第二章 空白

 

(1)暗夜行路

 信長は、寝所に戻るとただちに森三兄弟とヤスケを呼び寄せた。森三兄弟とは、信長のお側に仕える小姓でありながら、美濃岩村六万石の城主でもある森蘭丸と、その弟坊丸、力丸である。彼らは信長の忠実な近侍であり、信長と行動を共にするのを常としている。

 また、ヤスケとは、先年イスパニアの宣教師オルガンチーノが、信長への献上品として連れてきたアフリカ人奴隷である。信長がその時肌の色の黒いことを疑い、わざわざシャボンで洗わせて確かめたという、あの奴隷である。身の丈六尺を優に越える大男であり、その腕力の強さは日本の相撲取りにも引けを取らなかった。信長はヤスケの純朴さを愛でて、ずっとお側に置いてきたのである。

 信長は、部屋の入口で額づいてかしこまっている四人に向かって言った。

「これよりただちに出かけることといたす。面倒な武装は不要じゃ。蘭丸は、わしの朱印と金子百両を用意致せ。坊丸と力丸は、皆の分の馬を東門に回しておけ。ヤスケは、なぎなたを持ってわしの側を離れるな」

 蘭丸たちは、あまりの唐突な話に一瞬たじろいだものの、主人のただならぬ気配を感じ取って、理由も聞かずにすぐに準備のため走り去った。

 信長は、さらにあと一人、伴太郎左衛門を呼んだ。彼の影武者である。

「太郎左衛門よ、そちの命をもらい受ける時が来たようだ。詳しく話す猶予はないが、この寺はまもなく攻められる。わしはとにかく逃げられる所まで逃げてみるつもりじゃ。あとはよろしく頼んだぞ。いよいよの時が来たら、本堂に火を放て。すべてを灰にしてしまうのだ。わかったな」

 太郎左衛門は、突然の事態に驚いたが、日頃から影武者としての覚悟ができていたのであろう。大きくうなずくと、涙を流しながら信長の着替え支度を手伝った。

 信長一行は、こっそりと本能寺を抜け出して南に向かった。漁師吉蔵の変報を聞いてからいくらも経っていない、まさに電光石火の早業であった。光秀の先鋒隊が本能寺に到着したのは、それから四半刻(三十分)後のことであった。

 四人は、懸命に鞭を振るい、馬をせめにせめた。

「親方様、お聞きしてもよろしいでしょうか?」

 最年少の力丸が、馬上から不安げに尋ねた。

「何だ」

「いったい何が起きたのでございましょうか?」

「ふふ、おもしろきことだ」

「おもしろきこと・・・。我らはいったいどちらへ向かいますのか?」

 二人のやり取りを聞いていた蘭丸が、力丸をさえぎった。

「どこでもよい。我らはただ親方様に従っていればよいのだ」

 あまりに遠慮のない弟を、長兄の蘭丸がたしなめたのだ。

「ははは、よい。行き先は大坂じゃ」

 信長一行は、西より攻め上る光秀の部隊を避けるように一旦東に迂回した後、竹田街道をまっすぐ南下した。目指す先は伏見である。

 伏見は、京と大坂を結ぶ淀川水運の京都側の拠点となる港である。信長は、一気に淀川を下って、三男信孝と丹羽長秀のいる大坂に逃げ込むつもりであった。

 彼は、馬を駆けに駆けさせた。森三兄弟とヤスケも必死である。信長は、戦国大名の雄でありながら、若い頃から修練を怠らず、乗馬に関しては天才といってよいほどの技量を有していた。

 伏見への道中の半ばにさしかかった頃、信長の頭に十数年前の記憶が、ふとよみがえった。あの時もこうして必死の思いで疾駆していた。

 あの時とは、忘れもしない越前朝倉攻めの時のことである。大軍をもよおして敦賀へ進撃し、破竹の勢いで敦賀の金ヶ崎城、疋田城を次々と陥落させた。あとは一気に敵の本拠地である一乗谷になだれ込んで、朝倉義景の息の根を止めるばかりであった。が、好事魔多し。

 かさにかかった信長軍が、越前平野への入口である木の芽峠にさしかかった、まさにその時、浅井長政が信長に反旗をひるがえしたのである。自分の妹のお市を嫁がせていることもあり、最も信頼していた、その長政のまさかの裏切りである。

 信長は愕然とした。だが、背後より攻められて挟み打ちにあってはたまらない。金ヶ崎城に羽柴秀吉を殿軍(しんがり)として残し、自らは朽木越えの間道を取って、一目算に京都に逃げ帰ったのであった。

 あの時は四面に敵を抱えていた一戦国大名に過ぎなかったのだが、今は違う。この度の毛利攻めが首尾良くいけば、天下を手中にするのも時間の問題である。何があってもここで死ぬことはできないのだ。 

  まもなく伏見の港の灯りが見えてきた。森蘭丸が先駆けをして、港にいた二人の不寝番に事情を話して船を借りようとした。

 がしかし、守衛たちは、こんな夜明け前にまさか雲の上の存在とも言える信長が現れることなど、はなから信じようとしなかった。

「偽りを申すな。京都奉行の村井様からは何も聞いておらぬぞ。ここを通すわけには参らぬ」

 何度か押し問答を繰り返している蘭丸に、信長が耳打ちをした。

「銭をはずんで、一番船足の早い船を用意させよ」

 十両もの大金を受け取った二人の役人は、ばつの悪そうな笑みを浮かべながらも、いそいそと小型の小早(快速船)を用意し、そのとも綱をほどいて一行を導き入れた。

「よし、一気に川を下るぞ」

  五人は飛び乗るや否や、櫓(ろ)を操って早々に岸を離れた。もちろん信長自身も櫓を手にして必死に漕いでいる。それにしてもヤスケの怪力はものすごかった。船の片側を一人で受け持ち、もう片側の四人とちょうど釣り合いがとれるほどであった。

  半刻も漕ぎ進んだであろうか、やがて川の流れが緩やかになり、大山崎が近いことがわかった。

  大山崎の地は、淀川本流に対して桂川と木津川の二つの大きな支流が合流しており、淀川の語源どおり流れが淀んでいて、中洲も大小取り混ぜていくつも点在していた。

  大山崎を抜ければ、いよいよ摂津の国に入る。皆の船を漕ぐ手にも一段と力が入った。

いよいよ淀を過ぎ、再び川の流れが早くなり始めたと思った、ちょうどその時、左前方にある中洲の葦の茂みから、いくつもの黒い物体が飛び出してきて行く手をさえぎった。何しろ月のない夜明け前のこと、一寸先は全くの闇である。

 突然何かにぶつかった。と、たちまちに船の動きが止まった。

「ど、どうした」

「わかりませぬ」

 すると、この時ドスのきいた大きな声が響いた。

「静かにしろ。おとなしくしていれば命は取らぬ。積み荷を見せてもらおうか」

 あっという間に何隻もの小船に取り囲まれてしまったようである。何人もの人間が、次々と一行の船に飛び移ってくる。これは間違いなく、夜盗の群れだ。

「無礼者。物盗りであれば、いくらでも金を呉れてやる。ただちにこの場を立ち去れい」

  蘭丸が大声で叫んだ。

 と同時に、ヤスケが得意のなぎなたを振り回し、あっという間に三人の男を払い倒した。

「ギャー」

「やりやがったな。もう容赦はしねえ。者ども片づけてしまえ。相手は小人数だ」

 仲間を斬られたことで逆上した夜盗どもは、一斉に信長一行に切りかかってきた。もはや蘭丸の説得も無意味なものとなっていた。

 たちまちに乱戦となった。ヤスケをはじめ、森三兄弟の奮戦はすさまじく、次々と相手を倒していく。もちろん信長も刀を抜いて立ち向かった。狭い船の中のこと、船は左右に大きく揺れ、まともに立っていることもできない。

 だが、敵は数十人、こちらは五人と何しろ多勢に無勢である。まず、年少の力丸が、そしてさらに坊丸が殺られた。

ヤスケと蘭丸は、信長をかばって討って出るが、相手もひるまずに向かって来る。二人はずるずると舳先(へさき)の方へ追い詰められていった。

 その時背後に回り込んでいた小舟から一人の男が、舳先に立っていた信長の後部めがけて飛びかかり、櫂(かい)を横殴りに振り払った。

「う、ぐ」

 信長は横面を思いきり殴打された。頭からは鮮血が吹き出した。崩れるように倒れ込んだ主人を見て、ヤスケは絶叫し、なぎなたを一閃のもとその男の首を刎ねた。

 時間が一瞬止まった。

 と、次の瞬間再び乱戦となった。ヤスケと蘭丸は狂ったように敵を斬りまくる。

 どれだけの時間が経ったであろう。二人とも満身創痍となりながらも気力をふりしぼって戦った。その迫力は夜盗どもを圧倒した。

「手強い奴らだ。者ども退け、退け」

 二人のものすごい剣幕に夜盗らもたじろいで、ようやく引き揚げにかかった。蘭丸は、敵が元の小船で退散するのを見届けてから、這うようにして舳先にとって返した。

「親方様、ご無事でございますか。親方様はどちらで?」

 しかし、信長の姿はもうそこにはなかった。

「親方様、親方様はどちらに居られる?」

 蘭丸は叫んだ。繰り返し繰り返し叫んだ。

だが、何の答えもなかった。

「川に落ちられたのか・・・」

 ようやく夜明けとともに薄明るくなり出した川面を、二人は食い入るように捜したが、そこにはただ朝の光を吸い込んで息ずく、ゆがんだ平面があるばかりであった。

 蘭丸は、血に染まった舳先の板張りを見つめて呆然としていた。そのうちにヤスケは泣き出していた。

 

(2)吉乃の面影

 「う、ここはどこじゃ」

 どこかの商家の一室であろうが、あたりの景色にまったく見覚えがない。自分は何故ここで寝ているのか。

 とにかく起き上がろうとしたが、その時右足に激痛が走った。

「骨が折れているのか?」

 頭が割れそうに痛む。いったい何があったのか。そもそも自分は何者なのか。

 必死に記憶を呼び起こそうとしたが、何も思い出せない。

「おい」

 声を出して人を呼ぼうとしたが、またも激痛が走った。口が開かない。口の中がズタズタに切れているのだ。

状況から考えられることは、何らかの騒動に巻き込まれて頭を強く打ったため、記憶を喪失してしまったということしかない。

 とにかく行動を起こそうと再度立ち上がろうとしたところ、一人の女が部屋に入ってきた。

「やっと気が付かれましたか。もう丸一日眠っておられました。御気分はいかがでございますか」

 年の頃は三十過ぎの、わりと細面の女である。首に十字の飾りを掛けている。

「ここはどこでござるか」

「摂津の油問屋成田屋の離れでございます。私は主人の娘で、お藤と申します」

「成田屋? 何故わしがここにおる」

「さあ、それは私にもわかりませぬ。昨日の昼前、あなた様が私どもの船着場に倒れておりましたのを、手代がここにかつぎ込んだのでございます。一時は土左衛門が上がったと大変な騒ぎでございました。でも、あなた様は頭と足を傷めておられるだけで、命に別状はなかったようでございます」

「そうか。それはかたじけない。しかし、見ず知らずのわしに対して、何故このように親切にしてくれるのだ」

「私はキリシタンでございます。この町の領民もほとんどがキリシタンでございます。困っている人を見たら助けて差し上げるのがゼウス様の教えでございます。ですから、当たり前のことをしているだけでございます。お武家様は高山右近様の御家来衆でございますか?」

「高山右近?・・・わからぬ。自分がいったい誰なのかまったくわからぬ」

 頭が割れそうだった。絶望感に打ちひしがれ、女の顔を呆然と見つめた。とりたてて美人というわけではなかったが、なぜか胸がうずいた。

 暫くして、高槻の城下より主人の成田屋が帰ってきた。お藤は主人に今あったそのままのやりとりを話した。

「お武家様、話は娘からお聞きしました。大変な災難でございましたな。そのうちにいろいろと思い出されますやろ。足も傷めておられるようですし、ゆるりと養生なさって下さりませ。身の回りのことはこのお藤がお世話いたします」

  信長としては、今は成田屋の好意にすがるよりほかにすべはなかった。

 ところでこの時、すなわち成田屋の船着場からこの離れに運び込まれるまでのわずかの間に、信長は、最も見られてはならない人間に目撃されてしまったのだが、もちろんそのことを彼は知る由もなかった。

 

(3)秀吉無残

「やっと堤が出来上がったな。よし、これより水を引き込むぞ」

 六月四日の未明、すなわち本能寺の変の丸二日後、羽柴秀吉は備中高松城攻囲の陣中にいた。

 秀吉は、高松城の周囲に長大な堤を築き、その中に川の水を引き入れて城を孤立させる作戦に出た。いわゆる水攻めである。

 毛利軍は、城将の清水宗治を救うべく、総力を挙げて後詰めにおもむいた。だが、秀吉方三万の大軍の前にはどうすることもできず、使僧安国寺恵瓊を通じて和議の道を探っていた。

秀吉三万の軍勢のうち、一万三千は、三年前に毛利より寝返った宇喜多勢である。毛利としてはジリ貧の状況に陥っていたのである。

「これで毛利との和議の交渉は打ち切りでございまするな」

 軍師の黒田官兵衛が、秀吉にささやいた。

「ああ、ここまでやったからには只では帰れぬからな。和議など慮外じゃ」

「だいぶ元手がかかりましたからな」

「そうだな。四百万個もの土嚢を買い集めるために、軍資金の全てを使い果たしてしもうたわ」

「いや、それでも足りずに堺の商人から借金まで致しました。まだ切り取ってもいない備中や備後の商権をカタに入れて」

 そう言って、官兵衛が笑った。

「ははは、それを言うな。だから生半可な条件で和睦するわけにはいかぬのだ」

「はい。しかし、高松城の全将兵の命と引き換えに、備中・美作・備後・伯耆・出雲の五ヶ国を譲れというのは、ちと厳しすぎましたかな」

「それと、城主清水宗治の切腹もじゃ」

「やはり、毛利は受け入れませんでしたな」

「ああ。だが、もう和睦は必要ない。一気に勝負を付けようぞ」

 あまりに厳しい条件のため、毛利側の拒絶にあって外交交渉は難航していたのだが、水攻めの準備が整った今、もはや交渉事に頭を悩ます必要は無くなった。一気に城攻めを決行するだけである。

 堤の完成で、秀吉軍もホッとしていた、まさにそんな時である。長谷川宗仁の放った飛脚が、信長の訃報をもたらしたのは。

宗仁は、信長に仕える茶匠であり、本能寺の変をからくも生きのび、急報を秀吉に知らせたのだ。

「何だと。親方様が光秀に討たれたと」

 秀吉は、書状をつかんだまま放心状態となった。

「そんなことが・・・」

 秀吉は、そのまま地面に突っ伏して号泣した。

「殿、これは何かの策略かもしれませぬ。用心が肝要かと」

 黒田官兵衛が、不審の念を露わにした。

 だが、第二、第三の使者が、次々に同じ知らせをもたらすに及んで、これを事実と認めざるを得なくなった。 

ひとしきりして、官兵衛が秀吉のそばに進み出て、慰めの言葉をかけた。

「殿、これは災い転じて福となるやもしれませぬ。光秀を倒して天下を狙えまするぞ」

 その言葉を聞いて、秀吉は、官兵衛を采配で思い切り叩いた。

「何を申すか。この痴れ者めが。信長様が死んで何が福じゃ」

 そう言ってもう一度叩いた。

「親方様無しでは、わしは生きてはいけぬ。わー」

 秀吉は、再び大声を上げて泣き始めた。

四半時も泣いていたであろうか。

 だが、その落胆ぶりとは裏腹に、秀吉の行動は素早かった。号泣している間に、しっかりと善後策を考えていたのだ。

「官兵衛よ、済まぬ。取り乱してしまったな」

「いえ、人の気持ちを解さぬ官兵衛の誤りでございました」

「ただちに毛利に使者として赴いてくれ。今日のうちに和議に持ち込むのじゃ」

「はは、しかしてその条件は」

「うん、そうだな。美作一国、それから備中・伯耆それぞれ半国の譲り渡し。それと清水宗治の切腹ということでどうだ」

「は、それで結構かと。承知つかまつりました」

 当初から比べると、領土の面で大幅に譲歩しているが、秀吉としては一刻も早く本領の播磨姫路城に帰りたかった。

 誓紙の交換が終わり、清水宗治が小舟に乗って城より漕ぎ出してきた。

そして、曲舞を謡い舞った後、辞世の句を読み、見事に切腹して果てた。

「よし。すぐに陣払いじゃ。姫路まで一気駆けで参るぞ」

 秀吉は、先頭切って馬を走らせた。心はすでに敵討ちに飛んでいた。

 ところが、ここで大変な事態が生じた。なんと、この直後、毛利方にも本能寺の変の第一報が届いたのである。

 毛利輝元はじめ吉川元春や小早川隆景は、早まった和睦を悔やんだ。だが、時すでに遅かった。

 三人は、今後の対応策について相談した。

「間髪置かず討って出るべし」

 吉川元春が、ただちに追撃することを主張した。

 だが、小早川隆景が、次のように言って押し止めた。

「確かに敵は浮き足立っておる。ここで追い討ちをかければ、勝利を手にすることができよう。しかし、誓詞の墨も未だ乾かぬうちにこれを破ることは、武士の道に外れておる」

「そんなことはござらぬ。機を見て敏なるは、戦の鉄則」

 元春は、あくまでも強硬である。

「いや、早まるでない。わしの話を最後まで聞いてくれ。よいか、考えてもみよ。織田信長亡きあと、天下を握るのは誰であろう。おそらく越前の柴田勝家か、目の前にいる羽柴秀吉のどちらかであろう。勝家は織田家譜代の重臣ではあるが、秀吉の方もなかなか人望が厚く、むしろ勝家より一枚上手かもしれぬ。ここは無理をするよりも、むしろ秀吉に貸しを作っておいた方が後々のことを考えて得策であろう」

 まだ年若い毛利輝元も、隆景の言うことに従い、ひとまず撤収することとした。

 翌早朝、水攻めのために築いた堤が切られた。すぐにはどちらからも攻撃できないようにするためである。毛利、羽柴両軍をはさんで、城の下方に一面の泥田が出来上がった。

 両軍が撤退を始めた矢先に、小早川隆景の陣へ、驚くべき第二の報が入った。毛利方の乱波(忍者)自らが持ち込んだものである。

「信長生存」

 小早川隆景は、織田方の動静を探るため、織田領内の主要な町に乱波を放っていた。知らせを届けたのは高槻城下受持ちの乱波である。それがなんと本能寺の変の翌日、信長とおぼしき武士が溺れかけているところを助けられたというのである。

「信長は生きているのか」

 隆景は思わず天を仰いだ。

 そしてしばし黙考した後、すぐに毛利輝元と吉川元春を呼び寄せて言った。

「信長は生きておるぞ。わしの子飼いの乱波からの知らせじゃ」

「何だと。間違いあるまいな。それで、いかが致す」

 吉川元春が、目を丸くして隆景の顔をにらんだ。

「ここは総力を結集して反撃すべき時ぞ。信長が生きているとなると、奴のことだ。必ずや再び攻めて参ろう。この次は毛利を亡きものにしようとするやも知れぬ」

「おう、そうだ」

「その時の先鋒もやはり秀吉であろう。だとすれば、ここで秀吉を叩いて、一気に天下を目指そうぞ。このままでは毛利はジリ貧じゃ。今まで我らは欲がなさすぎた。ここは一つ大勝負と参ろうではないか」

「おう、その通りじゃ。戦じゃ、戦じゃ」

 元々強硬論者の元春が、大声で隆景に賛同した。

「しかし、勝てましょうか。相手は三万の大軍です」

  若い輝元が不安げに尋ねた。

「勝てる。そのためには、信長が生きていることを伏せておく必要がある。そして宇喜多を味方に付けるのじゃ」

「宇喜多をもう一度引き戻すのですか」

「その通り。宇喜多忠家には信長が死んだことだけを知らせ、我らに寝返って秀吉を挟み打ちにするよう仕向けるのじゃ。播磨一国を恩賞とすれば、必ずや味方に付くであろう」

 宇喜多家は、先の直家の代に備前一国の統一を果たし、岡山城を本拠として勢力を誇っていた。当初は毛利方に属していたのだが、三年前に秀吉が破竹の勢いで播磨に進出してくると、その調略に乗って織田方に付いたのである。

直家は一年前に他界したが、その跡を継いだのが秀家である。秀家は秀吉の養女(前田利家の娘)を嫁にもらっており、秀吉とは義理の親子の関係にあった。

だが、この時まだ十一歳の幼少であり、人質同然に姫路城にあったから、宇喜多家の実権は叔父(直家の弟)である忠家が握っていた。

 小早川隆景からの密書を受け取った忠家は、ただちに岡山城に立ち戻って戦備を整えた。隆景の誘いに乗ったのである。

 このことを全く知らない秀吉は、毛利軍が撤退を始めたのを見て胸をなで下ろした。

そして、自らは姫路城を目指して疾駆していた。殿軍(しんがり)は、秀吉の弟小一郎秀長の部隊である。

 まもなく先発隊が岡山城下に差し掛かった時、行く手におびただしい数の軍勢が現れた。

そして、やがて秀吉軍に向かって無数の鉄砲を射かけてきた。

「どういうことだ。あれは宇喜多の馬印ではないか」

 秀吉が叫んだ。

「宇喜多め、裏切りおったな。さては親方様の死が知れたか」

 愕然とする秀吉の背後に、さらに高松城の北方を迂回してきた毛利の本隊が怒涛のように押し寄せる。

 このあたりは岡山平野の中心である。一面の田畑が広がっているのみで、拠るべき小山一つとてなかった。

 秀吉軍一万七千に対して、毛利軍二万と宇喜多勢一万三千が、前後から挟み打ちにする形が出来上がった。

「者ども、ひるむな。後ろにも敵がおる。ここは一気駆けして姫路に戻るほかはないぞ。われに続け」

 だが、秀吉の叱咤激励にもかかわらず、将兵たちは宇喜多軍による鉄砲の乱射の前にただ立ち尽くすのみであった。

 そのうちに、もっと激しい戦いが最後尾で始まった。殿軍の羽柴秀長の部隊に対し、小早川隆景率いる精兵が攻撃の口火を切ったのだ。

 まず小荷駄隊が散々に蹴散らされ、あっという間に秀長の回りに敵兵が殺到した。

「いかん、秀長が孤立したぞ」

 秀吉が絶叫した。

 もはや命脈が尽きたかと思われた時、神小田正治率いる三百の兵が敵の横腹を突くように割って入った。神小田正治は秀吉軍きっての猛将である。命の危険をかえりみず敵中に突撃した。そして三百の全滅と引き替えに、秀長を危機から救った。

「正治よ、よくぞ、よくぞ。わしはよい部下を持ったぞ」

 秀吉は後方を振り返りながら、涙ながらに正治の勇気をたたえた。

 神小田の捨身の活躍で、ようやく秀長は体制を立て直した。

「槍隊に円陣を組ませよ。槍ぶすまを作って敵の攻撃を食い止めるのだ」

 秀長は、必死に兵を奮い立たせる。

  ところがこの時、あろうことか味方のとんでもない背反があった。堀秀政の部隊が秀吉軍を抜け出して、北に向かって逃走を始めたのだ。

 堀秀政は秀吉の直接の部下ではない。彼は信長の側近であり、信長の中国出陣の先遣隊として高松に増援に来ていたのである。

「我らを見捨てて逃散するとは。何たる卑怯な振る舞い」

 秀吉は唇を噛んだ。そして何度も噛みすぎて、ついに鮮血をほとばしらせた。

 堀秀政は、毛利の猛攻の前にさんざんに打ち破られている秀長軍を見て、たまらずに脱出を試みたのである。

 しかし、たかだか千人の秀政隊ではかえって格好の攻撃目標となってしまった。吉川元春の部隊の追尾を受けて、一里も行かないうちに完全に包囲され、全滅してしまった。秀政の策は裏目に出たのである。

 敵の攻撃の主力が二分されたことも手伝って、殿軍の秀長軍はなんとか毛利軍の攻撃を支えていた。その間に秀吉軍本隊は血路を開くべく、前面の宇喜多軍に対し突撃を繰り返していた。

「まずは鉄砲隊を潰せ」

 秀吉の号令に、まず加藤清正が、続いて福島正則が果敢に突進した。

「よし、宇喜多軍の鉄砲隊が崩れ始めたぞ。攻めよ。攻めて攻めて攻め潰せ」

 秀吉は声をからして味方を叱咤する。だが、敵はなおも鶴翼の陣を敷いて包み込むように攻めて来た。

 秀吉軍は、小さな穴の空いた鉄砲隊の一点を執拗に攻めた。

「よし、いいぞ。敵が崩れたぞ。あそこを進め」

 秀吉は、やっとのことで敵陣を突破することができた。

「走れ、走れ。姫路は近いぞ。たっぷり飯が食えるぞ」

 秀吉は、二百人の馬廻り衆に守られながら一路姫路を目指した。

 後に続く歩兵部隊のうち、敵の追跡から逃れて姫路にたどり着くことができた者は、わずか三十であった。多くは、散り散りとなるか、または宇喜多騎馬隊の格好の餌食となって山野に屍の山を築いた。

 殿軍である羽柴秀長の部隊は、ほとんど全滅であった。神小田正治の犠牲により、秀長本人だけは何とか姫路にたどり着くことができた。これはまさに奇跡に近かった。

 

(4)天下様

「利光よ。時が経つのが早い。もっとゆるりと過ぎてもらえまいかのう」

 光秀は、明智家第一の家臣である斉藤利光に向かって愚痴をこぼした。

「殿、焦りは禁物ですぞ」

 六月二日に本能寺で信長を倒した明智光秀は、翌日、本拠の近江坂本城に入った。

「本来ならすぐにでも安土に向かうべきものを。山岡め。瀬田橋が落ちてはどうにもならぬ」

 瀬田城主山岡景隆が、光秀に反抗して交通の要衝である瀬田橋を焼いたため、二日間その修復を待たざるを得なかったのである。

「殿、落ち着きなされませ。今出来ることは、文を書くことですぞ」

 斉藤利光が、何とか主君の苛立ちを静めようとした。

光秀は、近江や美濃その他周辺各国の諸将に誘降の書状を発した。

だが、これに応ずる者はそれほど多くはなかった。

「安土城留守役の蒲生賢秀からは返事が来ぬようだな」

「おそらく我らに敵する覚悟でござりましょう。信長の一族を伴い、自分の居城である日野城に退き籠もった様子にございます」

「ふむ。蒲生が味方に付いてくれぬとはな」

「殿、元気をお出し下され」

「細川藤孝は、なぜ駆けつけてくれぬのだ。わしの長年の友ではないか」

「細川藤孝は、剃髪致しました。信長への弔意を表してのことでございましょう。家督も息子の忠興に譲ってしまわれました」

「しかし、その忠興には、わしの娘ガラシャを娶せているだぞ」

「忠興殿は、妻を離別したとのこと」

「おう、何ということだ」

「殿、お力を落しなさいますな。我らに呼応する者もたくさんおりまする」

 利光が懸命になぐさめた。

「京極高次殿がお味方下さるとのこと」

「高次は、前の近江守護職京極高吉の子であったな」

「はい、左様でございます。それから、前の若狭守護職武田元明殿も、兵をこちらに送って下さる由にございます」

「京極と武田か。うーむ。」

 不満げな表情の光秀の元へ、筒井順慶配下の南都衆と井戸衆が、坂本城に到着したとの知らせが入った。

「おう、そうか。それはなんと心強いことか」

 光秀は、やっと笑顔を取り戻した。何と言っても、光秀にとって待ちに待った、大和郡山城主筒井順慶の来援であった。

「順慶にはわしの次男を養子とすることが決まっていたからの。当然味方に付いてくれるものと思っていたが、さっそく兵を遣してきてくれたか」

「殿、これでもう大丈夫でございます」

 利光も満面の笑顔で答えた。

 光秀は、五日に安土城を無血で接収すると、さらに羽柴秀吉の本拠長浜城や丹羽長秀の本拠佐和山城を、それぞれ京極高次や武田元明らに占領させた。

安土を押えたことで、近江の諸将はほとんど光秀になびくようになっていた。

 安土城に到着すると、光秀は、さっそく蔵を開いた。

「これはすごい。金銀財宝はまったく無傷のまま残っておる」

 光秀は感嘆の声を上げた。

「軍資金が豊かになりましたな。これまでとは比べようもございません」

 利光が何度も拍手をした。

 七日には、吉田兼見が、京より朝廷の使者として安土にやってきた。禁裏御所と京都の町の守護を求める勅命を伝えるためである。

「宮中や公家衆がわしを認めてくれたということだな。なんとも嬉しいことよのう、秀満」

「御意」

「よし、安土は秀満に任せて、わしは京に戻るぞ」

 九日になって、光秀は、娘婿の明智秀満を安土に残し、自分は京都を統治すべく、ふたたび兵を返して入洛した。

公家衆らの出迎えを受けて京に入った光秀は、さっそく下知を下した。

「秀朝よ。お前を京都所司代に任ずるゆえ、公家衆、町衆の世話に当たってくれ」

「はは、承知つかまつりました」

 光秀は、老臣三宅秀朝に命じ、市政に当たらせることにした。

「まずは禁裏に銀五百枚を献上しよう。京都五山と大徳寺にはそれぞれ銀各百枚だな。それと吉田兼見には銀五十枚じゃ」

「はは、承知つかまつりました」

「それから地子銭を免除しよう。京都町衆の歓心を買うことも忘れてはならぬからな」

 光秀は、京の仕置きを一通り済ませてから、さらに西に向かって軍事行動を起こすことにした。京都の西南にある勝竜寺城に兵を進めるのである。

「近江はもうよかろう。なあ、利光」

「はい。ほぼ平定致しました」

「ひとまず、柴田勝家や徳川家康への備えはできた。次は五畿内だ」

「はい。すでに出陣の準備は出来ております」

 さてこの時、思いがけない嬉しい知らせが光秀のもとに届いた。

「秀吉が毛利に敗れたそうだ」

「それは祝着至極にございます」

 利光が喜びの声を上げた。

「岡山で宇喜多の裏切りにあって大敗を喫したとある。ザマはないわ。あの禿げ鼠め」

「まずは当面の難敵が消えましたな」

「大坂にいた織田信孝と丹羽長秀の軍も崩壊したというし、これで西方の脅威もなくなった。万々歳じゃ」

「これで摂津の諸大名もわれらに同心いたしましょう。伊丹の池田恒興、茨木の中川清秀、高槻の高山右近。皆、じきに参陣してまいりましょう」

「あいつらは、この光秀の組下ぞ。真っ先に駆けつけて来ても良さそうなものを」

「秀吉の動きを見ているのでございましょう。しかし、もう心配する事はございませぬ」

「大和は筒井順慶がしっかり押えているし、山城、丹波、近江はわし自らが掌握している」

「丹後の細川父子の冷たい態度が気にはなりまするが・・・」

「いや、いずれ心変わりするに違いない。ともあれ、当面の心配事は何もないのだ」

「では、また東に向かうことと致しますか。美濃の斉藤玄蕃より、岐阜城を占領したので来援してほしいという書状が先ほど届きました」

「斉藤玄蕃とは何者だ」

「はい。かつての美濃の国主斉藤道三の一族に連なる者でございます。いつか信長の手から美濃を奪い返し、斉藤氏を復興させたいと狙っていたようでございます」

「左様か。では、これを足掛りにして、一気に美濃を平定してしまうか」

「はい。これで西も東も盤石になりまする」

 光秀は、勝竜寺城を発ってふたたび東進した。しかし、この判断が彼にとって致命的な誤りであったことを、この時は知る由もない。

 

(5)氷解

 信長が高槻の成田屋に厄介になってから、かれこれ二ヶ月近くが経っていた。脚の怪我はだいぶ快方に向かっていたが、まだ一人で歩けるほどには回復していない。

 しかし、彼にとって何よりも辛いのは、相変わらず記憶が戻らないことであった。

 悄然としている信長のもとへ、お藤が食事を運んで来た。

「お武家様、御気分はいかがでございますか」

 お藤は、信長の部屋に入る時はいつもこう言うのである。

「世話になりっぱなしで、まことにかたじけない」

「先ほど良庵先生が薬を持ってきてくださいました。まもなく歩けるようになるとのことでございます。外へ出ていろいろ見て歩けば、少しは何か思い出されるかもしれませぬね」

  そう言った後、お藤は少し変わった質問をした。

「お武家様もやはり戦がお好きでございますか。まもなく毛利の大軍が攻めて来るそうでございます。もう隣国播磨の姫路城まで押し寄せていて、羽柴様が敗れるのも時間の問題だと父が申しておりました」

「毛利・・・、羽柴・・・」

  信長は、また頭が割れそうに痛くなった。

「荒木村重様御謀反の時は、女房から幼い子供までが信長様によって磔(はりつけ)や火あぶりになりました。まことに御無体なことにございます。お藤は戦が嫌いでございます」

  お藤は、そう言って急に泣き出してしまった。

 信長は、呆然とお藤の横顔を見つめた。

 胸が締め付けられる。

 頭も割れそうである。

 泣いている横顔、そしてほんのり赤味をさした頬にかかる遅れ毛。いつぞやどこかで見たような気がする。

 ふーと意識が薄れそうになった次の瞬間、頭の中に立ちこめていた霧が一斉に晴れた気がした。

「ああ、吉乃。吉乃ではないか」

 さまざまなことが頭の中を駆け巡った。本能寺をからくも脱出したこと、淀川での乱闘、そして自分が織田信長であること、全ての記憶がよみがえった。

 吉乃(きちの)とは、二年前に亡くした信長最愛の側室である。お藤の泣いた横顔が、あまりに吉乃のそれにそっくりだったため、それが記憶を取り戻すきっかけとなったのである。

  信長は、自分が生きのびたことを天に感謝する一方、これから織田信長として生きていかなければならない自分の苦難を思わずにはいられなかった。

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