5.5自宅療養は辛いよ
−親も女房も冷たい
精神病院を退院して家に戻ったが、誰もいなかった。また、冷蔵庫も空っぽで、食べるものもなかった。外に買いに行くのも億劫で、そのまま夕方まで待ったものの、女房は帰ってこなかった。夜になって、何か連絡が入ってないか自分の実家に電話したが、何もないということだった。そして、母は、次のように言った。
「のんびりやりなよ。」
電話を切ると、涙が止まらなくなった。そのまま一晩泣き続け、夜明けを迎えた。カーテンがだんだんと明るくなる様子を今でも思い出す。泣き出すと止まらないのは、鬱病の典型的症状だ(2.2章E参照)。母は、病気のことは何も知らなかったのだろう。息子が危機的状況にあることにも気付かなかったようだ。
女房からは、次の日に電話があった。子供を連れて、自分の実家に帰っていたということだ。
その後、会社は休み、自宅で療養することになった。当時は社宅に住んでいたので、昼間はずっと家に籠っていた。日中ブラブラしていると、すぐに噂になるからだ。本当は、陽の光に当たった方が、鬱病にはいいのだが。
逃亡犯をかくまっているようなもので、女房にもストレスがかかっていた。そこで、私の母に、「1週間ほど預かってほしい。」とお願いしたようだ。だが、「老人世帯だから、ちょっとねー。」と言って断られたという。両親にとっては、私の体より、世間体の方が大事だったのだ。実は、この話は、最近になって女房から聞いた。よくぞ、30年間も黙っていたものだ。
女房は、さらに、こうも言った。
「心配して息子の様子を見に来るでもなく、電話一本かけて来なかったわね。」
まったくその通りだ。たまに電話があれば、金の無心だし(6.6章D参照)。
30年経って初めて聞いた話として、もう一つ。娘が生まれた際、両方の親が、女房のお見舞いに産院を訪れた時のことである。父が、次のように言ったそうだ。
「何だ、女か。男じゃなきゃなあ。」
女房の両親がいる目の前で、である。
米寿を迎えた義母に、その時のことを覚えているか、女房を通して聞いてみた。
「もちろん覚えている。その時の怒りは忘れようがない。」
それはそうだろう。横浜の封建農家の末っ子は、救いようがない。義母は、常々、女房に対し、「嫌になったら何時でも帰っておいで。」と言っていたそうだ。それは、今でも生きているらしい。
一方、女房が天使だったかというと、そうでもない。
ある日、女房が主治医に話を聞きたいということで、私とは別に診療所を訪ねたことがあった。その時は、私のことを心配してくれているのだな、と思っていたが、後で、医者から次のように聞かされた。
「奥さんの相談は、夫が子供に暴言を吐いて困っているのだが、どうやって守ればよいか、ということでした。お母さんの関心事は、まずはお子さんのことです。夫は二の次ですからね。」
そういうことか。女房は、いつも被害者の立場だ。たしかに、その時の私は、加害者だったかもしれない。でも、一番つらいのは、病気になった本人なのにね。「病気を憎んで、人を憎まず」とはならないのか。
人は、一人で生まれ、一人で死んでいく。
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