5.鬱病を発症する−30代

 5.1大型受注で表彰される

 入社して10数年後、私は、営業部門の係長として、部下2名とともに民間企業向けシステムを販売していた。

 たまたま、ある自動車メーカーへの会計システムの提案がうまくいき、採用されることになった。総額40億円、4年がかりの大型案件で、開発フェーズは3つに分かれていた。設計(1年)、1期工事(2年)、2期工事(1年)である。ただし、契約できたのは、設計フェーズの2億円のみであった。それでも、もし、ここでユーザの高評価を得られれば、後のフェーズも受注できる公算は大であった。

 40億円というビッグプロジェクトは、官公庁や銀行を相手にする他の事業部では、それほど珍しいことではなかったが、民間企業相手の当事業部では、かつてないことであった。私は、この功績で、事業部長表彰を受けた。また、課長にも抜擢され、引き続き、システムの設計を担当することになった。

 当時、仕事を取って来るのは営業の仕事、後は開発部門が引き継ぐ、というのが、当社でも、また、他のメーカーでも一般的であった。だが、営業成績を上げたいがために、ユーザの無理な要求(価格・納期)を呑みがちな営業部門と、こんな厳しい条件では受けられないという開発部門とが、しょっちゅう衝突していた。

 こうした問題に対応するため、私の上司だったやり手部長は、「製販一体」というスローガンを打ち出していた。自分で販売し、自分で製造する。口で言うのは簡単だが、実行は極めて難しい。例えれば、メジャーリーグに行った大谷翔平選手の二刀流のようなものだ。投手としても、また、打者としても一流という、ごく一握りの天才のみができることである。当時、「製販一体」を実現していた組織は、当社はもちろん、他社でもなかったと思う。

 だが、この時の私は、身の程知らずにも全能感に包まれていた。というのも、次のような出来事があったからだ。

 本社の係長を集めての副社長訓示があったのだが、その際、会社への意見をA4用紙1枚に書いて提出するよう指示があった。多くの係長が、「現場に来て実態を見てくれ。」というようなことを殴り書きで出す中、私は、当時出始めたばかりのワープロを使って、ぎっしりと思いを書き込んだ。会社の将来のあり方、幹部としての責任など、当時巷で話題となっていたホロニックマネジメントを引き合いにして、持論を展開した。極めて生意気なレポートだったと思う。

 研修センタの講堂で訓示が始まった。副社長は、往きのハイヤーの中で、全員の意見書に目を通したと言った。その後、私のレポートについて、丸々1時間話し続け、講話を終えた。それは、私個人の問題意識に対する、副社長の回答であった。他の係長たちは、何の話かよくわからなかったのではなかろうか。だが、私は、感動のあまり、目が潤んでいた。

 その後、予定通り、1年でシステムの設計書を仕上げ、ユーザからは高い評価を得た。思惑通り、1期工事の受注も果たした。本格的開発に当たっては、事業部を上げての体制作りが急がれるところであったが、なかなか人は集まらなかった。

 ある日の飲み会で、隣りの部署の50代の部長に、次のように言われたことがある。

「このプロジェクトは、きっとうまくいかないよ。こんな大規模システムを手掛けた経験はないし、だからノウハウもない。手を引いた方がいいよ。」

 これに対して、私は、次のように答えたことを覚えている。

「ノウハウがなければ、勉強しながらやればいいじゃないですか。今までもそうやって来ました。」

 すると、ベテラン部長は、

「めくら蛇に怖じず、だね。」

 と言って、苦笑した。

 この後、事態は、まさに彼の予言通りになる。

次章 5.2プロジェクトが行き詰まる

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