衛門はこれも大磯宿の代官所に推譲している。

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