6.3転機
−学習塾のS先生に出会う(小学4年)
S先生は、たしか25才の時に塾を始めたと記憶している。当時、書道やそろばんの塾は巷に多かったが、勉強だけを教える学習塾は珍しかった。そのため、なかなか生徒が集まらなかったようだ。
母は、クラスで一番勉強のできたH君のお母さんに誘われたのだが、自力で息子を教育することは無理と観念して、私の入塾を決めたのだろう。親が父と同じ会社というK君も誘い、3人が一期生となった。私とK君は、勉強のできない組だ。
S先生は、勉強の中味そのものではなく、勉強の仕方を教えてくれた。その代表が、「線読み」である。参考書は、各教科1冊に絞り、それを集中して読む習慣を付けさせられた。まず、赤鉛筆(当時ラインマーカーはなかった)を持って、重要と思う箇所にアンダーラインを引きながら、ゆっくり読む。次に、アンダーラインの箇所だけを読んで、記憶に定着させる。それだけである。何回も読んではいけない。赤線は、多くても少なくてもいけない。線の引き方だけを繰り返し指導された。
集中して、短時間にポイントをつかむ。そういう訓練だったと思う。
S先生が重視していたことが、もう一つある。それは、勉強の楽しさを教えることである。例えば、社会の授業は、次のような具合だった。
「みんな地図帳を開いて。今日は、奥羽本線だよ。福島が起点駅だけど、見つかったかな。広い盆地に、地図記号がいっぱいあるね。何だかわかるかな。そう、果樹園だ。福島は、桃が特産品だね。じゃあ、北上するよ。次は、米沢だ。お城があるね。ここは、戦国大名上杉氏の城下町だよ。米沢織が名産になっているね。」
こんな調子で、終点の青森駅まで机上の旅をするのである。
私の学校の成績が、急に上がり始めた。特に勉強ばかりしていたわけではない。週3回の塾通いのほかは、相変わらず、友だちと日暮れまで三角ベースや缶蹴りに興じていた。要は、勉強のコツをつかんだということだろう。
4年生の3学期からは、学級委員にも選ばれた。その後、卒業までずっと学級委員長を勤めた。なぜ覚えているかというと、母が、任命書を額に入れ、私の部屋に飾っていったからである。最終的に、正面と左右に7枚が並ぶことになった。
私の部屋は、玄関を入ってすぐの所にあったので、額は訪問客にもよく見えた。母にとっては、自慢の息子だったのだろう。私は、気恥ずかしくてイヤだったのだが、それを母に言うことはなかった。
塾は、すぐに評判となり、希望者が殺到した。S先生は、山中に自分で小屋を建てたのだが、そのキャパシティーをはるかに越えることとなった。学習塾には珍しく、入塾試験を実施した。競争率は3倍を超えるまでになったようだ。実は、私の妹も落ちたのだが、一期生としての私の貢献度が評価されたのか、週一回だけは通わせてもらえることになった。
私が通っていた小学校は、その後、偏差値が横浜で一番の名門校にのし上がった。S先生は、若くして亡くなられたが、参列者は教え子たちでいっぱいだったと聞く。私は、中国出張中で、葬儀には出られなかったが。
私の「逆転人生」の契機を一つ挙げろと言われれば、この時をおいて他にない。S先生、本当にありがとうございました。
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