第七章 膨張

 

(1)あざ笑う地球儀

「フロイスよ、わしは明国を平らげることが出来ると思うか?」

「明国・・征服・・でござりまするか?」

 信長は、南蛮の宣教師からもらった大地球儀を回しながら、何度も溜め息をついた。

「世界は広いのう。わしが日本を統一したと言っても、東の果ての、しかも、みみずが寝そべった様な小さな島国を治めているに過ぎぬではないか。それにひきかえ、支那大陸の広大なことよ。日本とは比べものにならん。フロイスよ、どう思う?」

「はい。今の徳王様のお力をもってすれば、かなわぬ事などござりましょうや」

「ははは、追従を申すな。わしの野望の無謀さを、この地球儀はあざ笑っておるぞ。フロイスよ、なぜこのわしが明国を征服せねばならないか、分るか?」

「はい。信長様こそが、世界の覇者にふさわしいお方だからでございます」

「ははは、本当に口がうまいな。もちろんわし一人の思いもある。だが、それだけではない。もっと大きな理由があるのだ。日本国全体のな」

 今の日本には、多大な危険を冒してまで大国と戦わなければならない社会的要因があったのだ。信長はそれを肌で感じていた。

 この数十年間、日本国内は戦いに明け暮れていた。人々は皆、少しでも多くの土地、少しでも多くの銭を求めるようになっていた。武士、商人、農民それぞれに激しい競争が行われ、それが社会の急速な発展につながっていった。

 ところが、信長の出現により、突然戦国時代は幕を閉じた。目の前から戦争が無くなってしまい、もはや奪い取る土地もない。その一方で、浪人となった武士たちは、いっせいに都市に流入したが、そうそうは働き所も無く、不満がうっ積していた。

 信長は、こうした浪人たちを海外貿易に従事させることで、そのエネルギーのはけ口としようと考えた。マカオを起点にして、台湾、ベトナム、ルソンとの交易に当たらせたのである。

 だが、それもすぐ限界に突き当たってしまった。東南アジアだけでは国内の旺盛な需要をカバーしきれなかったからである。膨大な市場を有する肝心の中国は、この時鎖国政策を採っていたため、巨大市場は閉ざされたままだったのである。

「徳王様は明国との自由な貿易をお望みでございますな。我らポルトガル人も明国との貿易拡大には難渋しておりますゆえ」

「うむ。その通りだ」

 当時の明国の貿易はあくまでも朝貢貿易であった。属国が、貢ぎ物を持参して挨拶にやってきた場合に、明国皇帝より中国の物産を下賜するという建前である。貿易は国家管理であり、自由な民間貿易は、密貿易として厳しい取り締まりの対象となった。

 だが、こうした世界の動きを無視した、中国の締め付け策が長続きするはずもない。やがて、これに武力で対抗する勢力が現れてくる。それが、すなわち倭寇である。倭寇とは、突き詰めて言えば、密貿易の一形態と言ってよいだろう。

 中国東南沿海に勃興した諸工業が産み出す製品のはけ口として、日本は最大の需要先だった。蘇州の絹織物、景徳鎮の陶磁器、遵化の鉄、宣城の紙等々である。

 逆に、日本からの漆器や砂糖は、中国側に大変喜ばれた。琉球特産の甘藷を原料にして作られた秘伝の金平糖は、どの港でも高値で取引された。もちろん、これらは密貿易なのだが、日本側、中国側とも、自由な貿易を望む商人の欲求は、膨れ上がるばかりであった。

 にもかかわらず、明国政府は、海禁政策をずっと続けていた。日本からの朝貢は十年に一回、しかも二隻二百人の乗員に制限したのだから、元々無理があった。江南の沿岸での密貿易は絶えることなく、倭寇と明国海軍との衝突は、これまでにも何回となく繰り返されてきた。

「フロイスよ、日本は、いや日本人は変わってしまった。このまま、明国が固い殻を閉ざしたままだと、日本は窒息してしまうのだ」

 広大な中国を征服することは無理だとしても、開国を迫り、対等な貿易を実現することは、成長を続ける日本にとって緊急の課題であった。

 先だって、信長は「徳王」を自ら名乗った。本来「王」とは、中国皇帝に対して臣下の礼を取った国の首長に与えられる称号である。古くは、有名な「漢倭奴国王の金印」をもらった奴国の王や、「親魏倭王」の称号を授かった邪馬台国の女王卑弥呼などがそうである。また、近い時代では、室町幕府の三代将軍足利義満が、「日本国王」として認められ、日明貿易という名の朝貢貿易の利権を手に入れている。

 つまり、中国皇帝の許し無くしては「王」と勝手に名乗ることはできないのだ。それをあえて無視した信長は、わざと中国皇帝を刺激して一悶着起こそうとしたのである。逆に言えば、中国に喧嘩が売れるだけ、日本国内の基盤が整ってきたというわけだ。

「フロイスよ、わしは必ず明国をひざまづかせてみせる。そうしたら、お前たち宣教師には、明国内のキリスト教布教を安堵しよう。楽しみに待っておれ」

「はは、信長様にイエス様の御加護のあらんことを。アーメン」

 フロイスが帰った後、信長は、瀬戸内の夕日を眺めながらゴロリと横になった。何度も繰り返してきたことではあるが、今一度明国に関する膨大な情報を頭の中で整理し始めた。

 信長は、五年ほど前から、つまり徳川家康との和解が成立した頃より、精力的に明国の情報を集めていた。家康が味方に付いた以上、天下統一は成ったも同然と考え、目を支那大陸に向け始めていたのである。

信長は、日本に出入りする明国の商人から情報を買い集めるとともに、明国宮廷にも間蝶(スパイ)を放って情報の入手に努めた。また同時に、マカオの守の島津義弘にも南支那の情勢を探らせていた。

  こうした努力の積み重ねにより、ようやくおぼろげながら明国の状況を掴めるようになってきた。

〈明国の国土は広大であるが、人口はそれほどでもない。日本の倍程度に過ぎぬようだ。これなら何とかなるな〉

 日本の人口は、検地と同期して実施した人掃(全国の家数と人数の調査)によって、およそ二千二百万人とわかっている。

これに対して、明国の人口はおよそ五千万人強である。それも60%が長江(楊子江)の下流域に集中している。もっともこれは、十年程前に明国政府が実施した丈量(国勢調査)による数字である。その後、明国では疫病が大流行して人口が激減し、現在では五千万人を下回っているのは間違い無い。人口に関しては、日本と明国では圧倒的と言える程の格差は無いのである。

〈だが、兵力の差がいま一つはっきりせぬな〉

 次に、最も知りたいところの軍事力であるが、これに関してはいろいろと手を尽くして情報を集めてはみたものの、確たる数字は得られなかった。王直の残党が、今でも松浦や五島列島に住みついているが、彼らからの情報では総兵力320万ということであった。王直とは半世紀ほど前に勇名をとどろかせた倭寇の親玉である。

 北京にいる親軍13万、南京応天府に10万、歩兵部隊13万、神枢という偵察部隊7万、神機という火器部隊7万の計50万が中心勢力である。この他に、地方に左右中前後の五軍が270万いて、総計320万である。

だが、これは中国側が流している情報であり、かなり割り引く必要があるだろう。王直たち倭寇も江南の一部の軍としか戦っていないので、中国全土の状況は掴んでいなかった。

 結局、総人口から考えて、おそらく明国の総兵力は百万人内外であろうと思われた。一方の日本の総動員兵力は約六十万人である。

〈多少の兵力不足は否めぬが、決して戦いを仕掛けて戦えない程の差ではなかろう。このくらいは、朝鮮や南海の国々を攻め従えて、その軍隊を徴用すれば、十分埋め合わせることが出来そうだな〉

 信長は、軍事力については必ずや明国と桔抗させることが出来ると考えていたが、彼を最も悩ませたのは、明国の持つ防御力であった。

〈問題は、城壁を破れるかどうかだな〉

明国の商人によれば、首都の北京は、周囲数十キロメートルにも及ぶ城壁に囲まれた威風堂々の城塞都市ということである。こうした城壁は何も首都北京に限ったことではなく、地方都市の西安や江陵などにおいても同様であった。

 日本の城郭はと言えば、急峻な山上を本丸として天守を築き、その回りには本丸の守りとして二ノ丸、三ノ丸等の曲輪が設けられる。そして周辺部には、ほとんど無防備の城下町が形成されるのが常であった。

 ところが中国では、古来より都市全体を城壁で囲むのが普通である。これは、北方異民族の侵入を絶え間なく受け続けてきた長い歴史があるからである。

 都市の周囲に城壁をめぐらせるのは、何も中国に限ったことではない。西アジアやヨーロッパでも普通に行われていることであり、むしろ日本だけが例外と言ってもよかった。

 日本において、わずかに城塞都市としてのおもむきを持つ例をあげるならば、それは小田原城であろう。小田原城は、日本の城郭としては唯一例外、商工業者の町屋や農地などをもその内部に有していたからである。

しかし、小田原城の惣構えは、空堀と土塁に守られただけの粗末なものである。それに引き換え、明国の城塞都市の城壁は、黄土を突き固めたきわめて強固な土壁であり、高さは十数mに及ぶものもざらである。さらに防水対策として表面を磚(せん)と呼ばれる煉瓦で被っており、堅固さは日本の土塁の比ではなかった。

〈小田原城でさえ攻略に一年も要するほど難渋したのに、まして堅い城壁に守られた明国の諸都市を攻略するのは、並大抵のことではあるまい。とても日本の城を攻めるようなやり方では、明国の城は落とせぬな〉

夕日が六甲の山並みにかかった。あと数分で沈むだろう。

〈いくら騎馬隊や鉄砲隊を集めても駄目だ。ここは是非とも大量の大砲が必要だな〉

 ここ兵庫城の天守から見えるのは、播磨、摂津、大和、淡路、阿波などたかだか数ヶ国に過ぎない。明国はずっと遠い西の果てにある。

〈わしは、とても叶うことの無い夢を見ているのではないのか?〉

  信長は、明国攻略の策を考えれば考えるほど、気持ちが萎えそうになってしまう。

 だが、それでもまったく好材料がないわけではなかった。それは明国の政治の大いなる乱れである。

 時の明国皇帝は神宗万歴帝だが、この万歴帝の治世は長かった。1573年、わずか十歳で即位して既に二十年以上が経つが、この十年ほどの間は、彼はただの一度も朝廷に出て政務を執ることがなかった。

政治には全く関心を示さず、官吏に欠員が生じても補充することもしなかった。補充すれば給料を払わねばならないため、金の出し惜しみをしたのである。そのかわりに、私事には湯水のように金を使った。姫妃たちには宝物を買いあさるがままにまかせ、自らも江西の陶磁器の収集に熱心であった。また、自分の墓作りにも惜しみなく金を使った。

かの有名な明の十三陵の中でも、最も壮麗な定陵こそ、この万歴帝の墓なのである。この地下宮殿には国家予算の三割にもあたる八十万両が投じられ、国家財政は危機に瀕した。

 このような皇帝のもとでは、宦官たちが権力を握り、政治はすべて賄賂(わいろ)で動くようになってくる。宦官の有力者は、独自の軍隊と秘密警察を使って人民を恐怖におとしいれ、重税を取り立てた。世には高利貸しがはびこり、土地や自分の娘までも売って身を立てる農民たちが続出した。政治は皇帝不在のもと、腐敗しきっていたのである。

 特に1596年に礦税(こうぜい)が復活してからは、目を覆うばかりの惨状に陥った。礦税とは、宦官が直接各地の鉱山などに出向いて徴税の任に当たるという制度である。宦官たちは金品を強奪して私腹を肥やすばかりであった。当然のことながら、こうした悪政は民衆の怨嗟の的となっていた。

 もちろん官僚の中には、このような汚職に対して厳罰で臨もうとするような改革者もあった。例えば、海瑞(かいずい)もその一人である。だが彼も、宦官たちの上疏にあって、権力の中枢につくことは出来なかった。

 その海瑞も万歴十五年(1587年)になって七十五歳の生涯を閉じると、宦官たちは一層派閥抗争に明け暮れることとなり、政治は乱れに乱れていったのである。

  信長は、明の宮廷内で手なずけた間蝶から、こうした内情を聞かされ続けていた。

〈もしかすると、明国攻略もあながち無謀なことではないかもしれぬな〉

 彼は、二千両もの大金を支払って明国の地方軍官から入手した支那大陸の詳細な地図を手元に開いた。

〈広い。広すぎる〉

 首都北京の北方に延々と連なる万里の長城、うねるように滔滔と流れる黄河と楊子江の二大大河、そして唐代に築かれたという北京と杭州を結ぶ総延長一千八百キロメートルにも及ぶ京抗大運河、そのどれをとっても大明国の雄大さを物語るものばかりであった。

〈果して、明国を征服することが出来ようか?〉

 信長の気持ちは揺れ動いた。

〈いや、待てよ。かつてジンギスカン率いるモンゴル軍団が、この地を一世紀にわたって支配したではないか〉

 信長は、モンゴル帝国の最大版図を扇子の先で地図上に追った。

〈わずか二十万人の軍隊しか持たぬモンゴル人が、何故このように優秀な漢民族を足下にひざまずかせることが出来たのであろうか?〉

 ジンギスカンは、常に六、七頭の替え馬を引き連れて、モンゴル草原から支那大陸にかけて疾駆したと伝えられている。

〈モンゴル軍団の強さはその騎馬による機動力にあったのではないか。千里の道も数日にして駆けつけることの出来た機動性こそが、小よく豪を制した秘訣ではないのか〉

だが、残念ながら日本には優良な騎馬が存しない。

〈日本の馬は小柄で、長距離の行軍には適さぬな〉

 信長は、再度明国の地図をにらんだ。北京、開封、西安、蘇州、抗州、寧波、南京、重慶等々、明の大都市のほとんどは、黄河、楊子江の二大大河と、北京抗州を結ぶ大運河の流域に存在している。

〈やはり、この手しかないな〉

 信長は、何年も前から出来上がっている構想をもう一度確かめるように大きく頷いた。

 

(2)イントラムロス要塞

「利休よ。そろそろヒトデ退治をせねばならぬな」

「はい。左様でございますな」

 信長は、堺の商人千利休と羽柴秀吉の両名を兵庫に招いて、茶の湯を楽しんでいた。

「利休殿、ヒトデとは何のことでござるか? 兵庫の港にヒトデが大発生でも致しましたか?」

 秀吉がキョトンとした顔をして尋ねた。

「ルソンのことでござりますよ、秀吉殿。ルソンにはヒトデの形をした大きな城があるのでござります。わははは」

 信長と利休は、顔を合わせて大笑いをした。

 信長は、ルソンにいるスペインのマニラ総督に宛てて、書状を出し続けていた。その内容というのは、謝罪使を日本に派遣すべしというものである。

 天正十年(1582年)、すなわち本能寺の変があったちょうどその年、スペイン軍はマニラ北方にあった倭寇の根拠地を攻めた。激戦ではあったが、倭寇は敗れ去り、そのため、日本人はルソンから一掃されてしまったのである。信長は、このことを商人から聞いて、これを利用しようと考えたのだ。

「ヒトデとは小琉球のことでございましたか。しかし、なぜ、今さら・・・」

「十年も前の出来事を、何故今頃になって、わしが蒸し返したのか、解せぬというのじゃな」

「はあ、小琉球でございましょう・・・」

日本人は、ルソンのことを小琉球と呼び慣わしていた。琉球国よりも小ぶりな国と見なしていたのである。

「ルソンなどいつでも取れると申すか」

「はい。それよりも、この秀吉は早く明国に攻め掛かりとうございます」

「お前は相変わらず気が早いな。しかし、支那は広いぞ。どうやって平均するのだ?」

「それは・・・その・・・」

 秀吉は、急な問いに対し、答に詰まった。

「船でございますな」

 千利休が間髪を入れずに答えた。

「うむ。さすが利休だな」

 広大な明国を征服するには、機動力が必要である。だが、日本はモンゴル軍団のような優秀な馬を有しない。では、どうするか?

 信長は、船がこれに代わると考えていた。大型火砲を装備した大船団を組織すれば、明国を攻略できるに違いない。幸いにして鉄船を建造するための材料となる鉄は、刀狩りによって十分に集められている。

「だが、船だけあっても駄目だ。船を操る技も必要じゃ。秀吉よ、お前の水軍の力が通用すると思うてか?」

「もちろんでございます」

「さて、どうかな。内海の船戦しかやったことがない者が大半であろう。海軍と言うより水軍だ。大海を渡り、大河をさかのぼって明の都まで攻め込むことが果してできるかな?」

「それは・・・」

 秀吉は、またまた言葉に詰まった。

「秀吉殿、まずはルソンで試し戦をなさいませ。それが上策でございますよ」

 利休はそう言って、懐からマニラの大地図を取り出した。

「小琉球ごとき、この秀吉が一気に攻めつぶして参りましょう」

「いや、そう簡単にいくかな。ヒトデは固い殻をもっておるでな」

 スペイン人が築いた星形の城塞を、信長はヒトデと呼び慣わしていた。

「城壁を破壊するための大砲は、堺でぎょうさんこしらえておりまする。これを船に据え付けて下さりませ。明国の都も固い城壁で囲まれていると聞き及んでおります。さすれば、これも足慣らしになりますな」

「うむ。それがよい。」

 ずっと考え込んでいる秀吉に対し、信長は利休の策を勧めた。

「ということは、堺の大砲を買えと申すのだな。利休も商売がうまいな。まあよい。先だって全国の大名に一千隻の大船の建造を命じておいたが、既に百五十隻ほどが出来上がっておる。これに大砲を載せて送り込むこととするか」

「毎度ありがとうございます。しかして兵はいかがいたしますか?」

「五万もあれば十分であろう。マカオにも島津義弘と松浦隆信の兵五千がおるからな。これもマニラ攻めに合流させよう」

「それがよろしゅうございますな」

「秀吉、それでよいか?」

「はあ・・・」

「なんだ。あまり気が進まぬようだな」

「ルソンなど取っても余り手柄にはなりませぬ。それよりも早く明国を・・・」

「秀吉よ、なぜわしがマニラを重く見ているか、その訳が分らぬようじゃな。マニラを取ることは世界を取ることだ。利休は分るか?」

「はい。銭の戦でございますな」

「そうだ。さすがに利休は商人だな。分ったか、秀吉」

「銭の戦・・・?」

「お前は盛んに中国を攻めたがっておるが、なぜ中国が世界の頂点に君臨し続けてきたか分るか?」

「さて・・・」

 ただ、軍事力増強のための踏み石ということでは、別にルソンを攻めなくてもよいのだが、信長にはもっと欲しいものがあった。それは、経済的信用である。

 中国が何世紀にもわたって世界に覇を唱えているのは、軍事力もさることながら、圧倒的な経済力がバックにあったからである。中国銭がアジア世界で唯一の流通貨幣となっているのもそのためである。現在で言えば、ドルが世界の基軸通貨になっているのと同じことである。

 ところが、中国がずっと支配してきた東アジア経済に、昨今日本が割り込んでいった。日本人商人たちによる貿易が急拡大し、取引量では中国商人をしのぐほどになった。だが、決済に使われるのは相も変わらず明銭だけであり、しかも絶対量が不足していた。

こうした背景から、日本人商人たちの間からは、日本独自の通貨の新設が熱望されていたのだ。急速に上昇した日本経済の信用をバックに、貨幣を大量に鋳造するのである。

「分りました、親方様。明国の源は銭の力、そういうことでございますな。しかし、銭とマニラがどう結びつくのでございますか?」

「うむ。それはな。スペイン人の持つ金銀の精錬の技だ」

 日本が明国に取って代わろうというならば、明銭に代わる独自の通貨を流通させねばならない。幸い、日本には優良な金銀銅山がたくさんある。しかし、精錬法が貧弱なため、なかなか産金が上がっていなかった。

 ところが、先日バリニャーノが漏らしたことによると、スペイン人は水銀アマルガム法という最先端の技術によって、メキシコで大量の銀を取り出しているという。

 水銀アマルガム法というのは、金銀の精錬法のことであり、当時としては世界で最先端の技術であった。水銀は金や銀を吸着する性質があり、後で水銀だけを蒸発させることによって、純度の高い金銀を取り出すことができるのである。これはスペインがノビスパニア(メキシコ)で実用化した技術であり、銀を大量に産出する日本としては、どうしても手に入れておきたいものであった。

「お前の役目は、金銀の精錬の技を持ち帰ることだ。分ったな」

「ははあ。かしこまってございます」

 信長は、秀吉に半年分の兵糧と黄金一千枚を付けて、マニラ攻めの命を発した。時に安康三年(1591年)十月のことであった。

 さて、信長の謝罪要求に対して、スペインのマニラ総督からは相変わらずのなしのつぶてであった。信長はその後も二度ほど脅迫状とも言える書状を発したが、やはり同じように反応は無かった。

 実はこの時、マニラ総督ペニアロサは、日本人の侵攻を畏怖しながらも、これに屈することなく、迎え撃つ準備を着々と進めていたのである。それは、一つはルソンにおけるフィリピン原住民の完全支配による足元の強化であり、いま一つは難攻不落の城塞を構築することであった。

 スペイン人は、信長がマニラ遠征を決意した安康三年(1591年)の時点で、既にフィリピン全諸島のうち、南部のごく一部の島を除くおよそ80%の地域と六十六万人の人民をその支配下に置いていた。マニラ総督は、強大な富と権力を手にするようになり、ついにはスペイン本国の指示に服することなく、独自の意思決定ができるまでになっていた。

 ぺニアロサは、こうした力の充足を背景に、大要塞の構築に取り掛かった。現在マニラ総督府を置いているパシグ川南側の高台を、周囲四キロメートルにわたって強固な城壁で囲ったのである。そして要所要所には砲台を築き、合計三百門の大砲で固めることによって、何者も近づくことを許さない一大要塞に仕上げたのであった。城壁の形は、防御に適した星型の六角形とし、城壁の高さは二十五フィート(約八メートル)にそろえられた。

 この大要塞都市は、その後イントラムロスと名づけられることとなった。スペイン語で「城壁の中」という意味である。そして内部には兵士五千人が駐屯するとともに、さらに武装した三万人の市民が居住するようになっていた。

 このようにして、未開な東洋の熱帯の島国ルソンに、突如として巨大な城塞都市が出現したのである。もちろん、こうしたマニラの様子は、朱印船の商人たちから何一つ漏らすことなく信長のもとへ届けられていた。

 さて、羽柴秀吉はさっそく陣ぶれを発し、九州から精鋭五万を徴用した。これを百五十隻の戦艦に分乗させ、翌安康四年(1592年)一月初め、薩摩の坊ノ津を立って一路マカオを目指した。

 折からの強い北風に乗って、大船団は二十日足らずでマカオに到着することができた。

「島津殿、松浦殿、お久しゅうござる。思ったよりもマカオは近いのう」

「はい、羽柴殿、いや西海道主様。ようこそおいで下さりました。船旅はいかがでございましたか」

島津義弘と松浦隆信が、港にて秀吉を出迎えた。

「おう、ほとんど揺れなかったぞ。すこぶる元気じゃ。ところでマニラ攻略の策は出来上っておろうな。手際よく片づけて、早く親方様に御報告したいからのう」

 秀吉は、休む間もなくすぐにマカオを出港した。彼は、マニラなど一ひねりで陥せるとタカをくくっていたのである。

 翌安康四年(1592年)一月二十五日、大艦隊はマニラ湾に入った。湾口には、スペイン人たちがコレヒドールと名づけていた小島がある。マニラを一大貿易港にしたのもこの島が風よけ、波よけになるからであった。

 日本軍はこの島を占領した後、湾内に侵入した。そしてマニラのすぐ沖に百五十隻の戦艦を横一列に並べて威嚇する形を取った。

「どうじゃ。スペイン人どもは震えておろうな」

 秀吉は、すぐに降伏を勧告する使者をマニラ総督のもとに送った。

 しかし、マニラ総督からは、またも降伏拒絶の返事がよこされた。ペニアロサの跡を継いだマニラ総督ダスマリニアスは、空前絶後の大艦隊の出現に戦慄したものの、ペニアロサの築いたイントラムロスの堅固さに賭け、徹底抗戦する道を選んだのである。

「どうしても一戦交えたいのだな。では目にもの見せてくれよう。者ども、ぬかるな」

 秀吉は即座に総攻撃の命令を発した。船団は徐々にイントラムロスとの間合いを詰め、射程距離に入るや砲撃を開始しようとした。

 とその時、イントラムロスの砲門が一斉に開いた。たちまちに先頭を行く数隻の船が被弾した。日本側も負けずに大砲を放つ。

 が、届かない。敵は高台から撃って来るが、こちらは海面から上に向かって打ち上げなければならない。しかも艦砲は、大砲を打ったときの反動の力が海に逃げるため、固定してある陸砲と比べて飛距離が落ちるのである。日本の大砲はスペインのそれと比べても決してひけを取るものではなかったが、地の利の差でどうすることもできなかった。

「何だ。利休の大砲は役立たずではないか。誰ぞや、河をのぼって上から撃ち込んで参れ」

 秀吉の命令に従い、城の背後の山側に回るべく、パシグ川に突撃する船も幾隻かあったが、皆イントラムロスの砲台の餌食となった。

 と言うのも、河の最も狭まった部分にはペニアロサが最も力を注いで構築したサンチャゴの砦があり、大砲が集中的に配備されていたからである。

 たちまちにして味方の船五隻が撃沈されてしまった。パシグ川への侵入は諦めざるを得なかった。

「攻撃は中止だ」

 大艦隊を率いて勇躍マニラに乗り込んでは来たものの、味方の損害が増えるばかりで、イントラムロスにはまったく打撃を与えることができなかった。

秀吉は、海からの攻撃を諦め、一旦全軍をコレヒドール島に引き上げさせた。そこで作戦の立て直しを図ることとしたのである。

「島津殿、何か良い知恵はござらぬかな? そなたは先年マカオを陥落させておろう」

「いえ、あの時はこんなに堅固な城はござりませなんだ。屋久杉を沈めて湾を封鎖致しましたら、すぐ和睦に至りましたゆえ」

「ここは海側を封鎖しても、せんないだろう。河を使って上流からいくらでも補給がきくからな」

「海から近づけぬとなると、策を切り替えざるを得ませぬな」

 松浦隆信が、秀吉の顔を覗き込んで言った。

「うむ。ひとまずマニラの南のパサイに上陸しよう。そこから陸路北上してイントラムロスを包囲してはどうか」

 翌早朝、再び船団の半分をマニラ沖に展開し、敵の目をそちらに向けさせている間に、四万の本隊はパサイに上陸を敢行した。敵の主力はほとんど全員イントラムロスの中に籠っているとみえて、上陸時には抵抗らしい抵抗も無かった。

 秀吉軍は、その日のうちに包囲を完了した。

「井楼を立てよ」

城壁の回りにはおびただしい数の井楼が並んだ。竹の梯子(はしご)も数千本が用意され、突撃の準備に入った。

大砲で城壁を崩せない以上、圧倒的な人数にものをいわせて、人海戦術で次々に城壁を乗り越えようというのである。

「全員、突撃」

よく早暁、ついに秀吉の攻撃命令が下された。

「井楼の鉄砲隊は、味方を援護せよ」

雄叫びをあげて城壁に取り付こうとする日本軍に対して、スペイン側はすさまじい数の大砲と銃による砲火で対抗した。

 日本軍は、うんかのごとく城に押し寄せるものの、かなりの人数の兵士が、城壁にたどり着く前に敵の銃弾によって倒された。運良く城壁に取り付いて梯子を掛けることができた者たちも、梯子を登る途中で、やはり敵の狙い撃ちにあって城壁を越えることができなかった。

星型の六角形に作られた城壁は、城に取り付く敵兵を背後から狙うことができるため、何処にも死角が無かったのである。

 日本軍は半日にわたって攻めたてたものの、敵方の厚い防御に阻まれて、ついに城内になだれ込むことはできなかった。

「退け退け。退却の法螺貝を吹け」

 秀吉は、仕方なしに攻撃の中止を命じた。このまま攻撃を続けても、味方の損害が増えるばかりで、効果は無いと判断したのである。

この日の攻撃で日本軍の死者は千人に及び、負傷者はとても数え切れないほどであった。それに対して、スペイン側の死傷者は数えるほどに過ぎなかった。日本軍の惨敗といってよかった。

次の日は、双方とも睨み合ったまま、時が過ぎていった。日本側としても手の出しようがなかったのである。攻めの糸口が見い出せないまま、その日も暮れようとしていた。

「あまりにも日本の城と勝手が違っておる」

 秀吉は、まばゆいばかりのマニラ湾の夕日を眺めながら、大きな溜め息をついた。

「海上には味方の大砲がそれこそ無数といっていいほどある。それなのに、まったく何の役にも立っておらぬではないか」

「はあ」

 島津義弘と松浦隆信が、力なくうなだれた。

「もし、船に取り付けてある大砲を取り外すことができて、この場にもって来られるならば、どんなに楽な戦ができることであろうか。まったくもって口惜しいことよの」

 艦砲は船端に固定されていて、取り外すことはできなかった。たとえ外せても、それを据え付ける台が無かった。大砲の発射の反動を受け止めるためには、それなりのしっかりした土台が必要である。

 だが、この時の秀吉の嘆息は、将来に対しては決して無駄にはならなかった。これが教訓となり、それ以後日本で建造される船には可搬式大砲、すなわち取り外しが可能な大砲が装備されることになったからである。艦砲がいつでも野戦砲に変身できるようになり、その後の戦で大いに威力を発揮したのである。

 さて、イントラムロス攻略に難渋し、窮地に立たされた秀吉ではあったが、ことここに至って、日本で彼が得意としていた戦法を思い出した。

「もぐら攻めを試してみるか」

 もぐら攻めとは、地下坑道つまりトンネルを掘って敵の城内に侵入するという戦法である。この戦法を最も得意とした戦国武将は、甲斐の武田信玄である。もちろん、秀吉もいくつかの攻城戦で用いたことがあった。

 彼は、さっそく六ヶ所から同時に坑道を掘らせた。最短距離を進むため、すべてイントラムロスの六角形の角(つの)の部分を目指したのは言うまでもない。

 だが、この作戦は失敗に終った。すぐに大量の水が湧いてきて掘り進むことができなくなったからである。

「無念だ。河口に近い地形を考えれば、水が出るのも当然じゃ。もともと無理な策だったというわけか」

「殿、では逆に水を利用したらいかがでございましょう」

 軍師の黒田官兵衛が大声を上げた。

「高松城水攻めか。だが、ここでは水は貯まらぬ。みな海に流れてしまうではないか」

「ですから、海側に土嚢を積み上げて堤を築くのでございます。これから春になれば、この地方は雨の季節に入りますゆえ、試してみてはいかがかと存じます」

「うむ、そうだな。よし、それに賭けてみるか」

 二ヶ月後、すべての築堤が完成した。時に三月も終ろうとしていた。何とか間に合ったと秀吉はひとまず安堵した。

大雨の降った日の翌日を選んで、すぐに堰き止めておいた河の水を一気に流した。

 土石流がイントラムロスの壁にぶち当たる。星形のため、窪んだところに水流が集まり、十mを越える高波となって場内に達した。津波と同じ原理である。完璧な防御力を誇った星形城郭であったが、水の前には逆にそれが命取りになった。

 スペイン軍は突然の洪水に驚愕し、パニック状態となった。一刻もしないうちに背丈を超える泥水が城内に充満し、溺れる者も数知れなかった。

「すぐに降伏の使いを送れ。さもないと、全滅するぞ」

 ダスマリニアスはたまらず、白旗を掲げた。

ここに鉄壁を誇ったイントラムロスも落城し、日本軍の制圧するところとなった。

 降伏の条件は、次の二つであった。一つは、提督ダスマリニアスの死と引き替えにマニラ市民を助けること。それともう一つは、もちろん水銀アマルガム法の伝授であった。

 秀吉は、マニラ総督ダスマリニアスを磔(はりつけ)の刑に処し、残りのスペイン人兵士たちは全員捕虜とした。

そして、元のマカオの守である島津義弘を新たにマニラの守に任じ、ルソン全土の検地・刀狩を命じた。なお、マカオの守の後任には松浦隆信が指名された。これらの人事は、もちろん信長から前もって委任されていたことである。

 ダスマリニアスは、スペイン本国に応援の依頼を何度となく繰り返していた。だが、ついに援軍は来なかった。地元ヨーロッパで、イギリスやオランダと争っていたスペインには、遠い極東に兵を割く余力が無かったのである。

1588年(すなわちこの度のマニラ侵攻の四年前)には、スペインの誇る無敵艦隊アルマダが、新興国イギリスの艦隊に大敗してしまっていた。世界の半分を所有したスペイン帝国の栄光も、この時期を境にして急坂を転げ落ちるように色あせ始め、没落の一途をたどることになった。

こうした歴史の大きな流れの中で、マニラは見殺しにされたといってもいいかもしれない。ダスマリニアスにとっては、まことにもって無念の事であったに違いない。

 マニラを手中にした信長は、ポルトガルの領有するマラッカにも、降伏を強要する書状を書き送った。

マニラでのスペイン人たちの惨状を耳にしていたポルトガル人たちは、インドにおけるポルトガルの基地であるゴアに向け、先を争って撤退していった。信長は、まったく無抵抗でマラッカを手にすることができたのである。

 ここに、東南アジアにおけるスペイン、ポルトガルの勢力は一掃され、この地域の貿易は完全に日本の独占するところとなった。

 秀吉は、意気揚々と日本への帰り支度を整えていた。ところが、ちょうどそこへ信長から発っせられた書状が届いた。それは、今しばらくマニラで待機するようにとの命令であった。この急な知らせは何らかの異変を示唆していた。

 

(3)蝦夷一千万石

「それがし津軽為信、ただいま蝦夷から帰って参りました。六年の歳月を費やしましたが、何とか徳王様の御命令を全うすることができましてござりまする」

 陸奥の武将津軽為信は、いま兵庫城の大広間で信長と対面していた。

「そうか。為信、でかしたぞ。さぞかし苦労したことであろう。まずは酒でも呑みながら、ゆっくりと話を聞かせてもらおう」

 そう言って、信長は為信を近くに呼び寄せた。

 津軽為信が、小田原の役を免除された代わりに、蝦夷の平定とさらにその北方の探検を信長から命じられたことは前に述べた。彼はその特命を完遂し、今日兵庫城にやってきたのである。

 為信は、去る天正十五年(1587年)十一月に命を受けると、すぐに津軽にとって返し、北方探検の準備に入った。

「なにも殿自らが行かれなくても、私目が参ります」

 津軽家家老の木造平左右衛門が、必死の面持ちで思い止まらせようとした。

「いや、信長様はこの為信に御命令なさった。信長様の御気性を存じておろう。わしが行かねばならぬのだ。心配は無用じゃ。生きのいい若者を供に連れて行くので、選んでおいてくれ」

 何しろ未知の極寒の地を初めて訪れるのである。為信は、まず百人程度の少人数で探検隊を組織し、蝦夷の様子を探ることにした。

  翌天正十六年(1588年)四月、北国に遅い春が訪れた。為信はそれを待ちかねたように、勇躍津軽海峡を渡った。

 初めに上陸したのは蝦夷南端の松前である。ここには蛎崎(かきざき)氏が何代か前から住みついており、このあたりのアイヌ人を従えていた。蛎崎氏は、もともと中世の北奥州を支配していた安東氏の一代官であったが、戦国時代の中頃に一族で蝦夷に移住したのである。

「織田信長様により、蝦夷地の平均をゆだねられた津軽為信である。以後、蝦夷地案内の役目を与えるゆえ、忠勤を励むように」

 そう言って、為信が信長の命令状を高々と掲げると、当主の蛎崎右京は平伏してこれに答えた。日本海交易を盛んに行っていた蛎崎氏のもとには、日本各地の情報が集まっており、信長の威光に従う他に道はないということを右京はよくわかっていた。

  為信は、蛎崎氏の家来を先導役とし、雪もすっかり解けた五月の初めに松前を発った。アイヌ人も五十人ほど探検隊に加えて、総勢百五十人となった

そして、渡島半島の日本海側を北上すること十日余りで、余市に到着した。ここにはアイヌの大集落があり、一つの国を形成していた。首長のシャクシャインは、天塩・宗谷・利尻等の日本海沿岸のアイヌ人たちを統率していた。

為信は、持参した漆器や米を手土産としてシャクシャインに渡した。優美な絵付けがほどこされた日本の漆器は、アイヌ人たちの憧れの的であった。また、米も蝦夷では産しないため、彼らにとっては大変貴重な品物と言ってよかった。

この思わぬ贈物をシャクシャインは大いに喜んだ。不意の客に対して、彼は鮭の薫製や熊の肉などのご馳走で盛大にもてなした。

この時、為信は、アイヌ人が戦闘を好まぬ平和的な民族であることを知って、大いに安堵したものである。

 十日ほど余市に滞在した後、為信一行は、今度は東へ向い、石狩平野を目指すことにした。そこにもアイヌの大集落があると聞いたからである。

 実際、十七世紀末の蝦夷には、五つのアイヌ人の集団(国といってもいいであろう)があった。

一つは、先ほどの余市を中心とした日本海沿岸系アイヌである。二つ目は、これから訪れようとしている石狩アイヌであり、石狩川筋をその根拠地としていた。後の三つは、内浦湾沿岸地帯の内浦アイヌ、日高地方を中心とする日高アイヌ、そして釧路・十勝・厚岸を勢力範囲とする釧路アイヌである。

  為信一行はその年、余市アイヌ、石狩アイヌそして日高アイヌを次々に訪問し、友好を確立していった。

 そうこうしているうちに季節は夏を過ぎ、秋が目前に迫ってきた。一行は蝦夷で冬を越すかどうか迷っていた。

「さして寒くはないな。これなら津軽の冬と同じではないか。食料もまだたくさん残っている。ここで冬を越すと致すか」

 為信は、蝦夷地で越冬することに気持ちが傾きかけていたが、地元アイヌの一言で考えを変えた。

「食料よりも燃料の方が問題でございます。この地では、何日も吹雪が続くことがしょっちゅうでございます。薪の蓄えが相当ないと凍えてしまいます」

「そうか。そこまでは思い及ばなんだ。ならば津軽へ帰るか。お役目も順調に行っていることだし、皆も家族の顔が見たいであろう」

 為信の決定に、一同は安堵の表情を露わにした。

 彼の判断の裏には、日高地方の太平洋沿岸に、様似(さまに)という良港があるのを発見していたこともあった。というのも、次の年からは松前に寄らずに直接様似まで船で行って、そこから探検が再開できるからである。

 翌天正十七年(1589年)四月、為信は、人数も倍の二百人に増やし、再び竜飛(たっぴ)岬を発った。そして、その日の夕刻、日高の様似の港に上陸した。

この航海は意外と楽なものであった。というのも、津軽海峡を西から東に向かって流れる強い海流に乗れば、自然に様似に流れ着くからである。前年に一行は、様似周辺の地形を目に焼き付けてから津軽に帰ったので、この年、沿岸を探し回る必要は全くなかった。

  探検隊一行は、襟裳岬を回って十勝平野に入った。そこは釧路アイヌの勢力範囲である。

初夏の蝦夷地を吹き抜ける風は頬に心地よく、足取りも軽かった。色とりどりに咲き乱れる湿原の草花も、皆の目を十分に楽しませた。

 ところが、晴やかな気分はそう長続きはしなかった。すぐに一行は思いもかけぬ事態に直面することになる。

帯広を経て、釧路アイヌの中心地である釧路一帯に差し掛かると、多くのアイヌ人たちの難民に遭遇した。

「いったい何があったのだ」

 為信が、同行している日高アイヌの通訳に尋ねさせると、難民たちは一様に敵が攻めてきたと言うばかりである。

「アイヌ人は戦をせぬと申したではないか。これはどういうことだ」

 為信は、お供の日高アイヌを詰問した。

「いえ、アイヌ同士の戦ではありませぬ。どうも異なる民族が北からやってきたようでございます」

「北からやってきたと? 蝦夷地の北にはさらに国があるのか?」

「はい。蝦夷地よりも広大な国があるそうでございます」

「そうか。とにかくここでは様子がよく分らぬ。先を急ごう」

 釧路の中心地に近づけば近づくほど、難民の数が増してきた。一行は用心しながらも、なおも前進した。

 やがて釧路川の川岸に達すると、はるか前方の小高い岡の上で、大規模な戦闘が繰り広げられているのが目に入った。その岡は遠矢(とうや)と呼ばれる地であり、釧路アイヌの首長が籠るチャシ(アイヌの砦)が築かれていた。

そのチャシを、海獣の毛皮に身を包んだ異人たちが取り囲んで、盛んに弓矢を射かけていた。その数およそ三千である。

 実は、この時チャシを囲んでいたのは、クルムセ人という、オホーツクを本拠とする北方の異民族であった。クルムセ人は、シベリア大陸東部からオホーツク海を南下して千島を次々と占領していった。最後に国後(くなしり)に至ると、ここでさらに軍備を整え、大挙して蝦夷本土の侵略にとりかかったのである。

 まず根室に上陸し、そこに橋頭堡を築くと、シベリア本国から有力な援軍を得て、さらに進んで釧路国内に侵入した。霧多布(きりたっぷ)、厚岸(あっけし)と陥しいれ、そしてついに釧路の中心部、遠矢に軍を進めたのであった。

 釧路アイヌ側は、カニキラウコロエカシが総大将になり、遠矢チャシに籠って防戦に努めていた。

為信一行が釧路を訪れたのは、まさにそんな時であった。

「あの黒いのは何者だ」

 為信は、避難民の首領とおぼしき長老をつかまえて尋ねた。

「北の民でございます。黒いのはアザラシの毛皮を着ているためでございます」

「アザラシとは海の獣か? 我らとはだいぶ習俗が違うようだな」

「はい。我々アイヌが山や川の恵みで生きているように、彼らもアザラシ、トド、ラッコなどの海の恵みで生活しております」

「それがなぜアイヌを攻めているのだ」

「はい。寒くなると、海をだんだん南下して来て、この地で乱暴を働きます」

「しかし、北には広大な土地があると言ったではないか」

「いえ、広いと言っても、極寒の不毛の大地でございます。彼らも生きるためには蝦夷の豊富な海の幸に頼らざるを得ないのでございましょう。今では、蝦夷の東海岸沿岸にあいつらが多数住みついて、我らを追い出してしまいました」

「それは、気の毒なことだが・・・」

「どうか、仲間たちをお助け下さい。お願いいたします」

 同行のアイヌ人たちが為信にすがった。為信も何とかアイヌを救けたかったが、なにせこちらは二百人足らずの少勢である。武器も鉄砲がわずか二十挺ばかりあるだけであった。下手に敵を刺激して、こちらに攻撃の目を向けられてはたまったものではない。

そこで為信は、ここは一旦津軽にとって返し、軍勢をまとめてから再び釧路に出直すこととした。

  一行は足早にもと来た道を引き返し、様似に係留しておいた船に乗り込んで竜飛を目指した。

しかし、帰りの航海は往きとは違って大いに難渋した。というのも、西から東に向かって流れる海流に逆行して進まなくてはならないのに、うまく東風が吹いてくれなかったためである。

 やっとのことで一行が津軽に着いたときには、既に秋も深まり、十月も半ばを過ぎようとしていた。やがて雪も降り出すであろう。為信は仕方なく、その年の出陣を諦めた。

 翌安康二年(1590年)四月、津軽為信は満を持して、精鋭三千とともに津軽を出発した。

 だがこの時、蝦夷地の様相は前年とは一変していた。釧路アイヌは、内部での仲間割れからクルムセ軍に屈してしまっていたのである。

釧路勢の中で、かねてよりカニキラウコロエカシの風下に立つことをいさぎよしとしないモイナイ一族が裏切って、クルムセ軍を暗夜に乗じて遠矢チャシに招き入れてしまったのである。そのため、あっという間にチャシは陥落してしまった。為信一行が釧路を去ったすぐ後のことであった。

 釧路を制圧したクルムセ軍は、勢いに乗って日高アイヌ、石狩アイヌを次々と屈服させ、その年の暮れには内浦アイヌに迫ろうとしていた。

蝦夷地はクルムセ人によって蹂躙されていたのである。彼らは日頃から大型海獣を獲るために弓矢の技術を発達させていた。また、カヌーのような小型船を多数持っており、操船技術も優れていた。

様似に上陸した為信軍は、すぐにクルムセ軍を追った。この時、クルムセ軍の本隊は、内浦アイヌの本拠地である長万部(おしゃまんべ)の国縫(くんぬい)チャシを攻めていた。

 為信は長万部に到着すると、クルムセ軍の背後に軍勢を展開した。そして鉄砲隊を前面に押し出すや、一斉射撃に移った。

五百挺の鉄砲が一時に咆哮すると、クルムセ軍は度肝を抜かれてしまった。彼らはその時まで鉄砲の存在を知らなかったのである。そのため、初めて聞くその轟音と、一瞬にして人間を殺傷する威力に圧倒されてしまった。

「どうだ。思い知ったか。これが鉄砲というものだ。よく見ておけ」

 為信は得意絶頂である。クルムセ軍は算を乱して撤退していった。為信軍はこれを追撃し、数百の首を召し捕るなど、はなばなしい戦果を上げることができた。

一時は蝦夷地の大半を制圧し、日の出の勢いだったクルムセ人も、所詮、鉄砲という最新兵器を有する日本軍の敵ではなかったのである。

 クルムセ軍は各地の軍勢を撤収し、釧路、根室を経て、ついに蝦夷本土を脱出して国後(クナシリ)島まで落ちのびていった。

「津軽為信様、この御恩は決して忘れませぬ」

 クルムセ人の占領下から解放された各地のアイヌ人たちは、喜びで一杯であった。彼らは津軽為信の来援に感謝し、以後彼に臣従することを誓った。為信はアイヌの危難を見事に救うことによって、蝦夷五ヶ国を完全に支配下に組み入れることに成功したのである。

 為信は、このチャンスをさらに広げようと考えた。

「よし、追い討ちをかけるぞ」

為信とアイヌの連合軍は、クルムセ軍を追って、千島を北上した。

「船を根室に集結させよ。国後を目指すぞ」

 すると、大艦隊が目前に迫ってくるのを見て取ったクルムセ人たちは恐れをなして、隣の択捉(エトロフ)島に引き上げていった。

 連合軍はなおも追及の手をゆるめなかった。クルムセ軍は、千島列島沿いに北へ北へと逃げ延び、得撫(ウルップ)島、新知(シンシル)島、捨子古丹(シャスコタン)島、幌延(パラムシル)島を次々に放棄した。

そしてついには千島列島北端の占守(シュムシュ)島まで見捨てて、カムサスカ半島を経由して本国のオホーツクへと引き上げていってしまったのである。

「よし、ここに城を築くぞ」

 為信は、カムサスカ半島の南端に大規模なチャシを構築して、そこを北の防衛拠点とした。そして彼は、そこに一部の津軽兵と多くのアイヌ兵を残置し、さらに北方の調査を継続させることとした。

  蝦夷と千島・カムサスカを押えた為信は、翌安康三年(1591年)、今度は樺太(からふと)アイヌを従えるべく、稚内を発った。

「蝦夷島の北にさらに大きな国があるという。皆の者、こちらにも行ってみようではないか」

蝦夷島の北にさらに大きな半島(実は島であったことが後になってわかる)があり、そこにもアイヌが居住していることを、日本海沿岸を活動している余市アイヌから聞いていたからである。

 為信は、余市アイヌの船頭を水先案内人にして、宗谷海峡を渡って樺太の大泊(オオトマリ)に至った。為信は、先年のクルムセ人のこともあって、念のために五百人の鉄砲隊を従えていったのだが、まったくの杞憂に終った。余市アイヌの首長の口添えもあって、次々に為信に服していったからである。

樺太アイヌは、もともと十五世紀の初め頃より明の奴児干(ヌルカン)都司に朝貢していたが、明の支配はそれほど強いものではなく、むしろクルムセ人を排除した津軽為信の方を頼る道を選んだのである。

 この年、樺太のほぼ中ほどにある敷香(シスカ)にまで到達して、南樺太は完全に為信の支配下に入った。

 実はこれより先の北樺太にはアイヌ人はほとんど住んでいなかった。そこは大陸系の北方民族であるギリヤーク人の住む世界だったのである。

「よし、ここが蝦夷国の北の果てだな。ここにも城を構えようぞ」

 為信は、敷香に基地を設けると、自身はそこに留まった。だが、さらに北方の調査は続けることにした。

「森蔵よ。済まぬが、さらにこれより北の探検調査を続けてはくれまいか。兵百を付けるので、北の果てを見てきてもらいたい」

部下の間宮森蔵は、翌年には樺太の北端に達し、樺太が大陸と地続きの半島ではなく、独立した島であることを確認した。そして、樺太と大陸とを隔てる海峡を、自分の名前を取って間宮海峡と命名したのである。

間宮森蔵は、凍結した海峡を歩いて渡り、さらにアムール川をさかのぼって明の奴児干都司に至った。

 そこで、彼は明の役人に大変なもてなしを受けた。森蔵が筆談で交渉しようとすると、漢字を書ける人物がやってきたということで、都司の中が大騒ぎとなった。当時、漢字を扱える人間というのは、明でも上級官僚に限られていた。そのため、相当位の高い使節が東の国からやって来たと思われたのである。

 森蔵は、大量の錦の織物をみやげにもらい、帰国の途に着いた。もちろん、定期的な交易を約束してきたのは言うまでもない。

 翌年も森蔵は奴児干都司を訪れたが、前年とは様子が違って少し妙なことになっていた。明の役人に代わってオランカイの兵士が交易所を取り仕切っていたのである。オランカイとは満州人のことである。

だが、彼らも日本との交易には積極的であり、以後も毎年、米、毛皮と絹織物の中継交易が続けられることとなった。

  さて、森蔵からの報告を受けた津軽為信は、大満足であった。

「よし、これで一応の区切りがついたな。信長様にも大きな顔で御報告ができる。津軽に帰ろうぞ」

五回にも及ぶ北方遠征で、彼はアイヌ人の居住する蝦夷、千島、カムサスカ、樺太をその支配下に置くことに成功した。

 さて信長は、以上のような話を兵庫城で津軽為信から聞かされて、満面に笑みを浮かべた。

「そうか、明国と交易の取り決めまでして参ったか。それは上々」

「はい。ただ一つ気になることがございます。間宮森蔵の話ですと、今年奴児干都司を訪れた際には、明の役人が消えていたということでございます。代わりにオランカイの兵士が交易を仕切っていたそうでございます」

「オランカイとは何だ」

「満州族の国でございます。朝鮮のさらに北にある国が、東に勢力を伸ばしてきたものと存じます」

「そうか、まあ明国でもオランカイでも、交易ができるならどちらでもよい。それより為信よ、よくぞ一千万石の領地をぶんどって参ったな。誉めてとらすぞ。お前を蝦夷の守に任じよう。今日からは織田家の重臣の一人じゃ」

「はは、ありがたき幸せ。さりながら一千万石というのは、ちと話が大きすぎまする。蝦夷は極寒の地でありますれば、米は一粒も取れませぬ」

「いや、一千万石じゃ。分っておらぬようじゃな。わっはっはっは」

 今回の北方平定に関して、何よりも信長を喜ばせたのは、北の国の豊富な漁業資源が手に入ることであった。蝦夷、千島、カムサスカ、樺太のいずれも、鮭(さけ)・鱒(ます)・鯡(にしん)・鱈(たら)などの魚が、それこそ無尽蔵に獲れた。

 これらは、そのまま食料にするというよりも、むしろ油を抜いた後に干されて肥料となり、威力を発揮した。この肥料は、木綿や菜種などの商品作物はもちろんのこと、米の栽培にも使用されて収穫高を飛躍的に高めた。後に言うところの農業革命の始まりである。

 蝦夷自体には米の産出はない。しかし、その魚肥で本土の米の生産性を倍増させることによって、新たに一千万石の領地を拡大したにも等しい価値を生み出した。その意味で、北方領土の獲得は、単に版図の拡大にとどまらず、その後の日本の繁栄を根底から支える礎(いしずえ)を成すものと言えた。

  なお、後日談になるが、カムサスカに残した津軽兵とアイヌの部隊の子孫は、カムサスカの原住民であるカムチャダールを征服した後、百年余りを要してシベリア大陸を西進し、ついにウラル山脈にまで到達した。そこで、ロシアのピュートル大帝の派遣したコサック部隊と衝突し、やっと西進は止まったが、日本は広大なシベリアをも領有することとなったのである。

 また、一部の者たちはカムサスカ半島の東側に点々と連なる島々(これらの島々は竜の背のように連なっているため、亜竜山(アリュウシャン)列島と名づけられた)を伝わって、約五十年後にはアメリカ大陸の北端であるアラスカにたどり着いた。

 アラスカには日本の多くの冒険家や商人たちが渡っていった。中には、出羽の国は酒田の商人、笛屋番楠のように、金山を堀り当てて一夜で財を成す者まで現れた。金山の発見はゴールドラッシュを呼び、やがて町が形成されていったが、人々はこの町を、発見者の名前を取ってフェアバンクスと呼ぶようになった。

  このようにして約百年後、日本は、ユーラシア、アメリカ両大陸にまたがる世界最大の領土を有する帝国として世界に君臨することとなる。

 

(4)カリマンタン海峡の決戦

 かつて、世界を東西に二分して支配していた、スペインとポルトガル両国の凋落ぶりはまったく目を覆うばかりであった。スペインの無敵艦隊アルマダの敗北による制海権の喪失は、貿易の巨大な利権の消滅を意味していた。

また、ポルトガルも、もともと全土の人口がたったの百五十万人と、日本の一割にも満たない小さな国であったため、栄光を長続きさせることができなかった。

 これら二国に替わって台頭してきたのが、イギリスとオランダである。イギリスは、1588年スペインの無敵艦隊アルマダを破って、一躍脚光を浴びるようになった。イギリスの女王エリザベスなどは、ドレークら無頼の者どもを多数登用して、海賊行為をさかんに奨励していた。

 ただイギリスの場合、この時はまだ女王の私兵が単に暴れ回っているだけであり、中央集権的国家体制が十分確立していたとは言えない。その意味でイギリスは、まだ急にのし上がってきた一新興国に過ぎなかった。

 ところが、一方のオランダは、1581年(日本で言えば本能寺の変の前年)にスペインからの独立を果して、はなはだ意気盛んであった。

 オランダ人は、高度に組織化された商業資本を後ろ楯に、次第にスペイン・ポルトガルを凌駕するようになっていった。そして、この両国をヨーロッパ海域から駆逐し、覇権を確立するようになると、次第にアジアにも触手を伸ばすようになっていった。目的はスパイスすなわち香料の取得であった。

 この当時、スパイスは、肉の防腐剤として、また疫病の薬としてヨーロッパでは大変珍重されていた。スパイスはそれと同じ重さの金と交換されたと言うくらいである。

 スパイスには、クローブ(ちょうじ)とナツメグ(にくずく)の二種類があるが、前者はインドネシアのモルッカ諸島で、また後者も同じくインドネシアのバンダ諸島で産する。ともに世界で唯一その地でしか採れないものである。

 十六世紀の初頭、これらの島の覇権をめぐって、スペイン、ポルトガル、オランダの三国が激しいつばぜりあいを演じた。しかし、最終的にオランダがこの争いに勝利し、スパイスの独占権を確立することとなった。オランダはこれを直接ヨーロッパに運び、莫大な利益を得るようになっていった。

 オランダはこの香料貿易の中継港として、インドネシアのジャワ島に拠点を設けるべく、候補地を物色していた。当時、中部ジャワから東部ジャワにかけてはイスラム国家であるマタラム王国が、その王パネムバハン・セナパティ・インガラガを戴いて強大な勢力を誇っていた。

そこで、オランダはこれを避けて西部ジャワのバダビヤ(現在のジャカルタ)に目を付け、そこにロジ(商館兼要塞)を築いて根拠とした。

 こうしたオランダの強引なやり方に対し、反抗する土着の支配者たちも当然のこととして現れた。スラウェシ島のマカッサル王国の王スルタン・アラウディンもその一人である。彼は、オランダの香料貿易独占規制を無視して、ピニシ(インドネシア特有の船)を操ってゲリラ的に独自の貿易を行ったりした。

 こうした動きに対しては、オランダは力で対抗することとし、毎年艦隊を派遣していたが、1595年(安康六年)にはそれまでにはない六十五隻という大艦隊を派遣してきた。

 これは、スペイン・ポルトガルの去った今、単に香料のヨーロッパ直接貿易にとどまらず、さらに東アジア域内での絹織物や獣皮などの中継貿易、すなわち日本や中国を相手とした三角貿易にも乗り出そうという思惑があったためである。苦労してはるばるヨーロッパまで品物を運ぶよりも、東アジア域内に閉じて中継貿易を行う方が、はるかに利を生んだのである。

 この大艦隊が、インド洋を越えて東アジア地域に入ると、至るところで日本の朱印船と遭遇した。日本からの大量の銀やめずらしい工芸品を満載した朱印船は、はるばる海を越えてやってきた異邦人にとっては、まさに宝の山が目の前に現れたようなものであった。当然のこととして、オランダ艦隊はこれらをことごとく襲い、積み荷を略奪していった。

 ほうほうの体で日本に逃げ帰った朱印船の商人たちは、この事を信長に報告した。

「オランダは新しく興った国のため、まだ東南アジアの勢力関係をよく分っておらぬのです。スペイン、ポルトガル両国は、マカオやルソンで日本に痛い目にあっており、朱印船に手を出すようなことはなかったのですが」

次々と兵庫城にやってきては、惨状を語る商人たちに対して、信長は次のように答えて商人たちの怒りを静めた。

「海賊行為は、倭寇のお家芸と思っていたが、オランダ人もするのか。この東アジアの海で乱暴狼藉とはふとどき千万じゃ。スペイン、ポルトガルと同じように、すぐに懲らしめてやるから安心せい」

 信長は、使者をルソンにいる羽柴秀吉のもとへ送って、断固これに対処させることとした。

「何としてもこのオランダ艦隊を叩いておかねばならぬ。東アジアにおける制海権が崩れると、日本の貿易の独占が脅かされるからな」

彼は羽柴秀吉に対し、ルソン遠征軍の全勢力を当てて、オランダ艦隊を殲滅するように命じた。

 さて一方のオランダの大艦隊であるが、こちらはベンガル湾を越えて東アジア海域に入ると、真っ先に喉から手の出るほど欲しかったマラッカの占領を試みた。

マラッカは、マレー半島のほぼ中間の狭い海峡を扼する位置にあり、まさに交通の要衝である。中継貿易の確立を目指すオランダとしては、東アジアにおける拠点として、どうしても手に入れておかなければならない場所の一つと言えた。

 この時、マラッカを守備していたのは加藤清正である。彼は西海道肥後守でもあったが、羽柴秀吉のマニラ攻めに従軍し、マニラ攻略に大いなる活躍をした。

そしてその後、ポルトガル人たちが逃げ去った後のマラッカの守りを、配下の兵五千とともに命じられていたのである。

 マラッカにはポルトガル人が築いた要塞があり、清正は無傷でそれを手に入れることができたが、備え付けられていた大砲その他の兵器はすべて持ち去られていた。そのため、急遽日本から大砲を取り寄せ、設置する工事を進めていた。

そんな時にオランダの大艦隊が攻め寄せてきたのである。時に、安康八年(1596年)二月のことであった。

 オランダの大艦隊はさんざん艦砲射撃を行った後、マラッカ近郊に上陸し、要塞に攻めかかった。その数およそ一万である。

オランダ軍は昼夜を分かたず、重火砲で攻めたてたが、勇猛果敢な清正軍もこれをよく凌いで要塞を守り通した。

ポルトガル人が城壁を破壊せずにそのままにして立ち去ったことも、日本軍にとっては幸いした。堅い城壁をオランダ軍は攻め破ることができなかったからである。

 一ヶ月の戦闘の後、ついにオランダ軍はマラッカ奪取を諦めた。日本側の勝利である。

仕方なく、オランダ大艦隊はモルッカ諸島に向けて再び出発した。香料を積み込んでヨーロッパに持ち帰るためである。

 さて、信長からオランダの大艦隊を退治するように命じられた羽柴秀吉であったが、相前後してマラッカの加藤清正からも救援依頼の急使船がやってきていた。

秀吉は、留守部隊として一万人を残し、ただちにマラッカ救済のための船団を組んでルソンを出発した。総勢四万人、百五十隻を越える大船団である。

 秀吉はジャワ島に沿って西進し、やがてマレー半島とボルネオ島を隔てるカリマンタン海峡に差し掛かった。ここで船団は大きく旋回してマラッカ海峡に向かうのである。

 ところがちょうどその時、船首楼で見張りに立っていた水兵が叫んだ。

「はるか前方に船影が見えるぞ。三本マストの大船じゃ。その数は一つ二つ、いやもっとたくさんだ」

 大船の船影はたちまち数十に膨れ上がった。

実はこの時、マラッカ攻略を断念してモルッカ諸島に向かう途中のオランダ艦隊も、マラッカ海峡を抜けてカリマンタン海峡に入ろうとしていたのである。図らずも、オランダ、日本両国主力の鉢合わせとなった。

「慌てるでない。飛んで火に入る夏の虫じゃ。よいか、敵を押し包んでしまうのだ」

 船櫓の上から秀吉が号令をかける。それを通信兵が手旗を振り、次々と後続の大安宅船に伝えていく。

 オランダ艦隊を発見した日本の艦隊は、右旋回を中止し、まっすぐ進んでオランダ艦隊の進行路の前に立ちはだかるように船団を展開した。一列縦隊でやって来るオランダの艦隊を包み込むような配置である。野戦に例えるならば、鶴翼の陣といったおもむきである。

 急に目の前に無数の大船の群れを見いだしたオランダ軍は、まさに度肝を抜かれた。しかし、そこはヨーロッパで無敵を誇ったオランダ艦隊である。臆せずに大砲を放ちながら強行突破を図ってきた。両軍は互いに大砲を撃ちながら間合いを狭めていった。

「ほほう、敵も大型ぞろいだな。相手にとって不足はない」

 秀吉は武者震いを二回した。オランダの船は、どれも皆アフリカ南端の難所喜望峰を越えてやってきた超大型船ぞろいである。大きいものでは二千トンを越えるものもあった。

日本の船も二百挺櫓という大型船ではあったが、オランダの船と比べると、一回り小さい感じがした。しかし、数の上では日本が倍以上と断然上回っているし、兵員も日本側は満載していた。

あたり一面に硝煙が充満し、一寸先も見えなくなってきた。日本船は、船と船とがともに綱で引き合い、離れ離れにならないように工夫している。

 戦いは砲撃戦からやがて接近戦へと移り変わっていった。何しろ六十五隻と百五十隻の大艦隊どうしの戦闘である。たちまち双方が入り乱れての乱戦となり、下手に大砲を撃つと、味方の船に命中する恐れが出てきた。

「大砲撃ち方止め。敵の船に斬り込め」

 秀吉の号令一下、日本の船は相手の船に近づき、鎖鈎を投げては敵船の船端に引っかけて、これを引き寄せた。そして接舷するや、日本兵たちは叫声を上げて次々に敵船に乗り移っていった。

 白兵戦となれば日本軍のものである。戦国乱世で鍛えぬかれた日本兵の刀さばきと、日本刀のあざやかな切れ味は、次第にオランダ軍を圧倒していった。

 一刻余り経過しても戦闘は続けられていたが、接舷戦になると四万対一万の兵力差がものをいうようになり、オランダ船のうちの何隻かが日本軍によって乗っ取られるようになった。

その数は次第に増え、ついに半数を越えるようになった。

ここにきてついにオランダ軍は白旗を掲げざるを得なくなった。

「者ども、よくやった。鬨の声を上げよ。エイエイオー、エイエイオー」

 オランダ艦隊のうちで、沈没した船は二十隻、それ以外はすべて日本軍によって拿捕された。一方の日本軍の損失は沈没した船が二隻のみであった。

また、死傷者はオランダの二千人に対して、日本側は五百人であった。世界の覇権を争う上で、天下分け目とも言えるカリマンタン海峡の大海戦は、こうして日本軍の圧倒的勝利に終ったのである。

 秀吉は、拿捕したオランダ船をマニラまで曳航していった。このオランダ船およびオランダ人捕虜たちは、その後日本の東アジア艦隊に組み込まれることとなる。

 

(5)日本東インド会社

 オランダ艦隊が、東アジアの海から消え去った今、ヨーロッパ勢力はインドのゴア以西に駆逐され、東アジア貿易は再び日本の独壇場となった。オランダの有していた香料貿易の利権も日本に帰属することとなり、オランダの中継基地としてジャワ島のバダビヤにあったロジ(商館)も日本が接収した。

 日本東アジア艦隊はルソン島のマニラを母港とし、定期的にマカオ、ホイアン、モルッカ、バダビヤ、プノンペン、アユタヤ、マラッカ、ペグーなどの主要都市を巡回していた。各地に停泊している船の数も、すべて合わせると軽く三百隻を越えるまでになっていた。

 また、それらの地域に駐留している兵士の数も日本人だけでも十万を下らなかった。さらに、日本の支配下にある現地人の兵士の数も含めると二十万近くにもなった。ほとんどが金で雇った者どもである。彼らは普段は漕ぎ手として、あるいは商人として貿易に従事しているが、いざという時には戦働きをするのである。

 この地域での軍事的安定の確立により、朱印船貿易は年々活況を呈すようになっていった。当然のことながら、巨万の富を蓄える商人たちも少なからず現れてくる。

 こうした商人たちの成功物語を耳にして、他の中小商人たちもこれに参加しようと、ぞくぞくと兵庫にやってきた。信長から朱印状を得るためである。そしてついには、商人たちだけではなく、公家・寺社までもが、船をしつらえて朱印船貿易に乗り出そうとし始めた。

 だが、信長はこうした朱印船貿易に対する過熱ぶりを憂慮した。商人はともかく、商売にはしろうとの公家や寺社が参入することには反対であった。

「衆生を救うべき僧侶や神官が、その本分を忘れて商業に手を出すなど、もってのほかだで」

 信長は、朱印船貿易を専門の商人に任せながら、何とかその富の独占を排し、広く一般大衆にも利得の機会を与える方法はないものかと思案した。

そこで、千利休を呼び出して、策を考えることとした。

「利休よ。何か良き智恵はないか?」

「左様ですな。貿易の利権を小口化して売り出してみたらいかがでっしゃろか」

「どういう思い付きじゃ。もう少し詳しく話してみい」

「はい。例えば、銭一万貫の元手で一航海を行い、もろもろの諸費用を差し引いて、三千貫の利益が出せたと致します。この時、元手の一万貫を百貫文ずつ小口に分割して百人の人間に出させ、出した分に見合う配当として三十貫文ずつを支払うということでございます」

「ほう、そういうことか。百貫文なら庶民でも出せる金だな。ふむ、おもしろい。しかし、船が沈没したらどうする」

「はい。船が難破して全てが無に帰した場合には、出した百貫文は捨て金となって、本人には返って来ませぬ」

「なるほど。儲けるためには危ない橋を渡らねばならぬということか。わかった。面白い。よし、やろう」

 この小口化した百貫文のことを「株」と呼び、株を売り出す元の組織を「会社」と名づけた。世界初の「株式会社」の誕生である。

 大商人たちは、こぞって株式会社を設立した。信長の勧めもあったが、商人たちにとっても、リスクが分散されること、また広く市中から資金を調達できることなどのメリットがあったからである。

株式会社は、たちまちにして数十も誕生した。それらの会社群は、総称して「日本東インド会社」と呼ばれた。

 日本東インド会社の発足により、朱印船貿易はますます盛んとなり、貿易船の数もそれまでと比べて倍増するほどであった。

 一方、小口化された株は、一般町人や武士でも手が出せるようになり、株を買うことで容易に朱印船貿易に参加できることとなったのである。

 数多く売り出された株の中でも、経営管理のしっかりした近江商人の設立した会社の株には、とりわけ人気が集まった。そのうちに、こうした人気の高い株にはプレミアムが付いて、額面では買えなくなっていった。

 やがて、人気株を所有している者の中には、プレミアム付きの値段ならば他人に売ってもいいという者が現れてくる。株が人から人へと売買されるようになっていったのである。そうなると、株の売買を媒介し、株の円滑な流通を図る機関を設立する必要が出てきた。

  信長はこれに応えるために、国営の株式市場(株の取引所)を作った。初めは兵庫に、やがて堺、博多、平戸など日本全国に設立していった。

この株式市場では、町人や武士、さらには裕福な農民までもが、株の売買を活発に行った。そのため、その取引手数料は信長政権の台所をおおいに潤すことになった。

 信長の発案した株式会社制度は、日本史上、いや世界史上革命的なことであった。その後、株式会社制度は朱印船貿易に限らず、日本国内の商工業にも適用されていった。また、オランダ、イギリス、フランスなどの西洋諸国もこれを模倣して、株式会社を盛んに設立するようになっていった。信長は、世界に先駆けて近代資本主義社会の幕を開けたのである。

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