第四章 躍動

 

(1)鳥羽伏見の戦い

「これ以上は待てぬな」

 信長が、蘭丸の膝枕の上でつぶやいた。

「光秀が京に頑張っているのは、我らにとって危のうございますな。いつ朝廷に働きかけて錦の御旗を手に入れるか知れませぬ」

「いや、その心配はなかろう。それよりもわしが怖れているのは家康じゃ。伊勢を奪い取って、今この国で一番力を持っているのは奴だ。この上、尾張美濃まで持っていかれたら天下統一どころではない」

「滝川一益も、一益でございます。大恩ある親方様を裏切って家康に付くとは。許せませぬ」

 蘭丸は、主人の耳掃除をしながら憤慨の声を上げた。

「一益も、北条に散々な目に合わされて、家康にすがらざるをえなかったのであろう。家康が光秀を討つ前に、何としてでもわしの手で討たねばならぬ」

 信長は、記憶を取り戻してから半年の間、さまざまな手立てを打った。まず、西の毛利の勢いを止めるため、山陽道播磨の姫路と山陰道但馬の出石を結んで、防衛ラインを引いた。

 次に、長年の仇敵であった雑賀孫一を味方にし、高槻城に招じ入れた。これで、勝竜寺城にいる明智光秀の本隊がいつ攻めてきても、何とか持ちこたえるだけの体制ができあがった。

「蘭丸よ。耳掃除はもうよい。皆を集めよ。これより戦評定を開くぞ」

「いよいよ光秀を討つのでございますね」

「うむ、そういうことだ」

 高槻城本丸の大広間に集まった諸将を前に、信長が口を開いた。

「皆の者、御苦労。これより軍議を開く。蘭丸よ、用意の地図を広げよ」

 皆の面前に畳2枚ほどもある大地図が広げられた。

「よし。では、まずこの高槻城に集結した兵から確かめようぞ。蘭丸よ、駒を並べよ。よいか、味方は青の駒、敵は赤の駒じゃ」

「はは。承知いたしました」

「では、皆それぞれに自らの軍勢の数を申し述べよ。まず信孝からだ」

「は、織田信孝、七千にございます」

「うむ。次」

「丹羽長秀、六千」

「高山右近、二千」

「雑賀衆、根来衆は三千」

「うむ。御苦労」

「都合、一万八千でございます」

 蘭丸が、青い駒を四つ高槻城に並べながら総括した。駒の大きさは兵力に応じてサイズが変えてある。

「よし、次は諸国にいる敵と味方を並べよ。蘭丸、まずは西からじゃ」

「はい。まずは播磨でございますが、羽柴秀吉殿七千、池田恒興殿三千、中川清秀殿二千。合わせて一万二千にございます」

 そう言いながら、蘭丸が姫路に青い駒三つを置いた。

「うむ。今度は赤い駒じゃ」

「はい。ここには、毛利輝元の本軍が一万。裏切った宇喜多が一万三千」

「毛利は二手に分かれたのであったな」

「はい。吉川元春の七千が鳥取城を収め、今は出石を囲んでおります。出石城は、宮部継潤殿、羽柴秀長殿の五千が守っております」

「後ろで丹後の細川忠興が支えてくれているのだな」

「はい」

「細川の兵はいかほどじゃ」

「およそ三千かと」

「そうか。どこも手一杯じゃな。ふうー」

 信長は、赤青の駒がそれぞれに向かい合って並ぶ様を見ながら嘆息した。

「よし。今度は東じゃ。まずは肝心の光秀からじゃ」

「はは。山城勝竜寺城に、光秀本隊が一万三千。さらに近江衆、大和衆七千が加勢」

「うむ。総勢二万だな。我らが一万八千だから、これでは戦えぬな。光秀本隊の他には?」

「はい。まず近江でございますが、安土に、明智秀満が五千。佐和山に武田元明が同じく五千。それから、大和には筒井順慶の本軍六千がおります」

「佐和山を取られて、長秀よ。妻子が気掛かりじゃな」

「いえ。もうとっくに諦めておりまする。それよりも我らの御味方の駒を並べましょう」

「うむ。蘭丸、先を進めよ」

「はは。では、近江日野に蒲生賢秀殿一千。それと、伊賀に織田信雄様七千」

「あのたわけか」

「信雄様は、徳川家康、滝川一益の三万も御相手せねばならぬかと存じまする」

「もうよい。次は北国に移れ」

「はは。加賀の金沢でございますが、柴田勝家殿、前田利家殿、佐久間盛政殿合わせて二万五千」

「上杉景勝は三万を越えような。ここも厳しい戦いじゃ」

「どこからも兵をこちらに回すことはできませぬな。さて、いかが致したものか・・・」

 高山右近が小さな声でつぶやいた。

「いや、兵を持ってくる当てが一ヶ所だけあるぞ」

「は?」

 信長の言に、一同が顔を見合わせた。

「分らぬか。ここじゃ」

 そう言って、信長は、明智光秀本隊の大きな赤い駒を差し棒で叩いた。

「それはどういう意味でございますか」

 丹羽長秀が目を丸くして驚いた。

「ほう。寝返りでござるか・・・」

 雑賀孫一が、顎をさすりながらつぶやいた。

 信長は、光秀を討つために考えた二つの秘策のうち、一つ目の雑賀衆引き入れには成功した。そして、今、もう一つの秘策も最後の段階に差し掛かっていた。

「その通りだ。信孝よ、調略の首尾を皆に披露せよ」

「はは。大和の筒井順慶殿、我らに合力することに決しました。既に高槻に人質を送ってよこしております」

 順慶は本能寺の変の後、形ばかりの兵を近江表に差し出して、表面上は光秀に呼応する姿勢を示してはいたが、本人はじっと郡山城に籠ったまま情勢を窺っていた。

「順慶を味方に取り込めれば勝ったも同然じゃ」

「して、与力の条件や、いかに」

 雑賀孫一が尋ねた。

「大和一国の安堵。それと新たに河内半国の加増じゃ」

 筒井順慶までも誘うことに成功した信長は、ついに明智光秀と戦うことを決意した。本能寺の変からもう既に八ヶ月が経過していた。

 天正十一年(1583年)一月二十五日、信長と光秀は満を持してぶつかりあった。

まず、織田方の先鋒高山右近隊二千が、天王山東麓の大山崎の狭隘部を強行突破しようとした。

すると、待ってましたとばかり、天王山を押えていた光秀方の松田太郎左衛門が山を下りて攻撃を加え始めた。また、光秀方の主力斉藤利三も加勢に駆けつけた。

「高山隊、大山崎にて敵の主力と交戦中」

 信長の元に第一報が入った。

「敵の兵力はいかほどじゃ」

「約五千にございます。斉藤利光の部隊かと」

「そうか。よし、では全軍出動じゃ。勝龍寺城を衝くぞ」

 実はこの時、信長方の主力は桂川の東岸を進み、伏見方面を目指していた。天王山が光秀方に押えられている今の状況では、平地の狭い大山崎を抜けるのは、大いに不利である。一列縦隊で進まざるを得ず、それでは扇型に展開した敵の包囲攻撃に会うからである。

 そこで、高山右近隊を囮(おとり)にして、敵を大山崎にを引き付けておいた上で、その間に信長の本隊は、久我縄手あたりで桂川を渡って勝竜寺城の背後に出ようとしたのである。

「光秀方、大山崎を退却。小畑川の対岸に展開中」

 光秀の動きは、時々刻々と信長の元に届けられる。

「光秀め。こちらの動きを察知したか。では、全軍川の手前に留まれ」

 こうして両軍は、桂川の支流である小畑川を挟んで対峙することとなったのである。

 だが、両者ともなかなか戦端を開こうとはしなかった。というのも、実は双方とも筒井順慶の来着を待っていたからである。

 その順慶はと言えば、居城大和郡山城を出発はしたものの、いまだどちらに付くか決っしかねていた。実は、光秀側からも同じような条件が提示されており、順慶は両者の間に挟まれて悩みに悩んでいた。そのため、織田、明智双方の使者に対して、味方することを約束し、どちらにも人質を送っていたのである。

 姻戚関係にある明智光秀を取るか、或いは大和守護という今の地位を与えてくれた信長の恩顧に報いるか、結論は出せなかった。

 彼は、決断の付かぬまま山城との国境いである洞ヶ峠にさしかかった。ここからは大山崎、伏見あたりが一望のもとに見渡せる。

 とりあえず、彼はここで日和見を決め込むことにした。織田方からも明智方からも、来援について矢のような催促が来たが、いずれにも決し難く、腰を上げることができなかった。

「順慶め、臆したか」

 信長は、洞ヶ峠の方を睨んで怒鳴った。

「これでは戦えぬ。引き揚げの狼煙を上げい」

 信長は一旦退く決意をしたが、この時織田信孝の隊が既に川を渡り始めていた。この冬の季節、川と言ってもほとんど水は流れておらず、防衛線の役割は果たしていなかった。昼過ぎ、順慶を待たずして戦端を開いた。

まず、一番隊が、川幅が細くなった小砂利の部分を渡って、光秀方の村上和泉守の隊に切りこんでいった。これに負けじと、光秀方の諸将も川を渡って信長軍に襲いかかった。

「しまった。遅かったか」

 信孝の部隊は、次第に切り崩され、川のこちら側に押し戻された。

丹羽長秀が新手を繰り出したものの、光秀方の勢いを止めることはできない。

「このままではまずい。孫一に救援を頼め」

 すぐに天を轟かす鉄砲の音が鳴り響いた。紀州雑賀党の有する二千丁の鉄砲が、一斉に火を吹いたのである。

 たちまちにして明智方の兵数十人が川中に倒れた。丹羽長秀の隊が、すかさず追い討ちをかける。

 戦いは一刻を過ぎてもなお決着が付かず、むしろ乱戦の様相を呈してきた。雑賀鉄砲隊の働きで敵を追い散らしてはいるものの、あくまでも防御が主体である。光秀方の攻撃もすさまじく、一進一退の状況が続いた。

「こんなはずでは無かったに」

 信長は、じりじりとして自分の指をかんだ。

 彼は、いつも敵をはるかに上回る軍勢を繰り出して戦いを有利に導くのが常であった。姉川の合戦しかり、長篠の合戦しかりである。唯一の例外は、今川義元を倒した、あの桶狭間の合戦のみである。今回のように勢力均衡の状況で戦うことはほとんどなかった。信長は焦りに焦った。

 彼は、筒井順慶の内応工作にあたった三男の織田信孝を呼びつけ、声を荒げて詰問した。

「順慶の裏切りの件、しかと相違ないか」

 信孝は、顔をこわばらせながら消え入るような声で答えた。

「先ほども参陣を促す急使を送りましたゆえ、まもなく現れるかと存じます」

 いらだった信長は、怒りの形相もあらわに次のように命じた。

「使いなどでは話にならん。洞ヶ峠の順慶の陣に向けて、誘いの鉄砲を撃ち込め」

 信長の命令を受けて、鉄砲隊が洞が峠に向け、つるべうちの威嚇射撃を加えた。

 驚き慌てた順慶は、その幟や旗を見て、撃ちかけてきたのが信長方であることを知ると、ついに覚悟を決めた。ことここに至っては、中立は許されることではない。信長方に付くほかに手だてはないと腹を決め、山を下りて信長の陣に加わった。

 双方死力を尽くして戦い、疲れきっていたところに、順慶が新手の兵六千を率いて、光秀方に襲いかかったものだからたまらない。

 光秀方はじりじりと後退し、やがて総崩れとなった。

右翼の一隊は丹波に向かって、また光秀の本隊は勝竜寺城に向かって遁走を始めた。

「信孝よ、丹波に逃げた敵に追い討ちをかけよ。四王天政孝や並河掃部らの首を取って参れ」

 信孝は、鳥羽のあたりで敗軍をさんざんに打ち破った後、さらに老ノ坂を越えて、ついに亀山城を占拠した。

 一方、光秀本隊は、やっとの思いで勝竜寺城に撤退した。

 しかし、優勢な織田軍に城を囲まれ、逃亡するものが相次ぐ状況となったため、籠城は諦めざるを得ない状況となってきた。

「もはやこれまででございます。無念でございますが、殿、御最期を」

 腹心の斉藤利光が、泣きながら光秀を見上げた。

「いや、まだ終ったわけではない。近江に行って巻き返しを図ろうぞ」

「それも叶いますまい。既に亀山城も陥ちたとの報せがありました。生き残るすべはございません」

「少しでも望みがあるなら諦めるでない。さあ、出発じゃ」

 光秀は、数人の供とともに夜陰に紛れて城を脱出し、坂本城に向かった。本拠地近江で体勢の立て直しを図ろうとしたのである。

 しかし、敗戦の報が既に届いていた坂本でも、同じように逃亡者が続出し、とても支えられる状況にはなかった。安土城を守っていた明智秀満は、光秀の敗戦を聞いて、兵二千を率いて坂本に向かったが、もはや焼石に水であった。そのうえ、秀満がいなくなって手薄になった安土城も、日野にいた蒲生賢秀にたやすく奪い取られてしまった。

 光秀は、坂本城を目前にして、重い足取りで小栗栖村の間道を進んでいた。その時、不意に竹藪の陰から十数人の土民が飛び出し、一行に襲いかかった。

 一瞬の出来事であった。馬上の光秀が、鮮血をほとばしらせて馬から落ちた。

 光秀敗走の知らせは既にこの地にも知れ渡り、落ち武者狩りの地侍が山野に満ち満ちていたのである。

 あっけない最期であった。光秀の天下は、わずか八ヶ月余りのはかないものであった。

 もし、光秀が、決起直後に近江や美濃の処理に時間をかけず、むしろ摂津を重視していれば、事態は全く違ったものになっていただろう。大坂に出陣して織田信孝・丹羽長秀を倒し、高山右近・中川清秀・池田恒興・筒井順慶等、自分の組下大名の掌握を確実にしておれば、信長の命運も尽きていたであろう。

  光秀の首実検をした後、信長は天を仰いだ。

「名も無き土民に殺されたか。ふふふ、あやつらしい最期じゃ。丁重に葬り、菩提を弔ってやれ」

「え、京都六条河原にさらし首にしなくてもよろしいのですか。親方様をなきものにしようとした大罪人でございますぞ」

 蘭丸が思わず聞き返した。

「よいのだ」

 信長は、過去に何度も配下の武将の裏切りにあっている。浅井長政、松永久秀、そして荒木村重これ然りである。彼はその度毎に裏切り者を極刑に処し、その家族を晒し者にした。

 しかし、今回はそういう気にもなれなかった。まだ尾張美濃だけの領主だった頃から目をかけてきた、光秀の謀反である。長い間苦労をともにしてきた、その最も信頼していた光秀が裏切ったのである。

 彼は一人呟いた。

「光秀めは心の病であったのよ。その病に追い込んだのは他でもない、己の因果じゃ」

  いつしか信長は涙し、合掌していた。

 光秀の敗北により、明智方に組した近江の武将たちは恐慌を来たした。佐和山城を占拠していた武田元明は、旧領の若狭に逃れて潜伏した。また、秀吉の本拠長浜城を占拠していた妻木範賢も、城を捨ててどこへともなく逃亡した。

 信長は、光秀との鳥羽・伏見の戦いの二日後、ついに自らの本拠である安土城に入城した。

「蒲生賢秀よ、よくぞ守ってくれたな」

 信長が、堅秀の労をねぎらった。

 金銀財宝はことごとく奪われていたものの、城自体は無傷のまま残されていた。このことは、信長をいたく安堵させた。

 彼は、安土滞在の間、短時日のうちに近江の処理を行った。

あからさまに光秀に組していたものはほとんど逃亡し、その他の諸豪族は、皆人質を出して信長に従った。

「五日で近江はカタが付いたな。蘭丸よ、次は美濃じゃ」

「はい。美濃はかなり乱れておるようにございます」

 安土滞在の後、再び信長は軍を起こし、美濃へ向かうこととした。

 この時、美濃の情勢はかなり混乱していた。斉藤玄蕃のように、岐阜城を乗っ取って光秀に呼応する者あり、また、安藤守就のように、変に乗じて家の再興を目論む者さえもいた。美濃には尾張から新しく移住してきた織田家に係わる者のほかに、前の支配者である斉藤家ゆかりの者、さらにその前の支配者土岐家ゆかりの者等があって、彼らの関係はまことに複雑なものがあった。

「放ってはおけぬであろう。一気に平らげてしまうぞ」

 動揺していた美濃の諸将も、信長が美濃に入ると、いずれも人質を出して信長に降伏することとなった。

岐阜城を収めた信長は、さらに森長可のいる金山城まで足を伸ばした。東美濃を光秀の手から守った森長可の功労をねぎらうためである。

 三日後、信長は再び安土に戻った。そこで、諸将を集めて戦後の論功行賞を行った。

「光秀の遺領丹波一国二十五万石は、信孝に与える」

 本領伊勢を滝川一益に奪われて無禄となっていた信孝に、まず所領が与えられた。

「次は蒲生賢秀じゃ。光秀の遺領近江坂本七万石を加増する」

「丹羽長秀も北近江に一郡を加増」

「高山右近には河内北半国、また筒井順慶にも河内南半国じゃ」  

「最後に雑賀孫一だな。約束通り、和泉南半国を与える。さらに泉州堺より鉄砲鍛冶二名を遣そう。新式鉄砲の製造法を伝授致す」

 こうして、光秀討滅に功のあった諸将は、皆それぞれ恩賞にあずかったのであった。

 

(2)信長激昂

「安国寺殿、わざわざそなたにおいで願った訳はもうお分りであろう。この書状を毛利輝元殿に渡していただきたい」

 信長は、強い口調で毛利の外交僧安国寺恵瓊に対した。

「この度の明智討ち、祝着至極に存じ奉ります。主君毛利輝元より献上の品をお持ち致しております。どうかお収め下さりますように」

 恵瓊は、体が床にくっつかんばかりにして頭を下げ続けた。

「何を今さら、祝いの品でもあるまい。持ち帰り願おう。話し合うことは何もない」

 謀反人光秀をやっとの思いで討ち果たした信長は、すぐさま毛利輝元に対して弾劾状を送った。備中高松城の戦いで秀吉と和議を結んでおきながら、すぐにこれを破り、さらに宇喜多まで寝返らせて秀吉を散々な目に合わせたことは、何としても許し難いものであった。

 信長は、その書状の中で、激しい言葉でこのことの不義を断じた後、次の二項目を要求した。

一つは、謝罪の使節を一月以内に派遣すべきことである。

また、もう一つは、中国七ヶ国の割譲であった。和議の直前の条件であった五ヶ国、すなわち備中・備後・美作・伯耆・出雲の割譲のほか、さらに今回の違約料として、隠岐・石見の二ヶ国の譲渡を要求したのである。

 この要求にはさすがの毛利も頭を抱えた。

「不甲斐なきは光秀よ。叔父上、この事態をいかが致しましょう」

 まだ年若い毛利輝元は、叔父の小早川隆景にこぼした。

「全ては私めの眼力の無さゆえでござる。申し訳ございませぬ」

 隆景と輝元は、光秀のあっけない敗北に意気消沈していた。

 毛利の戦略は、東に反信長勢力を結集しておいて、中央は明智と組んで信長を挟撃するというものであった。しかし、たったの二日で明智が滅んでしまった今、信長の矛先が自分たちに向けられることは火を見るより明らかであった。

 それにしても、信長の要求してきた条件は、全く受け入れ難いものであった。本能寺の変後、毛利は、山陽道は播磨まで、また山陰道は但馬まで攻め込み、その領国は十ヶ国百六十万石近くにも達していた。

 それに対し、信長の要求は、毛利を安芸・周防・長門の三国五十万石に押し込めようというものであった。

「このような無理無体な要求は毛利に死ねと言っているのと同じでござる。断固信長と戦うべし」

 但馬出石の人から急遽駆けつけた吉川元春は、全面対決を主張した。

だが小早川隆景が、それを押しとどめた。

「信長は、明智光秀を倒した後、あっという間に畿内・近江・美濃を平定した。今や、我らに差し向けられる兵力は十万を下らないであろう。これに対して、我が毛利は四万と半分にも及ばない。もし、信長とまともにぶつかれば、あの武田氏のようにお家滅亡の浮き目を見ること必定じゃ。輝元殿、毛利の家は何としても残さねばなりませぬぞ」

「何かよい策はござりませぬか。そうそう、徳川家康と手を組むのはいかがでしょう。我らと東西から挟み打ちにすることもできましょうぞ」

 毛利輝元が、隆景の顔を覗き込んだ。

「いやいや、明智光秀が消えた今、それを望むのは無理というもの。あの万事に慎重な家康が、そんな危険を冒すはずが無い」

「では、越後の上杉景勝はどうでしょう。上杉は、信長攻略に異常とも言える執念を燃やしておりまする」

「それもお望み薄じゃろうて。柴田勝家や前田利家がしっかり押えておる。とても上洛が叶うとは思えぬ」

「では、戦って果てるまでだ」

 吉川元春が、吐き捨てるように言った。

「そう早まるでない。非は我らにあるのだ。誓紙を破ったことは言い訳のしようがない。ここは何とか信長の怒りを静めて、領国を安堵してもらうのが上策というものじゃ」

 小早川隆景が抱いていた毛利家による天下統一の戦略は、明智光秀の完璧な敗北によって脆くも崩れさった。

 隆景としては、外交交渉によって何とか削減される領国を最小限に止どめたいという考えであった。特に石見の国は是が非でも死守したかった。というのも、石見には産出量豊富な大森銀山があり、毛利の経済基盤を支えていたからである。もし石見銀山が毛利の手から離れると、もはや手足をもぎ取られたも同然と言わざるを得なかった。

 隆景は、安国寺恵瓊を再び使者として安土へ派遣した。領土の条件については、何とか石見を残すよう妥協の道を探らせるためである。

 しかし、信長は会うことさえ拒んだ。毛利の卑怯な行いには激高しており、備中、備後、美作、隠岐、伯耆、出雲、石見七ヶ国のうちの、一国たりとも譲歩するつもりは無かった。信長としては、中途半端に妥協するくらいなら、むしろ一気に毛利と決戦に及び、これを滅亡に追い込むくらいの気持ちでいたのだ。

 何度か交渉が行われたものの、実質的な進展はほとんど見られなかった。業を煮やした吉川元春は、但馬に戻って戦の準備に取り掛かった。

 

(3)毛利雪崩

「嘉隆、大安宅の仕上がり具合はいかがじゃ」

 信長は、安土城の八角の間で、志摩の九鬼嘉隆と会見していた。

「はい。あと二月もすれば、親方様にお見せできると存じます。大坂沖に回航して参りましょう」

「おう、そうか」

「今度の大船は御期待下され。毛利水軍を打ち破った先の六隻よりも、さらに一回り大きめでございます。安定が良く、少々の嵐ではビクとも致しませぬ」

「そうか、楽しみじゃのう。それにしても、三十隻もの船をよく一年で造り終えたな。誉めてとらすぞ」

「はは、ありがたきお言葉。嘉隆、末代までの誇りと致しまする。たしかに船大工の確保には難渋いたしました。材木や鉄は、金子を積めば手に入りまするが、人だけは。伊勢志摩や熊野だけでは足らず、伊豆の大工にまで高い金を払って引っ張って参りました」

「なに、伊豆からもか。伊豆は北条の領地だぞ」

「はい。こちらも命がけでございました」

「そうかそうか。それは御苦労であった。だが、あともう一踏ん張りだな。頼みにしておるぞ」

 信長は、実は光秀と戦うずっと以前から、光秀攻略後のことを考えて、ある準備を進めさせていた。それがこの鉄張りの大安宅船三十隻の建造である。

すなわち、毛利を制するには毛利の誇る水軍を押し込めることが必須だと考えていたのである。鉄張りの大型船が、火攻めを得意とする毛利水軍に対して有効であることは、天正六年の本願寺との第二次木津川合戦でも実証済みのことであった。

「しかし、親方様、よくもこれだけの船を造る金がございましたな」

「ははは、造作もないことよ。全て堺の商人から借りて賄った」

「はあ。しかしよく出してくれたもので」

「担保はたった一枚の証文じゃ。瀬戸内海の海賊衆を退治したあかつきには、商船の関銭を免除してやるというな」

「はあ、そういうことでございましたか」

「うむ。嘉隆よ、いよいよ反撃じゃな。一気に毛利を蹴散らしてくれるわ」

「毛利の命脈も尽きたというものでございますな。毛利方が姫路に留まっていられるのもこれまで。これからは兵糧の補給もままならなくなりましょう」

  信長は、完成したばかりの鉄甲船を淡路に呼び寄せた。当時、淡路の国は信長方の仙石秀久が押えていたが、それより西の海域は全て毛利水軍が制海権を握っていた。

 信長は、これを牽制するため、淡路の岩屋と洲本に軍船を配置した。

 さて、一方の陸の方では、ようやくにして新たな動きが生じた。山陰道にいた吉川元春が、ついに辛抱しきれず、四月十三日になって出石城の攻撃を再開したのである。ぎりぎりまで続けられていた和平交渉は、ついに決裂したことになる。

 小早川隆景は、元春からこの報を聞いて、天を仰いで嘆息した。しかし、ここに至ってはもう信長と戦うしかない。隆景は意を決するや、すぐに戦の準備に取り掛かった。

 信長は、一気に勝負を決することにし、諸将に陣ぶれを発した。

「四万の軍を山陰道出石に向かわせる。山城・若狭・丹後・丹波・北近江の兵を当てる。総大将は信孝じゃ。副将には細川藤孝を任じる」

「ははあ、しかし吉川ごときに四万も要りませぬ。半分でようございます」

 織田信孝が大見得を切った。

「構わぬ。五ヶ国のありったけの兵を連れて行け。光秀亡き後の織田軍の引き締めじゃ」

 大軍のあまりに素早い来攻に驚いた吉川元春は、とても出石城の攻撃どころではなくなった。すぐに城の囲みを解いて、隣国因幡の鳥取城目指して退却していった。

 鳥取城は地形的にも難攻不落の山城であったが、城内に蓄えられていた兵糧は乏しく、一月と持たない有様であった。そこで、元春は鳥取での防戦を諦め、さらに退却を続けた。そして、伯耆の国を通り越して、結局最後の防衛戦として選んだのが、出雲の富田月山城であった。

「ほう。因幡、伯耆まで捨てるとはな。吉川もよほどせっぱ詰まったと見える」

 信長は、知らせを聞いてにやりとした。

「はい。左様でございますな」

 宿老の丹羽長秀も相づちを打った。

「しかし、月山富田城は天下三堅城として世に聞こえておる。くれぐれも油断するなと信孝に伝えよ、よいな」

「はは、かしこまってござ候」

 月山城は、もともとは山陰に猛威をふるった尼子氏の居城であったが、永禄十一年(1568年)に毛利元就がこれを攻め落として以来、毛利氏の支城となっていた。尼子の本城だけあって、月山城こそ天下に誇る難攻不落の山城といってよかった。ちなみに、三堅城の残り二つは、能登の七尾城と美濃の岩村城である。

 織田軍は五万近い大軍で月山城を囲んだ。援軍のまったく望めない状況に、吉川元春はただ息をひそめて堅塁に籠るほかはなかった。

 こうした山陰の戦況を聞いて、安土にいた信長は上機嫌であった。

「さて、我らも腰を上げるかのう。一気に毛利を葬ってくれるわ」

「はい。この丹羽長秀、もう待ちくたびれ申した。で、兵はいかほどに致しましょう」

「そうだな。摂津・和泉・河内・大和・南近江・美濃六ヶ国の兵五万五千でどうだ。わし自らが総大将となろう。すぐに山陽道姫路に向う」

「心得ました。しかし、美濃の兵まで動員するのはいかがでございましょう。徳川家康の動向が今一つはっきり致しませぬが」

「いや、奴の性格からして動くことはあるまい。それに、万一、家康が尾張美濃に手を付けるようなことがあれば、かえって攻め滅ぼす名目ができるというものじゃ」

 信長は、まったく気にも留めなかった。

 信長方の大軍の来攻に、姫路を囲んでいた毛利軍二万五千は、囲みを解いて備前岡山まで退却した。信長方の後詰の大軍五万五千と城方の一万に挟み打ちにされてはかなわないと見たのである。

 姫路城に籠っていた秀吉は、ここぞとばかり城を打って出た。敗走する毛利・宇喜多軍に追い討ちをかけ、そこそこの戦果をあげた。

 なんとか岡山城にたどり着いた毛利・宇喜多軍ではあったが、岡山城の武器・兵糧の備えが十分でないのを見て愕然とした。実はこの時、瀬戸内海の海上の補給路が、既に信長方の九鬼水軍によって断たれていたのである。

 九鬼嘉隆率いる三十隻の大安宅船は、淡路を出航するとまたたく間に毛利軍の軍船を追い払い、塩飽諸島までの制海権を確保してしまった。つまり瀬戸内海の東半分をその勢力下に入れてしまったのである。毛利の小型漕船では、一段と力を増した九鬼水軍の強力な火砲の前には、まったく歯が立たなかった。

 さて、宇喜多の本城である岡山城にやっとたどり着いたものの、毛利方一同は皆頭を抱え込んでいた。

「忠家殿、これでは岡山での籠城もままならぬではござらぬか。いったい宇喜多は何をしておられたのか」

 毛利輝元が、強い口調で宇喜多忠家をなじった。

「お言葉ではござるが、この城の兵糧が乏しいのは、毛利水軍が弱体だからでござる。ふがいなきは毛利殿の方ではござらぬか」

 忠家も不快げに言葉を返す。

「お二人とも落ち着かれよ。今は内輪喧嘩をしている時ではござらぬぞ。今後の策を相談せねば」

 小早川隆景が中に割って入った。

「ここではどうにもならん。備後で立て直す他はあるまい。そうであろう、隆景殿」

 輝元のふてくされたような言い方に、忠家は反発した。

「我ら宇喜多は、これ以上お供しかねる。我らは美作に参る」

 窮地に及んで、両者の対立は深刻なものとなった。

 仕方無しに、毛利・宇喜多軍は二手に別れ、岡山を捨ててさらに後退することにした。すなわち、毛利本軍は、小早川隆景の本拠地である備後の三原まで退却する。一方、宇喜多勢は、重臣の花房氏の守る美作の津山城に逃げ込むという策である。

 津山は、備前の北方、美作の国の中心である。周囲を山々に囲まれた盆地のため、防御には適した地であった。

さて、攻める信長は、瀬戸内海のほぼ中央、備後沖の船の中にいた。そこから先は芸予諸島であり、大小さまざまな島々には、あの名だたる村上水軍が各所に割拠していた。

 信長は、瀬戸内海の地図を広げ、九鬼嘉隆の説明に聞き入った。

「村上水軍は、大きく三つの勢力に分かれておりまする」

「うむ。三島村上氏と呼ばれておるな」

「はい。能島村上氏、因島村上氏、そして来島村上氏でございます」

「うむ、それで三つか」

「はい。能島村上氏の勢力範囲は、能島を中心に大島、大三島、伯方島北部となっております」

 嘉隆が、大きな指し棒で、地図上のそれぞれの場所をなぞった。

「芸予諸島のほぼ中央部だな」

「はい。それから、因島村上氏の勢力範囲は、因島を本拠に、生口島、向島、田島、岩城島、生名島、弓削島、伯方島の南部でございます」

「芸予諸島の南部一帯か。能島村上氏と因島村上氏の接点が、伯方島というわけだな」

「はい、そのとおりでございます。あと一つの来島村上氏は、来島をはじめ、伊予本土の波方や北条を根城としております」

「秀吉が調略したのがこれだな」

 実は、天正十年(1582年)、備中高松城を囲んでいた羽柴秀吉は、信長の命を受けて毛利水軍の切り崩しを図っていた。

 すなわち、小早川水軍の将、乃美氏に対して、安芸・周防・長門のうちの一国と黄金五百枚を条件に誘降を促したのだ。

 だが、この調略は成功しなかった。毛利方も、村上三家を是が非でも味方に留めようと、必死の工作に努めたからである。

 秀吉との工作合戦が続いたが、その結果、秀吉は三島村上氏のうち来島家の誘降に成功し、一方、毛利方は因島家より人質を出させ忠誠を誓わせるとともに、能島家にも秀吉に絶縁状を出させた。

「毛利方は、能島・因島両家に、来島城など織田方に寝返った来島氏の拠点を攻めさせていたようでございます。来島氏もなんとか守り抜いていたようですが、ところが例の…」

「ああ、そこで本能寺の変か」

「はい。羽柴殿が大敗すると、後ろ盾を失った来島氏は大変な目に会ったようで。来島城を攻め落とされ、伊予本土の波方城に籠城して懸命に耐えておりました」

「そこに、お前の率いる三十隻の大安宅船が駆けつけたのだな」

「はい」

「来島水軍は九死に一生を得たというわけか。それにしても、毛利水軍は驚いたであろうな。長さ二十間、幅七間のこの大船じゃからな」

「はい。船首から船尾までを総矢倉とし、さらに高々と天主まで構えておりまする」

「おう、そうじゃな。まさに浮かぶ城じゃ」

「四年前の木津川口会戦では、こちらの軍船の数は六隻でございました」

「それが今度は三十隻という大船団だ」

「それでも毛利方はたじろぎませんでした。ただちに六百艘の軍船を繰り出してきました」

「しかし、毛利の得意とする焙烙火矢や大型手投げ弾では、手も足も出まい」

「ええ。鉄でしっかりと装甲されておりまするゆえ。逆に、こちらの大安宅船の大砲が一斉に火を吹くと、十数艘の毛利の軍船が木っ端微塵となりました」

「そうだろう。わははは」

「一刻も経たないうちに、毛利方はほとんど全滅でございます。残った船もそれぞれの根城に退却していきました」

「追い討ちはかけたのか」

「もちろんでございます。村上水軍は、瀬戸内海に浮かぶ小島それ自体を城にしておりますが、来島村上氏を水先案内人として、片っ端から粉砕致しました」

「そうか。それは上々」

「能島村上氏の本拠能島城は、島の形が原形を留めぬほどでございます。因島村上氏の本拠青影城も、我らの援護のもとに上陸した来島氏が占拠致しました」

「うむ。あっぱれ見事じゃ、嘉隆」

 信長は、舟の天主の上から瀬戸内の島々を眺めながら、上機嫌で嘉隆を褒めたたえた。

このように、九鬼水軍の登場により海の戦局は一変した。瞬く間に毛利水軍は根拠を失ってしまったのである。

 海陸両面にわたる信長の作戦は、大成功に終った。

「これで三原は裸城というわけだな」

 毛利水軍が崩壊した今、その支城ネットワークによって守られていた三原城は孤立無援となった。

 三原城ができたのは、天正八年(1580年)、すなわち本能寺の変の起こる二年前である。旧来の新高山城から小早川氏の新たな本拠とすべく、隆景が築いたものである。

 本丸を二ノ丸が抱き込み、その東側には三ノ丸があった。また、城と海路を直結させており、「城郭兼軍港」といった趣を持つ、いかにも隆景らしい独創的な城であった。

 彼は、重火器の発達に一早く気付き、大規模な堀の拡張工事を急がせている最中であった。だが、運悪しく、この時未だ完成はしていなかった。

「あと半年の時があったならば・・・」

 隆景は地団駄を踏んでくやしがった。しかし、どうしようもなかった。

 三原城の目前に迫った九鬼軍から、休む暇なく大砲が撃ち込まれた。もはや落城は時間の問題である。

 毛利輝元と小早川隆景は、三原城をも捨て、要塞堅固な毛利の本城である安芸の吉田郡山城へと、さらに退却せざるを得なかった。

  出雲の富田月山城に立て籠っていた吉川元春も、主家の毛利軍が本拠吉田郡山城に退いたことを聞いて、血路を開いて織田軍の囲みを破り、吉田に向かった。

 こうして毛利軍は総崩れとなり、残った兵は、みな吉田郡山城に集結することとなった。毛利軍は退却に次ぐ退却で、落伍、逃亡あるいは寝返る者が相次ぎ、吉田郡山城に入った兵は五千をも下回った。

 織田軍は、これを十万近い大軍で囲んだ。

「さて、どうしたものかな、蘭丸よ」

 もぬけの殻となった三原城に入城した信長は、外海の景色を見ながら、あごをしゃくった。

「もう逃げる場所はございません。一気に毛利を殲滅してしまいましょう」

「そうだな。しかし、窮鼠猫を噛むということもあるぞ。それに殺してしまっては惜しい男が一人いる」

「と申されますと」

「わからぬか、蘭丸よ、この城の造りを見てみよ」

「はは、小早川隆景でございますな」

「奴は使える。何とか生け捕りにしたい」

「では、また、安国寺恵瓊を呼びつけまするか」

「いや、その必要はなかろう。こちらから動かずとも、向こうからやってこよう。きっと、亡霊が現れるに違いない」

「亡霊?・・・」

「ははは、分らぬか。まあ、よい。待つとしよう」

 いったい、亡霊とは何を意味しているのであろうか?

 

(4)落日の将軍

 吉田郡山城は、さすがに毛利の本城であり、城構えも立派なものであった。本丸、二ノ丸、三ノ丸と、これをめぐって多くの曲輪が全山を取り囲んでいた。さらには、可愛川とその支流である多治比川が外郭を守り、難攻不落ぶりを誇っていた。四十数年前に尼子軍三万の軍勢に囲まれた時も、わけなくこれを撃退している。

 しかし、今回は違った。籠城する兵も五千と少なく、これを攻める方の軍勢は十万余と桁違いに多かった。兵糧の蓄えは十分であったが、ことここに及んで、劣勢を巻き返すことは困難であった。

  毛利輝元は、叔父小早川隆景の勧めに従い、足利義昭に和議の仲介を依頼した。足利十五代最後の将軍であった足利義昭は、宇治での敗北により信長に都を追放されて以来、ずっと毛利の庇護のもとにあった。

だが、その毛利氏も、結局は信長によって滅亡の憂き目に合わされようとしている。こんな時に至って利用されるとは、義昭もまったく哀れこの上ない限りであった。

「蘭丸、わしの言ったとおりであろう。やはり亡霊が出たのう」

「はは、恐れ入ってござります。謀略を用いて、さんざん親方様を陥れようとした義昭公が、降伏の使者に訪れるとは。捕らえまするか?」

「いや、よい。もはや毒にも薬にもならぬ無益な男だ。話を聞いてやろうではないか」

 義昭は、最大限の威厳を持って信長に対した。

 義昭が示した毛利方の条件は、安芸一国の安堵と毛利家及び小早川家・吉川家の存続であった。

「将軍様の御命令とあらば是非もござらん。しかし、一国では手狭でござろう。毛利輝元殿には周防の国を、また、小早川隆景殿には長門の国をお預けしよう」

「それは有り難きことかな。して、吉川元春殿はいかに?」

「それはそちらでお考え下されよ。それと、あと二つ条件がござる」

「二つとは?」

「一つ、毛利では今後一切水軍を持たぬこと、そしていま一つが、これから行う四国長曽我部征伐と九州島津征伐の先陣をつかさどることでござる」

「先陣の件は戦の習い、拒む所以はないが、一つ目の水軍を持つなとの仰せは、果して毛利殿が受けるであろうか。水軍のいない毛利など手足をもがれたも同然と存ずるゆえ」

「ははは、よく聞いていただきたい。毛利は持つなと申しておるが、小早川については問うてない」

「毛利輝元殿は駄目だが、小早川隆景殿は水軍を保有してよいということでござるか?」

 信長が、隆景に本州最西端の長門を与えたことには、深謀遠慮があった。長門の地では、支那大陸に向かって馬関などの良港が開けていたが、信長には将来小早川水軍を大陸進出に向けて活用するという青写真ができていたのだ。

  毛利は、信長の条件を呑んだ。まさに無条件降伏と言ってよかった。

信長としては、たとえ前将軍の仲立ちであろうとも、これを無視して毛利を完全に滅すこともできた。だが、そうはしなかった。むしろこれを生かして、今後に用いる利のほう方を選んだのである。

 吉田郡山城を囲んでいた織田軍十万は、毛利が降伏するとその囲みを解いた。城預かりとして一万を城に残し、その他の軍勢は美作の津山に向かった。津山城には、岡山より逃れた宇喜多忠家が孤立した状態で籠っていた。

 未曾有の大軍の前に、津山城はたったの一日で落ちた。忠家は降伏し、助命を請いたが、信長はこれを許さなかった。

宇喜多忠家の首は、京都の六条河原にさらされた。信長としては、裏切り者の忠家だけは、どうしても助ける気にならなかったのである。

 こうして宇喜多家は滅亡した。備前・美作二国は没収され、羽柴秀吉の縁戚の小早川秀秋が相続することとなった。秀秋は、秀吉の妻おねの兄である木下家定の第五子にあたり、この時わずか十一歳であった。

「それにしても、まことにあっけのうございましたな。日本六十六ヶ国のうち六分の一を領有していた毛利氏が、これほどたやすく降参するとは」

 蘭丸が、信長の肩を揉みながら話しかけた。

「戦国大名の中では最も先んじておったのにな。早くから検地を行っていたというぞ。商業も重んじておったしな」

「その中国の雄も、再び生き返った親方様の前には、全く為すすべなしでございました。武田家のように滅亡させられなかったのが、せめてもの慰めというものでございましょう」

 信長は、備前・美作の仕置を終えると、海路大坂を経て安土に戻った。

そして休む間もなく、すぐに三つの重大な施策を発表した。

 第一は、四国長曽我部攻めの陣ぶれである。

 第二は、北陸戦線に援軍を送り、能登の国を上杉から奪回することである。

 そして第三は、安土城に替わる新しい城の総普請の開始であった。

 信長は、天下統一に向かって着々と布石を打っていった。誰も信長の勢いを止めることはできないであろうと思われた。

 

(5)長曽我部水泡

  長曽我部元親は、一枚の書状を前にして、歯噛みをした。差出人は織田信長である。

「ただちに讃岐の十河城攻撃を中止して降伏すべし。さすれば、土佐一国と南阿波三郡を安堵する。さもなくば、大軍を送って完膚無きまでに討ち滅ぼすであろう」

 それは、書状というよりは、むしろ脅迫状に近かった。

 元親は、悲願の四国統一をまさに目前にしていた。本能寺の変の後、三好の総帥十河(そごう)存保を攻め、その本拠十河城も落城寸前であった。

 また、伊予においても、ほとんどの諸豪族を平定し、残るは中部伊予の湯築城に籠る河野通直のみとなっていた。

九分九厘四国統一を成し遂げられると思っていた矢先に、目に見えない大きな力が行く手をさえぎったのである。

 元親は、二十二才の時に高知の岡豊(おこう)城で家督を継いでから、めきめきと頭角を表した。本山、吉良、安芸、津野等の土佐国内の諸豪族を次々と切り従え、天正三年(1575年)三十七才の時に、ついに土佐一国を統一した。

その後は阿波や南伊予、讃岐へと出兵を繰り返し、四十五才の今日に至って、やっと悲願達成まであと一歩のところまでこぎつけたのである。

〈誰に助けを借りたわけではない、みな全て自らの力で勝ち取ってきたものばかりだ。それなのに、何を今更、信長ごときにわざわざ四国を献上せねばならないのか〉

 あまりの馬鹿馬鹿しさに涙が溢れ出てきた。

〈この二十数年間の努力は、いったい何のためであったのか〉

 元親は、今日までの血の出るような苦労の連続を思い返すと、とても信長の指図に従う気にはなれなかった。

〈戦おう。それで全てが無に帰しても構わないではないか〉

 元親としては、それ以外に自分の気持ちを納得させる方法がなかった。

 元親の総動員兵力は、どう見積っても三万弱である。それに対して信長のそれは、毛利氏をも従えた今、十万いや十五万に届くであろう。まともに渡り合えば、万に一つも勝ち目はない。

〈それでも戦えるだけ戦ってみよう。長曽我部の血が絶えてもよいではないか〉

 元親は、自分の刀を抜き放ち、その研ぎすまされた刃先を見つめた。

〈いや、諦めるのはまだ早い。こちらには地の利がある。戦ってみなければ分らないではないか。勝敗は時の運である〉

 彼の決意はこうして固まった。

 元親は、信長に拒絶の返書を送り返し、自軍の戦備を整えた。

 意外にも強固な闘志を秘めた書状を、元親から受け取った信長は、ただちに四国征伐の陣触れを発した。

総大将は丹羽長秀とし、山陽道八ヶ国と淡路及び畿内五ヶ国合わせて十二万の大軍を動員した。長曽我部ごとき、信長自らが出陣するまでもないとの判断であった。

 天正十一年(1583年)九月、大軍は伊予、讃岐、阿波のどこと言わず上陸し、怒涛のように押し寄せた。

 まず、長曽我部軍の第一線である阿波勝瑞城を踏みつぶすと、続けて阿波一の宮城を攻囲した。

 一の宮城の守将は、勇猛でなる谷忠兵衛である。三日三晩にわたって頑強な抵抗を続けていたが、阿波一国の山野に満ち満ちている上方の軍兵を見て、この戦いの無駄を悟った。

忠兵衛は、密かに城を抜け出し、吉野川をさかのぼった。白地の本営に急行し、元親に降伏を勧めるためである。

「とても戦にはなりませぬ。雲霞のごとき大軍を前に、味方は浮き足立っております。どの城も一刻とて持ちこたえられませぬ」

 元親のもとには、伊予、讃岐各地からも、自軍の城が次々に落ちているとの報が入っていた。

「やはり無理な戦であったか・・・」

元親は唇を噛んだ。だが、再び気力をふりしぼった。

「いや、本拠の土佐はもちろん、この白地もまだまだ安泰ではないか。このまま戦いを続けるぞ」

「いやいや、殿、ヤケになってはなりませぬ」

「何を申すか。戦いはまだまだこれからじゃ。信長に一太刀浴びせねばわしの面目が立たぬ」

 谷忠兵衛は、元親に降伏を説くために、両軍の軍装の差を持ち出した。

「上方軍は、数千、いや数万の鉄砲で攻め寄せて参ります。我らの鉄砲はせいぜい百がいいところ。刀や槍を持っているのはまだいい方で、竹槍で戦っている者もおりまする」

「くだらんことを申すな。戦は道具でするものではないぞ。気合いでするものじゃ」

「それだけではございませぬ。敵の武具や馬具は、みな強固で華麗なのに比べ、土佐兵の身に付けた具足は粗末なものばかりでございます。木で作った鎧しかないのですぞ。戦う前から、兵たちは戦意を失っている有様でございます」

 経済力をバックにした、戦を専門とする上方の戦闘兵と、農民が武装しただけの田舎武者との圧倒的な格差であった。

「土佐兵はそんなにみすぼらしいのか・・・」

 眼前に突きつけられた現実に、ようやく元親も戦闘を継続することの無謀さを認めざるを得なかった。

  元親は、一の宮城を囲んでいる仙石秀久を通じて、降伏を申し出た。開戦してから一月も経っていなかった。

 信長は、これを許し、元親に土佐一国を安堵する旨の沙汰を行った。もちろん、九州征伐に長曽我部元親を利用することを考えてのことであった。

 

(6)海中の河

 中国の毛利、四国の長曽我部と、西国戦線は信長にとって順風満帆であったが、東の方は一向に進展を見せなかった。上杉・徳川・北条の三国同盟は健在で、なかなかつけ入る隙がなかったのである。

 徳川家康との関係改善のために、外交交渉もたびたび行われていたが、条件面で暗礁に乗り上げていた。領土の大幅な返還を求める信長に対し、家康が執拗に抵抗していたからである。

〈一番弱いところから崩すか〉

 信長は、まず上杉を倒すことから東国戦線の膠着状態を打開しようとした。そこで、北陸方面軍の軍団長である柴田勝家に対し、能登の国の奪回を命じた。

 能登は、本能寺の変後、満を持していた上杉景勝の猛攻を受け、越中ともども織田方の手を離れていた。

 柴田勝家は、信長の命に従い、越前・加賀の兵二万の大軍を擁して能登七尾城に向かった。

七尾城を守るのは、上杉家の宰相ともいうべき直江兼続である。上杉景勝は能登の戦略上の重要性を十分に認識していたため、わざわざ兼続に兵八千を付けて守備させていた。

 勝家は、前田利家に七尾城の西ノ丸を、また、佐久間盛政に調度丸を同時に攻撃させた。

しかし、上杉側も来攻を事前に予想して十分な備えをしていたため、どちらの郭も簡単には敵を寄せ付けなかった。

 七尾城は、典型的な山岳城であり、戦国時代の日本三大山城の一つにも挙げられている(あとの二つは、出雲の月山富田城と美濃の岩村城)。中世に畠山氏がその居城として以来、天正五年(1577年)に上杉謙信の手に移るまで、一度も落城したことのない天然の要害である。

 なかなか成果の上がらぬ事態に勝家は焦った。そこで自らも精鋭を率いて前田利家の西ノ丸攻めに合流した。

 ところがこの時、本丸と二ノ丸に詰めていた直江兼続の本隊が、調度丸を攻めていた佐久間盛政の軍に襲いかかったからたまらない。佐久間隊は不意を衝かれ、総崩れとなった。

 勝家は、慌てて盛政の援軍に駆けつけたが、戦巧者の兼続も、すぐに本丸、二ノ丸に兵を撤収してしまった。

 勝家は、その後も三度総攻撃を仕掛けたが、全くと言っていいほど戦果が上がらなかった。

 こうした状態が長く続き、出丸一つ落とせないまま一ヶ月ほどが過ぎ去った。

 打つ手に窮した勝家は、仕方なしに信長の力を借りることとした。援軍の要請をするため、組下の前田利家を信長のもとに派遣したのだ。

「申し訳ございませぬ。上杉の備え固く、七尾城を攻めあぐねておりまする。何とぞ援兵をお出しいただきますようにお願いたてまつります」

「うむ。お前たちでも陥せぬとは、七尾城はさすが天下に聞こえた堅城じゃ。まあよい、七尾城は捨て置け」

「はは。しかし、それでは越中、越後に攻め進むことができませぬが・・・」

「さて、そうかな?」

「七尾城には万余の軍勢が詰めております。これをそのままして越中に向かえば、背後を突かれること必定かと存じます」

「よいのだ。とにかく七尾城は諦め、代わりに満福寺城を奪え」

 勝家苦戦の報を受け取った信長は、七尾城攻略を断念し、代わりに能登北端にある内浦城の奪取を命じた。

「満福寺でございますか。恐れながら、小城一つ取っても何の益にもならぬと存じますが」

「ははは。利家、お前も鈍い奴だな。何としても能登に足掛りを築くのだ。それも東岸の良港にな」

 そう言って、一枚の紙切れを利家に広げた。

「これは船乗りの使う鍼路図でございますな。海の中を川が流れておりますが・・・」

 利家は、しばらく手にとって眺めていたが、首をひねるばかりである。

 信長は、上杉景勝を一方的な力攻めで倒せるとは思っていなかった。東も南も安心な現況では、景勝は全勢力を西に向けられる。いかに信長方が十万の軍勢で攻めたてたとしても、これを打ち破ることは容易ではない。現に今回の七尾城攻めがそのことを如実に示している。

 そこで信長は、上杉方の内部的な弱体化を図るため、二つの策をめぐらした。その一つが佐渡奪取である。

 佐渡には、鶴子(つるし)銀山という埋蔵量豊富な銀山があったが、天正五年(1577年)に上杉景勝はこれを直轄とし、毎年二万両を越える産金を得ていた。そこで信長は、この銀山を上杉方より奪取しようとしたのである。

 もう一つの策というのは、京都ほかの商人にはかって、木綿を全国的に普及させることであった。

 当時、木綿は、摂津から三河一帯にかけて流通していた。それ以外の地では、まだ麻の着物が主流であったが、実は、この麻の一大産地が越後であった。いわゆる越後丈布と言われるものである。

越後国内には数多くの青苧座があって活気に満ちており、その輸出基地である直江津の湊は、上方との交易船がひしめき合っていた。

 一方、木綿は、麻と比べて保温性があり、肌触りも良かった。そのため、中国や朝鮮から種子がもたらされると、すぐに国内でも栽培されるようになった。綿織物も大量生産されたため、爆発的に木綿の需要が伸び、庶民にも受け入れられるようになった。

 信長は、越後特産の麻を市場から締め出すことによって、越後の国力を衰退させようとしたのである。

佐渡金山の奪取、そして木綿の普及、この二つの策により上杉を内部から弱体化することを狙ったのだ。

 海流の流れる先を眼で追った前田利家は、突然叫んだ。

「はは、分り申した。親方様の深謀遠慮、この利家感服つかまつりました。ただちに能登に立ち返り、柴田勝家殿に伝えまする」

 能登北端の満福寺城を簡単に攻め落とした柴田勝家は、そこを根拠に船を大量に調達して、七千の兵で佐渡に上陸した。能登と佐渡は、対馬暖流に乗ればわずかの間である。

 不意を衝かれた上杉の佐渡守備隊は、突如の大軍の出現を目の前にして恐慌に陥った。ほとんどの者が、小舟を連ねて対岸の越後に逃げ出した。

勝家は佐渡国内にある上杉方支城をことごとく支配下に収めるとともに、銀山の近くにも新たに警護の城を築いた。

  上杉景勝は、何度か奪回を企てたが、大軍で佐渡一国を要塞化した勝家に対して、どうすることもできなかった。勝家は、能登七尾城での不首尾を恥じて、この佐渡に関しては、体を張って守り抜こうという強い意思を持っていたのだ。

 こうして、佐渡一国は織田方のものとなり、上杉景勝は貴重な財源を失うこととなった。

 

(7)ポルトガル教会領

 信長は、東方面に関しては、上杉への経済封鎖を継続するとともに、徳川家康との外交交渉を粘り強く繰り返していた。

 上杉、北条、徳川の三国同盟が健在な今、東へのこれ以上の軍事行動は困難であった。

 一方、西方面では、最後に残った九州征伐を実行に移すことにした。

 九州では、島津氏の勢いが盛んであり、じきに九州を統一するかと思われた。島津義久は、本能寺の変の報が届くや、直前に締結した大友氏との和議(これは信長が仲介の労を取ったものである)を破り、大友方の諸城の攻撃を再開した。すなわち、肥後の諸豪族を次々と寝返らせて味方に付けるとともに、さらに北進して、筑前・筑後にまで触手を伸ばしていった。

 天正十二年(1584年)正月、島津軍は、ついに大友氏の本拠地である豊後の府内にも攻め込んで、大友宗麟・義統父子を豊前に追い払ってしまった。

 進退きわまった大友宗麟は、信長に使いを送って、来援を必死に要請した。

「わしが骨を折ってまとめた和睦を、島津が一方的に破ったと申すか?」

「左様でございます。島津は野心に燃えて、織田信長様に対抗しようとしているのでございます」

 大友宗麟の使者は、島津の非を訴えた。

 もともと島津を押さえ込もうと考えていた信長は、宗麟の応援要請に応える形で、島津討伐の軍を起こすこととした。そこで、諸国の武将に対し、ただちに安土に参集するよう触れを発した。

 その国々とは、畿内五ヶ国、南海道六ヶ国、中国十六ヶ国、近江、美濃、若狭の合計三十ヶ国であり、十五万余りの大動員であった。

そのため、一時に全員が九州の地に上陸することはとてもできず、先勢が豊前の地に満ち満ちた頃になっても、後陣はいまだに備前、播磨のあたりに控えているという有様であった。

 天正十二年(1584年)三月、後陣も海を渡り終ったので、信長もついに安土を出発した。

 九州に上陸した信長は、軍を二手に分けた。一方は、羽柴秀吉を大将として、豊後、日向を進ませるとともに、自身は筑前、肥前を通って、九州の西側から軍を進めた。

 風前の灯火であった大友氏は、信長の来援によりふたたび息を吹き返した。

一方、島津方は、前代未聞の大軍の前に、為すすべなく敗退を重ねていった。豊後、日向、筑前、筑後、肥前、肥後の野に満ち満ちていた島津軍の姿は、潮を引くようにして消え去って行った。九州各地の諸豪族を味方に付けた信長方は、破竹の進撃でついに鹿児島の城下にまで達した。

 ところで、信長はこの時、まだ筑後柳川のあたりにいたのだが、南肥前方面の島津軍を攻撃していた毛利輝元から、とんでもない情報を受け取った。

「肥前の長崎の地が、ポルトガル人の所有になっておりまする」

 毛利輝元からの書状は衝撃的なものだった。敵は日本国内の島津氏だけではなかったのだ。もう少し詳しく事情を述べると、次のようなことである。

 肥前中部の大名である大村純忠は、佐賀の竜造寺氏との相次ぐ戦闘に疲れ果てていた。そのため、軍資金にもこと欠くようになり、いつしかポルトガル人を頼るようになっていた。何度か武器・弾薬の援助を受けた後、純忠はさらに長崎の土地を担保にして銀百貫目をイエズス会の教会から借りた。

 ところが、借金返済の期日が来ても、純忠がこれを決済できなかったため、抵当流れとなってしまった。借金のかたであった長崎は、イエズス教会の領土となってしまったのである。

銀百貫目、石高にして七千七百石で長崎の地はポルトガルの植民地となり、長崎の農民は、年貢を教会に納めるという状況になっていたのである。

 天正十三年(1585年)七月五日、ポルトガル定航船サンタ・クルス号で長崎にやってきたディルク・シナという砲手が、「航海宝鑑」という日記を残している。驚くべきことに、その第三巻付録には、次のような談話が載っている。

「ヤパン島には善良な国民がいるが、しかしシナの国民と同様、偶像を崇拝している。だが、長崎その他のポルトガル王権の及ぶ諸都市にはイエズス会員がいる。(後略)」

 当時のポルトガル人の認識では、長崎を始め日本の多くの都市が、ポルトガル領になっていたということである。

 こうした実状を聞いた信長は、激怒した。

「長崎をただちに没収して参れ。それと、大村純忠は切腹じゃ」

 毛利輝元は、兵を率いて長崎に向かった。

 ところが、ここでポルトガル人は意外にも頑強な抵抗を見せた。

 長崎の地は、周囲が全面海に囲まれ、唯一陸地に続く出入口は要塞によって完璧に封鎖されていた。要塞には大砲が装備され、鉄砲、弾薬も十分に備蓄されていた。まさに千本の針で守られたハリネズミさながらである。要塞に守られた狭い地域内に住むポルトガル人は、全員が武装して抵抗した。

 実は、彼らは同じような手口で、インドのゴアやマレーシアのマラッカ、そして中国のマカオを、植民地として今日まで維持してきたのであった。当然、日本でも今までのノウハウが通用すると考えていた。

 しかし、今回の長崎の場合は、あまりにも多勢に無勢であった。輝元は連日昼夜を問わぬ力攻めで要塞を守るポルトガル人を疲れさせた。

満足に睡眠の取れない日が二十日続き、ポルトガル人たちもついに限界に達した。砲台の一つが陥落するとついに総崩れとなり、降伏するほかはなかったのである。

 信長は、今回の事件を大変に怒った。

「蘭丸よ。マカオのポルトガル総領事に対し、謝罪の使いを送ってよこすよう申し伝えよ」

「はは、すぐさま書状をしたため、長崎の商船に託しましょう」

「うむ。さらに謝罪のしるしとして、ガレオン船の造船の工人も要求するか」

「はは。それはよき考えにございます」

 信長は、長期航海に耐えられる西洋帆船、すなわちガレオン船の造船技術を、喉から手が出るほど欲していた。この機に西欧の最新技術を手中にしようと目論んでいたのだ。

  さて、話は島津征伐の進展状況に戻るが、九州の東西から南下して攻め進んでいた信長方の大軍は、島津方諸城を次々に降ろし、天正十二年(1584年)四月下旬には、ついに薩摩の国に侵攻した。

そして、先鋒の部隊は鹿児島の城下を幾重にも取り巻いて、後は信長の到着を待って、その指示を仰ぐばかりとなっていた。

「わしは島津を助けるつもりはないぞ。たとえ鎌倉以来の名門の家であろうと、断固討ち滅ぼす。西日本をすべて平定した今となっては、毛利や長曽我部のように活かして使うあてがないからな」

秀吉からの指図伺いの使者に対し、信長はキッパリと答えた。

 五月上旬になって、信長が鹿児島に到着すると、島津義久より降伏する旨の書状が届けられた。

だが、信長はこれを許さなかった。そしてすぐに総攻撃の命令を発した。

 ところが、ちょうどこの時、信長のもとに一つの驚くべき情報がもたらされた。先だって長崎からマカオに送った使いの船が、琉球沖で島津方の軍船に拿捕されたというものである。

「島津義久め、ついに奥の手を出しよったな」

 義久は、最後の切札を放った。

つまり、信長の使いの船を拿捕したのは、島津を滅せば皆海賊となって南海で暴れ回るぞという一大デモンストレーションだったのである。

 これには信長も、苦笑せざるを得なかった。

「広い外洋でこちらの船を捕らえるとは、島津の水軍も大したものだ。相当の力を持っているな。毛利水軍以上かもしれぬ」

「志摩の九鬼嘉隆を差し向けまするか?」

 森蘭丸が尋ねた。

「いや、無用じゃ。島津の水軍は後々使えそうじゃ。島津総攻撃はすぐに中止させよ」

 信長は、和睦に応じることとした。条件は、薩摩一国を安堵する代わり、それと引き換えに拿捕船をすぐに解放すること、及び今後一切海賊行為を行わないことであった。

 こうして信長は、本能寺の変から二年足らずという短い期間に、尾張以西の日本の西半分を支配下に治めることに成功し、他に並び無き勢力を保持することとなった。

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