第七章 小田原候の遺言

 

「二宮金次郎殿を是非とも我が烏山藩にもらい受けたく存じ、主君より書状を預かって参りました。どうか、御老中様にお取り次ぎ下さりますよう、よろしくお願い申しあげます」

 烏山藩からの使者が、小田原藩江戸屋敷の門を叩いた。

 その頃、金次郎による烏山藩への緊急支援は、ひとまず一段落していた。しかし、彼はそれで緩むことなく、続けて荒地の起発にも着手した。

 飢饉のさなかに廃田復興資金を投入するという離れ業に、藩主以下皆一様に驚嘆したが、金次郎にとっては至極当然のことであった。彼にしてみれば、飢民救済も農村復興も、仕法の中では同じ脈略の中にあるものである。飢饉こそ仕法開始の絶好の機会なのである。そんなわけで、報徳金を活用した水利改修工事は急ピッチで進んでいた。

 こうした金次郎の手腕を目の当たりにした烏山候は、その類い希な才能に次第に惹かれていった。彼は、金次郎にただ恩義を感じるだけでなく、いつしかあらぬ思いを抱くようになっていた。その思いは日々高じていき、ついに横恋慕の手紙を小田原藩に出す事態にまで発展した。すなわち、冒頭の通り、江戸幕府において老中職にあった大久保忠真のもとへ使者を送ったのである。

 驚いたのは忠真の方である。藩内の反対勢力が強いために、小田原藩への仕法導入が延び延びになっていることはずっと気にはなっていた。いつの日か、金次郎を小田原本領に迎え入れようとは思っていたが、ズルズルと時だけが過ぎてしまっていたのだ。

 ところが、何のゆかりもない他藩の領主が金次郎を評価し、藩士に迎え入れようとまで言っている。今回の天保飢饉で困窮しているのは何も烏山藩だけではない。自分の足元の小田原にも火が付いているのである。藩の宝である金次郎をみすみす他藩に譲り渡す道理はない。

 忠真は、ついに小田原藩への金次郎登用を決断した。烏山候へ丁重な断りの手紙を書いた上で、桜町にいる金次郎の元に使者を送った。

「二宮金次郎に申す。お殿様より至急小田原へ参るようにとの御沙汰である。ただちに支度をするように」

 紋切り型口調の使者の言上に対し、だが、例によって金次郎は突っかかる。

「それはまたおかしな話である。私は忠真公よりこの桜町の復興の命を受け、日夜努力を続けている。だが、未だ力及ばず、事を成就することが出来ないでいる。忠真公が、道半ばで桜町の領民を見捨てて戻って来い、などと御命令なさるはずがない。私はここを動くわけにはいかない」

「何と。殿直々の御沙汰であるぞ。従えないと申すか?」

「そうではない。以前に受けた命令を無にしたくないのだ。桜町の復興を成し遂げるまで小田原に戻るつもりはない」

「何を申すか。そのようなことがまかり通ると思ってか」

 使者は、顔を真っ赤にして食い下がる。

「その方は使者であろう。使者たる者の努めは、御用の向きを先方に伝え、その答えを復命することにある。わしの申したことをそのまま殿に伝えればよいのだ。わかったら早く帰れ」

 使者は烈火の如く怒ったが、金次郎は全く態度を変えなかった。使者は、仕方なく江戸に戻り、その悪口不法を忠真公に報告した。

「そうか。そのように申したか、はっはっは。いや、二宮は悪くない。悪いのはわしの方だ。御用の内容をつまびらかにせず、ただ早く参れと言ったのでは、二宮がそう申すのも無理はない。今回は、小田原領内の飢渇を救ってもらいたいのだ。桜町の仕法は、その救済が終わったところでまた継続すればよい。その旨を再度伝えてくれ」

 忠真は、苦笑しながら使者に御用の趣旨を言い付けた。

 再度の使いに今度は金次郎も納得し、ただちに江戸へ向った。

 江戸に着くとすぐに忠真公から綿入れのご褒美が下されたが、金次郎は一瞥もせずに使者に突き返した。

「このような物は私には無用でございます。それよりも、藩の米蔵を開放していただくようお殿様にお伝え下され」

 お救い米には一万石は必要と見積ったのだが、そのすべての放出を忠真に迫ったのである。烏山藩四万石の実績から類推して、小田原藩十一万石ではそれだけの大量の救援米が必要だと計算したわけである。

 忠真もすぐに認可したので、金次郎はただちに江戸を立ち、小田原に向った。そして到着するや否や、留守を預かる国家老に上申した。

「直ちに蔵を開け、米を領内各地に運ぶ準備をしていただきたい」

 いきなりの金次郎の命令口調に、家老は目を丸くした。

「何を唐突なことを申すか。一万石もの米を右から左にすんなりと出すわけにはいかぬわ。まずは江戸に使者を遣って確認せねば」

「確認は不要にございます。忠真公より私が直々に御許可をいただきました。多くの飢民が待っているのです。すぐに蔵を開けてください。早く」

「わ、わかった。では明日、藩の重臣たちと相談することに致すので、帰って待て」

 明日という言葉を聞いて、金次郎は切れた。

「いや、待てません。こうしているうちにも飢え死にする者が次々に出て参りましょう。もし、米を出せないと言うのなら、我々も議が決するまで断食し、飢餓に瀕した民衆の苦しみを分かち合いましょう」

 家老はいまいましげに立ち去って、すぐに重役連を召集した。

 一同皆、二宮に不快感を表したが、一時の感情で救済が遅れ、大久保公のお叱りを受けてもつまらない。渋々米蔵の鍵を金次郎に渡した。

 歯に衣着せず、本音でものを言う金次郎のやり方は、本音と建て前を使い分ける役人の世界とは全く相容れないものである。意地でも仕法に反対する藩士が出てくるのも、当然の成り行きと言えた。

 小田原の地は、烏山と違って、気候温暖、地味も豊かで困難の度合いは予想していたほどではなかった。箱根山中から駿東郡にかけての山あいの村々を中心に救済が行われたが、救援米は二千石と、当初見積りの五分の一で済んだ。

 救助といっても、無料給付ではなく、あくまでも貸付である。もう春も近いので、麦の収穫が見込めることでもあるし、援助を受けるのを躊躇した農民も多かったのであろう。

 それでも、餓死寸前であった箱根、駿東の人々の感謝の念は深く、貸付金は一人の例外もなく、五年割賦で完済された。

 そもそも、今回は別に仕法を施すわけでもなく、単に飢民救済のみが任務なのである。それならば何も金次郎が下野から出張って来るまでもなく、小田原の中で処理すれば良いように思える。しかし、日頃から何かと理由を付けて税を農民から搾り取っている武士層にしてみれば、凶荒になったからといって、はいそうですかと簡単に施しはできない。その点で、農民出身の金次郎の使い道があったのであろう。

 また一方、農民側も常日頃から税の取り立ての厳しさを訴え続けており、多少余裕があったとしても、飢えて見せなければならないということもあったであろう。救援米が当初の五分の一で事足りたのも、この辺の事情である。

 ともあれ、救済事業はすぐに終わった。金次郎は桜町へ引き上げることとし、報告のために忠真公のいる江戸に立ち寄った。

「御苦労であった。また、桜町に戻るのか。どうだ、もう桜町の仕法は完成に近づいたのであろう。いよいよ、小田原本領の仕法に取りかかってはもらえないだろうか」

  忠真は、大柄の金次郎を目を細めて見つめた。

 だが、金次郎の答は、にべもないものであった。

「いえ、まだその時期ではございませぬ。今回飢餓に瀕したとはいえ、もともとは豊かな土地柄ゆえ、本気で仕法に取り組む者がどれほどございましょうか。それに、私は、藩のお偉方から下々の藩士に至るまで、全ての武士に嫌われておりまする。仕法が定着するとはとても思えませぬ」

「うーむ・・・。そうだな。藩士どもの不明には頭が痛い。わしの力の至らぬ所だ。だが、今回のことで機は熟しつつある。考えておいておくれ、頼むぞ」

 金次郎は丁寧に頭を下げ、その場を辞した。

 しかし、それからまもなくのことである。忠真公は病気に臥し、すぐに危篤の状況となった。

 残された時間の少ないのを悟った公は、取り急ぎ重臣たちを枕元に呼び寄せ、最後の力を振り絞って言葉を発した。

「わしはもう長くはない。今から話すことを必ず守ってもらいたい。よいか、では話すぞ。今回は二宮の尽力で応急の手当が間に合った。しかし、またいつ凶荒が来るか分らぬ。二宮が仕法を施した桜町領では、備えが十分で、一人の餓死者を出すこともなかったという。それどころか、なお、他藩を救う余力まで残していたではないか。四千石の桜町が四万石の烏山藩を救ったのだ。だが、小田原本領は残念ながら私の力不足でこのようにはなっていない。ここは二宮の良法を取り入れる以外に私は術を知らない。よいか、これはわしの遺言である。わしの死と引き換えに、二宮を小田原へ入れるのじゃ。どんな飢饉が来てもびくともしない永遠の小田原藩を作り上げるのだ。よいな」

 その二日後、忠真公は世を去った。

 訃報を受け取った金次郎は、その場に立ち尽くし、しばし慟哭した。

「自分が初めて命を受けてから十有余年、ただひたすら公の念願に応えるために頑張ってきた。だが、その事業が半分も終わらないうちに主君は逝去されてしまった」

「公には何でも率直に話すことが出来た。こうして桜町で思う存分腕がふるえるのも、公がいればこそである」

「あー、これからは何を支えに生きていけばよいのか。もう、お終いだ」

 七日間の服喪の間、金次郎は毎日泣いてばかりいた。

 だが、七日目の夜、公が夢枕に立って金次郎を励ますに及んで、ようやくに立ち直った。

「いやいや、憂心嘆息の度が過ぎたようだ。こんなことで人民一人でも死なせたならば、主君の尊霊はきっとお嘆きになるであろう」

 仕法推進の誓いをまた新たにし、金次郎は再び回村に出た。

 さて一方の小田原では、忠真の死後、藩論はまったく二分した。仕法入れるべし、いや絶対反対と、両派が日夜議論を重ねた。

 しかし、遺言の重みは大きい。ということで、結局次のような妥協が成立した。すなわち、金次郎を小田原に呼び戻すのではなく、籍は桜町に置いたまま、小田原の仕法を命ずるというものである。

 だが、この措置に当惑したのは、桜町領の宇津家である。本家の仕事をするのに、俸禄だけは分家である自分のところが出すのである。すぐに抗議の文書を小田原に出した。

 これを聞いた金次郎の弟子たちは、激怒した。この頃になると、桜町には、金次郎を慕って集まった弟子が十数人ほど起居を共にしていた。

「恩を仇で返すとはこのことではございませぬか。先生が桜町に居てもらっては困るとは」

「ははは、全くその通りだな。まあ、宇津家の困惑も分らぬではないが」

「しかし、先生には十五年の長きにわたってお世話になったのですよ。先生を追い出そうとする宇津の神経が理解できませぬ」

「それはそうだが、やはり正式の辞令が出て、わしが小田原に移るというのが筋であろう」

「結局は小田原本家には勝てないということですか。宇津も押し切られてしまったのでございましょう」

「うむ。まあ、決定に従うしかあるまい」

 そうは言っても、当の金次郎にとっては何とも割り切れない措置であった。

〈誠心誠意努めてきた結果が、厄介者扱いで押しつけ合いとは〉

 金次郎は、全身から力が抜けていくような感じを覚えた。

 だが、すぐに気を取り直した。

〈自分を待っているであろう小田原の領民のことを思えば、そんなことは些細なことではないか〉

 この年、金次郎は宇津家の永久分度を二千石と定め、桜町の仕法を締めくくった。仕法に着手したときの実質税収が六百石、当初の分度設定が一千飛んで五石であったことを考慮すると、大変な成果と言ってよかった。

 金次郎は桜町を引き払い、小田原に入ると、さっそく家老に面会した。

「この度、御命令により小田原に参りました」

「ああ、よろしゅうにな。亡き忠真公の御遺言だ。すぐにでも仕法にとりかかってくれるか」

「はい、承知いたしました。では、例によって模範村を選定し、そこから仕法を広げていきたいと存じます」

「よかろう。すべてそちに任す。しっかり励んでくれよ」

 小田原の領民たちも金次郎に応えて、急速に仕法の神髄を吸収していった。近隣諸村からも、模範村のノウハウを盗もうとして調査に訪れたり、あるいは仕法書を書き写そうとしたりと、仕法熱は冷めやらなかった。

 もちろん皆自主的に動いているのであり、役人に強制されたものではない。各村見よう見まねで仕法を開始し、全村風化する様は、さながら池に投じられた小石の波紋が、池全体に拡がるようなものであった。

 このことは、従来の為政者の無能さをさらけ出すことにもなった。そのため、藩士たちの金次郎に対する反感は、ますます強まっていった。

 だが、そんなことで臆する金次郎ではない。逆に藩に対し、鋭い刃を突きつけた。

 すなわち藩自身の分度確立を迫ったのである。いくら荒地復興や新田開発で税収がアップしても、藩の財政支出が改善されなくては、ざるに水というものである。農村復興と藩の分度確立は尊徳仕法の両輪である。

 ところが、藩の財政支出削減に対する藩士たちの抵抗は並大抵のものではなかった。後々、金次郎は大きな傷を負うことになる。

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