第六章 天下統一

(1)臣従の礼

「いよいよ東でございますな。天下統一の最後の仕上げはこの秀吉めにお命じくだされ」

「またその話か。まあ、そう急くでない。やっとマカオを平らげてきたばかりではないか」

 信長は、安土城で羽柴秀吉と将棋を指しながら歓談していた。

「しかし、恩を仇で返すような家康をこのままのさばらせておくわけには参りませぬ。この秀吉が必ずや成敗して御覧に入れまする」

「ほう。やけに威勢がいいな。だが、やつは甲信三遠駿の五ヶ国と伊勢を従えておるぞ。一筋縄では行かぬ」

「しかし、親方様。このままでは・・・」

「まあまあ、焦らぬことだ。まずは酒にしよう。誰かある、膳を持て」

 信長は、明智光秀を倒して以来、ずっと徳川家康との関係改善に意を用いてきた。両者は本能寺の変以来、冷戦状態となっていたのである。

「秀吉よ。わしとしては、できる限り家康とは事を構えたくない」

「何の、家康ごとき。恐れることはございませぬ」

「いやいや、奴の野戦の強さは身に滲みておる。長年一緒にあちこち転戦したからの」

「はあ」

「例えば、姉川の合戦を思い出してみよ」

「姉川の・・・。はあ、たしかに・・・」

この戦は、信長を裏切った浅井長政を討つため、信長が仕掛けたものである。信長・家康の連合軍と浅井・朝倉の連合軍が、真正面から激突した一大決戦であった。

 姉川を挟んで、右翼に信長軍二万八千が布陣し、それに相対して浅井長政の軍八千が展開した。一方、左翼には徳川家康が兵六千を配置し、それに朝倉軍一万が相対した。

 午前四時、戦いの火蓋が切られたが、浅井軍の先鋒磯野員昌の猛攻すさまじく、たちまち織田軍の第一陣は蹴散らされてしまった。

その後も背水の陣を敷いた浅井軍の攻勢は止まるところを知らず、織田軍は次々に後退を重ねていく。ついに織田軍の十三段備えのうち十一段までが破られてしまい、信長本陣も危うくなった。

 一方、左翼の徳川・朝倉戦線であるが、こちらは兵力において劣る徳川軍が、朝倉軍を押しまくっていた。

そして崩れかかった朝倉軍に対し、徳川方の猛将榊原康政が朝倉の側面に攻撃を加えると、ついに朝倉軍は総崩れにおちいった。

この左翼戦線の好転で、右翼の浅井軍への攻撃の余力が生まれることとなった。徳川軍に援軍として赴いていた稲葉一鉄が、左方から浅井軍攻撃に回ると、直線的に織田軍に突っ込んでいた浅井軍は、側面攻撃に対応する備えなく、またたくまに崩れ去ったのである。

姉川の合戦は徳川家康の力によって勝利することができたと言っても過言ではなかった。

こんな事が幾たびかあり、信長も家康には一目置いていたのである。

「今では、さらに甲斐、信濃の旧武田の遺臣も加えて、強兵ぶりに磨きがかかっておる。家康をあなどってはならぬぞ」

「はあ、左様でございますな。家康は騎馬軍団を我が物に致しましたな」

古来信濃には多くの牧が営まれ、名馬を数多く育んできた。馬に関しては質量ともに他国を圧倒しており、これが武田勢の強さの基盤であった。

「そういうことだ。これとまともにぶつかれば、味方の損害もなまやさしいものではないぞ」

 運ばれてきた酒を一気に飲み干すと、信長は秀吉に言った。

「家康は強いぞ。おまえの寄せ集めの兵で勝てると思うてか」

「何を申されますか。親方様からお預かりした西国の兵を持って当たれば・・・」

「負けるな。家康は、自分の実の息子を殺してまで、わしに忠誠を誓った男ぞ。それが今、わしに反したのだ。それなりの覚悟と準備ができておろう。最後の一兵となるまで戦うぞ。お前の弱兵では歯が立たん」

「それはあまりの申し様。ではございますが、確かに私の兵は逃げ足が早うございます」

「何だ、それは。わはははは」

 二人は大笑いをした。

「家康が強敵であることは認めまする。では親方様は、徳川をいかがなさる御所存でございますか?」

 秀吉は、再び真顔になって信長に尋ねた。

「和睦だ。丹羽長秀を使いに遣っている」

「丹羽様を・・・。それで講和の条件は?」

「うむ。甲斐、信濃を返してもらう。それに上杉攻め、北条攻めの先鋒をつかさどるべしと言ってある」

「しかし、それでは家康殿はとても承知なされますまい」

「そうだな。これでは、本能寺の変以来積み上げてきた奴の努力が、まったく無に帰することになるからな」

「それで、家康殿は何と申されましたか?」

「何も言わぬ。その代わり、三河・甲斐・信濃の精兵を尾張の小牧山に集結させておる」

「なんと」

「わしを牽制しよる。尾張にまで手を伸ばすとは、家康め、本気と見える」

「徳川方と対決する前に、私めに一つ考えがございまする。お任せいただけませんでしょうか」

「ほう、策があるとな。何だ、言ってみよ」

「はい。一益を連れ戻すのでございます」

「ふむ、一益か・・・。なるほど。しかし、うまくいくかな?」

「私めが直々に出向いて話をつけて参ります」

 徳川との交渉はなかなか進展を見せなかったため、信長は、あまり期待はしなかったものの、滝川一益の懐柔を秀吉に託してみる気になった。

 秀吉は、さっそく伊勢松ヶ島城に向かった。

「一益、久しいのう。元気のようじゃな」

「お前こそ、西国平定は大手柄だったそうだな」

 二人は抱き合って再会を喜んだ。織田家中で、下賤の身から出世したのはこの二人くらいである。そのため、両者の間には妙な連帯意識のようなものが芽生えていた。

「今日はるばる伊勢まで出張って来たのは他でもない。お前を連れ戻して来いとの親方様の御命令じゃ。織田方に戻って来れば、もと通り東山道を委せると申して下さった」

「ははは、そうか、それはありがたい。しかし、一益はもう戻りませぬと親方様に伝えてくれ」

「なんでだ。損な話ではなかろうに」

「いや、わしは上野で進退きわまったにもかかわらず、徳川家康という男に拾われた。その恩を裏切るわけにはいかぬ。それに、たとえ今信長方についたとしても、徳川や北条攻めの先鋒を命じられるだけだ。使い捨てにされるのは目に見えておる」

「徳川に付いておっても、使われる時は使われる。それなら親方様に頭を下げて、もう一度一からやり直してもよいではないか」

「いや、そのことだけではないのだ。あの時の信長様の仕打ちも、自分には忘れられないのだ」

「なんだ、あの時とはいつのことだ?」

「天正十年の武田攻めの時だ。わしは、信長様の命を受けて信州伊那口から甲斐に攻め入り、武田氏を滅亡させた」

「おう。抜群の戦功をあげたな」

「わしもそう思って、恩賞として珠光小茄子をねだった。だが、親方様は鼻で笑って、わしの願いを無視されたのだ」

「珠光小茄子と言えば、信長様秘蔵の茶入れではないか。それをいただけなかったのか。そうか、そんなことがあったのか・・・」

 当時、信長は、茶の湯を自らの政(まつりごと)の道具としており、配下の武将たちが勝手に茶会を開くことを禁じていた。これは、恩賞として信長が名物茶器を下賜し、茶会を開くことを許可することによって、武将たちを競わせることに狙いがあったのである。

 従って、信長から茶会を開くことを許されるということは、武将たちにとってみれば、極めて名誉なことであった。たかが茶の湯と馬鹿にはできないのだ。

 事実、重臣筆頭ともいうべき柴田勝家は、越前を平定の後に、信長から「姥口の釜」を与えられてやっと茶会が開けるようになった。

羽柴秀吉も、播磨経略の功として「乙御前の釜」を与えられている。このほか、丹羽長秀は「白雲の葉茶壷」を、また明智光秀も「八重桜の葉茶壷」を信長からもらっていた。

一益が、早く信長から秘蔵の茶器をもらい受けたいと思っていたのも無理からぬことであった。

彼は、織田信忠を通じて自分の希望を申し出た。しかし、信長の返事は「否」であった。結局「珠光小茄子」は一益の手には渡らなかったのである。一益の落胆ぶりは尋常ではなかった。

「そんなこともあって、いまさら信長様に付く気にはどうしてもなれんのだ。そちの友情には感謝する。今度は戦場で会うことになろうな。その時まで元気でいてくれ」

 秀吉は、一益の気持ちの固いのをみて、諦めて兵庫に戻った。

  滝川一益の取り込みには失敗したものの、その間に信長は、琉球やマカオにまで足を伸ばし、その勢いは止まるところを知らなかった。

 こうなると、徳川家康の方もいつまでも我を張っているわけにはいかなくなった。信長の勢力があまりにも強大になりすぎたためである。そろそろ家康の方から妥協案を出さざるを得なくなった。

 十数回目の信長側の使者として、丹羽長秀が徳川家康のもとを訪れた。

「家康殿、安心なされよ。滝川一益殿はそなたに付いていくと申された。これで、我らと勝負の形になりましたな」

「お戯れを。この家康が、織田殿と正面切って戦いを挑むとでも申されるか?」

「では親方様に従いまするか。今が最後の機会と存じまするが」

「・・・」

「親方様が明智光秀を討った時にはそなたは甲斐信濃を、また、毛利、長曽我部、島津を平らげた時にも、伊勢尾張を切り取っただけで手を引きましたな。安土を攻めようと思えばできたのにそれをしなかった」

「・・・」

「滅びの道を選ばなかったわけですな。今や親方様はこの国のほとんどを従えておりまする。とすれば、もう残された道はただ一つ。悪いことは申しませぬ。素直に頭を下げなされ」

「頭を下げるいわれはござらぬが、和睦ということであれば、考えぬこともないが」

「和睦と申されるか・・・」

「いかにも。五分と五分の取引でござる。条件は、この徳川家康から出させてもらいたい」

「よろしい。では承りましょう」

「一つ。まず甲斐、信濃、伊勢は、信長殿に返還いたす。その代わり、今までの領地である三河、遠江、駿河は安堵していただきたい」

「ふむ」

「二つ。上杉と北条攻めの先鋒の件でござるが、上杉攻めについては、今まで徳川と上杉の間に何の遺恨もござらぬため、御容赦願いたい。北条攻めの先鋒は喜んでお引き受けいたそう」

「うーむ」

「そして北条討滅のあかつきには、返還した三ヶ国に代わる領地を北条の旧領より頂戴し、そのうちの一ヶ国を滝川一益に給付してやりたい」

「なるほど」

「和睦の条件は以上の通りでござる。いかがでござろう、丹羽殿」

「領土の件はよろしゅうござるが、一益の件はさて・・・。いや、やはり親方様は一益をお許しにはなりますまい。切り捨てなされ」

「それはできませぬ。それがかなわぬならこの話はなかったことに・・・」

「分り申した。何とか親方様に話してみましょう。これで長年の懸案に決着が付くのであれば、これ以上のことはない」

 使者の丹羽長秀が帰った後、家康はじっと目を閉じたまま動かなかった。信長への従属に向けて心を整理していたのである。

 傍らに控えていた本多佐渡が、涙を流しながら一言うめいた。

「無念でござります。うっう」

「いや、光秀を討つ気概の無かった己のふがいなさよ。本能寺の変の後、すぐに美濃で光秀と決戦に及んでいれば・・・。甲信に向かったは、小事にとらわれ大事を見失ったということじゃ。みな自らの過ちが招いたことなのだ」

「殿、それは今だから言えること。誰も、信長様が生きていようとは思いもしなかったことで」

「そうだな、佐渡。しかし、わしは諦めぬぞ」

 家康は、刀を抜き放ち、思い切り畳に突き刺した。

 信長は、家康からの和睦案をしぶしぶ認めることとしたが、さらにもう一つ条件を付け加えた。それは新築あいなった兵庫城の年賀の挨拶に、家康自身が伺候することを要求するものであった。

これは、徳川家康が、信長に対して臣下の礼を取ったことを、「ぼんさんの間」に居並ぶ西国の諸大名にはっきりと認識させることを意図していたものだった。

 こうして信長は、三国同盟を崩壊させ、長い間膠着していた東国戦線に大きな風穴を空けることに成功した。そして以後、上杉氏や北条氏の攻略に邁進することとなる。

(2)上杉立ち枯れ

「長可、頼んだぞ。勝家とお前に任せた。わしが出馬するまでもなかろう。自分は、この兵庫で茶でも楽しんでおるとしよう」

 出陣の挨拶のために兵庫城にやってきた森長可に、信長は茶をふるまった。

「承知つかまつりました。それでは吉報をお待ち下さい」

 徳川家康をも従えた信長は、ただちに上杉景勝攻めの陣ぶれを発した。総大将を柴田勝家とし、副将には森長可を任じた。

「親方様。では上杉攻めの策について、お指図を」

 かしこまって頭を下げ続けている長可に、信長は笑って答えた。

「ははは、策など必要ない。いかな大木といえども、養分が滞れば枯れるだけだ。柴田には北から攻めよと申しつけてある。お前は南から侵せ」

 越後国内は、信長の巧妙な経済封鎖の策にまったく窮していた。木綿の普及は東国一帯から越後国内にまで急速に及び、越後特産の青苧はまったく売れなくなっていたのである。青苧を栽培して生活していた多くの農民たちは困窮し、青苧座は衰退する一方であった。

 特産の越後丈布の輸出基地であった直江津も、船の行き来が途絶えてさびれる一方であった。

 そんなことから、本拠春日山城の御金蔵の中身も、はなはだ乏しくなっていた。佐渡の金山を織田方に押えられた上に、直江津の船道前(入港税)も激減していたからである。

 国力の衰えた上杉方では、織田との対決に消極的になる武将が続出した。越中の諸豪族は、ほとんどが織田方の調略に乗って寝返った。さらには、本拠地越後国内からも内応者が出る始末であった。

「頃はよし」

信長は、森長可に尾張、美濃、近江の兵三万を付けて、信濃口から春日山城に攻め上らせた。

これと期を合わせ、佐渡にいた柴田勝家も、兵三万を率いて直江津に上陸した。上杉攻略軍は、越後内の内応者七千も含め、七万近い大軍となっていた。

 これに対して、春日山城に籠城した上杉軍はたったの三千に過ぎなかった。越後の虎として恐れられた上杉謙信の代には鉄の団結を誇った上杉軍団も、景勝の代になってついにもろくも瓦解してしまったのである。

 春日山城は、頚城(くびき)平野を一望のもとに見下ろせる急峻な山の上に築かれた典型的な山城であり、難攻不落を誇る上杉方の本拠地であった。

しかし、ここに至っては、とても三千の兵力で守り切ることは不可能であった。

  天正十四年(1586年)四月一日、織田軍は総攻撃に入った。

攻撃は二手に分けて行われた。まず、正面からは、柴田勝家率いる三万が、三ノ丸・二ノ丸を攻略し、残りの軍勢は森長可が率いて、南三ノ丸を目指した。

  戦いはあっけなくもたったの一日で終った。怒涛のごとく押し寄せる織田軍の前に上杉軍は為すすべもなく、諸砦は粉砕されていった。

「無念だがもはやこれまでだ。家康の腰砕けめ。南の口が開いてしまってはどうにも支えられぬ。謙信様に詫びに参ろう」

 ここに至って負けを悟った上杉景勝とその一族は、本丸のすぐ隣にある毘沙門堂に入り、謙信の位牌の前で自刃して果てた。

  信長は、兵庫城で上杉滅亡の知らせを受け取った。その時信長は、お側衆のうちの誰に言うとでもなく呟いた。

「これでわかったであろう。戦というものは力でするものではない。戦とは銭でするものだ。銭が無くなれば、人は離れる。戦とはそういうものなのだ」

 ここに、関東管領をも担った名族上杉家は滅亡した。味方にも見放されたその哀れな二代目の最期は、やはり織田信長のよって滅された甲斐の武田家の最期と相通じるものがあった。

 春日山城陥落の報に接すると、七尾城に籠城していた直江兼続も降伏し、自らは切腹して果てた。ここに、越後・越中・能登はすべて織田信長のものとなり、北陸道の平定はまたたくまに完了したのであった。

 

(3)惣構え

「盟約を支えられず、面目ござらん」

 徳川家康は、北条氏政、氏直父子の前で深々と頭を下げた。

「小田原殿には顔向けできようはずもござらぬのだが、この家康、恥を忍んで説得に参りました。今や、信長殿は比類なき勢力を誇っておられる。ここは隠忍自重して従うのが、最善の策と存じまする」

「今さら何を申されるか。織田の軍門に下った負け犬の声など聞く耳持たぬ」

 父氏政が、徳川家康に対し、冷たく言い放った。

 だが、家康は表情を変えずに話を続けた。

「信長殿は、まもなく朝廷より征夷大将軍に任じられることになりましょう。これに逆らうのは短慮の至りかと・・・」

 越後の上杉景勝を滅した信長にとって、残る強敵は関東の北条氏政・氏直父子と奥州の伊達正宗ぐらいになった。

 そのうちでも北条氏は、関東七ヶ国(相模、武蔵、上野、下野、上総、下総、伊豆)の覇者として君臨し、北条早雲以来五代に渡って繁栄を極めてきた。信長にとっては最大の難敵である。

 そこで、信長はこの北条氏を従えるために、徳川家康を使者として小田原に遣したのである。

だが、北条氏政は、家康の言に耳を貸そうとはしなかった。

 しばらくの沈黙の後、息子の北条氏直が、父の物言いとは正反対に、静かな口調で家康に問いかけた。

「父の非礼をお許し下され。織田信長殿が和睦をすると申されるのなら、その条件をお聞かせいただけませぬか」

 家康の表情が少し和らいだ。

「一つは、上野の国の返却。それとあと一つが、御両名の上洛でござる」

「上野は、滝川一益が本能寺の変で臆病風に吹かれて逃げ去ったので、後の面倒を見てやったまでだ。返せと言われても応じられぬな」

 父氏政は、あくまでも強硬である。

「父上、少し言葉が過ぎましょうぞ。家康殿、ここはひとまずお引き取り願って、我らに少し考える時間をいただけませぬか」

 氏直が何とかその場を収め、家康を浜松に帰した。

「父上、家康殿の申されるとおりでございます。何とか和睦の道を探らねばなりませぬ」

「ふん」

「上野の国と一口に言っても、東半分はもともと北条の領地。ここを譲る道理はございません。しかし、西上野は、確かに我らにも後ろめたさがございましょう。これの返還には応じるものの、他の条件は呑めないという案ではいかがでございましょうか」

 氏政もしぶしぶ了承し、その旨を書状にしたため、浜松の家康に託した。

 これを受けた家康は、その足で兵庫に向い、信長に報告した。

「話にならぬな」

 信長は、とても満足できるものではないとして、書状を破り捨てた。

「すべての条件を呑むように伝えよ。さもなくば、大軍を送って討ち滅ぼすまでだ」

信長は、家康に北条氏政をもう一度説得するように命じた。

 家康は、再度北条氏政を訪ねた。

「信長殿の意向は何一つ変わってはおりませぬ。この書状のとおりでございます」

 そう言って、懐から書状を出して、氏政の前に差し出した。

「上野半国では気に入らんと申されるのならこちらも譲ろう。上野一国の返却は承知する。しかし、もうひとつの上洛の件は御容赦願いたい」

 氏政は、今度は前回よりも譲歩した案を出してきた。

だが、家康は、信長の一度言ったら聞かない性格をよく知り抜いているだけに、何とか氏政を説得しようと試みた。

「決して無理な条件ではないと存じまする。是非信長殿のもとに出向いていただきたい。身の安全はこの家康が保証致しまする」

「そこまで申されるなら、では、もう一度考えさせてもらおう」

 氏政もすんなりとは土俵を割らない。家康は、ひとまず間を取ることにして、浜松に引き上げた。

家康が帰った後、氏政は息子の氏直に打ち明けた。

「わしはな、はなから信長などに屈服するつもりはないぞ。初めから戦うつもりでおった」

「やはりそうでございましたか。時間を稼いでおられたのですね」

「そのとおりだ。惣構えの工事が終るまでの時間が、どうしても必要だったのだ。惣構えさえできあがれば、信長とも戦える」

「そこまでの御覚悟でございましたか。承知いたしました。この氏直、父上に従いまする」

 天正十五年(1587年)一月、ついに小田原城に惣構えと呼ばれる大外郭が完成した。東西五十町、南北七十町の広大な領域に、絶壁のような空堀が二重に掘り巡らされたのである。周囲約二十キロメートルにも渡るという長大な代物である。ヨーロッパや中国の城郭都市のように、市街地や農地までをも、その防御ラインの中に取り込んだという、当時としては稀有壮大にして独創的な城構えであった。

「これで籠城勝負ができる。そうであろう、氏直よ」

 この惣構えが完成してから、氏政は一転して強気になった。

「はい。そうでなくても、もともと小田原城は、難攻不落の城として全国に鳴り響いておりました。この惣構えができた今は、鬼に金棒でございます」

「そうだ、そうだ。惣構えがなくても、上杉と武田をしりぞけることができたのだからな」

 永禄四年(1561年)三月、越後の上杉謙信が、関東管領の名のもとに関東の諸豪族を糾合し、十一万という大軍を率いて北条氏康の守る小田原城に総攻撃を行ったことがあった。しかし、この時は小田原城外郭の蓮池門で小規模な攻防戦があっただけで、他の外郭はびくともしなかった。謙信は、要塞堅固な小田原城に手を焼き、ついに攻略を諦めて越後へ兵を返している。

 また、それから八年後の永禄十二年(1569年)十月には、今度は甲斐の武田信玄が総勢二万を動員して小田原城下に侵攻してきたが、この時も氏康は籠城戦法を採ってこれをしりぞけている。

「父上は覚えていらっしゃいますか。謙信や信玄を迎え撃った時には、まだ周囲一里ほどの二ノ丸外郭しかございませんでした」

「ああ、それでも十万を越す軍勢を撃退することができた」

「はい。ところが、今度は周囲五里もの大外郭が完成したのです。何十万という大軍が来攻しても十分に持ちこたえられましょう」

「おう、その通りだ。よし。では、信長に絶縁状を出すとするか」

「はい。戦備を急ぎましょう。軍勢の配置はいかが致しましょうや」

「そうだな。まずは信濃口だが、上野、下野の兵一万を松井田城に入れる」

「北陸道からの敵を防ぐのでございますね。守将には誰を」

「もちろん氏邦だ」

北条氏邦は、氏政の弟であり、この時は武蔵鉢形城を任されていた。

「甲州口は盤石でございましょう。なにしろ、八王子城に氏照殿が詰めておりまする」

「そうだな。ここにも武蔵の兵一万を入れるか。さすれば、東山道からの敵を食い止められよう」

北条氏照も、やはり氏政のすぐ下の弟であった。

「あとは、東と南でございますが」

「常陸の佐竹を押えねばならぬな。下館に兵五千を置くか。安房の里見に対しても兵五千を万喜城に残そう」

「下田城にもいくらか兵を割り振りまするか」

「おう、そうそう。下田は水軍の要の港じゃ。伊豆の兵三千を入れよう」

下田城は、北条水軍の根拠地として、一年前に下田湾口を扼する高台に急造されたものである。ここには大砲十門が備えられ、港を守っていた。

「あとの残りの城はいかが致しますか。忍城、玉縄城、江戸城などは」

「それは、捨て置こう。残りの軍勢はすべて小田原に集結させる」

「伊豆・相模・武蔵・下総・上総、すべて合わせて四万ほどになりまするな。これだけいれば、惣構えに蟻の入り込む隙間もできますまい」

北条氏の領土は、関東七ヶ国二百五十万石に及んでいた。石高から計算して、最大動員兵力は七万強である。

氏政は、関東平野に散在する諸城に兵を分散させることはしなかった。小田原城に主力を配置し、あとは重要な拠点のみに兵を集結させた。

敵の主力が押し寄せると思われる東海道方面は、小田原城で一手に食い止める作戦である。そのため、山中城をはじめ、普請が粗末な箱根山中の諸城はすべて捨て去った。

 このようにして、関東平野には織田軍の兵を一兵たりとも入れないという体勢ができあがった。

 

(4)小田原大動員

「上野が欲しければ受取りに来られたし」

 北条氏政から、手の平を返したような挑戦的な書状を受け取った信長は、表面上は怒りをあらわにしたものの、内心ではほくそ笑んでいた。というのも、北条攻めを契機に、一気に奥州をも含めて、残りの地域を平定することができると踏んだためである。

 信長は、三ヶ月後の天正十五年(1587年)八月一日を小田原攻めの開始と定め、支配下の全大名に動員令を布告した。

五畿内の諸大名は石高百石につき二人、中国・四国・九州の諸国は四人、逢坂の関より尾張までの諸国と北国は五人、遠江・三河・駿河・甲斐・信濃の五ヶ国は六人と割当が決められた。

「さて、いかに攻めかかるかな。それぞれに意見を申してみよ」

 信長は五月二十日、兵庫城に徳川家康・柴田勝家・羽柴秀吉・森長可らを集めて軍議を開いた。

「是非、この秀吉に先陣をお申し付け下され」

 まず、羽柴秀吉が口火を切った。

「あいや待たれよ。西国攻めだけでは飽きたらず、東国でも手柄を独り占めするつもりでござるか。先陣はこの勝家が承る」

 柴田勝家が一喝すると、場がシーンとなった。

「徳川殿のお考えはいかがかな?」

 信長が、じっと目を閉じて坐っている家康に声をかけた。

「はは。恐れながら申し上げます。北条殿は難敵でございます。毛利、島津のようには参りませぬ。盤石の領国経営にいそしんでいると聞き及んでおります」

「ほほう。家康殿は、この間まで北条と手を組んでいたから、内情をよく知っておられるようだな。では、北条の弱みは何じゃ」

「はい。それは領地が広大なことでございます。関東平野のほぼ全域を支配下に置いておりますが、全ての境を守ることは難しいと存じます。東は海、また、北は伊達と組んでおりますれば、つけ入る隙は見当たりませんが、西と南は開いておりまする。一斉に攻めかかれば、陥とすことはできましょう」

「うむ、なるほど」

「信長公直々の御出馬とあらば、南の東海道筋はこの家康が御案内つかまつりましょう」

 信長は、家康の進言を入れて、北条攻撃は三方面から行うこととした。主力は東海道を経て、箱根口より敵の本拠小田原に直接迫ることとする。あとは、遊撃隊として信濃口と甲州口から関東平野になだれ込み、北条方の支城を逐一攻撃するという手筈であった。

「信濃口からの攻撃は柴田勝家に命じる。北陸道五ヶ国と北信濃の兵五万を率いて行け」

「ははあ」

「甲州口の大将は森長可じゃ。近江・美濃・南信濃・甲斐の兵四万を与える」

「かしこまりました」

「東海道はわし自らが出張るゆえ、徳川家康殿に案内を頼もう」

 軍議は即決し、各武将はすぐに国許に帰り、戦備を整えた。

東海道方面の軍は二十万にも及ぶ大軍であったため、松井友閑を奉行として任じ、兵站の確保に当たらせた。友閑は、諸隊の移動にあたって、途中の混乱がないように整理の役人を出させるとともに、兵糧を駿河の清水に買い集め、全軍に支給させることとした。

 主力軍は、三島から沼津かいわいに満ち満ちていて、先が進まなければ、身動きも出来ないほどであった。

 こうして、天正十五年(1587年)八月一日を迎えた。先鋒の徳川家康は、三万の兵を率いて、三島より箱根の天険に向かった。箱根における北条方の第一の関門である山中城を攻めるためである。

 ところが、山中城が望める位置まで到達したところで斥候を放つと、何と山中城はも抜けの殻であった。箱根越えが最大の激戦になると覚悟していた家康は、肩すかしを食った恰好である。

 そこで家康は、箱根山の頂上を越えてさらに軍を進めた。途中にある北条方の支城はことごとく無人であった。

まったく北条方の抵抗のないまま、家康はついに小田原城を眼下に見下ろすことのできる石垣山の頂上に達した。

「こ、これは・・・」

 そこで家康は思わず息を呑んだ。

「さてもさても、これほどの城構えがこの世にあるとは・・・。とても信じられぬ」

 家康は、小田原城の壮大さにまったく度肝を抜かれてしまった。

「何度も小田原に使者に立ちながら、これほどの普請が進んでいることに気付かなかったとは。海路を用いていたとはいえ、何たる不覚よ」

 家康の顔は、蒼ざめていた。

 後から到着して小田原城を俯瞰した信長も、思いはまったく同じであった。ひょうたん型をした二段構えの堂々たる本丸、それを山側の背後から守る広大な西曲輪、そしてそれらを包み込むようにして二ノ丸外郭と三ノ丸外郭が構成されていた。そして南側は遠浅の海となっていて、大船は容易に近づけそうにない。

 しかし、何よりも驚かされたのは、城の廻りを延々と取り巻く大外郭の存在であった。空堀と土塁が三方を完璧に囲んでいる。城下町をすっぽり収めているのはもちろん、かなり広大な畑地までもその中に取り込んでいた。

「これなら氏政も毎日新鮮な野菜が食えるというわけか」

 初めて見る惣構えに圧倒された信長は、気が引き締まる思いであった。

  信長は、北条方が籠城策を採ることを見極めた上で、自身は石垣山の頂上に本陣を定め、自軍二十万の大軍を惣構えの廻りに隙間なく配置させた。

そして八月十五日払暁、全軍に総攻撃を命じた。

 両軍相まみえ、すさまじい鉄砲や弓矢の撃ち合いとなったが、大外郭の土塁に拠る北条軍は、少ない軍勢ながらも十分に持ちこたえていた。絶壁のように掘られていた大外郭の空堀には、折から降った雨水が溜り、泥田のようになって織田軍の侵入を阻んだ。

戦いは昼を過ぎたが、織田軍はいずれの外郭も破ることができず、はかばかしい戦果はなかった。

「味方の損害ばかりではないか。無駄玉を打つのは止めじゃ」

 ついに信長は諦めて、その日の夕刻、攻撃中止の命令を発した。

 こうして緒戦は、織田軍にとってまったく得るものなく終結したのである。

「これで北条も自信を付けたであろうな」

 信長が、独り言のように呟いた。

「いや、まだ緒戦でございます。休まず攻め立てますれば、北条も音を上げましょう」

 家康が、味方を鼓舞すべく、信長に進言した。

「いや、いかん。大外郭と本丸・二ノ丸との間が遠すぎる。いくら外回りで騒いだところで、氏政は大いびきで寝ていよう」

 予想以上の惣構えの堅固さに、信長は持久戦に変えざるを得ないことを悟らされた。

「勝家や長可の様子は何か入ってきておるか」

 信長は、お側衆に問いただした。

「いえ、未だに。昨日使いの者を発しましたので、まもなく報告が参るものと存じます」

 実はこの時、信濃口と甲州口から攻め入った遊撃隊も、かなりの苦戦を強いられていた。

 柴田勝家率いる北陸勢五万は、碓井峠を越えて関東になだれ込み、ただちに松井田城の攻略に取り掛かった。

 麓から頂上の城を目指して攻め上げていくと、満を持していた北条軍も氏邦の叱咤激励のもと猛反撃に移り、柴田軍を散々に追い散らしてしまった。

 意外にも一万もの大軍が山上に詰めていたことに驚いた勝家は、以後慎重に城を包囲するに止どめ、無理攻めは差し控えることとなった。

 一方、小仏峠を越えて関東に入った森長可の部隊も、すぐに八王子城の攻略に取り掛かった。

八王子城を守るのは、北条氏照である。やはり北条氏政の弟であり、氏政の最も信頼する武将であった。彼は、山麓の御主殿を引き払い、曳橋を落して一万の兵とともに山上の要害に立て籠った。

八王子城は東国で初めて石垣を用いて築いたといわれる本格的山城であり、規模も当時としては東国で最大級のものである。

 森長可は八王子城攻略にあたって、軍勢を二手に分けることとした。まず大手口からは自ら兵三万を率いて進軍するとともに、一方の搦手口からは兵一万を弟の森蘭之丞に任せて、時を同じくして城を攻撃した。なお、森蘭之丞とは、元服して森蘭丸が名乗った名前であり、それは信長から与えられたものである。

 だが、織田軍の大手口からの攻撃に対しては、八王子城の中腹に設けられた金子丸はじめ多くの出丸が行く手をさえぎり、三万の大軍を簡単には寄せ付けなかった。

 一方の搦手口から攻め上った森蘭之丞は、防備の薄かった高丸を破り、本丸のすぐ下の小宮曲輪まで迫ることができた。

 しかし、ここで氏照は、満を持して反撃に移った。二ノ丸に待機していた兵三千を一斉に討って出させると、森蘭之丞の軍は支えきれず、散り散りとなった。北条軍は、蘭之丞の軍を山下まで追い散らし、高丸も奪回することに成功した。

 その後、すぐに小田原における緒戦の味方勝利の第一報が届いたことから、城方の志気ははなはだ高かった。

 さすがの森長可も、東国随一の要塞堅固な八王子城に手を焼いて、柴田勝家同様、城の麓を取り巻くばかりで性急な攻撃は自重することとなった。

  このように、緒戦は北条方の意外にも頑強な抵抗にあって、織田方はひとまず攻撃の手を休めざるを得なかった。

「立ち返り勝家や長可に申し伝えよ。今後は無理攻めを控えるようにとな」

 信長は、八王子や松井田から戻った斥候に命じた。

「それよりも九鬼はどうなった。清水はもう出たのか?」

 信長は、奉行の松井友閑に尋ねた。

「はい、毛利、長曽我部とも清水で合流し、伊豆に向かったとのことにございます」

「それは上々。こちらの戦も見ものじゃな」

 織田と北条の戦いは陸だけにとどまらなかった。実は、海においても激しい戦いが演じられたのである。

 織田方は九鬼水軍を主力とし、毛利、長曽我部などの大型船を主体に百隻を越える大船団を組織した。

「北条の弱点は水軍じゃからの」

もちろん、北条方でも水軍の弱さは自覚していた。つい最近まで安房の里見水軍にも翻弄されるほどのものであったからである。

そこで、氏政は水軍の強化を図るべく、八年前に大砲一門を装備した五十挺櫓の大安宅船十隻を建造した。古来、西伊豆地方には優れた造船技術の伝統があったが、さらに味方に付いた熊野水軍衆の技術指導もあって、高性能の大安宅船を量産することに成功したのである。

「上様、北条水軍をあまり甘く見てはなりませぬ。先だって武田の水軍を壊滅させたと聞き及んでおります」

 松井友閑が、信長に言上した。

 今を去る天正八年(1580年)、北条水軍は十隻の大安宅船をもって武田氏の水軍を攻撃するため、その根拠地である清水へと向かった。両者は駿河湾沖で海戦を演じたが、北条方の大型水軍は絶大な威力を発揮し、武田勝頼の水軍を大いに打ち破ったのである。

「ははは。北条が武田の水軍に勝ったからといって、何の自慢にもならぬわ。武田は騎馬軍団でもっておる。馬は泳げぬぞ。わははは」

「確かに。そう申されますれば、まったくその通りではございますな。九鬼の鉄船の前にはひとたまりもございますまい」

「おう。それに土佐からも大船が参っているようだしな」

 信長と松井友閑が話をかわしているちょうどその頃、織田水軍と北条水軍は、伊豆の南方の下田沖で海戦に及んだ。小田原に向かおうとする織田水軍と、これを阻止しようとする北条水軍が正面からぶつかりあったのである。

北条水軍の主力は先年の武田との海戦で活躍した大安宅船十隻であった。さらにこれを数百の関船が護衛して大船団を形成していた。

 しかし、戦いの火蓋が切られると、織田軍は、船の大きさと大砲の威力で北条水軍を圧倒した。九鬼嘉隆自慢の装甲船三十隻は、それぞれ大型大砲三門を備えており、その大砲が火を吹くと、北条方の多くの関船が、海の藻屑と消えていった。北条方の砲弾が届かぬ距離からいっせいに砲門を開いて撃って来るので、東国においては無敵を誇った北条方の五十挺櫓の大安宅船も、織田方水軍の前に出るとまったく対抗できなかったのである。

 長曽我部元親などにいたっては、大黒丸という二百挺櫓の特大巨船に、大砲二門と鉄砲二百挺を備えて、北条水軍を散々に打ち破った。

 北条水軍は多勢に無勢の上に、船の戦力でも劣り、全く戦にならなかった。大安宅船三隻と多くの関船を失い、残った船も戸田、松崎などの伊豆西海岸の港に向けて遁走した。

この後、さらに織田方が追い討ちをかけると、ついには船を捨てて陸に逃亡する有様であった。織田軍は、空となった船を曳航し、悠々と小田原に向かった。

(5)風魔忍者

「親方様、一大事にございます」

 第一次総攻撃が行われた翌日の夜、信長の石垣山の本陣近くでちょっとした騒ぎがあった。

「こんな夜更けに何事だ」

「曲者でございます」

 はじめは若衆の喧嘩騒ぎと思われたが、そうではなかった。北条方の風魔忍者の手練れが、信長の暗殺を企てたのである。

 風魔小太郎率いる風魔忍者十数人は、織田方の警戒網をくぐって、信長本陣に迫った。小田原周辺の地理を知り尽くした風魔衆の動きは敏速で、信長の寝所となっている幔幕のすぐそばまで何の支障もなく近づくことができた。

 しかし、すんでのところで信長の馬廻り衆に気付かれてしまった。たちまち大捕物となり、斬り合いになったが、所詮は多勢に無勢、大方の風魔衆は捕らえられてしまった。

 だが、頭領の風魔小太郎ほか残りの風魔衆は、あたりに火を放ってその混乱に乗じて逃亡した。

「三十万の軍勢がひしめく中を、いったいどこから侵入したのか?」

 信長は、風魔忍者の恐るべき仕業に背筋を寒くした。

 徳川家康は、以後小田原城の包囲を厳重にするようにと、あらためて指示を出した。

「野陣は危険ということか。それでは・・・」

 信長は、そう言って、小田原城の西側に陣していた蒲生氏郷を呼び出した。これを機にある一つの決断を下したのである。

「氏郷よ。どのみち小田原攻めは長引きそうだな」

「はは。北条方は首をすくめた亀でございますからな」

「ああ、まったくその通りだ。そこでだ。お前に一つ頼みがある」

「は、何なりと仰せ付け下さりませ」

「うむ。実はここに城を築こうと思う。仮の城ではないぞ。一つ希有壮大な城を構えて、じっくり腰を落ち着けようという話だ」

 築城奉行に任じられた氏郷は、天正十五年九月初めから約四万人を動員して、わずか八十日間で城を完成させてしまった。

石垣山の最高地点に本丸と天守台を設け、すぐ下には西曲輪を設けた。さらに大堀切を隔てて出城が一つと、また、北には二ノ丸や北曲輪・井戸曲輪が配置されているという、当時としても最大級の本格的な山岳城であった。

 また、この城は関東で最初に造られた総石垣の城でもあった。石積みは、安土城の築城の際にも活躍した近江の穴太(あのう)衆による野面積(のづらづみ)と呼ばれる独特の工法によって行われた。

「親方様、お待たせ致しました。城が出来上がりました」

蒲生氏郷が、信長の元に報告に訪れた。

「うむ。手早い仕事であったな。氏郷よ、誉めて取らすぞ。では、かねての手筈どおり北条どもを喜ばしてやれ」

 完成した石垣山城は、一夜のうちに前方周辺の樹木が伐採され、その全貌が小田原にいる北条軍の目の前にさらされた。

 突然の一夜城の出現に、北条方の驚きようはたいそうなものであった。わずかの期間にこれだけの巨城を築いた信長の絶大なる力を見せつけられて、北条方に戦意を喪失する者が続出した。

「さあ、この城を根拠にして、二年でも三年でも、じっくりと兵糧攻めにしてくれよう」

 信長は、天守の頂から小田原城下を見下ろしながら、顎を撫で回した。

羽柴秀吉が、播磨三木城の別所長治を兵糧攻めにした時は、二十ヶ月をかけている。石山本願寺攻めの時などは包囲に五年もかけた。味方の兵糧は、東海道を経て上方からいくらでも送られて来る。信長の軍隊は、既に兵農分離を完了しており、戦闘に特化した武士たちの集団になっている。彼らは何年でも国元を離れて戦えるのである。

実は、北条氏の誤算はここにあったと言ってもよかった。上杉謙信や武田信玄が小田原に来攻した時には、彼らは数ヶ月でその包囲を解いて本国に兵を返している。上杉の軍も武田の軍も半農半武の者によって構成されており、田植や稲刈りなどの農繁期には兵をそれぞれの土地に返してやらねばならず、半年を越すような長期の滞陣は困難だったのである。

 ところが織田軍は、上杉軍や武田軍とは根本的に性格を異にしていた。そのことに気付かなかった北条氏政も思慮が足りなかった。

 さて、信長は石垣山城にじっくりと腰を落ち着けて、次の総攻撃の構想を練っていた。

「家康殿、伊達は腰を上げそうかのう?」

「はは、いまだ動きがないようにございますが、必ずや参陣するものと存じ上げます」

 信長は、次回の総攻撃には奥州の諸豪族をも参加させることを予定していた。つまり、小田原城攻城戦を単なる織田対北条の私戦という位置付けから、天下統一の戦いという性格に昇華させようとしたのである。

 奥州の諸豪族で、小田原参陣に応じた者はすなわち信長の支配下に入ったということになる。逆に、これに応じない豪族は、信長に反抗するものとして北条氏討伐後、個別に攻め滅ぼせばよいのである。

 信長は、第一次総攻撃の後すぐに、「奥州惣無事令」を発令して奥州内における私戦を禁止した。そうしておいて、会津の蘆名氏、米沢の伊達氏、山形の最上氏、奥州探題の大崎氏、そのほか南部氏や津軽氏など奥羽各地の諸豪族に対して、十一月一日までに小田原に参陣するよう催促していた。

 書状を受け取った奥州諸豪族のうちのほとんどは、信長の威光を恐れて、取るものも取りあえず小田原に参陣した。奥州で最も勢いのあった伊達政宗もさんざん悩んだ末、諦めて期日ぎりぎりの十月晦日に、兵五千を率いて織田軍に加わった。

 当初の思惑どおり事が運んだ信長は、大いに満足であった。彼は、奥州最北の豪族である津軽為信を召しだして、北方事情について質問した。

「為信よ、おぬしの国は奥州のさいはてであるか?」

「はい。津軽は辺境の国でございます」

「津軽より北にはもう国はないのか?」

 信長の唐突な尋問に、為信は威儀を正して答えた。

「津軽の北には海を隔てて蝦夷なる国がございます。蝦夷には若干の大和びとと、多くの蝦夷びとが住んでおります」

「そうか。蝦夷びととはいかなる民じゃ?」

 信長はなおも質問を続けた。

「言葉は大和びととかなり異なりますが、容貌は大和びととさほど変わらず、もとは同じ倭種であると存じます」

「ということは、蝦夷も日本の国であるということだな。蝦夷の石高はいかほどじゃ?」

「蝦夷は極寒の地でござりますれば、米は一粒たりとも取れません。その代わり、魚は鯡(にしん)をはじめ、鮭・鱒などが無尽蔵に採れますゆえ、蝦夷びとはこれを食して生活しております」

「ふむ、左様か。して、蝦夷国が日本の果てと申すか? 蝦夷国のさらに北はどうなっておる?」

「はい。私も確かなことは分りませぬが、蝦夷びとはさらに北の海を越えた樺太なる地や、東の海を越えた千島とかカムサスカとかいう地に住んで居ると聞き及んでおりまする」

 信長は、津軽為信から聞いた話から、急に北方の様子を詳しく知りたくなった。

 彼は、津軽為信に次のように命じた。

「為信よ、そちには小田原での働きを免ずるゆえ、ただちに本国に帰り、蝦夷を従えて参れ。そうしたならば、魚の獲れ高を検地せよ」

「はは」

「その上にじゃ、蝦夷びと以外の民の様子も探検して参れ。五年かかっても十年かかっても構わぬ。必ずこの世の北の果てまで行って来るのだぞ」

 意外な命令を受けた津軽為信は、当惑しながらも、信長直々の命令とあっては是非もなく、かしこまって承った。

 信長は奥州の征服だけに飽きたらず、さらに北方の国々までをも支配下に置こうと図ったのである。

 やがて、北の地は蝦夷一千万石と呼ばれるようになり、その後の日本の繁栄を支える礎となる。

 

(6)行政改革

 信長は十一月十五日を期して、小田原城第二次総攻撃を命じた。今度は奥州の諸勢をも含めた二十五万を越える空前絶後の大軍で襲いかかった。戦いはやはり大外郭を挟んで行われた。

 また、伊豆から駆けつけた水軍も攻撃に参加した。巨大戦艦からの砲弾は小田原城内めがけて放たれたが、遠浅の海のため、そばに近づくことができず、満潮時でさえ弾の及ぶ距離がいま少し足らなかった。そのため、本丸はおろか二ノ丸・三ノ丸にも損傷を与えることはできなかった。しかし、小田原城大外郭を守る北条軍の兵士に与える心理的な脅威は相当のものであった。

 戦いは、今回も丸一日かかって行われた。北条軍は織田軍をはるかに下回る少ない人数にもかかわらず、大いに奮戦して城を守り抜いた。小田原城の総兵力は約四万で、織田方の1/6にも満たなかったが、総構えの防御力は絶大であった。またしても織田軍は惣構えのどの一角も崩すことができず、攻撃を中止せざるを得なかった。

「力及ばず、申し訳ございませぬ。明日も夜明けから攻め立てますれば、必ずや陥として御覧に入れまする」

 家康が、信長の前で深々と頭を下げた。

「いや、御苦労であった。少し休むがよい。攻撃は本日限りにして、また暫く中止致そう。何も急ぐことはない。また、体がなまってきたら再開すればよい」

 信長はさして落胆してはいなかった。むしろ無理攻めによる味方の損耗の方を恐れた。信長としては既に長期兵糧攻めの方針を決めており、これは上州松井田城を囲んでいる柴田勝家や、八王子城を包囲している森長可にも伝えてあった。

「総攻撃は味方の士気が落ちないようにな、二月に一回もやればよい。それでよかろう、なあ、家康殿」

「はは。長期戦を御覚悟なさいましたか」

「うむ。戦ばかりして、政をおろそかにはできぬ。わしにはまだまだやらねばならぬことがたくさんある」

 信長は、兵庫城から石垣山城に政務の中心を移し、石垣山城を臨時政府として、むしろ内政の充実に努めることとした。特に検地の実施と交通路の整備は焦眉の急であった。

 そのため、信長は、羽柴秀吉を総奉行としてこれらに当たらせることとした。

「秀吉よ、西国に行って検地をして参れ」

「は? 今何と申されました。この秀吉は戦場での槍働きを本としておりまする。検地など他の者にお申し付け下され」

「たわけ、検地も立派な働きぞ」

 信長は、大声で秀吉を叱りつけた。

「しかし、まだ北条が・・・」

 秀吉は、消え入るような声で信長の顔を見上げた。

「北条攻めは徳川にやらせる。他の者にも手柄を立てさせてやってくれ」

「はあ・・・」

「検地とて、楽ではないぞ。西国には、未だ心よりこの信長に服しておらぬ者が少なくない。検地に対する抵抗も大きい。もしかすると、戦になるやもしれぬ」

「はあ、左様でございますか。そういうことであれば、・・・」

「それにお前は有能な部下をたくさん持っておる。わしは多くを本能寺で失ってしまった。検地を頼みたくても人がいないのだ」

「はは。そこまで見込んでいただけるならば、この秀吉、お引き受け致します」

 信長が織田家直属の家臣ではなく、配下の一武将を検地の総奉行に指名せざるを得なかったのは、村井貞勝はじめ信長直属の有能な内務官僚の多くを、本能寺の変において失ってしまっていたからである。

 信長が、中でも秀吉を選んだのは、その配下に多くの近江武士を抱えていることが理由であった。彼らのうちの多くは、秀吉の長浜城時代に召し抱えられた者たちである。近江の国はあの近江商人を生んだ土地柄でもあり、計数に長じた武士たちが大勢いたのである。

  中でも石田三成、増田(ました)長盛、長束(なつか)正家の三人は若いながらも、有能な吏僚たちであった。

 秀吉は、彼らを検地奉行に任じて、織田方の領地の検地を実施させた。既に尾張・美濃・伊勢・近江・丹波・播磨・五畿内などの古くからの織田の領国では、検地は実施済みであったが、この数年切り従えた中国・四国・九州は未だ手が付いていなかった。

もちろん、この地方を治めていた毛利氏・長曽我部氏・島津氏もそれなりに検地を行っていたが、検地の方法や単位がそれぞれに異なっていたために、再度統一した方法により実施する必要があったのである。これを人々は織田検地と呼んでいた。

 検地奉行三人は、桧の板で作った六尺三寸すなわち一間の検地尺を携えて、西国諸国を巡った。

織田検地の場合、ただ田や畠の面積を測るだけでなく、その土地の等級も決めていた。すなわち田であれば、上田・中田・下田・下々田というように、米の穫れ具合を推定して四等級に分類し、検地帳に書き記していくのである。

田畑の面積は、縄などを用いてかなり正確に測量されたが、等級の方はかなり大ざっぱであった。例えばある地域を検地する場合、まず高台に登ってその郷村を見渡し、木々が茂って大木が多ければ、そこは水に恵まれた所として上田とする。もし、山肌が赤茶けていて茅などが所々に生えていたらそれは下田とする、ただし、そこが家の近所であれば中田とする、などといった具合であった。

 検地された土地には、等級毎に石盛りも決められていた。上田は一反あたり一石五斗、中田は一石三斗、下田は一石一斗といった具合である。これによって、郷村ごとの収穫高が決定され、それがさらに郡毎にまとめられ、最終的には一国の石高に集計されていった。

 織田検地は、何せ一国の隅から隅まで測量して歩くため、半年から一年という長い時間が必要とされた。

しかし、この織田検地によって、初めて農業における総生産高(すなわちGNP)が明らかとされたのである。この事は、さらに税収額をも確定させるものであった。

「順調にいっているようだな」

 検地の中間報告にやってきた秀吉に、信長が声をかけた。

「はい。中国十一国と四国を完了し、これから九州に移りまする」

「それは上々」

「検地の助郷にはたっぷり銭をはずんでおりますれば、人足たちもよく働きまする。あと半年もあれば終りましょう」

「そうか。民の様子はどうだ」

「税が軽くなったと、皆が喜んでおりまする」

 信長は、年貢を五公五民としていた。すなわち、税率50%である。これは武田信玄の四公六民などと比べて一見厳しいように見えるが、そうではなかった。

当時、農民は年貢として米や大豆などを納めるだけでなく、公事(くじ)または夫役・助郷といって、土木工事や荷の運搬などに駆り出されることが常態であった。信長は、年貢からこの公事をはずし、夫役や助郷の際には逆に日当を出すことにしたのである。したがって、実質的には農民の負担は軽減されたといってよかった。

「民というものは、年貢の増減に敏感であるからな。そうであろう、秀吉」

「はい。その点、五分五分というのは実に単純明快でござりまするな」

「そうだ。税は国の礎、戦も一揆も、みな税から起こる。簡明が一番じゃ」

 信長は、極力税制を簡素化することを目指していた。確固とした徴税能力が、安定した政権を維持していく上で必要不可欠と考えていたからである。

 このことは商工業に対する課税政策にも表れていた。前にも述べたように、商業や工業を営む者に対して、総売上高から仕入れなどの諸費用を差し引いた残りの利益に対して50%の税を課していた。やはり、五公五民である。なお、適正な利益を計算するように、近江商人の発明した簿記による記帳を課していた。

 さて、こうして秀吉は、総奉行として西国の検地を進める一方、もう一つ重要な施策を実行に移していた。

彼は、自分の甥(秀吉の姉の子)である羽柴秀次を呼び出した。

「叔父上のご尊顔を拝し、恐悦至極に存じ上げます」

「うむ、秀次よ。大きゅうなったな。大した武者ぶりじゃ。いや、今日呼びだて致したのは外でもない。そちを作事奉行に任じようと思ってな」

「はは。ありがたき幸せ。しかして、何の作事でございますか」

「うむ。実は街道を整えたいと思っておるのじゃ。まずは、上方から小田原への道を平らかにせねばならぬ」

秀吉は、北条攻略のための兵站路を確固としたものにするだけでなく、小田原へ参陣している諸大名が、国元との情報連絡を取る際にも不便が無いように、道路整備を図ろうとしたのである。

「そのような大事なお役目を、私のような若輩者にお命じになられるのでございますか」

「いや、お前は弱冠二十才の若さながら、近江の八幡山城主として善政を敷いておると、もっぱらの評判だ」

「いえいえ、私が領しているのは南近江のほんの狭い土地でございます。善政というほどのことは・・・」

「いや、謙遜することはない。お前は、城下に八幡堀と呼ばれる運河を造り、琵琶湖水運と直に結んだそうじゃないか」

「はい。商業や流通を勢いづかせようと思いまして」

「ふむ。城下町を楽市としたのも同じ考えか」

「はい。商工業を営む者たちを保護することが狙いでございます」

「この他にも、城下一帯に下水道を張り巡らしたそうだな。大したものじゃ。その善政ぶりは世に広く聞こえておる。わしは、お前の才覚を高く評価して、作事奉行に任じたのだ。期待しておるぞ」

「はは」

 余談になるが、もし秀吉が天下を取って、たとえば関白の位に昇ったとしたら、その跡を継ぐのはこの秀次だったに違いない。

 さて、大役を仰せつかった秀次は、まず小田原の南、すぐ眼と鼻の先にある早川の地に港を開いた。これにより、船を使っての兵糧の運搬が可能になり、今までの箱根の険しい山道を上り下りするという苦労を解消した。

 秀次は、次に尾張から小田原に至るまでの東海道筋の道路の整備に着手した。道幅を六間半と一律に定め、道の両側に杉を植えたり、三十六町毎に一里塚を設置したりして通行人の便宜を図った。

 彼はこの他、継ぎ飛脚制度なども創設している。これは街道の各宿場宿場に馬と飛脚人を置いて、緊急な書状のやりとりが迅速にできるよう工夫したものである。

海上輸送に関しても、同じような目的で継舟という制度を同時期に創設している。

  こうした交通路の整備は、その後全国に渡って行われ、大坂から馬関(下関)に至る山陽道筋をはじめ、山陰道、東山道、北国道など、その整備・発展ぶりはめざましいものがあった。

 なお、これら交通路の整備の際には、途中に無数に存在していた関所はすべて撤廃した。このことによって商人の往来が自由になるとともに、物資の流通も円滑になり、大いに商工業の発展に寄与したのである。このことは、従来関所を運営していた寺社勢力の有力な収入源を奪うことにもなり、信長にとってはまさに一石二鳥であった。

  関所の撤廃は、何も陸だけに限らない。従来瀬戸内海などにも無数の関所が設けられていて、商船が島々の間を航行する際には、その度毎に通行税が徴収されていた。だが、これらもすべて廃止された。関所が廃止されれば、商人たちの利益はその分増大するのだが、その増分の半分は、確立した税制により信長のもとに吸い上げられる仕組みになっていた。

  さて、以上のように、北条攻めのさなかではあるが、秀吉配下の各奉行のめざましい働きによって、信長の思惑通り内政改革は順調に進み、その権力基盤はますます強化されていった。

 

(7)北条滅亡

 織田信長が総力をあげて取り組んだ北条攻めも、年を越して天正十六年(1588年)の正月を迎えようとしていた。

 小田原北条方では、これまで織田軍の二度にわたる総攻撃にも耐え、また、松井田・八王子両城も健在とあって、士気ははなはだ盛んであった。

 しかしこの時、ようやく松井田城に変化の動きが見え始めていた。

 戦線膠着に危機感をつのらせていた柴田勝家は、諸将を呼んで軍議を開いた。

「敵もさる者、なかなか降参せぬが、いかがしたものかな。一同の者、何か意見があったら申してみよ」

「心配は御無用と存ずる。空っ風が吹きすさぶこの山上で、冬を越すことなど出来よう筈がござらぬ。我ら平地に居てさえ、この寒さをしのぐのは大変なことでござる。ましてや、山上に立て籠る北条軍は、すぐに音を上げるに違いないわ。わっはっは」

 前田利家が、空笑いをして座を見渡した。

「そのとおりでござる。一万も山上に詰めていれば、それだけ兵糧の減りも早かろう。そろそろ蓄えも底をつくに違いない。もう一度総掛かりで攻めれば、必ずや落城すること間違いないと存ずる」

 一同も次々と頷いた。

 だが、一人だけ虚空をじっとにらんでいる武将がいた。

「真田殿、そなたはどうお考えかな?」

 勝家は、今回新たに信長方に加わった真田昌幸に水を向けてみた。

 昌幸は、ここ松井田のすぐ西にある上田の領主であり、もともと武田信玄に属していたが、武田氏滅亡後は徳川家康の組下として東信濃を任されていた。今回徳川家康が信長に従ったことから、北陸道軍に属して水先案内を務めていたのである。

「同じことになるのではないかと存じまするが」

昌幸が、静かに口を開いた。

「何、我らの総攻撃が失敗すると申すか?」

  前田利家がいきり立った。

「松井田城は、鎌倉公方北条時頼公によって築かれました天下の堅城でございます。その後、さらに三百年をかけて拡張されて参りました。武田信玄公でさえ十倍の兵をもって臨みましたが、これを陥とすことはできませんでした。しかるに我らはたかだか四、五倍の兵力、正面から立ち向かっても効があるかどうか・・・」

「いや。我らは、信玄とは違うぞ。それに、いくら上州の兵といえども、この寒さには耐えられまい」

 なおも利家が食い下がる。

「残念ながら寒さに音を上げるのは我らでございましょう。この季節、寒気は盆地の底の方に溜ります。暖気は上に登りますれば、かえって山の上の方がしのぎやすいのでございます。さらに平地にいては山から吹き下ろす空っ風をまともに浴びまする」

「何だと。我らそのような腰抜けではないわ」

 昌幸の落ち着いた物言いに、前田利家はますます頭に血を昇らせた。

「これ、利家。すこし黙っておれ。さすがに真田殿は当地の事情に詳しい。一々もっともだ。それでは聞くが、何かよい策をお持ちかな?」

 柴田勝家が、新参者に対しては異例の丁重さをもって尋ねた。

「松井田城を相手にせずして、関東平野に入れればよいのでございますが、それには中山道の最も狭い所を抜けねばなりませぬ。人は山中の道なき道を歩けますが、荷駄隊は中山道の大道を通らざるを得ません。一列縦隊で進めば、必ずや松井田城から追い討ちをかけられましょう」

「うむ。いかにもその通りじゃ」

「しかし、策が一つだけございます」

「ほう。それはどのようなものじゃ」

「はい。では、申し上げます。ここは一旦陣を引き払ったと見せかけて、上田まで撤退いたします。そこから一転北上し、間道を通って沼田に出ます。この道は険しい山道ですが、小さな荷車なら通ることができましょう。沼田からは、また山道を南下致します。厩橋まで行ければ、あとはそこから関東平野に入れまする」

「なるほど。しかし、厩橋は北条の拠点、易々と近づけるものかな?」

「そうだ、そうだ。そんなことができようはずのないことは、この利家でもわかり申す。それに途中には箕輪城もあるではないか」

 前田利家が、再び口をはさんだ。

「北条方の作戦は、松井田に兵を集中させて、ここを突破させないことに尽きましょう。他の城の守りは手薄かと存じます」

「うむ。確かに。ここに一万も集めたのだからな」

 柴田勝家は、真田昌幸の言を入れて、ひとまず兵を退くこととした。

 これを見ていた北条方は沸きかえった。六ヶ月間凌ぎに凌いで敵を追い返したのである。その晩から城内で酒盛りが始まった。

 だが、三日後、自軍からの早馬が戦勝気分を吹き飛ばした。箕輪城と厩橋城が敵の大軍に囲まれたとの報である。

「しまった。謀られたか。ただちに箕輪城の後詰めに参るぞ」

 北条氏邦は、すぐに山を下りて救援に向かったが、もはや手遅れであった。両城とも一日と持たずに陥落してしまっていたのである。

「このうえは織田軍と一戦を交え、北条の意気を示しましょうぞ」

 北条の勇将、大道寺政繁が主に訴えた。

だが、氏邦はゆっくりと首を横に振った。

「信濃口を死守できるかどうかが勝負だった。関東平野になだれ込まれたらそれまでだ。堅固な山城に籠っているからこそ、五万の大軍に抗することができるのだ。平地では彼我の兵力差は如何ともしがたい」

 そのうちに織田軍が迫ってきた。パニックに陥った北条軍は算を乱して逃げまどうばかりである。

「松井田城に戻るぞ」

 氏邦が兵たちを叱咤激励した。だが逃散は止まらず、主君に従って松井田にたどり着いた者は百名ほどであった。

 氏邦はとうとう降伏を決意した。自分の首と引き替えに、兵の助命を嘆願したのである。

  勝家はその処置を考えたが、無傷で城を入手できること、並びに降伏した城兵に関八州の城々を案内させることができることなどの利を考慮して、降伏を受け入れた。

時に天正十六年(1588年)二月十五日のことであった。

 織田軍は、北条攻めを開始してから半年余りにしてやっと関東平野に入ることができた。勝家は降伏した松井田城の城兵を先駆けの部隊に加え、関東各地に散らばっている北条方の支城の攻撃に取り掛かった。

その勢いは止どまるところを知らず、鉢形城、松山城、川越城、岩槻城、江戸城と次々と降ろしていった。これらの城は、留守を預かる兵も少なく、やすやすと織田軍の手に落ちていった。

 勝家は、こうして関東を縦横無尽に駆け巡って、町々、村々をことごとく従えた上で、四月下旬には森長可のいる八王子城に合流した。

 四万余の大軍の来着を得て自信を深めた森長可は、あらためて八王子城に籠る北条氏照に宛てて降伏を勧告する使者を送った。

 だが、氏照は、関八州にわたって恐れられた豪将である。勿論、これに従うはずは無かった。

彼は、中山勘解由・狩野一庵ら、主だった武将二百人を一同に集めて言った。

「そもそも武士の本分は義を第一とし、名誉を重んずるものである。自分は小田原に居る兄の氏政殿に対して、この城につきましてはどうぞ御安心下さいますようにと約束している。敵が大軍だからといって、どうして逃れるわけに参ろうか。忠義の死を遂げるのは理の当然である。自分はそのように覚悟した。だが、その方たちは、老いた父母のためにやむをえぬ事情があれば、ただちに逃れるがよい。少しも恨みとは思わぬぞ」

 氏照は再三言ったが、日頃の情愛が深かったためであろうか、将兵たちは、口々にこう言って答えた。

「これは口惜しいことを承ります。我らも是非親方様と生死をともにさせていただきとう存じます」

  これを聞いて安心した氏照は、降伏を拒絶する書状を使者に託して、織田軍の陣に届けさせた。そしてすぐに最後の決戦をすべく各砦の防備を固めさせた。

 北条氏照の強い決意を知った森長可と柴田勝家は、翌朝五月一日を期して総攻撃を開始した。

 何しろ十万近い大軍である。大手口といわず、搦手口といわず、山の四方八方から攻め上り、山は織田軍の将兵で埋め尽くされた。

 大手口から攻め登った森長可五万の本隊は、今までは落とせなかった金子丸を簡単に破った。さらに、山上地区への入口である柵門に到達して、これをも引き倒して松木曲輪に殺到していた。

 また、城の西から山上を目指した柴田勝家四万の軍も、山の稜線上に延々と築かれた石塁に悩まされながらも、堀切を越え、敵の本丸を目指した。

 搦手口から攻撃していた森蘭之丞一万の軍も、今回も高丸を簡単に突破し、小宮曲輪に迫った。このほか、道無き道を駆け登って諸曲輪に取り付いた兵は数知れずであった。

 昼前には、本丸と中ノ丸を残してすべての曲輪は織田方の手に落ちた。それでも中ノ丸に籠る中山勘解由と狩野一庵は落着き払っていた。

「弓、鉄砲とも十分に敵を引き寄せてから、無駄の無いように放て」

 そう命じて、射かけたため、寄せ手の織田軍は、みるみるうちに百人にも及ぶ死傷者を出した。

しかし、やがて矢玉も尽きたため、中山勘解由はじめ中ノ丸に詰めていた将兵は、幾度ともなく突き出ては、槍・太刀を振るって駆け抜け、駆け入り、そこかしこに出没して火花を散らして戦った。

「頼もしき戦いぶりじゃ」

 頂上の本丸から、中ノ丸でのこの戦いを見ていた北条氏照は、味方の奮戦に満足し、涙を流していた。

「これで思い残すことはない」

氏照は、もはや落城は不可避と覚悟し、本丸奥の間に入って切腹して果てた。

 それにしても、氏照以下八王子城の諸将の結束した戦いぶりは見事なものであった。その有様は、遠い昔、奥州高館における源義経の最期の折り、諸卒が心を一つにして従ったことと並び称された。

 九ヶ月もの間、耐えに耐え続けてきた八王子城も、わずか一日で落城した。

 森長可と柴田勝家は、その後、行きがけの駄賃に小机城と玉縄城を降ろしてから小田原に参陣した。

ここに関東の北条方諸城はことごとく落城し、小田原城は完全に孤立状態となった。

 信長は、部下に命じて、これら諸城で捕らえた多くの捕虜を、十数隻の小舟に乗せて小田原沖に浮かべ、海上から城に向かって呼びかけさせた。

「しばらくは鉄砲をとどめて聞かれよ。この舟中にいるのは、八王子から来た誰それの父母妻子であるぞ。こちらは玉縄城にいた誰それの人質であるぞ」

 このようにして、北条方の城とそこにいた人質の主の名前を次々に、五百人ほど大声で呼ばわった。

 籠城している諸将の多くは、関東内に散在している自分の城に父母妻子を残したまま、小田原に参陣している。自分の名前や聞き覚えのある姓名を耳にして、将兵たちは途方にくれた。父母妻子を敵に生け捕られて重刑に処せられては、お城の番も勤まらぬ。彼らの士気が急速に衰えていったのは無理もなかった。

 城将の中には、松田憲秀のように織田方に密かに内応するものや、安田景宗のように逃亡するものまで現れてきた。

「もはや運命は極まった」

北条氏直は、腹心かと思っていた者たちが互いに疑心暗鬼となっているような有様を見て、降伏を決意した。

 氏直は、ただちに家来の山上郷右衛門を召し連れて馬に乗り、かつての同盟者である徳川家康の陣を訪ねた。

「自分の命と引き換えに、父氏政や籠城の者たちを救っていただきたい」

 突然の氏直の来訪に驚いた家康ではあったが、すぐにこのことを信長に報告した。

「氏直め、あっぱれ殊勝な覚悟であるな。だが、氏政の助命はまかりならぬ」

 信長は、氏直の言に感服はしたものの、氏政を助けるつもりはなかった。北条の総帥を生かしておいたのでは、何のための戦であったのかわからないからである。北条は滅亡させなければならぬ。信長は氏直だけでなく、氏政の切腹をも条件に加えた。

 氏政も他に道はないと観念して、これを承諾した。ここに難攻不落を誇った小田原城も、開城の運びとなった。時に天正十六年(1588年)七月十日のことである。約一年の籠城戦であった。二年、三年を覚悟していた信長にしてみれば、意外にあっけない幕切れであった。

 北条氏政・氏直父子は、医師安清軒の家に移って、そこで立派に切腹して相果てた。

 家康は、両人の首を石垣山城の信長の元へ持参した。

「天を恐れぬ者たちじゃ。京都戻橋にさらすように」

信長は、一言冷たく命じたのみであった。

「はは。承知つかまつりました」

「そんなことよりもだ、わしは奥州仕置に向かうぞ。小田原城の受取は、家康殿にお任せ致す」

「はは」

「いよいよ総仕上げだな。信雄を先陣として、奥州平定に向かわせる」

 信長は、伊達、最上、相馬など、小田原に参陣した奥州の諸大名に対しては、その所領を安堵した。逆に、信長の求めに応じなかった者に対しては、容赦なくその諸領を没収することにした。

 信雄は、大した抵抗も受けず、奥州を攻め進んだ。信長に従わなかった諸豪族も、大軍を前にしてはどうすることもできず、次々に城を明け渡すほかはなかった。唯一大きな戦となったのは、九坪(くへい、岩手県北部九戸)城をめぐるものだけであった。

 九坪城主である九戸政実は、検地や諸城破却に抵抗する土豪を多数集めて、南部信直への反乱という形で、三千人ほどの軍兵とともに城に立て籠った。

しかし、この反乱軍も、信雄の大軍五万に包囲されると、逃亡者が続出し、一日の攻撃で簡単に瓦解してしまった。

 こうして奥州をことごとく手中にした信長は、会津に本拠を移し、新たな命令を発した。

「平定した国々の検地や刀ざらえを行う」

刀ざらえとは、すなわち刀狩りのことである。天正三年(1575年)柴田勝家が越前北庄に入国した際、一向一揆の弾圧策として実施したのが最初である。その後、兵農分離の総仕上げとして、信長の支配下に入った領国では必ず検地と一体になって実施されていた。

 その後、これらも見通しがついたので、会津に織田信雄のみを残して、信長自身は意気揚々と兵庫城に凱旋した。時に天正十六年(1588年)もまさに暮れようとしていた。

〈ついに、悲願の天下統一が実現した。振り返れば、長く険しい道のりであった〉

 信長は、天守閣から夕焼けの空を眺めていた。

〈いや、まだまだやらねばならぬことは多い。これから、これから〉

 信長は、これで終ったとは思っていなかった。彼の目標は「天下布武」であり、天下統一はその一部の構成要素にしか過ぎなかったのだ。

(8)徳王即位

「此度の東国平定、まことに祝着至極に存じまする」

「天下平均おめでとうござりまする」

 天正十七年(1589年)の兵庫城における新年の祝いの宴は、まことに豪勢なものであった。信長のこの度の東国平定を賀す諸大名が、続々と全国から集まり、祝いの言葉を述べた。

「うむ。めでたい。まことにめでたいな」

信長は、今までに味わったことの無い、まさに満ち足りた気持ちで一杯であった。

彼は、華やかな宴の終った後、一人「ぼんさんの間」に入り、目を閉じた。いろいろのことが脳裏に浮かんでは消えた。

〈今日の自分が、今こうしてあることの不思議さよ〉

父信秀の顔、大うつけと人に呼ばれていた幼少の頃の自分、その後の激しくかつ厳しかった戦の数々。

そして本能寺からの危機一髪の脱出行、そのどれをとっても、今日いま現在の自分を保証するものは何もなかった。

〈自分は神も仏も信じない。しかし、ただ強運の一言でもって片づけるには、自分にはあまりにも強い力が内在している〉

そう考えると信長には全身に力がみなぎり、どんなことでも実現できるという気力が湧いてきた。

〈唐・天竺をも従えて見せまいか〉

そんなとてつもない事を想ったりもした。

しかし、信長にはまだまだやることがあった。天下を統一したといっても、まだ各武将の知行割りも完全には終っていないし、そのほか国内の政治制度の確立や法体系の整備も急がれるところであった。

 さて、信長がこれら内政に忙殺されていた天正十七年(1589年)の二月十日、朝廷よりの勅使が兵庫城を訪れた。信長の征夷大将軍就任を要請してきたのである。

 それを聞きつけた叔父の織田有楽斎がさっそく訪ねてきた。

「勅使がおいでになったそうな。これで天下の大将軍というわけでございますな。めでたい、めでたい」

 だが、信長は浮かぬ顔である。

「叔父上は呑気でよろしいな。征夷大将軍の位が、そんなに有り難いものとも思えませぬが」

「何を罰当たりなことを申される。朝廷からこんな名誉をいただけるのですぞ。位人臣を極めるとはまさにこのことではござらぬか」

「将軍の位など、何なら叔父上に差し上げてもよろしいが」

 あまり機嫌の良くない信長を前にして、有楽斎はすっかり肩すかしを食った恰好である。

 信長は、つまらなそうな顔をして鼻をほじった。

「わしが日頃お題目のように唱えている天下布武の意味が、叔父上には分っておられぬようですな」

「天下・・・布武・・・」

有楽斎は、うなるようにつぶやいた。

「武があまねく天下を布べる。そこには朝廷も寺社も入る余地はない」

 実は、朝廷からの任官の話は、何もその日が初めてではなかった。最初は今から六年以上も前、つまり本能寺の変の起こった日のちょうど一月前である。安土城にあった信長のもとに、武田氏平定の賀意を伝える勅使の差遣があった。

この時には、正親町天皇と皇太子誠仁親王から贈物と褒詞が届けられたが、この褒詞の中に、極めて重要なことが述べられていた。

それは、信長が望むなら「いか様の官」にも任命しようというものであった。「いか様の官」とはすなわち、太政大臣、関白、征夷大将軍のうちのいずれでもよいということである。

 しかし、信長はこの時即答を避けた。武田をいともたやすく滅した自信から、そう事を急いて話を進めることもないと思っていたのである。

 その後、本能寺の変により任官の話は沙汰止みになったが、信長が鳥羽伏見の戦いで明智光秀を破り、さらにその勢いで毛利氏を平定して奇跡的によみがえった時にも、再び朝廷から任官の話が持ち上がった。

だが、この時も信長は返答をしなかった。もはや、自分の実力で天下統一が果たせるという自信から、既成の権威に寄りすがる必要性を感じなくなっていたのである。

 朝廷は、その後も信長を何とか位階の枠組みの中に組み込もうとして、長曽我部征伐や島津征伐成功の機をとらえては、勅使を派遣して来た。

だが、信長はその度毎に断わっていた。

 そして今回まさに天下統一が完成したので、今度こそはと、朝廷も信長に最もふさわしいと思われる征夷大将軍への就任を求めてきたのである。

 だが、信長はまったく別の事を考えていた。彼は、今まで理不尽な中世の既成の勢力に対しては、徹底的に戦ってきた。軍事力と経済力を持った宗教勢力については、一向宗であろうと比叡山であろうと、また高野山、法華宗であろうと、徹底的に弾圧してきた。座によって守られた特権商人やそこから甘い汁を吸う寺社勢力に対しても、楽市楽座によって、その根を絶ってきた。

 信長の勢力がまだ弱小の頃は、朝廷の権威を大いに活用する必要があったが、天下統一が成った今、朝廷や公家の勢力はかえって目障りなものとなっていた。信長にとっては他の既成勢力と同様、抑圧すべき対象として目に写りはじめていたのである。

 兵庫城を訪れた勅使に対して、信長は別の話を持ち出した。

「将軍任官の話は相分り申した。考えておくことに致しましょう。それはそれでさておき、別の話でござるが、実は年号と暦を変えてはどうかと思っておりまする。天下の騒乱も治まったことでもござるし」

 暦の改訂と聞いて、勅旨の顔が一瞬にして蒼ざめた。

「そ、そのようなことを急に申されましても・・・。暫し時を頂戴致しませぬと・・・。持ち帰って相談を・・・」

 信長の提案は、天正十七年(1589年)三月一日をもって、今までの天正という年号を「安康」という年号に変え、ついでに閏月を一月入れるというものであった。

 これを聞いた朝廷方は、驚き、慌てふためいた。古来、暦の改訂権は天皇に属するものである。これを勝手に武家があやつることなど、かつて無いことであった。

 朝廷側は、何とか事を収めようと、再び信長へ書状をしたため、勅使に託した。

「改元につきましては天子様も是非にと申されております。ただし、安康ではなく、天保という年号はいかがでございましょうか。安康では、徳川家康殿の一字が入っているのもどうかと存じまするゆえ・・・」

 朝廷側も、自らの意思で改元したという形に持っていきたかったのである。

 だが、信長はこれに対し、露骨にいやな顔をした。

「国家安康を願って考えたもの。この信長は思慮が浅いと申されるか?」

「いやいや、そのような・・・」

 勅使たちは、しどろもどろである。信長はここぞとばかり、また話題を変えた。

「ところで帝はお元気でいらっしゃいますかな。もうかなりの年ですし、あまり無理をなさらぬ方が。親王も大きゅうなったことですし、どうでしょうかな」

 信長は、正親町天皇の譲位を暗にほのめかし始めた。

実は信長は、皇太子である誠仁(さねひと)親王の一子を自分の養子としていた。そのため、信長としては誠仁親王を即位させ、自ら天皇の父すなわち太上天皇となって朝廷勢力を牛耳ることをもくろんでいたのである。

 徹底的な賄賂攻勢で公家たちを籠絡し、誠仁親王のシンパを拡大していく一方で、天皇側への援助金を大幅に削減した。

「最近京では物盗りの類が増えていると聞き及んでおります。この信長、帝の護衛の兵を増やして差し上げようと存じまするが」

 護衛と言いながら、実質は監視である。

「い、いや、それは・・・」

 勅使は、言葉が出なかった。

 信長の圧力に抗し切れなくなった正親町天皇は、仕方無しに譲位することに意を決した。誠仁親王を天皇位に立てることで、信長との衝突を避けたのだ。また、年号と暦の改訂も朝廷側での追認という形で実施された。

 こうして思いのままに事を運んだ信長は、とどめとも言うべき大胆な策を実行に移した。

すなわち、新たな官職の創設を朝廷に奏上したのである。

それは信長の発案で「徳王」と名づけられ、太政大臣、関白、征夷大将軍をも超越する地位に位置付けられるものであった。

 もともと太政大臣は名誉職のようなものであり、政治的実権はなかった。また、関白は「諸臣の第一」に対して与えられる官職であり、天皇の命を受けて施政を行うものである。

さらに征夷大将軍に至っては、もとは陸奥の蝦夷征伐のために朝廷が臨時に派遣する軍隊の長を指したものであり、その意味で三官職とも天皇制の位階の秩序においては、当然天皇の下に位置付けられるものであった。

 それに比べ、「徳王」というのは、王という字が付いていることからも分るように、天皇と並列する性格を持つ官職であった。「徳王」は形骸化・象徴化した天皇に代わり、実質的に裁判権・立法権・行政権の全権を掌握し、日本国を統治する絶対君主を示す位といってよかった。もちろんその初代徳王には信長が就任するのである。

  朝廷側にはもはや信長の要求を拒絶する力は無かった。経済的、軍事的に封じ込められ、今、政治的にも弱体化させられようとしている。新天皇自体がかいらい化しているし、多くの公家たちも信長の巧みな賄賂工作により、骨抜きにされていたからである。

 信長は、さらに朝廷の権力を弱めようと、次の手を打った。

「神社の転地所替えに手を付けたいと存ずる。中小の神社の所領は入り組みすぎておる。各郡ごとに一つにまとめたらすっきりすると思うが、いかがでござろう」

信長は、朝廷の使者を呼びつけて、またも難題を突きつけた。

「な、なんと仰せられる。古代より連綿と続いた神の社を潰すことなど、とてもとても・・・」

 使者は絶句した。

「新嘗祭、大嘗祭などの祭祀も、もう少し簡略にしてもよろしかろう」

「そ、そのような罰当たりなことは・・・。祭事は一つ一つ大切なものでございます。祭を取りやめるなど・・・。と、とてもできませぬ」

「ほう、祭にも銭がかかりましょう。朝廷は懐に余裕がございまするな。わっはっは」

 信長は、皮肉も交えながら、朝廷側に対して強気の姿勢を崩さなかった。

 だが、こうした朝廷締め付け策はまもなく撤回せざるを得なくなる。信長を次々とテロが襲ったからである。

すぐに犯人を捕らえて、再三再四鋸引きの極刑に処するが、次々に命を惜しまぬ刺客が現れて、信長の命を狙った。

「どうしてじゃ。何故にこんなに天子に命を捧げる者どもが多いのじゃ。一向門徒よりもタチが悪いな」

 信長は、シンパの公家である山科言継に向かって、こぼした。

「宗教の力でございましょう。天皇は神として、一千年以上の歴史をこの国に刻んでおります。宗教の中の宗教、それが天皇の神道でございます。一向宗や法華宗などたかだか三百年、足元にも及びますまい」

「そうか。では、わしがたった今天皇になりかわり、神になろうと思うがどうじゃ」

「はあ、千年の時をこの一瞬に進ませる術をお持ちでしたら」

「ははは、分った。皮肉を申すな。天皇との共存を考えるしかあるまい。祭祀は今まで通りでよい。政治はわしが見る。それでよいな」

 天皇制自体の廃止まで考えていた信長であったが、天皇の潜在的な力を再認識し、対決を思い止まった。

 かつて、室町幕府三代将軍足利義満が、やはり同様の事を企てたことがあった。中国の明国皇帝から「日本国王」に任じられ、貿易を一手に独占したのを背景に、やはり天皇の外戚となり、祭祀権を乗っ取ろうとしたのである。

だが、この目論見は義満の突然の死によって実現することはなかった。

 さて、年号改まった安康元年(1589年)五月一日、信長は自ら徳王の位に就いた。信長五十六才の時のことであった。ここに、彼が言う天下布武がついに完成したのである。

 ところで、信長の徳王就位の知らせは世界に衝撃を与えた。一人の男が日本を統一したということだけではない。「徳王」という称号自体が大変挑戦的であったのだ。その理由は後々明らかとなるが、あえてこのタブーを破った信長は、この時既に世界をその視野にとらえていたのである。

(9)道州制

 信長は、兵庫城に叔父の織田有楽斎を招き、一枚の紙を手渡して見せた。

「これは組織図にございますな」

 徳王となった信長は、思い切った政治改革を断行した。信長が目指したのは中央集権的絶対王制である。

「おじき殿、どう思う。わしは、これまでの室町幕府のやり方は、すべて捨ててしまおうと思っておる。階層が多過ぎるでな」

「階層と申されますと、はて。室町幕府では、将軍の下に守護職がいて、さらに守護代がいてと、そういったことを申されておりまするか」

「ああ、その通りだ」

「なるほど。守護代の下にはさらに地頭がいて、徴税の権を握っておりますな。そのまた下には国人、地侍がいて、百姓を治めているとなると・・・。たしかに階層が多うございますな」

「ああ。だが、近頃では、実際に力を持っておるのは、末端の国人や地侍どもだ。こいつらが地方に根を下し、百姓たちをしっかりと押えておる」

「はあ。たしかに各地の戦国大名も、国人たちの連合の上に成り立っておりましたからのう」

「わしは、このような自立した地方領主の存在を認めぬ。すべて中央が地方の末端までを支配するのだ」

「と申されますと、農民からの税も、直接中央が徴収致しますか」

「そうだ。地方には、わしの息のかかった者たちを派遣して徴税の任に当たらせる。税は一旦中央に集め、地方の政に必要な分だけ、また配賦する」

「なるほど」

「地方領主は、一国の国守から郷村の役人に至るまで、転封、所替えを自在に行う。奴らを決して在地には根付かせない。どうじゃ」

「なるほどなるほど、それは大胆なお考え。しかし、そううまくいくものでございましょうか。日本国六十六州は広うございます。これを一つに束ねるのは容易なことではございますまい」

「そこでだ。全国を十の「道」に分け、道主を任命して配下の「州」を統括させることとしたい」

「ははあ、道と州でございますか。それがこの組織図でございますな」

 そう言って、有楽斎は声を出して読み上げていった。

・西海道九州

    九州とは、豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩

・南海道六州

    六州とは、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐

・山陽道七州

    七州とは、播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門

・山陰道九州

    九州とは、丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、美作、出雲、隠岐、石見

・畿内五州 

  五州とは、山城、大和、摂津、河内、和泉

・北陸道七州

   七州とは、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡

・東山道六州

    六州とは、近江、伊賀、美濃、飛騨、信濃、甲斐

・東海道七州

    七州とは、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆

・関東道八州

    八州とは、相模、武蔵、安房、上総、下総、上野、下野、常陸

・東北道七州

    七州とは、磐城、岩代、羽前、羽後、陸前、陸中、陸奥

「以上が十道でございますか。奥州を5つ、羽州を2つに分けておりますので、全部で六十六ではなく、えーと、七十一州でございますな」

「そうだ。それぞれの道の釣り合いは取れておろう」

「はい。ところで、道主の欄にまだ名前が入っておりませぬが」

「うむ。それをおじき殿と相談したい」

「はあ、誰をそれぞれの道主に任じるかでございますか・・・」

「うむ。まず西からいくか。九州道は羽柴秀吉だな。南海道も丹羽長秀で決まりだろう」

「御意」

「山陽道主には小早川隆景を任じようと思うがどうじゃ」

「はあ、毛利の陪臣とはまた意外な。思い切った人選でございますな」

信長は、隆景の優れた行政手腕を高く買っていた。そのため、お側に置くこと長きにわたり、この頃には、隆景は信長のブレーン的存在になっていたのである。

「山陰道主には羽柴秀長じゃ」

「はあ、秀吉殿の弟ですな。これもまた陪臣でございますな」

これも、毛利の支配下にあった山陰各国の経略に功のあった秀長の力を、信長が評価したものである。たとえ陪臣であろうと、実力のある者は取り上げるという信長らしさの表れであった。

「次に畿内であるが、ここは身内で固めるのが妥当であろう。次男の信雄、三男の信孝、どちらがよいかのう」

「さて、長幼の序から申せば、信雄殿でございましょうが、本能寺の変の際は・・・」

「うむ。そうだな。戦働きの違いから、やはり三男の信孝とせざるを得まい」

「はい」

「北陸道は柴田勝家、東山道は森長可の両重臣以外には考えられぬな」

「御意」

「さて、問題は東海道主だ」

「あれ、徳川家康殿ではございませぬのか」

「うーむ。奴は東海に深く根を下ろし過ぎておる。ここは尾張以来の直臣である池田恒興を任じたいと思う。徳川家康には、関東が代わりじゃ。どうかな」

「ほう」

「奴には、北条討伐の折りに、関東の三ヶ国を与える約束になっておる」

「たしか、そのうちの一国は、滝川一益殿に回すことになっておりましたな」

「そうだ。ならばいっそのこと、東海と関東を総入れ替えしてしまったらどうかのう」

「たしかに。家康殿は、信長様の古くからの同盟者とはいえ、一度は反したうえ、今でもあなどり難い力を有しておりますからな。東海から切り離すことによって、家康の力を削ぐことができましょう」

「うむ。そうだな」

「ということは、これは、転封、所替自在の初めの例でございますな」

「まあ、ちょっと大がかりすぎるがな」

「たしかに」

「さて、最後に残った東北道主だが。やはり、信雄かのう」

「はい。それがようございます」

「不肖の息子だが、捨ててはおけぬか」

「これで十州すべて揃いましたな」

「うむ。だが、あと二つある」

「と申しますと・・・。はあ、琉球とマカオでございますな」

「琉球の守は亀井茲矩じゃ。マカオの守は島津義弘でよかろう」

「では、全部で十二州でございますか」

「いや、この二つは別じゃ。これらは徳王の直属とする」

 こうして地方の支配体制を確立した信長は、中央においては勘定奉行、寺社奉行、文部奉行など十を越える奉行職を設け、松井友閑、石田三成をはじめ優秀な武将たちをこれらに当てた。

また、京都と兵庫には町奉行を置いて、市中の治安維持に当たらせた。

この他変わったところでは、茶の湯奉行なるものも設けられ、古田織部がこれに任じられた。織部はもともと美濃の戦国大名であったが、織部焼きといった古萩茶碗を作るなど、師匠である千利休とはまた一味違った茶の湯の造形を生み出した人物である。

 さて、このようにして、中央集権的絶対王政がアジアの東端に実現した。ヨーロッパにおいて絶対王権が現れるのは、はるか百年ほど後代のルイ十四世の時代である。信長の先駆的システムは、やがて世界に向けて力を及ぼしていくことになる。

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