11.あの人も心の病だった

 11.2夏目漱石

 漱石は、ロンドン留学時の孤独感からノイローゼになった、と言われることが多いが、そうではない。もっと重篤な病だったようだ。そのことがわかるのが、松岡譲が著した「漱石の思ひで」である。

 松岡譲は、漱石の門人であり、漱石の長女とも結婚している。「漱石の思ひで」は、小説というよりも、むしろドキュメンタリーと言った方がよいだろう。漱石の死後、鏡子夫人から聞き取った、岳父漱石の生き様を時系列にまとめたものである。いわば、「未亡人の思い出」だ。その中で、彼は、漱石の精神病のことも包み隠さず記述している。

 それによると、病気が最もひどかったのは、漱石37歳の頃、三女が生まれる前後のことである。漱石の癇癪がひどかったため、夫人は、2人の子供を連れて実家に避難している。その時の記述を、著書から拾ってみよう(・・・は中略)。

・一九 別居(P115

 かかりつけ医からは、

 「ただの神経衰弱ぢやないやうだ。・・・精神病の一種ぢやあるまいか。」

 と言われた。

 そこで、専門医に診てもらうと、

 「あゝいふ病気は一生なほり切るということがないものだ。」

 と見放されてしまった。当時、精神病のような難病には、有効な治療法がなかったのだろう。

 この時、病気ならばと、夫人の腹が決まったようだ。親戚からは離縁を勧められたようだが、彼女は、漱石を一生支える覚悟を決めた、と述べている。

 さて、病気の実態がわかる記述が、この次の2つの章にあるので、さらに引用する。

・二〇 小刀細工(P119

 「自分の頭の中でいろいろ創作して、私などが言わないことが耳に聞こえて・・・井上眼科で見初めた女の方の母親が、相も変わらずまわしものをしてゐる・・・」

・二一 離縁の手紙(P127

 「此頃は何かに追跡でもされている気持ちなのかそれとも脅かされるのか、妙に頭が興奮状態になってゐて、夜中によく眠れないらしいのです。」

 これらの記述からわかるのは、漱石は、「追跡妄想」に悩まされていたということである。これが、漱石の病気の正体だった。女性(それも中年の)に後をつけられている、という妄想が、漱石の頭を支配していた。幻影による、得も言われぬ不安が、女房子供への癇癪・暴言につながっていたのだろう。

 だが、次の二二章のタイトルが「小康」となっているので、病気は長くは続かなかったようだ。この頃から、漱石は、著作に励むようになる。翌年、38歳の時のことが、次の章に記されている。

・二四 猫の話(P147

 「此の年の暮頃からどう気が向いたものか、突然物を書き始めました。・・・書き出せばほとんど一気呵成に続けざまに書いたやうです。」

 このことは、私にはよくわかる。私も、鬱病の時は、アイデアが次々と湧いてくるのを実感できた。逆に、病気が寛解に向かうと、途端に書けなくなった。鬱病には、凄いパワーがある。

 漱石は、翌39歳の時、「吾輩は猫である」を発表し、一躍世間の人気を得る。以後、50歳時の未完の「明暗」まで、ヒット作を次々と量産した。漱石が活躍したのは、意外にも、わずか10年ほどの期間だった。

 漱石にとって、小説を書くことは、精神病と戦う手段だったのだと思う。物語という「妄想」を創造することで、現実の「追跡妄想」と対峙していたのだ。

 だが、小康状態を保っていた漱石の病は、47歳の時に再発することになる。そのことは、後の章に記述されている。

・五一 二度目の危機(P309

 「又も例の頭がひどくなって参りました。丁度この前に一番ひどかった時から十年目にあたります。」

 奇妙な符合だが、私の鬱病も10年サイクルだ。人体のバイオリズムといったものが関係しているのだろうか。

 漱石は、その後まもなく50歳で亡くなる。胃潰瘍の出血が直接の原因だが、精神病により、免疫力が落ちていたこともあるだろう。

 もし、漱石が長生きしていたら、もっと傑作をものしていただろうか? ifの設問に対する答えは難しいものがある。精神病との兼ね合いがあるからだ。

 ともあれ、漱石を知ったことで、私は生きる指針を得た。大文豪には及びもつかぬが、モノを書くことで鬱病と戦う決意を固めた。

次章 11.3空海

ホームに戻る